十五 末人たちの都


〝気の毒な妹よ、おまえの持っているような心が僕は嫌いだ。おまえの心がいまだに道徳的なおごりでふんぞりかえっている時が、一番嫌だ。お前の了見の狭さをよく知っている。――僕はお前から叱責されている方がずっと良い。〟

(ニーチェが1882年10月頃に妹に宛てて書いた手紙。この手紙を最期にそれまでずっと密に続いていた手紙のやり取りは長期にわたって行われなくなった)




 ――ローマ七丘の一つに数えられるパラティーノは、古代ローマ帝国の時代には王侯貴族たちの邸宅が立ち並ぶ一等居住区であったという。青々とした草原と赤茶けた遺跡群が点在するこの日当たりの良い丘は、十九世紀には当地の富裕層たちが古代の栄光に思いを馳せつつ、大勢の給仕や料理人まで引き連れた豪奢なピクニックを楽しむ行楽地へと変貌していた。

 この日はパラティーノの東側、クラウディア水道橋の遺構が望めるあたりにその仰々しいピクニックの一団がやって来ていて、男たちは背広姿のまま呑気に釣りに興じてみたり婦人はパラソルの下のチェアでお喋りに興じている。

 そして少しだけ離れたパラソルの下でもまた三人の女たちが、こちらは少しばかり神妙な様子だった。そのうちの一人はマルヴィータ・フォン・マイゼンブーク女史である。

「新聞で読みましたわ。コスタ氏は下院選挙で無事当選なされたそうですね。ローマばかりかパリでも左派の歴史的勝利だと話題になっていると聞きましたわよ」

 マイゼンブークがそう告げると紺色のスーツを着こなした栗毛色の髪の女(三人のうち彼女だけは立ったまま腕を組んでいた)は小さく頷き、まるで男性のような力強い発声で答える。

「ありがとうございます。何はともあれこれで我々の存在をブルジョワ社会に承認させることができました。存在さえ無視されてきたのだからこれは大きな前進です」

「――ここだけの話、私は貴女のお力があったからこそ実現できたことだと思っておりますのよ。コスタ氏だけではその、どうにも頼りないわね」

 マイゼンブークがそう言って品よく笑うと、つられるようにして栗毛色の髪の女も笑みを浮かべ「女が選挙に出られればもっと話が早かったでしょう」と本気なのか冗談なのか分からない調子で答えるのだった。

「それでは他の用向きがありますので今日は失礼いたします。――アー、えーと……フロイライン・ニーチェ?」

 栗毛色の髪の女は少し訛りの強いドイツ語でもう一人の女――エリーザベトに声をかけてきた。先ほどから女のことを胡散臭そうに見つめていたエリーザベトは急に話しかけられたことに少々驚いた様子だったが、女の方はそれに一向躊躇することもなく揚々とした調子で続ける。

「すみません。ドイツ語で話すのは苦手で――今日はあまりお話しできませんでしたが、我々もまた――貴女の同志ゲノッスィンであります。女性解放運動と社会主義は究極的には同じ地平を目指す――同志です。是非またお話ししましょう」

 そう告げると女はその手を差し出してエリーザベトと握手を交わし、満足したような力強い足取りで立ち去っていったのだった。


「私は~女性解放運動家フェミニストではないんですけれど~?」

 残されたエリーザベトの方はじつに苦々しい表情を浮かべ、隣に座るマイゼンブークの方を見遣る。マイゼンブークは「私と一緒にいるから貴女もそう思われたのでしょうね」とだけ言って可笑しそうにしていたが、彼女にとっては不服だった。男に居丈高な態度を取られるのは気に入らないし家庭の美徳などというものに関心はなかったが、自分がいわゆる「新しい女」派だと考えたことはなく、その点では彼女は生涯に渡って兄やフェルスターの保守的な女性観の影響下にあった。

