十八 騎士と死と悪魔
エリーザベト・ニーチェにとってはひどく長い、待ち侘びすぎて倦むような時間が続いていたが、それにもようやくひとつの区切りがついた。パラグアイへ現地視察に赴いていた恋人ベルンハルト・フェルスターが二年ぶりに帰国したのである。
1885年3月初頭、ナウムブルクの古い教会で二人は再会することになった。
エリーザベトは礼拝堂には入らず入口に立って待っていた。日差しは春にはまだ遠くナウムブルク大聖堂の中庭は撫ぜるような風がずっと吹き続けていて薄ら寒かったが、待ち遠しさがずっと上回っていた。
そうしてようやく大聖堂の正門からやってくる懐かしい男の姿を認めると、エリーザベトは思わず大きく手を振って呼びかける。エリーザベトに気が付くとフェルスターのほうも浮足立ったような調子であたふたと駆け寄ってくるのだった。
「おかえりなさい、ベルン! ほんとうにご苦労様でした」
労いの言葉をかけながらエリーザベトはフェルスターの両手を包むように握り、二カ月にわたる船旅から帰ってきたばかりの恋人の顔をまじまじと見た。ひげは顎と頬を完全に覆うほどふさふさに伸び、肌はすっかり日焼けして鼻先などちょっと不格好に赤剝けている。少し瘦せているかも知れない。しかし変わっていないものもある。
「……嗚呼ようやくドイツに戻ってきたという感じがしたよ、エリー。やっぱり君は理想的なドイツ女性そのものだ」
自分を恭しげに見上げるエリーザベトを見つめ返しながら、フェルスターは照れくさそうにこめかみを掻きながらそう答える。いちいち仰々しい言葉選びもあいかわらずだった。彼の目は二年前にハンブルクで別れたときと同じように切れ長で鋭く、そして意志の強さを相変わらず強く感じさせる輝きを持っていた。エリーザベトに鳥肌が立つほどの高揚した感情を与える、あの輝きを。
「アナタもいまや凱旋したジークフリートよ。私だけじゃない、ドイツじゅうにアナタの帰国を待っていた人たちがいるわ」
そう言うとエリーザベトは手にしていたバッグから立派な装丁の冊子を取り出す。フェルスターは驚いたがそれは無理もない話で、その冊子の表紙にはフェルスターの顔を描いた肖像画と彼がモットーとしたゲーテの選言『困難を退け、自らを守れ』が大きく掲げられていたのだ。受け取って中を開くとそれは帰国後に開催する予定であった講演会のパンフレットで、主催者フェルスターの人となりや彼が手紙を通して色々と伝えていたパラグアイでの生活のことが簡潔ながら詳しく紹介されていた。
「どうしたんだい、これは?」
「私が作ったのよ。パラグアイでの生活の魅力を皆に知ってもらおうと思ったの。講演会で配りましょう」
フェルスターはしばらく目を丸くしたままに受け取った冊子と悪戯っぽくにやにや笑うエリーザベトの顔を交互に見比べ、それからようやく彼女の愛情からの行為を理解したように笑顔を浮かべる。
「ありがとう。こんな素敵なテキストを読んでもらえれば多くの人に新生ドイツの必要性を理解してもらえるだろう。どれだけ感謝しても足りないくらいだ」
しかしその笑みにはどこかぎこちないような部分があり、エリーザベトはそれを見逃さなかった。
「あら、どこか不出来なところがあったのかしら?」
「いや、そういうわけはないんだ。素晴らしい装丁だし文章も……」
フェルスターはどうにか取り繕うとした様子だったがエリーザベトに詰めるように見据えられるとあっというまに観念してしまった様子で、そうして微かにどもったような調子で彼はこう口にした。
「……ン、本を作るのにお兄さんの手を借りていたとしたら厭だなと思っただけ」
その言葉遣いも恥ずかしそうに目を逸らすしぐさもまるで嫉妬した少年のような様で、彼のハンサムな風貌とひどく不釣り合いでひどく滑稽だった。
