十七 毒蜘蛛が育つ穴


 スパーニャ広場からほど近いサンタ・マリア・デラ・コンチェツィオーネ教会にある地下聖堂クリプタはローマの好事家たちの間ではよく知られていた。

 薄暗い地下の白塗壁を装飾しているのは全て人間の骨で、壁一面を覆ってグラデーションをつけているのはよくよく見れば大腿骨と頭蓋骨である。柱を飾っているのは積み重ねられた頭蓋骨、天井に刻まれた碑文も、火が灯されているシャンデリアさえも細かな骨を精密に組み合わせて作りだされていた。

 このひとけのない地下室で女は連れも無くずいぶんと時間を過ごしていた。もう二周は見て回って戻ってきたところなのに、それでも彼女は飽きもせず骸骨たちのからっぽの顔を見つめている。そして彼女が天井に飾り立てられている〝バルベリーニの令嬢〟を見上げたちょうどその時、地下聖堂に繋がる階段を下りてくる足音によって誰かが来たことに気が付いた。

 それを察した女は一瞬安堵したような表情を浮かべたが、その表情はすぐに疑念を抱いたそれへと変わっていく。近づく足音は二人連れ立っているからだった。

 階段をゆっくり時間をかけて先に下ってきたのは壮年の男で、やはり待ち人ではなかった。狭い通路で男と相対するような格好になった女が隅に避けて道を譲ると、男は何も言わず、しかし丁寧に会釈をしてその脇を通り抜けていく。それからやや遅れてもう一人がその後に続いてついていく。その人物に対しても女は道を譲ろうとしたのだが、そちらの顔には見覚えがあったのであった。

「エリーザベトさんではありませんか?」

 女がおもわず不得意なドイツ語で呼びかけると、声をかけられた女――エリーザベト・ニーチェは一瞬ひどく困惑したような顔をして立ちどまったが、女の顔を見ると

すぐに思い出したらしく、目を見開いて「アンナさん?」と問い返す。

 ちょうどそのとき、進んでいった男が足を止めて引き返してくる。ステッキを突いているので足音がすぐわかる。連れがついてこないのに気付いて戻ってきたようだ。再び明るみの差し込む通路に戻ってきた男は

「妹の友人とこんな所で出会うのも奇妙な話だ。――フリードリヒと申します。お察しの通りエリーザベト・ニーチェの兄です」

 フリードリヒ・ニーチェは胸に手を当てて紳士的に自己紹介をした。

「これは申し遅れました。私はアンナ・クリショフと申します。エリーザベトさんとは先日マイゼンブーク女史の会合でお会いさせていただきました」

 アンナは慇懃にそう応えると改めてニーチェ兄妹に会釈する。

「エリーザベトさんは何故此方に? ふつうの人にとって此処はあまり気持ちの良い場所とも思えないのですが」

 探りを入れてきたアンナのことをエリーザベトはいくらか訝しげに見つめたが、結局それ以上は何も言わず「私は兄といっしょに来たんです。彼がどうしても入りたいというから――それにしてもカトリックは趣味が悪いわ」とぼやくように続けた。

 彼女が嫌悪感を露わにしていたのはもちろん辺りの壁に装飾のように埋め込まれた人骨に対してだったが、極めつけはすぐそばのベンチにローブ姿で座らされているミイラ化した亡骸で、それに気が付くとさも厭そうに口元を抑えて黙り込んでしまう。

「わざわざこんな場所を拝観しに来るなんて、お兄様は信心深いのかしら?」

 エリーザベトの意気消沈を却って可笑しそうに見ていたアンナは続けてそう言ったが「いいや。僕は十八歳以降一貫して無神論者だよ」ニーチェは即座にそれを否定し、さらにこう続ける。

