十四 ツァラトゥストラはこう語った


 それからというもの、エリーザベトは「新ゲルマニア」という新たな夢の実現に向けて力強く働いた。

 ひとつエピソードを紹介するならば、エリーザベトは当時として珍しい〝銀行に行く女〟だった。十九世紀の社会では金銭に関する取引に女性が出向くのは非常識とされ、預金を引き出す用事一つでさえ主人たる夫か代理人が赴くのが当たり前だった。そんな時代にあって、彼女は至って平気で銀行に顔を出していたという。

 ナウムブルク銀行との間に立ってフェルスターの大計画への資金貸付を約束させると休む間もなく今度はバイロイトに出かけて行った。彼女のワーグナー家に対する感情はいまや白けたものになっていたが築いたコネはやはり役に立ち、ワーグナー信奉者たちが発行する『バイロイト新聞バイロイター・ブレッター』にフェルスターの記事を載せて広報する権利を得て戻ってきたのだった。

 パートナーとなったエリーザベトが辣腕によって持ち帰った成果にフェルスターは大喜びだった。それというのも彼の南米植民地というアイデア自体が元をたどればそもそもワーグナーの思いつきで――彼は著書で述べている。全人類に食糧を供給できる豊穣の大地、南アメリカ。そこに移り住み堕落とは無縁の社会を実現させるべきである――彼の理想の一番槍として名が知られることは大変な名誉であったからだ。


 そうして年が明けるとエリーザベトとフェルスターは自分たちの植民地をどこに建設するか真剣に検討し始めた。

 南米以外の地域も一応は検討されたがやはり論外とされた。移住が容易い北アメリカはドイツ人以外の民族がすでに多数入植していて〝交雑〟の危険があり、ロシアはすでにユダヤ人と虚無主義者が跋扈する国だった。

 やはりワーグナーの望郷たる南米、それも既存の入植地がすでにあるブラジルやアルゼンチンとは異なる国が望ましかった。

 地図と国際新聞を片手に検討を重ねた二人はついにめぼしい国を見出した。

 パラグアイ共和国。ほんの十数年前までブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三国同盟を相手に無謀な戦争を続けて全面敗北したこの国は男性の三分の一が死亡したといわれるほどの状態で、人手不足解消のために好待遇を謳って移民を募っていた。

ドイツの商社が常に出入りするサン・ベルナルディノという居留地があり祖国と全く音信不通になるわけでもない点も魅力に思えたし、政情不安が続いたことから「次期大統領は移民であろう」などと言われている点もおそらく彼らの野心をくすぐった。

 そうしてついに彼らは自分たちが目ざす土地をパラグアイに決定し、『バイロイト新聞』に大々的に発表して賛同者を募ったのである。計画はついに動き出し、移民協会からも援助を約束されるなど立ち上がりは順調であった。


 ――1883年2月9日。ドイツの古い港湾都市ハンブルクにエリーザベトはやって来ていて、用件はフェルスターの見送りだった。

 いよいよ彼らの計画は大詰めに入り、じっさいにパラグアイに赴いて土地を見定めたり現地の役人と交渉する段階になったのだ。エリーザベトはよほど同行しようかと思ったが叶うはずもなく、旅立つ彼を見送ることになったのだった。

 晴れた過ごしやすい天気の中、エリーザベトは港に居並ぶ船を眺めていた。フェルスターが乗るという連絡船は貨物船より少し大きい程度の蒸気船で、あんな小さな船で本当に大西洋を渡れるものなのかと内々心配になってきていた。

「エリー! 待たせたね……おっとっと」

 渡航手続きを済ませたフェルスターが大きな旅行鞄を二つ抱えたまま港湾事務局から戻ってくる。彼が乗る船は最下等の物なので手荷物も自前で持ち込むほかはないのだった。過剰な荷物によろけそうになっている姿を見かねたエリーザベトが鞄の一つを取り上げて持つとフェルスターは少しだけ気恥ずかしそうにはにかみ、それから「ありがとう」と率直に礼を言った。

 それから二人は港を見渡せる白木のテラスで足を止め、下で港湾労働者たちがあくせくと働くさまを眺めながら時間を過ごすことにしたのだった。カモメが悠々と飛ぶ空と海に目をやりながら、エリーザベトが尋ねる。