「先ほどの女性はどういう身分の方なのですか?」

「彼女はロシア出身のアンナ嬢よ。ナロードニキってご存じかしら?」

「――ナロードニキ?」

 聞き慣れぬ言葉にエリーザベトが首をかしげるとマイゼンブークが教える。

「民衆革命をめざす社会主義運動家、ね。アンナは国を追放されてパリで活動していたのだけど、フランスからも国外退去処分を受けてこちらにいらしたのよ」

 マイゼンブークがまるで花嫁学校卒の経歴でも紹介するような安穏な調子で口にするのでエリーザベトは自分がなにか勘違いしているのかと心配になるほどだったが、彼女が革命だとか国外退去だとかびっくりするようなことを口にしていたのは間違いようもないことだった。

「危険人物じゃないですか?!」

「あらあら、でもパリ時代の大切なお友達なのよ。それにワーグナー氏だって若い頃は革命家だったじゃない」

「そ、そうかも知れませんけども……それにしてももう少し交友関係をお気を付けになった方がよいのではないでしょうか」

「私はね、新しいことを始めようとする人たちのエネルギーが好きなのよ。王党派でもマルキストでもつい応援したくなっちゃうわ。――貴女やニーチェ教授もね」

 悪戯っぽく微笑んでそう言ってのけるマイゼンブークにエリーザベトはなかば呆れてしまっていたが、この妙に世話好きでお人よしの老淑女がいなければ今日こうしてローマに来ることもかなわなかっただろう。

 ――エリーザベトがはるばるローマまでやって来たのは、マイゼンブークの仲介のもとで喧嘩別れになったニーチェと〝和解〟することが目的だった。

「私と兄のことでお心遣いをしていただいたようで、本当に感謝しています」

 エリーザベトが改めて恭しく謝辞を述べるとマイゼンブークは品よく笑ってから「私はニーチェ教授からのお便りを貴女に回しただけよ」と答える。意外なことにエリーザベトとの再会を望んで仲介を願い出たのはニーチェの方からだったという。

 昨年の夏の出来事の後、兄妹は手紙を通じてお互いの非を責め立て合う応酬をしばらく続けたあげく音信不通に陥っていた。もちろんそれは心配なことであったし、兄の方から自分に再会を持ちかけてきたということについては純粋に喜びがあった。

 兄を赦せるか、様々な感情がないまぜになったあの夜を清算できるかはともかくとして、もう一度会うべきだろうと彼女もまた考えたのだった。

「教授は少し前までラッパロ、今はジェノヴァに滞在してるようね。最終稿を出版社に送ったと同時にまた寝込んでいたそうよ。――あっ! そういえば貴女は彼の新作を受け取ったのかしら?」

「いいえ……」

 エリーザベトが伏し目がちにそう答えるとマイゼンブークは納得したようにうなずき、そばの従者に何かを持ってくるように指示する。それからすぐに彼女たちの前に運ばれてきたのは分厚く、そして仰々しい装丁を施された真新しい本だった。

「ニーチェ教授ってば献本だと言って今回だけ私に二冊送って来たのよ。どうしてかしらと思っていたのだけど……きっと代わりに貴女に渡してほしかったのね。すくなくとも私はそう解釈したわ」

 マイゼンブークはそう告げるとその〝鉛のように重たい〟本をエリーザベトに手渡し、エリーザベトは彼女ごしに受け取った兄の最新作の表紙をしげしげと見つめる。

 ――あの夏の後に一気に書き上げたという新書。これまで兄は自著の初版が届くといつも真っ先に自分と母に贈ってくれていたが(どんどん挑発的になっていく内容に特に母は戦々恐々していた)今回はとうとう贈ってもらえないのかと思っていた。

 いやじっさい単なる兄の記憶違いで二冊送っただけという可能性も大いにあるだろう。それでも兄なりに自分との結びつきの取り返しを考えてくれているのだと思えるならば嬉しく、自分もそう取りたいと思った。