「外で起きたお祭りさわぎの喧騒にすっかり参ってしまってね……ローマで静かな場所を探すには地下に潜るのが手っ取り早い。骸骨なんて喚かないから可愛いものだ」

 エリーザベトがたじろいだミイラに気づいてもニーチェはさして気にしない様子で

すぐそばにランタンを置き、やれやれといった様子で隣にどかっと座り込む。その姿はまるでミイラ相手にふざけているように見える。

「街で何か騒動でも?」

「社会主義者が無届集会を行って大勢検挙されたようだ。いまも警官が探し回っている。官憲も大衆もみんな興奮していたよ」

「そうですか……なにやら物騒で不安になりますね」

 話を聞いたアンナは心配げなそぶりで口元を抑えたが、その様子を見ていたエリーザベトは癇に障ったように甲高い声で二人の間に割って入り、口を挟む。

「ねえ、それがアナタたちの目的だったのではないの? アンナさん――マイゼンブーク氏から聞きましたがアナタも社会主義者なのでしょう? フランスやスイスでは逮捕されたこともあると伺いました。もしかしたらさっきの〝ファッシ〟騒動に関係があるのではありませんか?」」

 アンナは不仕付けに自分を難詰しだしたエリーザベトを見てしばしの間驚きの表情を浮かべていたが、すぐに彼女の顔を見据えてこう尋ねる。

「だとしたらどうします?」

「すぐに警官を呼んで戻ってくるわ」

 エリーザベトは即答したがアンナはそれを聞くとかえって笑いを噛み殺したように微笑み、「マルヴィータ氏のお友達だからてっきり〝同志〟かと思っていたのですが、どうも違っていたようですね」とやや皮肉っぽい調子で口にした。

「――しかしエリーザベトさん、その推測は間違っていますよ。スパーニャ広場での騒動に私たちは無関係です。我々の党は一部の急進革命派や無政府主義者アナーキストとはいまでは距離を取っています。ロマーニャ革命社会党は民主主義の枠組みの中での段階的なプロレタリアート独裁への移行を目指す穏健派政党なのです。その点をどうか誤解のないように……」

「どっちだって同じようなものよ。無秩序、暴力、伝統の破壊! 赤いイデオロギーは到底受け入れられないわ」

 エリーザベトはアンナの弁明を拒絶するよう腕を組んで詰るようにそう言い捨て、その態度を見たアンナは呆れたように小さく肩をすくめて見せてやり返す。

「妹さんには私たちの信念を理解していただけないようですが、フリードリヒさんも同じ意見なのでしょうか?」

 アンナは再びニーチェの方を見遣り、愛想よく笑みを浮かべつつも値踏みでもするかのようにその風体をじろりと観察する。妹エリーザベトの方は非常に感情が開けっぴろげで今も露骨に不機嫌なのが表情から存分に読み取れる。初対面からそうだったが自分に対して不信感を抱いているのも丸わかりだった。不愉快ではあったが御しやすいタイプである。一方でアンナの目に映ったニーチェの長い口ひげはどことなく隠者のような雰囲気を演出していたが、その目は対照的に子供のように潤みランタンの灯りによって過剰なくらい煌めいて見える。そうしてそのきらきらとした目でとっぷりと自分を見据えながら、彼はこう尋ねてきたのである。

「――お尋ねしたいが、そもそも貴女はなぜ此処へ?」

「それはですね、脱会した同志を説得するためにロマーニャから……」

 その尋問じみた問いにいくらか失望した様子でアンナは再びローマ訪問の理由を説明しようとしたが、ニーチェは小さく首を振って見せてその言葉を中途で止めさせる。それから彼は芝居がかった身振りで辺りを指し示し、告げたのだった。

「失礼。そういう意味ではないのです。僕が尋ねたかったのは、貴女がどうしてこの悪趣味な墓穴を選んで時を過ごしていたかについてなのです」


                ◆


 サンタ・マリア・デラ・コンチェツィオーネ教会――通称・骸骨堂――地下聖堂の装飾に使われている骨のほぼ全てはカプチン会に所属した歴代修道士たちのもので、その数はおよそ四千人分にも及ぶ。キリストの復活と来世での再生を心から信ずる彼らは己の亡骸さえも教会への奉仕に捧げ、彼らの肉体の柱だった物で飾り立てられた聖堂は今日でも生の儚さと逃れようのない死の現実を人々に示し続けているのだ。

 ――とはいえ十九世紀末ともなるとたまにやって来る拝観者は怖いもの見たさで足を運ぶだけの好奇者がほとんどで、身を捧げて刻み上げられたメメント・モリの声が物見高い見物客の耳に真摯に響くことはそう無かった。薄暗い地下聖堂の中でそれぞれランタンを手に持った三人の男女。彼らにとっては果たしてどうだったろうか。