「パラグアイまでいったいどのくらいかかるの?」

「船がブラジルの港に着くまで一ヶ月近くかかりますよ。パラグアイに行くにはそこからさらに外輪船で川を登って数日費やすそうです」

「わぁ、大変な旅路になるのね……」

 ヨーロッパの外に一歩も出たことがないエリーザベトにとってそれは途方もない話で、いざ想像してみようとしても物語に出てくるような航海――カリブの海賊!――やインディアンとの戦いといった突拍子もないイメージしか抱けない。なんにせよ5000マイルも離れた異国に出かけるというのはまったく大冒険としか言いようがなかった。

「すべてはアナタの勇気が成し遂げたことよ」

 エリーザベトが賞賛の気持ちをそう告げるとフェルスターは恐縮したように肩をすくめ、こう口にする。

「こんなに早く話が進んだのはエリーのおかげだよ。私だけでは何倍も時間がかかっただろうし、途中で挫けてしまったかも知れない。貴女というパートナーのおかげで私の夢は現実のものになったんだ。本当に感謝している」

 そう言うとフェルスターはエリーザベトの手をそっと握る。エリーザベトがはっとして彼の顔を見返すとフェルスターは一瞬おびえたような顔をして、暫く何か言い淀んで、それからようやく言葉を続ける。

「……本来ならば、私は貴女にプロポーズするべきなのだろうと思います。だけど私は恋や結婚が恐ろしいのです。これは以前お話ししたかなと思うのですが」

 エリーザベトはフェルスターがプロポーズを躊躇する理由をたしかに知っていた。彼にもかつて恋人がいて七年間交際していたがじつは弄ばれていただけだった。愛した女性が本命の男と結婚して自分を捨てたと気づいたときにひどいショックを感じ、自分にはもはや恋愛や結婚はできまいという強迫観念じみた恐怖を抱くようになったのだと彼が以前語っていたのだ。

「……私はいま貴女を愛している。だけど結婚は無理なのです。おそらく子供も望めないでしょう。きっとエリーを不幸にしてしまう」

 鬱々とした調子でフェルスターは弁解を続けようとしたが、エリーザベトはその手を強く握り返し、「ベルン?」そう問いかけてそれを制する。

「私もベルンを愛しているわ。アナタがパラグアイから戻ってくる日を待っている。プロポーズなんていつでもいいのよ。たとえずっとできなくたって、私は共同経営者としてアナタと一緒にパラグアイに行くつもりよ」

「エリー、だけどそれじゃあ君の幸福は……それにご家族がなんて言うか。ことに貴女の兄上は……」

 フェルスターがまるでぶたれるのを恐れる子供のような顔をして目線を上げたのを見据えると、エリーザベトは彼を励ますようにニヤリと笑って見せた。

「私は元々オールドミスよ? それに家族がなんといおうと、私の人生は私のもの。誰にだって反対なんてさせないの。だからベルンが心配する必要はないのよ」

 そう告げるとエリーザベトは彼の肩を掴み、それから抱擁した。フェルスターはもう何も言えなかった。自分の欠如の全てを赦された安堵感が今の彼を支配していた。

 ――有無を言わせぬ強い言葉を弄し、相手を立てつつ自分の我を通す身の振り方はいつの間にやらすっかり身についていた彼女の処世術だった。

 そしてフェルスターは高い自尊心を持ちながら依存心も強い男であり――この二人が急速に築いた関係は間違いなくお互いを想い合う愛情からのものであったが、自覚がないにしてもある種の支配欲が潜んでいる関係であることは否定できなかった。


「ベルンハルト・フェルスター博士はおられますかぁ~?」

 港湾事務局の職員がフェルスターの名を呼びながら歩いてきているのに気づき、二人は慌ててお互いに離れた。ろくにこちらに注意していないのでおそらく気づかれてすらいないだろうがなんとも気恥ずかしかった。

「……手続きに間違いでもあったかな? ちょっと行ってくるよ」

 フェルスターは帽子を深くかぶり直してそそくさと職員が来ている方へと走っていく。エリーザベトはその後ろ姿を見送ったが、一人になった刹那にふとさきほどの言葉が頭をよぎる。――家族。素朴な人間の母は南米移住などという大胆すぎる選択は決して許さないだろう。兄も猛反対するに違いない。彼が毛虫のごとく嫌っている反ユダヤ主義者を愛しているなどと聞いたらフリッツは悲しむだろうか、それとも怒るだろうか。