「確かに受け取りました。兄がローマに着くまでに少しでも読んでおくつもりです」

 エリーザベトは微笑みを浮かべてマイゼンブークにもう一度礼を言い、それから改めて兄の本の表紙に目を遣る――注視しているうちに彼女は思わず息を呑んだ。背筋がぞくっとさせられた。あるいは日差しのせいで題字の金箔が妙にきらきらと輝いて見えたのが余計に蠱惑的な印象を強めたのかもしれない。まだたったの一行も読んでいないのに彼女は直観的に――とにかくこれは――そう感じ取った。

 それから数日間、彼女は時間を見つけては一所懸命に『ツァラトゥストラはこう語った』を読み耽った。兄の代弁者ツァラトゥストラの声に耳を傾けた。そうして彼が初めて説き語った理想――すなわち超人ウーバメンシュの出現――について、彼女なりの思いを巡らせ続けたのだった。


                ◆


 ――1883年5月4日。ローマ・テルミニ駅の中央ホームでエリーザベトは兄の到着を早朝から待っていた。何時の汽車で着くのかを知らせていないこともあり、わざわざ駅までニーチェを迎えに来ていたのは彼女一人である。午後着の長距離列車から降りてくる乗客は多かったが、それでもエリーザベトはあのなじみ深い兄の姿をすぐに発見することができた。

「フリッツ!」

 駅舎に向かって重い足取りで歩くニーチェに向け、エリーザベトはできる限り明るくはつらつとした調子を心がけて声をかける。なまじ神妙な態度をとってみせるより〝もはや私たちのあいだに問題は存在しない〟と示すにはけっきょくそれが一番良いだろうと彼女なりに考えてのことだった。

 自分への呼びかけに気づいたニーチェはふらりと視線をあげ、目をしょぼしょぼとさせながら駅舎の方を見る。そこに妹の姿をみとめると二、三秒ほど戸惑った様子だったが、それでもすぐに帽子を脱いで振りはっきりとそれに応えたのである。

 エリーザベトは急ぎ足になるのを懸命にこらえながら線路の方へと下っていく。そうしてようやくニーチェの前に立つことができたとき、彼は以前とおなじようにきわめておだやかな調子で妹に対して呼びかけた。

「久しぶりだね、ラーマ」

「え、ええ……ローマへようこそ、フリッツ」

 その声を聴いた途端エリーザベトの胸中にじわりと暖かい感覚がこみ上がり、情念は自然に顔に出てしまったようだ。妹の顔にうかんだ上気したような微笑みに応えるようにしてニーチェは薄く笑い、こう言い添える。

「――やはりおたがいを目で見て話すのが大事なのだね。じつを言うと、お前までが僕の敵になってしまったのではないかとずっと不安だったんだ」

「ああフリッツ。どうして私がアナタに対して戦争をしかけただなんて思ってしまったの?」

「ああ、ああ。ばかげた勘違いだった!」

 そう言うとニーチェはさも可笑しそうに目を細めて笑い、エリーザベトも口元を手で覆って控えめに、それでもずいぶん可笑し気に一緒になって笑った。ずいぶんの間おたがいを遠ざけ合っていたが、いざ対面を果たすと私たち二人のあいだに緊張と行き違いがあったなんて嘘だったような気さえしてくる――少なくともそんなことは今こうして感じる連帯の前では実に些細なことで、やはり自分たちは兄妹で、お互いを想い合う決して断ち切れない絆を持っているのだ! そう信じられた。

 午後発の便の乗客で混雑し始めた駅を後にし、二人は連れ立って歩き始める。

「フリッツはこれからどうするの? マイゼンブークさんはアナタを午後の読書会に誘いたいようだったけど」

「ローマに来たからには彼女に挨拶に行くべきだろうね。……だけど今は少し休みたいな。頼んでおいたような下宿は見つけられたかい?」

「もちろんよ。番地も控えてあるわ」

「じゃあ僕は一旦そちらへ向かうとしよう。リースヒェンはどうする? マルヴィータの所へご機嫌伺いするかい?」

「私は……お邪魔でないならフリッツと過ごしたいわ。マイゼンブークさんには電報で報せておきます」

 貴族が集まる読書会も魅力的だったが、いまは久しぶりに再会できた兄と過ごしたい気持ちの方がずっと上だった。それを聞いたニーチェは満足げに頷き、それからゆっくりと肩かけカバンを漁ってなにやら瓶を取り出して見せる――何かと思えばそれは封を切ってないジンの瓶で