「好きなのですよ、この場所が。彼らの精神にはなんだか魅かれるものがあるのです」

 アンナはそう言うと辺りを彩る骸骨たちをぐるりと見渡し、それからやや奥まった場所に掲げられている大きな碑文を指し示す。その碑文もまた人間の大小の骨を巧みに組み合わせて作り上げられた一つの作品で、ラテン語でこう記されている。


 ――『我らも汝と同じようにかつて生きた。汝もまた我らと同じように死す』


「人はいずれ必ず死ぬ。こんな当たり前のことさえも私たちは漫然と生きているうちに忘れてしまう。だからこそ彼らはこんなにも仰々しい空間を作って〝死〟を思い出させようとしたのでしょうね。私は彼らを見ると、いま在る生をしっかり生きていこうという気持ちになるんですよ」

 白壁の中でまるで踊っているようなポーズを取らされているユーモラスな骸骨たちの前でアンナは感慨深げにそう語り、ニーチェは語る彼女をじっと見つめている。

「貴女もやはり死後の世界の存在を信じているのですか?」

「いいえ。私は唯物論者ですので」

 ニーチェの問いかけに対しアンナはあいかわらずの微かな笑みを浮かべてそう応えたが、彼は少しも笑っていなかった。そして極めて不興げにこう口にしたのである。

「まことに失礼な言い方だが――率直に申し上げて失望しています。貴方がたが振りかざす槌には大地の血が通っているやも知れない、そう期待する気持ちもあったのですが。やはりそれは半死人の弱々しい手で振りかざされているだけの物だった。貴女がたの正体もけっきょくこのミイラたちと何も変わらなかったということです」

 突然の物言いにアンナは唖然としてしまい何も言うことが出来ない。社会主義者であることを非難されるのには慣れていたが彼のような物言いは初めてだった。

「生にことさら意味を与えようと躍起になるのは死に執着しているのと同じだとは思いませんか? 限りある命、一度かぎりの生。そこには成し遂げねばならぬものがある。何故ならば死は必ず私たちの前に立ちはだかるからだ。――そういった飾り立ては彼らたちの専売特許だ。

 彼らはずっと昔から〝善くあれ〟と宣い、生きているうちからミイラのような人生を送るよう人々に説いてきた。我々ヨーロッパ人の耳に二千年にもわたって説かれた死の説教……はっきり分かった。貴女がたの根底にあるものもけっきょくは同じなのです。という考え方にヨーロッパ人はあまりにも縛られている」

 そう言うとニーチェは座っているミイラの額を、まるで卵でも叩くように手の甲で軽く打ってみせる。ミイラはびくともしなかったものの、アンナも二人のやり取りを聞いていたエリーザベトもその行動にはぎょっとさせられた。ニーチェのほうは至って真面目な顔をして彼女の答えを待っている様子だった。

「……どうも唯物論者がカプチン僧への共感を語ったのがお気に召さないようですが、一度きりの人生の中で力の限り理想をめざすべきである……というのはキリスト教信仰という枠をも超えた普遍的な人間の在り方ではないかと思うのですが」

「よろしい。世界には真理があり、それに叶う理想の生があり、それを目指すべきだと仮定しましょう。だとすれば現在いまはどうなるのですか? 理想との同一化に至っていない現在いまは無価値なのか? それともいつかどこかで現在いまに価値が与えられるのですか? ではそれを与えるのは誰なのか? 未来の自分という現在いまに存在しない者? それともやはり、天に坐します神でしょうか」

「フリードリヒさん、貴方の言っていることは観念的すぎるように思えます。哲学者の言う、過去も未来も存在しないという言葉はたしかに正しいのでしょう。しかし現実として私達に認識される過去は在り、また未来も在ります。過去の歴史があるからこそ人間はこれまでの誤りを学び、未来へと繋げていくことができるのではありませんか。私にも貴方にもエリーザベトさんにも積み重ねてきた過去がありそれが現在いまを作っている。それは動かしようのない厳然たる事実ではありませんか?」