〝――クソッ追い払ってやりたい女がいるとしたら……それはお前のことなんだ!〟

 脳裏に浮かび上がるフリッツの残像を追い払う。身震いするような記憶。そして記憶と共に湧き上がった憤りの感情が彼女の憂いをも吹き飛ばした。

 私の人生は私が決める。自身に言い聞かせるようにエリーザベトは改めてそうひとりごち、ちょうどそこへ何かを受け取ったフェルスターが戻ってきた。

 彼が職員から渡されたのは速達電報の封書で、発信元はバイロイトになっている。友人からの連絡かと思って封を切って中身を読むとそこにはこう書かれていた。


『君の夢に祝辞を贈る。良い旅を。――リヒャルト・ワーグナー』


 二人がまったく予期していなかったことにそれはワーグナーからの祝電で、この老芸術家は一体どこから聞きつけたのか、一人の無謀な若者が自分の「偉大な構想」を実現しようと立ち上がったことに対して激励をとばしたのだった。

 ワーグナーにとってそれはほんの気まぐれであったろうが、それまで一切を無視されてきた政治活動家にとって、師と崇めていた存在からじかに労われる体験は大きかった。フェルスターはもう人目も憚らずに歓喜し、エリーザベトの手を取って踊りださんばかりにはしゃいでいた。そして今度は彼の方からエリーザベトを抱きしめ、緊張にうわずった声ながら力強い調子で告げる。

「エリー! 私はパラグアイで一回り大きくなって君を迎えに来る。その時こそ男らしく堂々と君を妻に迎えるよ。――そしてアーリア人の国を一緒に作ろう。それこそが僕らが未来に残す子供なんだ!」

 エリーザベトもフェルスターに応えるように抱擁する。彼の心臓の鼓動さえ感じられるように思え、魂が燃え盛っているのを感じ取れた。触れあっているとしだいに自らの胸の中まで熱くなってくる。きっと共振だろう。

 強い海風が二人の傍らを吹き抜けていく。潮の香りが心地よい。――これはもしかしたら5000マイル彼方のまだ見ぬ望郷から吹いた風かも知れない。エリーザベトはどういうわけだかそんなふうに感じていた。


 そうしてフェルスターは船に乗り、はるか彼方のパラグアイへと旅立っていった。ドイツに残ったエリーザベトはフェルスターの助手として(おそらく彼より器用に)様々な事務処理や契約を一手に引き受け、パラグアイに着いた彼が綴った紀行文を新聞に掲載させるなどの様々な手伝いを積極的に務める。そうして海を隔てた文通は綿密に続き、二人の親愛の思いはますます強まっていくこととなるのだ。


 そしてもう一人の運命も決した。彼らの燃やす情念に気まぐれな一押しを加えたリヒャルト・ワーグナーは、その四日後に旅先のヴェネチアで急逝した。ヨーロッパ全土がこの偉大な芸術家の訃報を悼んで悲しみの時間を過ごしていたが、彼をもっとも敬愛しもっとも憎むようになった男――ニーチェはそのことをまだ知らなかった。

 その時間の最中、彼は何もかもを忘れて没頭していた。彼の息子であり分身である「ツァラトゥストラ」がまさにその時間の中で創造されていたのだった。



               ◆



 フランツ・オーヴァベック。バーゼル大学教会史学科教授。イギリス国籍のドイツ人の父とフランス人の母のあいだの子としてロシアで生まれた――当人曰く「複雑怪奇な出生」――この男は十九世紀末に活躍した教会史研究者である。彼もまた今日こんにちでは彼自身の功績以上に友人の存在によってその名を知られている。

 オーヴァベックはニーチェの無二の親友と言ってよい男だった。

 たまたま同じ下宿で生活することになった二人の男はお互い共にバーゼル大学に赴任する教師であることを知って共に夕食を取るようになり、やがて奇妙に意気投合した。他の教師たちと親交を結べなかったニーチェはバーゼルで孤立していったがオーヴァベックとの親交だけは変わらず続き、十年後にニーチェが教授職を辞する際に年金を受け取れるよう尽力してくれたのも彼であった。