それをつぶさに見ていたエリーザベトはほんの一瞬ぽかんとしてしまったが、すぐに可笑しさが勝って吹き出すように笑い声が出てしまう。その間フェルスターはますます気恥ずかしそうにして帽子を深く被りほとんど顔を隠した状態でなんとか誤魔化そうとするのだった。
「ごめん、ごめんってば。ちょっと可愛らしいなと思ってしまって。悪く取らないでちょうだい! この本を作るのにフリッ……私の兄さんは何も手を貸していないわよ」
ようやく笑いが引いたエリーザベトは気まずそうに口元を覆い隠して弁解するが、またそこでチクリと「嫉妬してしまったの?」と若干悪戯ぽい調子で尋ねる。
「……エリーの兄上は俺のことを嫌っているらしいからね。気にもするさ」
フェルスターもようやく気を取り直してそう答えたが、いつもならすかさず兄の弁護をし始めるエリーザベトが何も言い出さないのをかえって不思議に思っていた。しばらくの沈黙の後、フェルスターが帽子の鍔をようやく上げてエリーザベトの顔を見ると――。
「兄上と何か諍いでもあったのかい」
表情の曇りに不穏なものを感じたのか、フェルスターはなだめるようにして尋ねる。エリーザベトは答えた。
「別に。兄さんの語る哲学と私の考えはやっぱり合わないなと思っただけよ。私は『ツァラトゥストラ』を読んだ時、〝超人〟というのは人々に幸福をもたらすために戦う使徒なのかと思ったわ。だけどローマで久しぶりに話して、それから彼の本の続きを手に取って……やっぱりこれは違うんだと思った」
彼女の兄の最新作を読んだこともないフェルスターには当然わからない話題だったし、Übermenschという言葉はずいぶん大袈裟でいかがわしい響きを含んでいた。
「兄上とはどういう話を?」
「彼は言ったわ。自分が挑んでいるのは理念の上の戦いであって、お前のやろうとしていることとは違うって……そして私たちの活動を恥知らずだと罵った。やはり彼とは分かり合えなくて、関わり合いはやめようと言って別れたわ。絶交なのよ」
兄が彼の信念――反ユダヤ主義――を痛罵したと語った時も、絶交と語った時も、エリーザベトはフェルスターの顔から意図的に目を逸らしていた。彼が少しでも意地の悪い表情を見せられたらどうしたらいいか分からなかったし、じっさいフェルスターの表情には一目見て分かるほどの猜疑と嫉妬のそれが黒雲のように立ち込めはじめている。彼の胸中はいまやこんな感情で満ちているに違いなかった。
――彼女は一体どちらの味方なのだろうか? 二年間離れている間にじつはすっかり兄に感化されてしまったのではないか? もしも自分と兄のどちらかを選ばなければならなくなった時、彼女はあっけなく自分を見捨てるのではないだろうか?
そうした猜疑心をどうにかしてやり過ごした後に彼が見せる態度についてエリーザベトはすんなり予想がついた。そしてじっさいフェルスターはほとんどその通りのことを口走った。
「その……気持ちはわかるつもりだよ。エリーの兄上は元教授でエリートの社会に身を置く人間だ。彼の頭は雲の上につっこんでいて、地に足をつけて暮らす大衆の生活というものとは無縁なんだ。彼と我々では見えているものさえきっと違うのだろうよ。彼の耳には大衆の救いを求める叫び声が届くこともないけど、それもある意味では仕方のないことなんだ。俺たちとは住む世界が違うのだから」
冷静さを装ってはいるが反発心が噴き出しているような口ぶり。フェルスターはそれまでもときどき(きまってエリーザベトが兄を自慢したあとに)ニーチェを山上の賢者と呼んで迂遠ながら非難することがあった。すなわち現実を知らないお気楽な知識人である、と。そうしてそのあとは決まって「兄上はワーグナーの理想も理解することができなかった」と続くのだ。
フェルスターのこういった言説を聞くとき、ワーグナー信奉者としての対抗意識、あるいはコンプレックスの発露かも知れないとエリーザベトはいつも内心思っていた(じっさいのところフェルスターはワーグナー家からほとんど無視されていたのだ)