「それが僕にはあまりに合理的すぎるように思え、な見方に思えるのです。さながら大地に立った人間の目からは天が動いているようにしか見えないように……。現在いまとは過ぎ去った過去の堆積物に過ぎず、これから至る未来の前段階でしかないのでしょうか?」

「――はっきり言って私には現在いまを肯定することはできませんわ。不平等と差別と貧困がいまやペストのようにヨーロッパじゅうの労働者を苦しめています。彼らを救済し平等に生きられる善い未来の実現こそが必要で、そのための戦いがこれから起こること自体が歴史の必然であると考えます。歴史とともに人類は進歩の道を進んできたのです」

「人類の進歩――基本的人権の尊重――男女同権――より善く、よりぬくい幸福な世界の実現。美辞麗句だが僕にはやはりこのミイラの化粧直しのように思える。万人の平等を説き、声高に同情して見せ、真理や理想を追いかけて〝現在〟を否定する思想は結局人間を干からびさせるもののように思えるのです」

 ニーチェが矢継ぎ早に投げかける問いかけはどれもこれもアンナにとってはほとんど無意味なものとしか思えず、彼女は内心呆れながら答え続けていたが、最後の言葉を聞くに至ると思わず眉を顰める。

「人間は平等ではない、とおっしゃるのですか? その言葉はあまりに反動的――おっと失礼、反民主主義的なものに思えます」

「ああ。そもそも社会とか国家とか福祉とかに身を委ねるべきではない。僕たちはそういった感傷的な正義を捨て去るべきなんだ。――人間は平等などではないし、これからそうなるべきでもない。人間の生は乗り越えるべき壁を、そして戦いを必要としているのだ。これを取り去る同情の社会は人間の努力如何で構築可能かもしれない。みなが平等な権利を持ち、均等で安楽、平穏で健康での暮らしをし、生きているだけで意味があると慰めてくれる近代社会――その社会は人間に長生きと幸福をもたらすかもしれないが、きっと人間を人間以下のに貶めるように思うのです」

 苛烈な弁舌にひどい怒りをおぼえたアンナは語気を強める。

「貴方がいまもっともらしく語っているその言葉は、人類がようやくその愚かさに気がつき始めた悪――身分や人種や性別に向ける差別や暴力、戦争の存在さえも容認するものではありませんか。まったくいまやアナーキストの無頼漢でさえそんな悲壮なことは言わないわ」

「そうでしょうか?」

「落ち着いてちょうだい。アンナさんは兄の考えに対して少し誤解があるようだわ」

 険悪になっていくやり取りの様子を見かねたエリーザベトが口を挟もうとしたが、ニーチェはそれを打ち消すようにこう断言する。

「いいや、彼女は僕の考えの要点をよく分かっておられる。差別や暴力、戦争や殺しの存在さえも僕は愛するべきだと言い、肯定ヤーの声をあげるつもりさ」

「――貴方の発言はひどく悪意的で、聞くに堪えないものです」

 じっさいそれはあまりに挑発的な態度だった。アンナは不快感に耐えきれなくなった様子でハンカチを取り出すと口元を拭い、もう軽蔑の情を隠しもしないといった態度でニーチェを再び睨みつける。そうして畳みかけるようにこう尋ねた。

「貴方が世界をそう見なすのはご勝手ですが、そのような残酷な世界のありかたを乗り越えられない弱い者はどうするべきなのですか? この世にが存在することを貴方はご存じなのですか?」

「……」

 その糾弾に対して初めてニーチェは怯んだように息を呑み口ごもったが、そのときエリーザベトは横目でちらりと兄を見た。いけすかない活動家の女、ひどく不機嫌に高揚した兄、臭気を感じる地下の空気。エリーザベトにとっては自分一人がひどく気味の悪い光景の中に取り残された気がして息が詰まりそうな思いだった。

「貴女のおっしゃることはなるほど、もっともだ」

 ニーチェが感情を噛み殺したようなくぐもった声でそう呟く。

「だが――のです。世界を冷徹に見つめようとすればするほど、神の愛など実在しようはずのないことが明らかになっている。それは世界中の人間が……貴女だってもうとっくに気がついているはずなんだ。 しかし近代人たる我々が無条件に受け入れようとしている、優しく、甘く、弱者の生きる権利を説く言葉の礎に居るのは誰でしょうか?

