十六 末人たちの毒


「われわれは幸福を発明した」――末人はそう言って、まばたきする。

 かれらは、生きることがつらく苦しい土地を去った。生きるには温みが必要だからである。そのうえ隣人を愛して、それと身をこすりあわせる。温みが必要だからである。

 病気になることと不信をもつことは、かれらにとっては罪である。かれらは歩きかたにも気をくばる。石につまずく者、もしくは人につまずく者は愚者とされる。

 ときどき少量の毒を用いる。それは快い夢を見させてくれるからである。そしてついには多量の毒にすすみ、快き死に至る。

 ……

 牧人は存在しない、存在するのはただの畜群である。すべての者は平等を欲し、平等である。そう思うことのできない者は、志望して精神病院に入る。

「むかしは、世界をあげて狂っていた」――そう洗練された人士は言って、まばたきする。

 ――『ツァラトゥストラはこう語った』第一部・序説




 ローマ中心街……高級商店がつらなるコンドッティ通りはこの日もたいへんに賑わっていた。この人出はここから目と鼻の先にあるスパーニャスペイン広場が最近のヨーロッパ観光の定番地になっているからだそうで、言われて改めて見るとこの辺りを行き交う人たちは大概聞き慣れないフランス語や英語を話していた。

「フリッツ、ああいう帽子はどう思う? イギリスではすごく流行ってるそうよ」

 喫煙室にぞろぞろと立ち入っていく英国紳士たち――わざわざ隠れて煙草を吸うのはイギリス人だけ!――の丸いボーラーハットを興味深げに眺めていたエリーザベトがそう尋ねたが、隣に立っていたニーチェは鼻で笑い「僕の趣味ではないね」と答えるばかりであまり関心を示そうとしなかった。

 放浪生活に入ってからのニーチェは服装に対してどうにも無頓着になっていた。年に何度も転居する生活で衣装箪笥を持ち歩くわけにもいかず、大抵は数着のシャツやコートを着回す生活だった。エリーザベトの目から見れば彼が着ていた古びたジャケットもくたびれたシャツもローマには全くふさわしくない格好に思えたので、今日は買い物に出てきたのである。

 二人はすでに名うての洋品店をいくつも周り、妹はズボンから靴、チョッキまで完璧に見繕ってやった。仕立てが終わった物を身に着ければ、きっとバーゼルに居た頃のような教授然とした身なりになることだろう。午前中ずっと歩き回るのは体力の落ちた兄には負担だったのではないかとエリーザベトは心配していたが、意外なことにニーチェは出歩いている間じゅうじつに快活で機嫌がよさそうだった。そして兄のそういう楽しげな姿を見るとエリーザベトも嬉しくなり、ローマでの再会がかなったことに改めて喜びを感じるのだった。


 正午過ぎに二人はようやく買い物を終え、通りの一角にある『アンティコ・カフェ・グレコ』で首尾よく休憩を取ることにした。ゲーテやキーツも足しげく通ったと伝わる老舗のカフェで、エリーザベトは是非とも訪問してみたいと思っていたのだ。

 スパーニャ広場を一望できるオープンテラスに座りエスプレッソコーヒーとジェラートを注文、街を行き交う人々を眺めながら味わうのはなかなか優雅で気分の良いひと時で、ニーチェもホットチョコレートをゆっくりと呑んでその味が気に入った様子だった。

「――ステッキなんて老人か魔法使いの持ち物だと思っていたが、こいつは握り心地が良いね。それにじつに歩きやすくなった」

 ようやくひと心地着いた頃、グラスを置いてふとニーチェがそう言った。そうして彼は手にした真新しいステッキで敷石をコツコツと叩いて見せる。それはエリーザベトが買って彼に贈ったステッキで、ささやかながら金の細工が施されている上質な物である。妹の贈り物は『ツァラトゥストラ』の弟子たちが師に杖を贈る場面を念頭に置いたものだったが、それも彼を喜ばせた理由だったろう。

 しかしこの贈り物をエリーザベトに思いつかせた一番の理由は実用面で、妹の目から見ても彼の足元が危なっかしくて見ていられなかったからだ。ニーチェの視力はもうガラス玉のように分厚い眼鏡をかけていてもなお足元が濁るという状態で、日に何度も転びそうになるほどだった。しかも本人はその状況にすっかり慣れてしまい危険とも思っていなかったのだ!