時おり見せるこういう卑屈さは彼の〝矯正せねばならない欠点〟だと思っていたが今は妙に居心地が良い。少なくともフェルスターは今も自分のことを「我々」「俺たち」と見なしてくれる男で、憎しみや嫉妬を共有するなんとも虚ろな連帯感がそこには在った。
「そうね……ベルンの言う通りかもしれないわ」
エリーザベトがほんの一言同意して見せると、たったそれだけでフェルスターは背中を押された気持ちになったらしい。君が同意してくれるなんて!と本心から嬉しそう口走り、それから高揚した様子でこう話した。
「これはもうエリーの兄上の問題だけではないんだ。インテリゲンチャども、日和見主義の偽善者ども、良きヨーロッパ人を語る者どもは悉くアーリア民族の蒙っている災厄について見て見ぬふりを決め込んでいる! だけど俺の耳には……そう、ドイツの土を再び踏みしめた瞬間からひっきりなしに聞こえているんだ。偽りの繁栄、貧困と搾取、そして寄生虫の繁殖、あらゆる災厄から課せられた忍従の中でいまや皆が叫び声をあげている。我々は要請された使命を背負うか逃げ出すか、選択しなければならない。これを俺たちよりずっと前から感じ取って人々に訴えかけていたのが……ワーグナーだ。
ドイツ民衆の心の声を聞き取ってワーグナーは訴えた。――騎士が要る! アーリア人の世界を守る騎士がいまこそ要るのだと。エリーの兄上は彼が求めた重責から逃げ出したが、俺は逃げない……」
ちょうどその時、まるで強い言葉にけしかけられたかのような風が聖堂の中庭に吹き込んできて二人のあいだを早馬のように吹き抜けていく。聖堂の窓が甲高い音を立てて揺れ動いていた。フェルスターはその風に勇気づけられたのか、あるいは脅かしつけられたのか。問い詰めるようにしてエリーザベトに尋ねる。
「俺たちは、人々が安心して暮らせる世界を――誇りをもって生きられる時代を――アーリア人の純潔が守られる理想を――今こそ創造しなければいけないんだ。これが何をおいても取り組まなければならない自分の使命だと俺は感じているし、そのためなら俺は命を賭けられる……。ねえエリー。君はどう思うんだい?」
エリーザベトの目をとらえて離さないフェルスターの眼差しは火のように燃え盛り、いつのまにか掴まれていた肩は決して逃がさぬとでも言わんばかりに半ば爪を食い込ませていた。踏み込むような口調で発せられた強い問いかけに、エリーザベトの方も自分は覚悟を問われているのだと感じ取っていた。彼女がほんの少し差し向けた水は一挙にフェルスターを蛮勇にした。彼の夢に人生を捧げて乗りこむか、それとも見放して降りるか決まるのはきっと今なのだ。
そして自分の心に未だに戸惑いがあるのだとはっきり自覚したのも、ようやくこの時になってだった。
「エリー! 君の気持ちはどうなんだ?!」
私の気持ち? 生きがい? 幸福? 望み? 求めるもの?
分かり切っていたはずの様々のもの、あるいは価値が脳裏に浮かんでくる。
何を選び、何を選ばないのか。何を取り、何を捨てるのか。未来にも過去にもつながる選択。永遠にも等しい価値を持つ選択。何が正しい選択なのか。
兄の理想は自分の理想ではなかった。では彼の理想が自分の理想なのだろうか。
彼女は結局押し黙っていた。もはや自分でも分からなかった。自分はただこの男に対して漠然とした好意を抱いていて、久方ぶりに祖国に還ってきた彼の顔を
男の幸せは『我は欲する』……女の幸せは『彼は欲する』……?
ふざけるな。何かがひどく欠けている気がする。しかし何が自分を充たすのだろうか。考えようとしても嫌悪を催すばかりで、不意にエリーザベトの目は涙で潤んでしまっていた。
そのときふと脳裏に浮かび上がったいつかのフレーズ。
リースヒェン、貴女の幸せはなんなの?