「それなら部屋で一緒にやろうか。近頃は僕も少し酒をやるようになったんだぜ」

 ニーチェはやや自嘲気味にそう言いながら妹を誘ったのだった。


 エリーザベトがニーチェのローマ滞在中の下宿として見つけたのはバルベリーニ広場五六番地にある某画家が貸し出していた一室で、都市の中心部にありながら騒音からは遠く、大きな南向きの窓は読み書きをするには都合がよく、また好きに使わせてもらえる暖炉まで備え付けられている掘り出し物と言ってよい部屋だった。兄の病状をよく知る妹ならではの部屋選びで、ニーチェはこれに非常に喜んだという。

「さすがはラーマだ。僕が自分で探してもこんなに快適なねぐらは決して見つけられない。ラッパロで寝泊まりしてた下宿の酷さを見せてやりたいものだ」

「フリッツは自分に対して厳しすぎるのよ。もう少し自分自身をいたわるべきだわ」

「僕には世知がないんだよ。少しくらいなら我慢すればいいと思ってるうちに気づいたら隙間風がびゅーびゅー吹く屋根裏で寝ているんだ」

 苦笑しながらニーチェは酒をグラスに注ぎ、一つを妹に差し出す。

「さて、僕らは何に乾杯するべきだろうか? ローマに捧げるのは御免蒙りたい」

「――それならツァラトゥストラに乾杯しましょうよ」

 妹がその名を口にしたことにニーチェは一瞬どきりとしたようだったが、すぐに可笑しそうに微笑んで「そうしよう」と呟く。

 そうして兄妹はグラスを軽く打ち合って乾杯し、一気にぐいと飲み干した。兄から和解の盃――彼女はそう受け取った――を持ちかけられたのはとても嬉しかった。安物のジンの味はエリーザベトの舌には正直ぴりっと来なかったが、その高度数のアルコールは胸の中を高揚させてくれる。彼女は薦められるままに何杯も飲んだし、下戸だったはずのニーチェもかきこむように口にし続けていた。酔いの回りはじめた二人は意識的に直近の話題を避け遠い昔の思い出話ばかりに興じていたが、やがて潮干狩りか宝探しのように遠い昔の思い出を掘り出すのに夢中になっていった。


 この夜二人が掘り起こした遠い思い出のうち最も刺激的だったのは、ナウムブルク移住よりも前の出来事――レッケンでおこなった奇妙な祭儀を発見した時だった。

 幼いフリッツとリースヒェンは近くの山で大昔、異教の神への生贄が捧げられたという話を誰かから聞いて、どういうわけか真似をしたくなった。二人は教会の庭で枯れ葉や拾った動物の骨をうず高く積み上げて火をつけ、松明を持って煙をあげる火の周りをぐるぐる回った。そうしてその時二人で恭しく唱えた異教の神の名はヴォータンであった。――ヴォータンよ! ヴォータンよ! 我らが願いを聞き届けたまえ!

「なるほど、僕はあんな昔からアンチキリストだったというわけか」

 掘り起こされたこの小さな冒涜の思い出はニーチェにとってなんとも滑稽で可笑しく、語り合いの中で鮮明に思い出した情景を思い出すと笑みさえこぼれた。一方エリーザベトにとって、それは後で教会の庭師と母親からこっぴどく叱られることになる怖い記憶で、強くとどめている思い出もまた違っていた。

「だけどお母様から叱られた後、フリッツは寝る前に私を慰めてこう言ったのよ。――この出来事の全ての責任は僕にあってお前には何の罪もないのだ。何故なら僕は兄でお前を悪から避けさせる義務があるからだ。そのことはイエス様も分かって下さっているから怖がらなくてもいいって」