「それは良かったわね。教師らしい威厳も増したように思うわよ」

 なかばからかうような調子でエリーザベトはそう応える。ニコニコとしてステッキの金細工を親指で撫ぜる兄の横顔を見つめ、彼女は改めて思いに耽る。

 やはり兄は自分自身をいたわることが酷く下手だ。バーゼルで暮らしていた頃から……いいや、考えてみればずっと幼い頃からそうだった気がする。彼はあまりに忍耐強くて自分に無理を課してしまう。彼自身の言葉でいうならそれはなのかも知れないが、誰かが傍で支えてあげなければいつかきっと破綻を迎えるのではないだろうか。それがどういう形にせよ――嗚呼、現に私は一度は兄を見捨てた。そのたった半年あまりの間に兄はすっかり弱って薬漬けになってしまったではないか。私と兄はやはり一緒に在るべきで、それが彼にとっても私にとっても最善の道なのではないだろうか? もしも――そういうことが在るとするならば。

「ねえフリッツ?」

「なんだい?」

「私たちと一緒に南米で暮らさない?」

 相変わらず横顔を見つめたまま、まるでなんでもない日常会話のような調子でエリーザベトは唐突にそう切り出す。たのしげにステッキの握りを弄んでいたニーチェの指が途端にぴたりと止まる。そして此方に顔を向けないまま「ナインだ」とはっきり告げた。即答だった。

 兄は聞きただしさえしなかったが、それが自分とフェルスターが暖めているパラグアイ植民地計画への誘いだとはっきり気づいている様子だった。彼は明確に拒絶したのだ。元々反対していたのは知っていたが、ほんの一瞬の逡巡すらなく提案を拒絶されたのはやはりショックだった。

「フリッツってば、きっと意地の悪い新聞が書いた話をそのまま真に受けているのね? マスコミが悪意をもって書くことをあまり信じるべきではないわ」

 じっさいフェルスターの計画は当時イタリアやイギリスの新聞からさえすでに何度も酔狂沙汰として取り上げられ、それをフェルスターが憤懣やるかたない様子で〝いかにもユダヤ人のやりくちだ!〟となじるのを彼女は何度も聞いていた。あわれなフリッツはに騙されてしまったのだろうか? だが彼は関心がなさそうに、いやできるだけ平静を装ったような憮然とした口ぶりでこう続ける。

「僕は新聞など読まないよ。だがお前たちがどういう計画を練って突き進もうとしているかくらいは分かっているつもりだ。南米なんかに行くつもりはない」

「南米は暖かくていいところだそうよ、きっとフリッツの身体にもいいわ。それにいつだったか菜園を作りたいって言ってたじゃない」

「きっと暑すぎる。それに大きな図書館もない国だろう。僕の執筆はどうなる? ――菜園だって? 開拓者の仕事は家庭菜園とはワケが違うんだぞ。僕は百姓仕事なんてごめんだ」

 ニーチェの顔からは先刻までの上機嫌な感じは消え失せ、いまは怒りと不快感を懸命に静めているようなこわばった表情が張り付いている。そのことはともかく彼がそっぽを向いたように顔をそむけたまま話し続けているのがエリーザベトには少なからず不快だった。それが彼の対話を拒否するときの姿勢だと知っていたからだ。

「話を聞いて! そうツッケンドンにならないでよ。本ならヨーロッパから取り寄せればいいじゃない! フリッツが働けないなら私とベルンがその分働いてみせるわ」

 苛立ちのあまり啖呵を切るような調子でエリーザベトはそう言ってのけたが、ニーチェの方はその言になかば呆れたといった様子でようやく妹の方を一瞥し「お前はものごとを知らなすぎる」と返すだけだった。

 エリーザベトはおもわず兄の顔を睨みつけるように目を細める。無意識の所作だったがじっさい心の中には憤りの炎が一気に燃え立ってきていた。孤独の中で苦しむ兄を思えばこその提案をあっさり跳ねのけられるのも心外だったが、なにより自分とフェルスターがようやく見出した夢の実現そのものを軽侮されたように感じたのだ。

「たしかに私には知らないことがたくさんあるわ。けど、フリッツは一体何を知っているというの?」

 エリーザベトが刺すような調子でそう尋ねるとニーチェは深く息を吐きだし、また気持ちを押し殺したような顔をする。彼は真剣な顔をすると近眼ゆえか却って焦点の合わないうつろな目つきとなり、長い口ひげも相俟ってまるで表情が伺えなくなる。ニーチェは何を言おうか考えあぐねている様子で沈黙し、しびれを切らしたエリーザベトはさらに言葉を続けようとしたが、さしもの彼女も周囲の様子がなんだかおかしくなっているのに気がつくと口論を中断せざるをえなかったのである。