まるっきりせせら笑うような調子で、それは今また自分に問いかけてきていた。
随分長く感じる沈黙が続いたが、エリーザベトの狼狽に気が付いたフェルスターは途端に正気に還ったようにうろたえ、上がっていた気勢は萎んでしまった。
「すまない。君が俺を見放すのではないかと恐ろしかったんだ。俺を信じていると言って欲しかったあまりに……」
怨敵に掴みかかっているかのように食い込ませていた自分の指をあわてて引っ込めて、フェルスターは苦し気に弁解する。エリーザベトがただ沈黙しているだけで彼の良心は締め上げられ、懺悔が続く。
「もうじゅうぶん分かっているだろうけど……俺は君の兄上に嫉妬している。ワーグナー氏から寵愛され、君からとても愛されていることが俺にはひどく妬ましい。嗚呼クソッ……自分で自分を軽蔑してしまってならないよ。心底うんざりだ」
途切れ途切れにそう語る彼の顔からは先ほどまでの興奮は消え去っていき、今はほのかに紅潮し一転して恥辱と悔しさに苛まれているのが傍からも分かる。自らの内気と卑屈と嫉妬深さを取り繕うこともできないまま曝した時、フェルスターの手はまるきり
「俺を見捨てないでくれ……」
――なんて惨めな姿を曝すのだろうとエリーザベトは思った。衝動と蛮勇はあるがそれ以上に小心者で喪失をなによりも恐れている。それがこの男の本質だとはっきりと悟ったのだ。いつか感じた嗜虐的な感情が再び彼女の背筋をぞくりとさせる。フェルスターの繊細さ、卑屈さに彼女はいまもなお変わらず同情している。それを自覚した瞬間、じっさいのところ彼女はとてつもない安堵感を抱いていた。
己の運命を握る手綱を振るうのには自分自身に対する大きな勇気を必要とするが、己の手綱が他者の運命をも握っている「大きな力」なのだと気づいたとき、善意、道徳、良心がその決断から重苦しさを取り去ってゆく。己が必要とされているという事実が葛藤を奪う。
じっさいほんのささやかな情を感じ取った瞬間、彼女の思いは突き動かされた。認識が――つまるところ同情がエリーザベトを襲ったのだ。
同情し、救おうとし、その中で自分の幸福をも摘み取ろうとする女。妹のそういう性向をニーチェは拒絶し続けたがフェルスターはむしろ進んで篭絡されようとした。だからもう、彼女には迷う余地がなかった。
◆
1885年5月22日。ナウムブルクのフェルスター家の庭で開かれた晴天化の結婚式は双方の親族や友人たちを招いて比較的小規模に執り行われた。
ニーチェ家からの参列者は年老いた親族連中が少しとエリーザベトの昔なじみの友人たち、それに子供の頃から面倒を見てもらった女中と母親だけで、儀礼的に席は用意されていたが兄は勿論出席しておらず、亡父に代わって花嫁を花婿に引き渡す役目は遠縁の叔父に代役をしてもらうしかなかった。
如何にも田舎の結婚式という感じのややにぎにぎしい雰囲気の中であったがともかく牧師の前で永遠の愛を誓って指輪を受け取り、この日をもってエリーザベト・ニーチェは正式にエリーザベト・フェルスターとなった。彼女はこの時三十八歳で当時としてはかなりの晩婚であった。(フェルスターはこの時四十二歳)
婚姻が終わり新郎が壇上に立って謝辞を述べると熱烈な拍手喝采が何度も飛んだ。それはベルリンやバイロイトから駆けつけてきたフェルスター支持者たちで、エリーザベトが熱心にワグネリアン《ワーグナー信者》たちの機関紙で彼を紹介してきたおかげでいまや彼は再び反ユダヤ主義のジークフリートに返り咲いていたのである。フェルスターが「生まれながらの魂とワーグナーの精神によって結びつけられた愛を大きな未来へと繋げていく」と堂々たる態度で宣言した時、ワグネリアンたちはこぞって
一方で見知らぬ若者たちの高揚ぶりとその中心に陣取る花婿の姿をこの場でただ一人物憂い表情で見つめていたのは、母親のフランシスカである。彼女は娘が結婚する日が訪れることを当然待ち望んでいたが、選んだ伴侶には強い危惧を抱いていた。
フランシスカからすればフェルスターは夢想のような計画を声高に語り、あまつさえ娘を伴って地球の反対側まで連れて行こうとする得体の知れない男だった。オマケに彼はドイツ中で訴訟と賠償に追いかけられているものだからほとんど無一文に近い経済状態で、彼の計画の「原資」はエリーザベトの貯金がアテだという有様だった。
