第二部・新ゲルマニア

十三 新生世界


 アンハルター駅の食堂ではザクセン行き列車を待つ客たちがいつでも大抵時間を潰していたが、クリスマス前ということもあってこの日はいつも以上にこんでいた。

 一番奥まった席に陣取っている二人の男は駅で買ったばかりの新聞を険しい顔をして読んでいた。三面記事に一通り目を通したあと、煤けた色の背広を着込んだ髭面の男は湯気立たんばかりに憤怒した表情でこう吐き捨てる。

「忌々しいリベラル派の新聞め。免職されたんじゃない。いいか、辞表はちゃんと自分から書いたんだぞ! これはまったくデマゴーグじゃないか」

 男の名はベルンハルト・フェルスター。ドイツで沸き上がった反ユダヤ主義運動の中で英雄ジークフリートと呼ばれた男である。向かいの席に座っていた連れの男、運動の同志アドルフ・ケーニッヒはフェルスターの弁明には興味を示さずにくたびれた様子でこう口走る。

「これでベルリン運動の役員全員が失職だぜ。今じゃマルクス主義者の機関紙さえコトを掴んで俺たちの敗退を嘲笑ってやがる……」

「おい、敗退なんて言い方はやめろよ」

 フェルスターは不愉快そうにケーニッヒの言葉を制し、それからこう続けた。

「どうしてこうなったか分かるか? ――いまや警察も裁判所も新聞社も、視学官も校長もビスマルクも、みんな残らずユダヤ贔屓って事なのさ!」

 感極まったフェルスターが思わずあげた大声にケーニッヒは驚いたし、ちょうど注文を取りに来ていたウェイトレスまでがぎょっとした顔で彼を見た。店じゅうの注目を集めてしまったことにようやく気づいたフェルスターはばつが悪そうに視線を下げ、ごまかすようにウェイトレスにこう告げた。

「代用コーヒー二つ! 急いでくれ」


 ベルリンで始まった反ユダヤ主義者たちの連盟「ベルリン運動」は窮地に立たされていた。ほんの一年前までの勢いはどこ吹く風という有様で、時代ははっきり彼らに背を向け始めていた。

 ユダヤ人排斥を求める署名は最終的には二十五万名分という空前の数に及び、人々の信託を得たと確信したフェルスターたちは自信満々にビスマルク内閣へ提出した。山のような署名を議会に運び込むために彼らは二台も馬車を用意し、まるで勝利を掴んだ凱旋将軍のような心持ちでその光景を見送ったのだった。

 しかしビスマルク内閣は彼らの請願書の受け取りを拒否し、審議にすらかけないと決定したのである。フェルスターと仲間たちを擁護すると約束したはずのプロイセンの保守派議員たちはいざとなると一切力を貸してくれなかった。議員たちは安請け合いした時と同じくらいにあっけなく彼らの〝夢〟を見放したのである。

 ベルリン運動の反ユダヤ主義者たちはこの屈辱的な扱いに当然激昂したが、一方では自分たちへの圧倒的な支持をいまや内閣でさえ恐れているのだと考える者もいた。それというのも彼らは帝国議会選挙に出馬して議席を獲得し、国政へと進出する計画をも立てていたからだ。

 而してベルリン運動の主要メンバーたちは期待を胸に抱き、揃って議員選に出馬したのだが――ビスマルクの受け取り拒否のニュースが原因というわけでもないだろうが、ほかの保守政党所属で出馬した者を除いた全員が落選するという記録的大敗に終わってしまう。けっきょくのところ彼らが集められたのはあくまでも署名で、しかもその大部分は遠い田舎の人々から集めたものに過ぎなかったのだ。

 請願書を黙殺され選挙でも無視された彼らの運動はいまやベルリンじゅうで物笑いの種にされ、新聞は連日彼らのゴシップを取り上げては攻撃した。醜態が連続する失望感からか脱会者も相次ぎ、事態の責任者として批判の矢面に立たされたのがグループの中でリーダー視されるていたフェルスターだった。

 追いつめられた彼は仲間からの信頼を取り戻すために必要なのは英雄的行動だと信じ――彼の考える英雄的行動とはつまりを示すことだったが――なかば苦し紛れで官公庁に対して訴訟を起こした。ベルリン市長、裁判所、警察、複数の新聞社……訴状はいずれも似たり寄ったりで「人種的汚染に対策を講じない怠慢」を告発するという趣旨で、もちろんどの訴訟も極めて短期間のうちに敗訴が下り、フェルスターの起死回生の目論見は状況をさらに悪くした。

 政治運動の失敗と相次ぐ訴訟と敗訴。マスコミに取沙汰されて広まる悪名。ついに彼は勤めていた学校からもその姿勢を疑問視され、教職を辞する局面にまで追い込まれたのだった。ある新聞は彼が免職された記事にこう見出しを付けたという。