 感情の振れ幅が大きく激しやすい性格のニーチェに対し、七つ年長のオーヴァベックは落ち着いた兄のような態度で彼の聞き役に徹することが多かった。二人の学者としての研究分野はまるで重ならなかったが、とにかく「波長」が合い、ニーチェにはそれも心地よかったのかも知れない。

 ――この日、オーヴァベックは休暇を取ってバーゼルから遥々イタリアのラッパロまでやってきていた。理由はただ一つ、ニーチェの身の上が心配だったからだ。

 ニーチェが2月11日に寄越した手紙は不穏だった。「僕を激しい雷光が照らしたが今やそれも終わった」「あの書は自分の遺書になるように思える」「いまや一丁のピストルが愉快な考えの源泉だ」……元より著書でも手紙でも皮肉や過激な冗談を好む男だったが今回のものは明らかに一線を越えていた。

 ニーチェは昨年のタウテンブルクで負った傷を未だに払拭できないでいる。ザロメだけでなくパウル・レーとの友情も崩壊し今では家族とも険悪になって音信を断っているという(ラッパロに滞在していることすら秘密にしろと頼まれたほどだ)

 そこに加えて誰よりも執心していたワーグナーの訃報。何かがあっても不思議ではないと半ば直観的に感じ、オーヴァベックは大慌てで現地に駆けつけたのだった。


 ラッパロの天候はあいにく悪く、雨こそ降っていないが厚い雲が空を覆って薄暗い。手紙に記されていた宿泊先の住所を訪ねるとそこにあったのは想像とは異なる粗末な金物屋で、よくよく注意して見ると看板に「貸し部屋あり」と小さく書いてあり、どうにも此処に宿泊しているのは間違いないらしい。見れば見るほどかつて彼らが共に暮らした〝バウマンの洞窟〟とは比較にならないみすぼらしい下宿だった。

「おや、オーヴァベック先生ではありませんか?」

 下宿の前で様子を見ていた彼を呼び止める声にオーヴァベックが振り返ると「――ガスト君か! どうしてここに?」

 知己の顔。そこにいたのはニーチェの友人にして弟子、そして忠実なる筆耕のペーター・ガストだった。思いよらない相手に出会ったのはガストの方も同じようで彼もほんのしばらく様子を伺っていたが、すぐに合点してこう尋ねる。

「貴方もきっとニーチェ先生の様子を見にきたんでしょう? あの、まさかエリーザベトさんはご一緒で……?」

「……いいや、フリッツからは絶対秘密にしろと頼まれているのでね。君の方にも彼女から問いただしがあったのかい?」

「ええ、一日おきに手紙が来ては行き先を知らないかと訊ねてくるので正直ちょっと怖いですよ。自分も内緒にするよう頼まれたので教えてはいません。いったいあの二人のあいだに何があったんです?」

「あらましは手紙で知らされているが、私が話すのは信義に反するように思うね」

「なるほど、たしかにそうですね」

 安堵した様子を見せたガストがぽりぽりと頭を掻きながら呟く。好奇心は抱くがすぐに引き下がるあたりやはり善良な男だなとオーヴァベックは思った。

「いまは我々の話よりフリッツだ、なんだか様子がおかしい。一緒に尋ねようか」

「そうしましょう」

 それから二人は金物屋の主人に下宿の所在を尋ねたのだが「たしかに泊めてるけどそういや最近見てねえな」といいかげんな回答しか返ってこない。事情を話して店主と一緒に屋根裏部屋へ向かっていくと、開けっ放されたドアの前に来た時点ですでに酸い臭気が漂っているのが感じ取れた。

 嫌な気配を感じたオーヴァベックが先に部屋に入ると、案の定ニーチェがベッドにうずくまるようにして倒れている。オーヴァベックはすぐさま駆け寄りガストも後に続いたが、最後に入ってきた店主が驚きと共に思わず「汚しやがって!」と口走ったのが彼には非常に不快だった。

 じっさい狭い部屋の中はひどい有様でカーペットのあちこちに吐瀉物が飛び散っていたし、水差しや酒の瓶もひっくり返って床を濡らしていた。ベッドのシーツもニーチェのシャツも吐いたものでひどく汚れていて、彼が発作を起こしてそのまま気絶に至ったらしいのは明らかだった。