子供たちが平凡な家庭を築くことを望んでいた彼女はこのような相手との結婚にギリギリまで反対し、息子にも妹の説得を頼んだが首尾よくはいかなかったようだ。結婚を正式に伝えられた後は親類を頼って娘婿に様々な勤め先を紹介するなどしたが、けっきょく彼女の願いは何一つ受け入れられることはなかった。娘はもう自立した大人で自分は男親ではない。もはや止めることはできなかった。
息子も娘もずいぶん遠いところに行ってしまう――フランシスカはそう思った。彼女の子供たちは昔から時々「お母さんはものを知らなすぎる」とからかうように言って笑ったが、じっさい彼女には分からないことばかりだった。世界の変化はあまりにも急速で、小市民として慎ましく暮らしてきただけの彼女にはついてゆけなかった。
少し前に息子が熱狂し、いまは娘と婿、それに若者たちが熱狂しているワーグナーのことやドイツ民族主義のことも彼女はほとんど何も知らなかったが、5月22日という日付がワーグナーの誕生日にちなんでいるということくらいは知っていた。この日取りもまた、彼女の息子が出席を拒んだ理由のひとつかも知れなかった。フランシスカは空席になっている息子フリッツの席を見つめて思いを馳せていた。
「ねえお母さん、どうしたの? ぼんやりして」
出席してくれた親戚たちへの挨拶回りを終えて戻ってきたエリーザベトが母親に呼びかけると、フランシスカはすぐに気を取り直したように言い繕う。
「――いや、珍しく葡萄酒を飲んだせいかぼうっとしちゃってね。おめでたい日にすまないね」
彼女はもう不満や心配事は口にすまいと決めていたのだ。現実が変えられないのならばそれを受け入れて門出を祝福してやるしかない。そう自身に言い聞かせてこの日を迎えた。花嫁衣裳姿の娘を送り出せることはやはり親として喜ばしいことで、そこに水を差したくもなかった。さいわいエリーザベトは勘ぐったりはしなかったようだが、
「そうなんだ。お母さんは昔からお酒が嫌いだったものね……じつは私もお酒は今日を最後にするつもりなのよ。それに肉料理も今後は食べるのをやめるわ」
名残惜しそうに葡萄酒に口をつけているエリーザベトがそう言うのを聞いてフランシスカは驚いた。「あらまあ、大酒呑みのリースヒェンがどうして?」
「ベルンがそうした方が良いって。アーリア人種の保存を説いて回るのにその奥さんがお酒を飲んでたら困るんだってさ――だから今日は楽しんでおくつもり」
エリーザベトは名残惜しげにそう言うと、グラスに入った葡萄酒をほんの少し揺らして見せる。
菜食主義。自然療法。反アルコール。反ワクチン。これらの近代イデオロギーとドイツ民族主義はこの頃奇妙に結びつき始めていた。最良の人種たるアーリア人はその血筋を残すだけでなく肉体そのものを汚染から護る義務があり、それに反する文化は退廃的であるというのだ。フランシスカはそのようなイデオロギー的問題について何も知らなかったが、娘の生活にまで――それこそユダヤ教のような――戒律じみたものを押し付けられることにはやはり不信感を抱いた。
「リースヒェン、お前はそれでいいのかい?」
フランシスカは思わず尋ねたが、エリーザベトはきっぱりと言い切る。
「うん。私が決めたことだからね。どんなことだって耐えてみせるつもりよ」
そう言う娘の表情は生き生きとしていて覇気もあったが、それでもフランシスカはそこに何か不穏な、まるで何らかの凶兆めいたものを見て取ってしまうのだった。そしてその不安は利発な娘にはやはり容易に見透かされていたらしく、エリーザベトは手にしていた盃を置くとニコリと微笑んでこう言った。
「心配し過ぎよお母さん、外国に行くっていっても悪い話ばかりではないのよ? パラグアイはとても気候がよくて耕作にも向いているという話だしきっと植民地経営はすぐに軌道に乗るわ。そうなったらベルンはいわば一国の王で私は女王になるのよ。すてきな話だと思わない?」
娘が語っているのはまるきり夢物語で、額に汗する労働などいっさい経験のないフランシスカにも冗談のような話だということはすぐにわかる。しかしそれが親を安心させようとするがための言葉であるのを感じた彼女は敢えて何も言わなかった。
「じつは私たちの国に大きな家を建てて、学校も教会も作って――そう、それから別荘を建てたらお母さんを招待しようと思っているのよ! ねえ、どんな別荘がいいかしら?」
「学校まで作るのかい。それじゃあフリッツを校長にしてあげたらどうだい?」
娘の愛から出た大ぼらに、フランシスカは愛情を込めて息子の名を添えた。エリーザベトは一瞬何か考え込んだようだったが、