 オープンテラスにいた他の客たちも異様な事態に気づいたのか怪訝な顔をし、皆一様にスパーニャ広場の方向に目を向けている。広場の中心にあるバルカッチャの噴水のあたりは人でごった返して喧騒が沸き上がり、何かが起こり始めていた。

「……何をやってるのかしら?」

 エリーザベトが腑に落ちない様子でそう呟くとニーチェも振り返って其方を見た。彼の濁った視界では目を向けたところでひどく不鮮明な光景しか見えなかったが――そこに見えたのは赤、赤、赤。まるで生き物のように蠢く赤色の群れだった。彼らは一様に、全体でひとつの生き物のようになって力強く叫んでいた。


万国の労働者よ、団結せよ!Proletari di tutti i paesi, unitevi!」……


                ◆


 スパーニャ広場に集まってきていたのは二十人ほどの男たちで、ほとんどは工場労働者といった風体だった。初めは雑踏に紛れていてさして目立ちもしなかったが、各々が用意していたプラカードや広げた赤色の旗を揃えて掲げだすと途端に一つの集団として強い印象を持たせ始める。そうして一丸となった彼らが揃った調子でスローガンを唱えすに至っては、呆然とその様子を見ていた紳士の一人がようやく忌々しそうに彼らの渾名を呼んだ。「ファッシどもだぞ!」

 ファッシfasci。ラテン語のファスケスfascesに由来する「結束」を意味するイタリア語で、束ねられた斧の絵は団結の象徴として古くから好まれたという。

 1881年頃からイタリアで始まった社会主義運動――その多くは生活苦に喘ぐ農民や労働者が地主や豪商を襲い、暴力的に富を強奪するという形に発展した――に参加した者たちもまたファッシと名乗り、都市生活者の大多数にとって今やファッシは恐怖の対象であった。

 ローマ市民や観光客が赤旗の下に集うファッシ達の姿を遠巻きに注視する中、一人の男が前に進み出る。やや時代遅れの跳ね上げた口ひげを生やした小太りの男で、彼は一礼すると辺りを見回しながら良く通る声で演説を始めた。

「ローマ市民の諸君! せっかくの休日をお騒がせすることをお詫びする……我々が渇望しているのはたった一つの理想……すなわち平等な社会の実現ということだ! 我々はそれを伝えるために集まったのだ!」

 登壇した男の発言に合いの手を入れるようにして、集まった男達も口々に叫ぶ。「平等!」「平等!」「平等を欲する!」

「我々の社会の貧富の差はかつてないほどに拡大し、いまや工場労働者は日に十時間働いても家族を養うことができない! 次の世代に教育を受けさせてやる事も手が届かず、病気になれば反古のように打ち捨てられる! 最低限の人間らしい生活さえ保障されていない! ――我々は諸君のこういった窮状をよく知っている! 何故か? 地方で畑を耕す我々もまたそういう苦境に置かれているからだ! ――資本家ブルジョワ労働者プロレタリアート! どちらも同じ人間であるのに何故このようなひどい差別があるのか! ――我々人民は、怒りを示さねばならないのではないか?! 我々は奴隷ではない! 我々は――熱い血の通った人間だ!」

 集まってきた聴衆はたいてい胡散臭そうに男の演説を聞いていたが、中には呼応するように声をあげはじめる人たちもいた。彼らは少しずつ前のめりになり、にじり出るようにして叫ぶ。

「なんて不平等な世の中だ!」「植民地戦争なんて私達にはなんの利益もないのに、どうしてどんどん増税されていくんだ!」「そうとも、私たちは人間なんだ! ――資本家たちの所有物ではないんだ!」

 演説の男は噴き出し始めた彼らの声を巧みに拾い上げては水を向け、次の声を引き出していく。社会への不満を感じていた市民たちは、寄り集まった互いの叫びに誘発されるかのようにしてますます声を高めていく。

「そうだ! 私たちは人間だ! そうして世界は変わる! 私たちが変えるんだ!」

「差別反対!」「差別反対!」――「平等!」「平等!」「平等を欲する!」

「民衆を搾取するばかりの領主、カトリック、彼らに担がれた中央政府! 彼らが没落するのは歴史の必然なのだ! ボローニャでは既に革命の火蓋が切られた! ローマもすぐだ! 私たち一人ひとりが世界を変えるため団結する時がきたんだ!」