「フリッツ! しっかりしたまえ」

 体をゆさぶると唸るような声で反応する。完全な人事不省というわけでもないようだったがほとんど白目をむいて動かず、まみれた吐瀉物と体臭の入り混じった臭いがツンと鼻をつく。それだけ見るとまるで半死人のような状態だった。

「あのぉ、お医者さんを呼んできましょうか?」

 部屋の入口に立ったまま呑気にそう尋ねる店主に対し、オーヴァベックは内心苛立ちながら「医者は要らないよ」と答える。彼の病気は医者には手の施しようがないものだということは彼もまたよく知っていた。つづけて彼は財布から紙幣を何枚か取り出してそのまま店主に渡す。

「新しい水をすぐに……それと後で彼に葡萄でも持ってきてあげてくれ」

「お代にしては多すぎますよ」

「汚したシーツや敷物は私が買い取ってやろう。その分だ。だから彼には一切よけいなことを言わないでくれ」

 それを聞くと店主はにんまりと笑い、そのまま速足で下の階へと降りて行った。オーヴァベックが再びニーチェを見遣ると、彼は口元をもぞもぞと動かしながらなにかうわごとのように呟いている様子だった。


 それからしばらく後。換気を行った部屋で助けを借りながら水を飲み、着替えもさせられたニーチェはなんとか受け答えができるほどまでに回復したようだった。椅子にもたれるように座って葡萄の粒を口に放り込みながら、ニーチェは言う。

「……世話をかけたようだが、おかげで助かったよ。記憶違いでなければ僕はまる一日気絶していた事になるな。――ところで二人はどうして此処に?」

「君から手紙をもらったから来たのさ。私は会食のお誘いだと受け取ったよ」

「私は先生の原稿を受け取りに!」

 オーヴァベックとガストがおだやかに笑いながらそう答えると、ニーチェの方も数日前に自分が書いた手紙の事を思い出したのか一瞬困ったような顔つきになる。

「――これは失敗したな」

「え?」

「君らが来ると分かっていたら高級ホテルに泊まっていたのにね。ここは程遠い!」

 弱りながらもニーチェが軽口を叩いたことにオーヴァベックも少しばかり安堵して笑う。どうにか話をすることができそうだ。続けて彼は尋ねる。

「――その、病状はあいかわらずなのかい?」

「二、三年前に比べたらマシにはなったんだぜ。その頃は二日に一度はひっくり返っていたが今は三、四日に一度くらいだ。医者は介助人なしでの旅行は危険だというが他人の手を借りるなんてまっぴらだ。落ち着かなくてそれこそ死んでしまうよ」

 水をまた一口含んでゆっくりと飲み干し、さらにニーチェは続ける。

「そんな中でもごくごくまれには雷光のような素晴らしいものが煌めくんだ。その時ばかりは誰からも邪魔をされたくない。ここ十日あまりの僕はそういう感情に心臓を掴まれて一心不乱に書き続けた。まるでような体験だった――あの聖なる時間のさなかにワーグナーが死んだというのは、まったく不思議な巡り合わせのようにも感じる」

 それを聞いてふっと小さな机の上に目を遣ると、そこには書き散らかされた原稿用紙が山のように積み上がっている。あまりに薄汚れていて他人にはどれが原稿で反古なのかもよくわからなかった――ニーチェはほとんど見えない目で貼りつくようにして文字を書くのでシャツの袖も紙も汚してしまうのだ。貧乏下宿の湿気た一室で不器用に執筆する友の姿を想像すると、オーヴァベックの胸はやはり痛むのだった。

「――それで、完成したのかい? 君が魂を賭けたその著作は」

「ああ。タイトルは『ツァラトゥストラはこう語った』。優れた文学作品でもあると自負しているぜ。副題もあるんだ。『万人のための、誰のためでもない書』……」

「挑戦的だな」

「そうだ。この原稿は僕がヨーロッパ人どもに叩きつける挑戦状なんだ。その名の通り僕のはヨーロッパを外から脅かす存在だからね」

 自作について語るニーチェの顔はどことなく得意げで誇らしそうだった。それだけに、その次に彼が口にした言葉を聞かされた二人はぎょっとしてしまった。

「――僕はコイツを書き上げたら、即座に燃やしてそのまま自殺するつもりだったんだ」

 なんの感慨もなさそうに、まるで壁紙を変える話でもするのと変わらぬ調子で死について口にする。ということだろうか。オーヴァベックもガストも何も言えずに困惑したが、ニーチェは友人のことなど気にも留めずにそのまま続ける。