「素敵な考えね。私は兄さんを教師に戻してあげたいわ」
結局それ以上は言わないままエリーザベトは再び盃を取り、残っていた葡萄酒を一気に飲み干したのだった。
日も傾き始めて結婚式後の長たらしい懇親会もようやく終わりに差し掛かった頃、一つの贈り物が届けられてニーチェ家、フェルスター家双方の人々の目を引いた。それはバーゼルから届けられたもので、差出人はフランツ・オーヴァベックとフリードリヒ・ニーチェの連名だったのだ。
「これは一体なんだい?」
自分を嫌う義兄の名が書かれた大きな油紙の包みを渡されるとフェルスターは極めて不審げにそう尋ねたが、エリーザベトは察しがついたのかぱっと顔を綻ばせる。
「――兄さんからの贈り物よ! 約束を守ってくれたのだわ!」
それにはフェルスターも他の出席者もひどく驚いた。結婚式に出席するのを拒むほどに仲違いした兄がそれでも結婚祝いを律義に送ってくるというのは妙な話だった。
エリーザベトははやり立った様子で丁寧に包みを開けていく。彼女が油紙を剥がし緩衝材をどけてみると中から出てきたのは高さ25センチほどの見事な銅版画で、それを見た親戚の一人は驚いて叫んだ。
「こりゃすごい! 有名な〝騎士と死と悪魔〟じゃないか !」
Ritter, Tod und Teufel(騎士と死と悪魔)ルネサンス期の画家アルブレヒト・デューラーの代表作のひとつとされる、荒涼とした峡谷を馬に乗って通り過ぎてゆく甲冑姿の騎士が描かれた銅版画である。周囲には醜悪な悪魔や骸骨、砂時計を握った腐乱死体(死の象徴)が蠢いているが騎士は少しも恐れず歩を進めていて、絶望的な世界にあってもなお信仰と勇気によって勝利へと向かう姿を描いた作品と解釈される。
ニーチェはこの銅版画を非常に愛していたことが知られていて、彼の処女作『悲劇の誕生』の中でも言及されており、教授時代にはバーゼルの自宅に飾られていた。家を引き払う際にもこの絵だけは処分するに忍びなく、長いあいだオーヴァベックの家に預けられていたのだ。
この贈り物の銅版画は勇壮だが濃密なタッチで描かれた死や悪魔の姿はグロテスクで結婚祝いの品としてはやや場違いな感もあったが、それでもエリーザベトは銅版画を人々に見せて回っては大喜びだった。
「もう十年以上も前よ! 私と兄さんがバーゼルで暮らしていた頃。彼の家に飾ってあったこの版画があまりにすてきで『私も欲しい』と言ったことがあったんだけど、そのとき彼は言ったの。『お前が結婚した時に譲るよ』って! ――兄さんは約束を忘れていなかったんだわ!」
出席者たちは物珍しい贈り物を驚嘆しつつ褒め称えたし、気の合わない義兄が顔を出したことに機嫌を損ねていたフェルスターでさえも(ニーチェによればショーペンハウアー的でありワーグナー的だという……)その銅版画には心酔させられ、事業のシンボルとして必ずパラグアイに持って行こうなどと機嫌よく語るのだった。
――じっさい『騎士と死と悪魔』は後々までフェルスター夫妻のシンボルになった。エリーザベトとフェルスターは自分たちをキリスト教徒にしてアーリア人の騎士に、世界を覆う死や悪魔をユダヤ人に見立てていたのだろうと後世の歴史家たちは見なしている。
皆がシンボルとしての騎士を称揚する中、フランシスカだけは違っていた。彼女はこの贈り物を事前に知っていた唯一人の人間だった。彼女の息子は結婚式には断固として出席しないが昔約束した贈り物だけは送ると手紙でこっそり打ち明けていた。
「あの陰鬱な絵より幸福な結婚生活が二人に訪れてくれば良いのですが」
フランシスカもまた『騎士と死と悪魔』を見た。彼女の目にはそこに描かれた悪魔の顔も、転げる骸骨も、騎士の仰々しい姿も、なにかひどく不吉なものの先触れにしか思えなかった。
ぞっとするような必然が着々と迫ってきている感覚にフランシスカは凍えるような気持になったが、それでも自分にはもう何もできない。せめて幸あれと祈るしかなかった。そうしてこの時フランシスカは、祈ることをときに嘲笑い、ときに痛罵していた息子が手紙の中で珍しく弱音を書いていたことを想い出していた。
「あなたの息子はじつのところひどく寂しがっています。友人を失い、今度は妹を失い、今ではパラグアイよりなお遠い国に独り暮らしているんです……」
――より可哀想なのは、あの子なのだろうか?
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