「本当かい?」

「ええ、本当よ。アナタにもちゃんと善き信仰は根ざしているのよ。今だってきっと……」

 エリーザベトが微笑みを浮かべて語った小さな思い出を彼はどうしても思い出すことができない様子だった。

「いいや、残念だがいまの僕は徹底して反キリストだ。その点においてお前やお母さんとはけっして相容れることができないだろう。だが……僕はキリスト教こそ甘い毒だと見なしているが、あのヘブライ人イエスに対しては今も昔もある種の連帯感情を抱いている……」

 ニーチェはそのまま憮然として頬杖をつき、興が削がれたのを取り返すようにグラスにわずかに残っていた酒を蛇のように一気に飲み干し、そして続ける。

「たぶん彼はあまりに早く死んだのだ。あの高貴な精神はまだ知らないことが多すぎた。もしも死に急がなければ――彼が僕と同じくらいの歳まで生きていれば、おそらく生きることを学び、大地を愛することを学び、笑うことを学んだだろう……」

 ニーチェが口にしたのはこれまた神への冒涜ともとれる言葉だったが、エリーザベトの関心を強く引いたのはその落ち着いた語り口そのもので、ここ何年か――殊にルー・ザロメと出会う前後に――彼の書くものや言葉ひとつに至るまでからひどく噴出していた焦燥や怒りの感情は今では消えてしまっているようにも感じられた。

「イエスほどの者ならば死と彼岸での救済という甘い毒ではない、真の徳を伝える者にもなれたはずだ。己の生と運命を愛し、己が踏みしめている大地を愛する。――獣から始まった人間がついには超人の高みへと至る、その橋渡し役となる自らの生を悦ぶ心からの肯定と然りヤーの精神を説く者へと……」

 ザロメの幻影を打ち払い、家族との関係も断ち切って『ツァラトゥストラ』を生み出したあの八ヶ月間のあいだに、兄は何らかの安寧を見出すことができたのだろうか? ――超人は兄を救い出したのだろうか?

 分身ツァラトゥストラの隠者じみた所作を自ら真似ようとしているようにも感じられる兄の顔を、エリーザベトはじぃっと見つめる。濃い眉と髭の裏でひっそりと輝いている、酔いが回った赤ら顔にとろんとすわった眼差し。兄が言っていることも書いていることも文字通りの酔っ払いの戯言かもしれない。しかしいまは兄の見せるこの表情がとても素敵だと思える。ともかく彼は、きっと己の全てを出し切ったのだ。

 ニーチェはもう一杯注ごうと瓶を取ったが彼のジンはもう空っぽで、それに気づくと「おひらきだ」と残念そうにつぶやいて空き瓶をテーブルの隅にやったが、エリーザベトがすかさず別の瓶を差し出すようにしながらトンと置いた。彼女お気に入りのコニャックの小瓶だった。

「もう少し飲みましょう。フリッツの超人に敬意を表して」

 エリーザベトはそう言い、今までと違うグラスを棚から手早く取って戻ってくる。そうして新しい器に新しい酒を注ぎこみながら彼女は嬉しげに兄に目くばせする。

 そうしてゆっくり注がれたコニャックの芳醇な香りがぷんと漂う中、すっかり上気して鼻歌交じりに機嫌よくこう告げたのだった。

「フリッツの考えや言葉。きっと大勢の人に伝わるわ。私には分かる。今にみんながきっとこう叫ぶようになる――ニーチェの力、ニーチェの意志、ニーチェの超人! だってを求めている人たちがいまやたくさんいるんですもの……」



                ◆



 ――翌朝。大窓から差し込んだ曙光と軽い吐き気に誘われて、エリーザベトはぼんやりと目を覚ます。彼女は外出着のまま椅子についてテーブルに突っ伏しそのまま寝ているひどい有様だった。テーブルの上を見ればジンとコニャックの瓶がすっかり空になって転がっている。

「うわあひどい!」

 さすがにびっくりした様子でエリーザベトは嘆息する。くしゃくしゃに乱れた髪を隠すためにとりあえず鍔広帽を目深にかぶり、辺りを改めて見渡す。状況は明白で夜更けまで兄と酒を飲んだあげくにそのまま寝てしまったのだ。すっかり酔いつぶれた兄をなんとか寝室に放り込んだあとホテルにも戻らずそのまま椅子で寝た記憶が微かにあった。嫁入り前の女とも全く思えない、もしも母親が見たら卒倒しそうな醜態で、下宿の主が終日留守だったのは幸いだった。

 ――さすがにお酒はちょっと控えようかしら……?