〝社会の一部の人々に対し攻撃を仕掛ける凶暴性。それゆえもはや彼に教育を委ねることは不可能となった――人種差別煽動の責を問われた教員、免職!〟……。


「私たちが負けたわけではないんだ」

 出された代用コーヒーに角砂糖を落としながらフェルスターは呟く。

「我々アーリア人は大地を崇拝する。だが、その大地が既に腐っていたとしたら? 寄生虫によってもう救えないほどに食い荒らされていたとしたら? アーリア人としてどう行動するべきだろうか?」

 ブツブツと神経質そうに口走るフェルスターの姿を、ケーニッヒは少々訝しみながら見ていた。ケーニッヒ自身は自分たちの大っぴらなユダヤ人排斥運動は内心潮時だと考えていた。もちろんユダヤ人の存在を認めるわけではなかったが、あまりにも逆風が強くなりすぎた。仲間たちにも運動から手を引く者や表面上もう少し穏健な主張をする右派政党に移籍する者もいたし、彼自身もそのクチだった。

 そういう意味では未だにベルリン運動の存続自体に執着しているのはフェルスターだけだった。ケーニッヒにはその辺りの事情もだいたいの察しがついた。

「俺の考えを言うが――今からでも良い、ともかくベルリン運動からは一旦手を引くべきだ。そしてドイツ社会党あたりに入会して一からやり直そうぜ。職だって俺なら世話してやれる。フリッチュ印刷所なんかお前にぴったりだと思うぜ?」

 哀れな立場の旧友に差し向けた助け船だったが、フェルスターはカップを握ったまま彼をぎょろりとした目で睨みつけ、ほんの少し猜疑的な調子でこう口にした。

「手を引く? 冗談ではないよ、私たちはまだ戦いに負けていないんだ。なによりここで私たちが逃げ出そうものなら、それはすなわちドイツの敗北を意味する」

 そのあまりの壮言大語にケーニッヒは面食らい、同時に友人に対する値踏みが終わった。――要するに彼はクソ真面目で、自分たちの反ユダヤ運動が絶対に成功すると信じて入れ込み過ぎたのだ。次善の策を打っておくだけの慎重さも退避先を用意する周到さも無いままに、いまや引っ込みつかない立場に追い込まれていた。そして彼はその境遇を自身理解していてもなお引けないのだ。おそらくはプライドがその最大の理由だった。

「勝ったとか負けたとかそういう話じゃあないんだよ、フェルスター博士……。請願は拒否され選挙運動は失敗、裁判だって正直いって見込みがないだろう。とにかく一度出直すべきなんだ。ユダ公ジューどもをゲットーにぶちこむのは言ってみればいつでもできることだ。あるいは俺たちはのかも知れない」

「害虫駆除は早ければ早いほど良いに決まっている。これを成した時、歴史はきっと私たちを稀代の英雄として讃えるよ。そして未来の人々は、こんな当たり前の考えがどうして昔は拒絶されたのだろうと首をかしげることだろうよ」

「待て、待て。ただ捨て鉢で自滅する道を選ぶなんてのは男子らしからぬ考え方だ。我々の行動には将来のドイツに対する責任があるんだぜ。今の君は英雄ジークフリートと呼ばれた自分の過去に執着しているだけだ。君がまだベルリン運動に執着したいって言うのなら、まあ好きにすりゃあいい。だが俺は一切御免蒙りたいね」

 それからさらに、ケーニッヒははっきりとこう言った。

にも一切協力はできないと明言させてもらうよ」

 それに対しフェルスターはにこりともせず至って真面目な、いいや怒っているような目つきでケーニッヒを睨みつけたままこう答えた。

「――君も裏切り者か!」

 分かっていたとばかりにフェルスターは鼻を鳴らし、残っていたコーヒーを一気に飲み干すと小銭を席に置いて席を立つ。立ち去ろうとする友人の背中に向け、ケーニッヒはもう一度だけ声をかけた。

「考え直せ。君は冒険するだけの器じゃあない。ムダ金どころか君の命までをも危うくする思いつきだぞ」

 しかし帽子を深く被ったフェルスターはもう振り返りもせず、あてつけのように足早に立ち去って行ったのだった。


 ――乗り継ぎを繰り返し、夕刻にはもうフェルスターはナウムブルク駅のホームに立っていた。ナウムブルクは彼の年老いた母の故郷で、彼がこの町に来たのはクリスマスの挨拶をするためでもあったし、知人の銀行に融資を願い出る為でもあった。