 ――あいかわらず〝神〟のままではありませんか? 近代人という連中は今もって人権を天から公平に下された賜りものだと据え置きにしているでしょう。神など存在しないと知っているくせに。もはや信じてなどいないくせに!

 人間とはなにものであるか? この重大な問題を死んだ神に握らせたままほったらかしにしている……人間が、人間を本当に尊重するようになるとは、僕にはどうしても信じられない……」

 ほとんど悲鳴のような声でニーチェはそう言った。ランタンの灯りが下から照らし上げる彼の顔は奇妙に青白く見え、どういうわけかミイラよりも生気がないように見えた。そしてゆらめく灯りの加減によってか、辺り一面に満たされたカトリック信徒の骸骨どもがみんなせせら笑いの声をあげているようにさえ見えたのである。


 ――ちょうどその時、また階段の方から下ってくる足音が聞こえてきた。エリーザベトも、押し黙って睨み合っていたニーチェとアンナもそちらに目を向けた。

 階段を降りてきたのはやたら速足で歩く大柄の男で、ランタンも持たないまま慌ててやってきた様子だった。そして彼ら三人の姿を遠目に確認すると大声で呼びかけてきた。

「クリショフさん!! 誰か一緒におられるのですか?」

 地下の空気がびりびり震えるほどの無遠慮な大声で、昂っていたニーチェはそれにたまらずこめかみ辺りを押さえて頭を下げる。大きな音は彼にとって頭痛の誘発剤で反射的に身構えようとするのはもはや癖だった。

「彼は私の待ち合わせ相手です。そろそろ行かないといけませんわ。――なかなか興味深いお話を聞けました。フリードリヒさんは本をお書きになっているのですか? いずれ読んでみたく思うので書名を教えて欲しいのですが」

 潮時を感じたアンナは小さく礼をすると、先ほどまでの敵意をかき消すよう社交辞令で塗り固めた調子でそう尋ねる。ニーチェは肩で息をしながら一瞬顔を上げてアンナの顔を見たが、その態度に特に厭味を言うでもなく

「『ツァラトゥストラはこう語った』……たぶんそこらの書店では置いていない。シュマイツナー書店に問い合わせてみてくれ」

 至極丁重にそう応じ、懐から引っぱり出したしわくちゃの端書きに出版社の連絡先をわざわざ書いて渡してやる。アンナはいくらか驚いた様子だったがそれでも端書きを受け取ると慇懃に礼を言い、仏頂面のエリーザベトにも愛想よく挨拶をしてから(彼女はそれを無視したが……)漸く連れだという男とともに地上に去っていく。そうして骸骨だらけの穴蔵にニーチェ兄妹だけが取り残されたのだった。


                ◆


「私たちも早く出かけましょう。外もそろそろ落ち着いたはずよ」

 ひどく静かになった地下聖堂で今度はエリーザベトが憤慨しながら言い立てるが、あいかわらずこめかみを押さえて不機嫌そうなニーチェは「静かにしてくれ」と言うばかりで取り合わない。エリーザベトはますます急いた気持ちになってしまい、座ったままの兄の腕を掴んでさらに促そうとするが

「遊びにでも行きたいなら一人で先に行けばいいだろう。僕は一人でも出歩ける」

 自分を引いていこうとする妹の手を強引に振り払い、ニーチェは苛立った調子で声を荒げて拒絶したのだった。

 先ほどまであんなに威勢よくアンナと議論を――というよりほとんどなじり合いであったが――していたのに今ではまるきり拗ねてしまったかのように動こうとしない兄を見て、エリーザベトは内心呆れていたしその気持ちも理解できずにいた。なぜ花の都ローマに居ながら、よりにもよってこんな穴蔵に閉じこもらねばならないのか?