 あまり効くとも思えない内省をすませた後エリーザベトはこれからどうしたものかと考える。今日はフリッツと身の周りのものを買い物に出る約束をしていたのだが、とりあえずは一度ホテルに戻って風呂を使うしかなさそうだ。そのことを兄に伝えるべきだが……まず起きているのだろうか?

 エリーザベトは兄の寝室にできるだけ静かに入っていく。まだ寝ていたら書置きでも残して一旦出かけるつもりだったのだ。しかし予想外な事にニーチェはもう既に起きていて、両手を組んで文机の椅子に座っていたのである。

「フリッツ、もう起きてらしたの?」

「おはようリースヒェン。よく寝てたから起こせなくてな」

 光に弱い目を開かないままニーチェが静かに呼びかける。だらしなく寝ていたところを思いっきり見られていたことはなんとも気恥ずかしかったがそれも今更だった。

「あらら、ごめんなさい、今日は買い物に行くのよね。いまから急いでホテルに戻って着替えてくるわ」

「買い物なんてべつに今日じゃなくてもかまわないよ」

「おあいにくで私が行きたいのよ。アナタに贈るステッキを選ばせてね!」

 昨晩取り付けたのは今やほとんど着の身着のままのニーチェに新しい帽子やステッキを持たせるために買い物に出かけるという約束で、彼女にしてみれば彼をマイゼンブークやローマの貴人たちに会わせる前に是非ともすませておきたい仕事だった。

 エリーザベトはとにかく一旦戻るために寝室から去ろうとしたが、その時ふとニーチェのついている文机に置かれているものが目に入る。――それは飲み干されたコップと大きなガラス瓶だった。瓶にはラベルも何も貼られておらず、中に詰まった透明の液体がまだゆらゆらと揺れていた。

「……あら。またお酒を飲んだの?」

 エリーザベトが不審に思って尋ねると、ニーチェは気づかれたことに対して一瞬ひどくばつが悪そうに顔をしかめ、それでもなお相変わらず目を閉じたまま答えた。

「いいや、これはアルコールではないんだ」

「――?」

「これはまあ……クスリだ。旅先であるオランダ人が譲ってくれた……ジャワの薬草を使った鎮痛剤だそうだ。よく効くからたまに飲んでいる……」

 エリーザベトは兄が語るその説明を聞いてかえって不審に思った。由来からして怪しいし市販薬ならラベルもついていない瓶に入っているのはおかしかった。なにかが怪しかった。

「私もすこし飲んでみていい?」

「いやダメだよ。これは強い薬なんだ。かえって身体を害することもある」

「ほんの少しなら大丈夫よ」

 エリーザベトは兄に近づくと置いてある瓶を掴み取ろうとしたが、ニーチェは強引にその手を振り払ったが、その時彼の肘が机の上に置きっぱなしの肩かけカバンをはじき落としてしまう。

「あっ!」

 ニーチェは慌てた声をあげたがもう遅い。カバンは床の上に無残に投げ出され、その中身――多くは紙だったがさらにいくつかの小瓶や箱がカバンから転がり出ていき、エリーザベトはそれを拾い上げた。

 そしてその小瓶や箱に書かれている品名を見てエリーザベトは目を見張った。抱水クロラール、ディアコーディウム、ナルセイン……それらは正規品には違いなかったがどれも薬物だったのである。強力な睡眠薬にアヘンが多量に含まれた鎮痛剤。


「リースヒェン、返してくれ! それは僕には必要なんだ! ……苦痛が酷いんだ!」


 曙光が差し込む部屋の中で取り乱しはじめた兄の姿を、エリーザベトは呆然としながら見つめていた。

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