 男に煽られるようにして、赤旗を掲げた男たちと集まった群衆の何パーセントとが一つになって叫び続けた。

「差別反対!」「差別反対!」――「平等!」「平等!」「平等を欲する!」――「我々は平等の新国家を欲する!」


 他の客たちと同じように、いまやエリーザベトもニーチェも呆然と椅子から立ち上がって目と鼻の先で沸き起こり始めた喧騒を遠目に臨んでいた。エリーザベトはローマの貴人たちからすでに「ファッシ」達の争乱に関する話を聞き及んでいたので気が気ではなく、一方のニーチェは苦々しい表情で以て群衆の騒ぎを睨みつけていた。彼は相変わらず妹の方には目を向けずぶっきらぼうに尋ねる。

「リースヒェン、お前はあの小喧こやかましい人間たちについては知っているのか?」

「――さあ? 社会主義者だとは聞いているけど。要するにのでしょう? せっかくジェラートを戴きに来たのに本当に台無しね」

 エリーザベトの答えはまるで厭な虫でも見てしまったかのような軽侮にみちたもので、それを聞いたニーチェはほんの少し可笑しそうに鼻を鳴らし、そして続ける。

「ああ。あの連中はさも清らかそうに〝平等〟だのと口にするがその腹の中は復讐心で満ちているのだ。彼らは自分たちを無神論者だといい、支配者と僧侶たちとに闘争を挑む者だなんて言っている。一見するとじつに女々しく弱々しく、しかし牙を剥き出しでまるで濡れた犬のように吠えたてている。我々は虐げられてきた、弱者だ、故に支配者よりも善良だと……」

 怒りと軽蔑にみちた語り口。兄が言わんとしていることはなんとなく分かる。現にあのファッシたちは自分たちの受けた痛みばかりを叫ぶ一方で、そのじつ暴力を振るって地方領主や善良な市民まで攻撃しているのだ。エリーザベトの目にもそれはたしかに偽善者の所業に映った。

 なぜ彼らがそのような自己矛盾に至るのか? 兄が知っているのか認めているのかは分からないが、エリーザベトにとってはそれもすでに自明のことだった――

「彼らはまるっきり現代が生んだ毒蜘蛛だ。人の気持ちを狂わせ、踊らせる……」

 いつのまにやらニーチェは〝戦いのノート〟を取り出し、脇目もふらず不機嫌そうに文字を走らせては袖で消してを繰り返し始めていた。何か気に入ったフレーズでも脳裏に浮かんだのやも知れない。

 エリーザベトの方は相変わらず落ち着かない様子で座りもせずに赤旗の群れを見つめていたが、やがてあちこちから聞こえだした甲高い笛の音と共にローマの武装警官隊が広場に駆けつけてきているのに気が付いた。

「いいぞー! 調子に乗った貧乏人どもをぶちのめしちまえ!」

 隣のテーブルにかけていた紳士が興奮した様子で警官たちに指笛と声援を送り、居並んでいた貴人たちはどっと笑い声をあげる。

「――革命だァ!」「革命こそがこの国の人民を蘇らせるんだァ!」

 男たちの何人かはそう叫びながら勇敢に警官隊の前に立ちはだかったが、警棒で頭を殴られて昏倒した。取っ組み合いも少しは起きたがほとんどは数の暴力によってあっというまに組み伏せられ捕縛されていく。大騒ぎの中、残った男たちはものの数分で旗も放り出し蜘蛛の子を散らすようにして人混みに逃げ去っていったのだった。


 警官たちが彼らの配っていたビラをいきり立って回収してゆく中、広場にはある種異様な空気が漂っていた。残っていた誰も彼もが面白い見世物だったとでも言わんばかりにヒソヒソ話をし、ある者はひりついて噛み殺したような、ある者は露骨に侮蔑を含んだニヤニヤ笑いを浮かべていたのだ。

 エリーザベトもまた笑い声こそあげなかったが他のブルジョワたちと同じように、絹の手袋で隠した口元には恥じらいながらも笑みを浮かべていた。思いもよらない暴力沙汰に感覚が麻痺したのか、それとも彼らの殴られる姿がどうしようもなく滑稽だったのか、あるいはという優越感か。自分でも分からないが、とにかく笑わずにはいられなかったのだ。


 その時エリーザベトはふと気が付いた。ニーチェはいつの間にか書き物の手を止めていて、じっと自分を見つめていたのである。

 彼はそのことに対して別に怒りも笑いもせず何の感情も示さなかったが、それはひどく鋭利な刃物のような沈黙で、冷たい軽蔑のまなざしのように思えたのだった。

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