 それもこれもアンナ・クリショフなんかと出くわしてしまったせいで……そういえばアンナはロシア人だと言っていたか。。厭な思い出が脳裏をよぎり、関係もないのにますます彼女に対する悪意がこみ上げてくる。

「ねえ、やっぱり警察へ行きましょうよ。私たちは外国人とはいえ法規に従うべきだわ。社会主義者なんて信用できない、きっと犯罪行為に与していたはずよ」

「僕はそんなことには何の関心もないし、持とうとも思わない」

「どうして?」

 エリーザベトの言葉をそれまで不愉快そうにかわし続けてきたニーチェだったが、諦めたようにため息をつくと彼女の目を睨むようにして見つめ、こう告げた。

「僕からすればお前も同類で、あの手合いを憎もうとするならばお前までも憎まざるをえないからだよ」

 突然の宣告にエリーザベトはぎょっとして目を見開いたが、ニーチェは堰を切ったようにしてそれまで言いかねていた言葉を続ける。

「僕に言わせれば反ユダヤ主義者なんてのは社会主義者よりずっと質の悪いクズの集まりだ。ことにお前が付き合っているベルンハルト・フェルスターは最低の男だ」

 恋人のことを名指しで悪罵されれば、エリーザベトもさすがに黙っていることはできなかった。それでもあくまで穏便に諫めようと言葉をつくしたがニーチェの非難は留まることなく続けられる。

「いいや! この際はっきり言うが、反ユダヤ主義者は弱くて卑劣な連中だ。何もかもを陰謀だなどと言い立てて自身の内にある弱さすら見ようとしていない。去年ハンガリーで起きた暴動ポグロムの記事を読んだか? 奴等はいきり立ってユダヤの商人や農民を集団で襲って次々に殺したそうだ。僕からいわせればフェルスターもあの殺人の思想的共犯者だ」

「どうしてそんな事件が起こったか知っている? ユダヤ人はキリスト教徒の子供を誘拐してはシナゴーグで殺してその血を呑むのよ! そうよ、ユダヤの災厄の犠牲になるのはきまって善良な人々なのよ!」

 エリーザベトはむきになってそう反論したが、彼女の見識はニーチェをますます絶望的な気分にさせるだけだった。彼は食い込むのではないかというほど強く爪をこめかみに付き立てながら、憐れむような調子で自分の妹に声をかける。

「……お前はそんなことを言うほど愚かな女だったのか? 嗚呼、お前はあの男にどれだけ戯言を吹き込まれてしまったんだ!」

「やめてよ、フリッツはベルンのことを知らないからそんなことを言うのよ。たしかに彼はすこし誤解されやすいところがあるけど、だけど真面目だし勇気のある理想家よ。――私はベルンこそが〝超人〟への橋を歩み始めた人だと思ってるわ」

「ばかげたことを言うのはやめろ!」

 エリーザベトが自分の見出した最高の概念を最悪のタイミングで口にしたことに、ニーチェはとうとう我慢ならずに大声をあげる。エリーザベトの方もすっかり頭に血が上っていたのでムキになって食い下がる。

「フリッツ、いったいどうしたのよ? 何がそんなに気に入らないの?」

「分かっていたことだが……お前は僕の考えを何一つ分かっていないんだ。やはりお前とは会うべきではなかったんだ」

「おあいにくだけど、もう一度会いたいと言ってきたのはフリッツからじゃない」

 ニーチェはまたひとつ大きくため息をつく。しばらくためらっていた様子だったがけっきょく彼は切り出した。

「お前が外国に行くつもりだと知ったお母さんから頼まれたんだ。なんとかお前を説得して思い留まらせてくれって。……なあ、僕やお母さんがどれだけお前の身の上を心配していると思っているんだ?」

 信頼と旧交が戻ってきたからこその再会だと信じていたエリーザベトの感情がその告白によってひどく傷つけられたのは言うまでもなく、それまでかろうじて抑制していた怒りや反発が一気に沸き起こってくるのが自身でもよく感じられた。

「酷い! 私の人生は私のものよ、フリッツやお母さんのものじゃないわ!」

「だけどお前はやっぱり僕の妹でもあるんだ。頼むからわきまえてくれよ」

「アナタはそう言うけど、私とお母さんが今までどれだけフリッツを心配してきたと思っているの?! それにタウテンブルクで私に言ったわよね? って! 私の忠告は無視したのに、急に恩着せがましい言い方をするのはやめてよ!」