 雪がちらつく田舎町の寒々しい景色を鋭い眼光で見据えながら、フェルスターは自分に言い聞かせるかのように呟く。

「私にはまだツキがあり、なによりも正義を信じている……大丈夫だ」

 寒冷な空気に肩をぶるりと震わせ、フェルスターは足早に駅舎へ歩いていく。銀行に行くには今日はもう遅い。少し友人を訪ねるのも良いかと思ったが長旅でくたびれた外套姿なのが如何せんみっともなく思えてしまう。ナウムブルクに友人とよべる相手は一人しかおらず、いつも身だしなみが完璧な女性だった。――やはりこのザマはふさわしくないな。訪ねるのは明日にしよう。

 フェルスターがちょうどそんなことを考えていた時、甲高い声が彼を呼び止めた。

「ベルン!!」

 聞き覚えのある声にはっとした彼が振り向くと、そこには大きな羽根帽子をかぶりオーヴァーコートを着込んだ小柄な娘――今まさに頭の中に思い浮かべていた相手、エリーザベト・ニーチェが立っていて、彼はひどく驚いたのだった。

「エリー?! なんだってこんな所に?」

 思いがけない出会いにフェルスターが驚嘆して声をかけると、エリーザベトは小首をかしげながら「今日到着すると手紙に書いてたでしょ?」と答える。

「でも着く時間は知らせなかっただろう。まさか、ずっと待ってたのかい?」

「いらっしゃるなら早く会いたかったのよ。おかえりなさい、ベルン!」

「――あ、ああ。ただいま」

 差し出された手を握り返しながら、フェルスターはなお戸惑っていた。彼女はいつ到着するとも分からない自分を駅で待ってくれていたのだろうか? 彼女とは親しい友人のつもりでいたが、この時ばかりは妙な気持ちになってしまっていた。

「ところで夕食はどうなさる予定なの?」

「今日は安ホテルにでも泊まって済ますつもりです。母さんは足が悪くて台所に立てないからね。実家に泊まるわけにはいかないのですよ」

「なるほど。でしたら――よろしければ私の家で一緒に夕食を取りませんか? 母もいるので安心してください」

 エリーザベトがそれとなく口にした申し出にフェルスターはドキリとする。彼女に握られている手からもぬくもりを妙に感じ取ってしまうし、気分が高揚してくる。

 思わぬところで揺さぶられた彼の気持ちを知ってか知らずか、エリーザベトはにこりと微笑んでみせたのだった。


                 ◆


 朝早くから出かけていた娘が男友達を連れて帰ってきたことに母フランシスカは驚いたが、奇縁なことにフランシスカとフェルスターの母親は友人同士で、よくよく見れば息子のベルンハルトとも既に面識があったので拒否する理由は何もなかった。

 菜食主義者だというフェルスターに合わせたジャガイモのクネーデル(団子)やキャベツ煮などの料理を出し、他愛ない話をしながらつつがなく夕食を終わらせた。

 フェルスターにお茶を出して引っ込んだ後、台所で後片付けをしていたエリーザベトに対して母が尋ねる。

「どういう風の吹き回しなんだい? フェルスターさんの息子を夕食に招くなんて」

「彼は以前からのお友達なのよ。ちょうど今日ナウムブルクに帰ったところで夕食もまだだというから誘ったの」

「フェルスターさんの家には家政婦もいらっしゃるはずだよ。クリスマス前だしご家族で過ごさせてあげるべきじゃないのかい? かえって迷惑だったかも知れない」

 フランシスカは不審げに聞いたが、エリーザベトの方はザワークラフトの瓶を床下に片付けながら素っ気なく答えた。

「そんなことないわ――それに慰めたかったのよ」

「慰め?」

「ベルンはいまひどく傷ついているの。彼は正義のために行動していたのにたくさんの人たちから裏切られてしまったのよ」

「あの人は学校の先生を辞職されたんでしょう?」

「だけど彼は真の教育者だし革命家でもあるの。彼はいつも理想を信じている行動的で立派な人物なのよ。お母さんも彼を知ればきっと好意を持つわ」

「あなたの言うことはよく分からないけど……あの人を見ていると私はフリッツを思い出すよ。危険なことに首をつっこむ人でなければ私は不満はないのだけどね」

 フランシスカから見ればフェルスターは身の丈に合わない世界の話に没頭している

理解できない若者で、濃い眉や広い額という相貌やワーグナーの取り巻きという点までを含めて彼女の息子を連想させたのだ。母が兄の名を出して釘を刺すとエリーザベトは一瞬ひどく悲しそうな顔をしたが、すぐに取り繕うようにこう言い添える。

「彼は兄さんとは正反対の人よ。悪ではなく善を好み、正義と理想を常に求め、理論ではなく行動で世界を変えようとする人――私はむしろ兄さんが彼のようになってくれれば良いのにと思うわ」

 ずっと兄の信奉者だった娘がときおり兄への反感を口にするようになったのもここ最近フランシスカが気が付いた点だった。娘にようやく訪れた精神的自立なのか、それとも何かが起きたのか。それも心配といえば心配の種だった。