「発作には慣れたが苦痛がマシになるわけじゃあない。近頃はろくに目も見えないが人の世話になるのは屈辱だ。金はないし、公正に言って僕は売れてないし読まれてもいない。尊敬されてもいないだろう。――こんな人生に何の意味がある? 雷光のようにツァラトゥストラを書く時間ははっきり言って苦痛だった。さっさと頭をブチ抜いて終わらせてしまいたいのにこれだけは、これだけはと気が急くんだ。何度頭に来て灰にしてやろうと思ったか……。僕の頭に浮かび上がってきた〝超人ウーバメンシュ〟の理想が、自分がということを今や死にたいまでに恥じ入らせる」

 自分の書いた原稿を見つめるニーチェの表情が腹を立てているのか慈しんでいるのか、それとも単によく見えず目を細めているだけなのか。オーヴァベックには判断がつかなかったが全体として彼の様子は穏やかなものに映っていた。それから暫くの沈黙が続いたが、

「――そんな、読んだ者が自らに対する恥辱で死にたくなるような本を世界に叩きつけてやろうというのですか? 先生は本当に優しくない人だ」

 ガストがふいに冗談めかした調子でそう嘯いてみせる。するとニーチェは今度ははっきり示すように笑みを浮かべて「頼んだよ巨匠マエストロ」と答え、ガストのほうも「清書するときはナイフを金庫にしまっときますよ」そう言い添えて笑みを浮かべた。

 ニーチェは一呼吸置き、それから全身に力を込めてゆっくりと時間をかけて立ち上がる。小刻みに震える危なっかしい足取りだったが、たしかに自分の足で立った。

「僕は弱さゆえに君たちに心配をかけてしまった。そのことを申し訳なく思う。だからこそはっきりと宣言しておきたい。――僕は死なない。人生は苦痛にまみれて耐えがたいが――僕は虚無主義者ニヒリストのように生の無意味を唱えて楽になろうとはしない。浪漫主義者ロマンチシストのように苦痛を美化することで現実から逃避しない。苦痛を耐え抜けば死後に救われ天国に行けるなどという死の説教者にも傅かない。生と現実に対する軽視も美化も決して許さず、僕は生きる」

 ニーチェがこう語ったちょうどその時、ずっと薄暗かった屋根裏部屋に光が差し込む。厚い雲の間からひととき陽光が差し込み、それが部屋全体を淡く輝かせたのだ。ほんの一瞬だったがそれは彼の精神が雄々しく立ち上がったヴィジョンと強く重なり合うようにも感じられた。


 それからガストはラッパロに滞在して清書を手伝うための下宿を借りに出かけていき、ニーチェとオーヴァベックは二人きりで久方ぶりの歓談に興じた。

 調子が良くなりすっかり饒舌になったニーチェからは『ツァラトゥストラ』の続編の構想が早くも浮かんでいること、ワーグナーの死にはある種の安堵を感じていること――曰く、六年間も尊敬する人の敵であることは苦しかった――気が進まないが近いうちにローマで妹と再会する気でいることなどをゆっくりと聞くことができた。

 帰りの汽車の時間が迫っていると伝えると彼は少し残念そうにしたが、それでもしっかり握手を交わして別れを告げ、オーヴァベックは帰路に着いた。

 彼の無事は確認したし出来得る限りのことはした。友としてしてやれることはこれからもなんだってしてやるつもりでいる。手は尽くしたという安堵感はある一方、未だ拭いきれぬ不安感が心の中に澱のようにあるのはたしかだった。

 小雨が降りだした中で傘もささずに駅へ向かいながら、オーヴァベックは別れ際に彼が薄笑いを浮かべながら口にした言葉を思い出していた。

「安心して欲しい。僕はそもそも忍耐には慣れているのだ……」

 ――しかしオーヴァベックは聞いていた。半死人のようになっていた彼は意識も無いままたしかにつぶやいていたのだ。


 助けてくれ。つらいんだ。俺を助けてくれ。彼は繰り返しそう口走っていた。

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