 エリーザベトが声を張り上げてそう叫ぶと、ニーチェは身体をびくりと震わせて

目を見開いた。彼はそのまま何も言い返せず押し黙ってしまい、そうしてしばらくの沈黙が続く。〝あの夏の夜〟はやはり双方にとって苦々しい記憶であった。けっきょく再び沈黙を破ったのはエリーザベトの側で、彼女は怒りの矛先を変える。

「ねえ一体何が不満なの? だってフリッツも本のなかでユダヤ人の悪口を書いているじゃない」

「なんだと?」

 ニーチェは多少覇気が弱まったものの、あいかわらず強い不快と軽蔑を隠そうともしない様子だった。

「お前は僕が何を批判してきたのか分からないのか? 旧約聖書にイエスに聖パウロ、生よりも死をありがたがる禁欲の説教者たち、二千年も前の人間の思想に対しての話だ。――だがお前たちの言うユダヤ人とは今生きている人間のことだ。お前たちのやろうとしていることは理念の戦いではなく生きている人間の排斥だぞ! そんなことも分からないのか。自分の望みが恥ずべきことだとも思わないのか?!」

 ニーチェのその激しい口難の調子を却って逆撫でするように、エリーザベトは言い捨てるように「それこそどうだっていいことだわ」と口にする。それがますますニーチェを怒らせ、彼はほとんど罵るような調子でこう口にした。

「僕がユダヤの天才を評価していたことも知らないのか? 僕はむしろユダヤ民族とドイツ人の混血が進んでいくことさえ望んでいる。この意味も分からないのか!」

「――そんなおぞましい話、分かりたくもない! 私が言いたいのはね、私の人生にはたとえフリッツにだって口を挟んでほしくないということよ!」


 ほとんど感情に飲み込まれたような罵り合いが暗がりの中で続けられたが、けっきょく最後に残ったのは拭い去れない相互の不信感だけ。ぐったり疲れ果てた様子のニーチェは贈られた杖を握ったまま、うめくようにこう言った。

「ここでお別れだ。お前と僕はけっきょく徹頭徹尾考え方が合わない。顔を合わせない方がいいんだ」

 力なくうなだれたまま立っていたエリーザベトは目も合わせないまま答える。

「……私は彼が戻って来しだい結婚するわ。パラグアイに行く。そうなったらフリッツとはもう二度と会うこともないわ」

「それがお互いのためだ。悪いが式には行かないからな」

「来ないでください。お互いの人生を生きることにしましょう」

「……」

 そう告げると、エリーザベトは重い足取りで地上へ繋がる階段へと向かっていく。汚らしいミイラと骸骨、それに兄を置いたまま光を目ざして歩き始める。先ほどまでの言い争いとは打って変わった静けさが穴蔵全体を包み込んでいて、自分のヒールの立てる足音が過剰なほどに響き渡って聞こえた。


 地上に出た彼女は石畳がうっすらと濡れているのを見て、先ほどまでとは打って変わって雨が降り始めていることに気が付いた。傘も持っていないのに雨足はこれからどんどん強くなりそうだ。

 ――雨。フリッツの具合は大丈夫だろうか?

 無意識のうちに振り返って地下聖堂の入口を覗き込んでいたが、ぽっかりあいた地下堂の入り口の奥は塗りたくられたように真っ暗で見通せない。彼はまだこの奥で座りこんでいるのだろうか。決別したばかりなのにもう振り返っている自分が滑稽で、エリーザベトは降りしきる雨に打たれながらぼんやりと立ちすくんでいた。帽子や髪からしたたる雨とこぼれる涙は自分でももうほとんど区別ができなかった。



                ◆



「おや、雨が降り出したようですよ。もう少し遅れたら降られてたところだ」

 馬車の窓から外を覗いていた男がそう告げたのでアンナもまた外を眺めた。先刻まで晴れ渡っていたのに今では一気に雲が掛かっている。おかしな天気もあるものだ。

「馬車まで用意してくださったのは助かったわ。騒動で警察がいきり立ってる中で鉄道なんか使ったらどういう難癖で拘束されるか分かったものではないものね。まさかアレッサンドロさんが来るとは思わなかったけど……」

「急な連絡でびっくりしましたが、ちょうど私用でローマにいたので都合が良かったですよ」

 アレッサンドロと呼ばれた大男は人当たりよく微笑んでそう言いながらいそいそと馬車の窓を閉じ、それから興味津々といった様子でアンナに尋ねる。

「それで、ウチの党員が例のファッシに参加しようとしていたというのは本当だったのですか?」

「ええ。なんとか前日までに全員と会うことが出来たわ。大部分は思い留まって郷里に引き返してくれたし、どうしても参加したいという人には離党という形で手を打ってもらったので革命社会党にまで咎が及ぶことはまず無いと思うけど……」

「それはまたご苦労様でした」

「貴方は元々武闘派でしたものね、心情は複雑かしら?」

 アンナがやや皮肉がかった言い方でそう尋ねると、アレッサンドロは別に怒るでもなくバツが悪そうな苦笑いを浮かべて頭を掻くばかりだった。

「いやあ……気持ちはともかく、いきなり革命を起こしたところで成功するとはもはや信じられません。民主路線こそが革命成功の唯一の道だと信じていますよ」

 アレッサンドロは数年前のバクーニン武装蜂起に参加して逮捕された経験があり、それ以降はアンナやコスタと共に民主選挙下による社会主義移行を目指す活動家へと転向した男だった。高等教育を受けていない労働者階級の男だったが情が熱く献身的な性格を慕われ、政党の基幹メンバーとして熱心に働いていた。

「そういえば〝骸骨堂〟で誰かと話していたようでしたが、ご友人ですか? ひとけがないはずの場所なので驚きましたよ」

「――さあ? なんだかひどく不愉快な人だったわ」

 アンナは社交辞令で受け取った紙切れを懐から取り出し、胡散臭そうに名前や連絡先を眺める。

「フリードリヒ・ニーチェですって。聞いたことある?」

「まったく知らんですな」

 アンナは肩をすくめたが、その時紙の裏側にもペンで文字が書かれていることに気が付いた。元は思いついた文章を書き留めた反古紙か何かだったのだろうか。とにかくそこにはこう書かれていた。


『父が口に出さなかったこと、それが息子においてことばとなって外に出る。わたしはしばしば息子が父親の秘密の裸身像であることを発見した』


「……へえ、なかなか意味深じゃない」

 なかば莫迦にした調子でアンナはそう呟くと、紙をくしゃくしゃに丸めてそのままくずかごの中に放り捨ててしまう。


 雨足がひどくなっていく中、馬車はロマーニャへと向かっていく。とうとう稲光がパッパッと煌めきはじめたちょうどその時

「ああ、そういえば」思い出したようにアレッサンドロが話し始める。

「もうすぐ女房が赤ん坊を生むんです。それで名前なんですが、神父なんかに付けてもらうのはまっぴら御免なので革命家から名前を貰おうと思っているんですよ」

「あら、とてもいいアイデアだと思うわ」

「それで……もしも男の子だったらアンドレア・コスタ氏から、女の子だったらアンナさんから名前を貰いたいと思っているのですが……いかがでしょうか?」

「フフフ、光栄ね。もちろん歓迎よ。――その子が大きくなるころには、平等と社会主義の理想がイタリア全土を覆ってくれていると良いのだけど」

「もしも私たちの代で実現できなかったとしても、きっと私の子の代が革命を実現させてくれるでしょうよ」

 アンナが可笑しげに笑いながらそう呟くと、アレッサンドロもなかば夢を語るような調子でこう言い添えたのだった。



 ――それから数か月後。アレッサンドロはロマーニャの小さな家で生まれた息子に、敬愛する革命家の名を並べ立てたずいぶん長い名前を付けることになる。

 息子は父親の期待していた以上に力強く成長し、ついには社会主義をも踏み台として乗り越えてゆこうとする新たなイデオロギーを創造するに至る。

 大きな力と結束の崇拝。強き指導者による独裁と教導とを是とする力の思想。すなわちファシズム。その台頭により旧来のイタリア左翼勢力は蹂躙され、彼らの希望は潰えてゆくことになる。

 首領ドゥーチェベニート・アミールカレ・アンドレーア・ムッソリーニ。

 彼が生涯を通じて愛読し、その世界観に大きな影響を受けたと語った思想家は――ニーチェであったという。

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