「私は自分の子供たちが世界を変えて欲しいだなんてちっとも思わないよ。ただ人並みに幸せになってくれればそれで充分なんだよ……」

「私の幸せは私が見つけますので、どうかご心配なさらずに」

 エリーザベトは母の小言に対してやや億劫そうに応え、埃がついた手を流しで丁寧に洗ってからフェルスターを待たせた客間に戻っていく。

 小市民としての生活を守ることが人生の全てであったフランシスカには娘の語っている話は結局ほとんど理解できなかった。しかし妙に熱っぽくフェルスターへの思い入れを語る娘の姿を見ればその気持ちはおおよそ察することができ、それだけに余計に心配な気持ちになってくる。

「神様、私の息子と娘に――どうか正しき道をお示しください」

 娘の後ろ姿を見つめたまま、フランシスカは口元に手を当ててぽつりと囁くようにして祈った。どれだけ嗤われようともそれが彼女にとっての世界の全てだった。


                 ◆


「――おや、ご母堂はいらっしゃらないのですか?」

 一人で台所から戻ってきたエリーザベトに、客間でぼんやりしていたフェルスターが尋ねる。

「母は来ませんわ。これから夜のお祈りがあるので……夜の祈りは長いので今では母しかやりませんの。だって終わるころには寝る時間ですもの」

「なるほど。まあ祈るばかりが神への奉仕というわけではありませんからね」

 フェルスターは注いでもらった新しい紅茶の薫りを嗅ぎながらそう言って笑い、それから自身にもエリーザベトにも言い聞かせるような調子で「そうだ、信念ある行動こそが世界を変えるんだ」そう口ずさんだ。

 ――行動! ――信念! エリーザベトにとってそれはどこまでも魅惑的な言葉だった。やはりこの男こそ、自分が求めるものを抱いた相手ではないのか。

「ねえベルン、母がいるうちは尋ねにくかったのだけれど……前に下さったお手紙でおっしゃっていた〝復活をかけた計画〟って一体なんのことなの? もう一度署名集めをやるのかしら?」

 機をついてエリーザベトが畳みかけるように尋ねるとフェルスターはハッとしたような顔をして辺りを見回し、ほんの一瞬だけ逡巡してから「やはりエリーには話すべきだね」とどこか安堵したような調子で呟く。手紙での匂わせといい本当は話したくてたまらなかったと言わんばかりの態度だったがエリーザベトは笑わなかった。機微を察して乗せてやれば饒舌になる男だということを充分知っていたからだ。

 元より二人しかいないのにフェルスターは妙なほど声を潜め、重大な秘密を告げるかのような調子でエリーザベトにこう告げたのだった。

「南米に植民地を作る計画を考えているんだ。――ここだけの話、ドイツはもう何もかもがおしまいなんです!」

 大仰な切り出しと共にフェルスターの口から語られたのはエリーザベトには想像もつかなかった壮大な計画だった。フェルスターは彼らの政治運動がことごとく人々から無視され、嘲笑され、迫害された経験から「ドイツ帝国がユダヤ人に支配されている事実」を認めていた。そして逆風の嵐の中で彼は、祖国を救うにはいかなる方法ももはや手遅れであるという診断を下したのだ。

 彼がドイツを救う次善の策として考えたのは「アーリア人の純血性をいかに保つか」だった。わずかに残る高貴な血筋をユダヤ人の侵略から守るにはどうすれば良いか。ノアの一族のように箱舟をこしらえ、汚染知らずの新天地に逃れることだった。

 ――十九世紀末。世界はいまだ植民地獲得によって覇権を争っていた。大きく出遅れていたドイツでは当時国を挙げて移民事業が後押しされており、大不況下で生活苦に喘いでいたドイツ人が毎年何千人もアメリカやブラジルに移住していった。彼が目を付けたのはこの移民事業だった。

「純粋なアーリア人だけで移民団を作り、土地を買って南米にドイツ人コロニーを作るのです。やがてコロニーが巨大化していけばそこを新生ドイツと名付けて独立する――清潔な土地で新しい祖国を作る。それこそがドイツ最後の希望なんです」

 フェルスターは熱に浮かれたような調子で自らの計画について話す。すでにベルリン運動に協力的だったいくつかの企業から出資の約束を取り付け、移民局との交渉が済み次第公表もできる。後は自分自身が現地に飛んで移民団が住むに最適な土地を見つけるだけだ。ただ一つの懸念は自分が南米に行っている間にドイツで事業を進めてくれるパートナーだけがいないのです、と。

「――運動の同志のみなさんは協力してくださらないの?」

 当然の疑問をエリーザベトが尋ねるとフェルスターは水をさされたように消沈し、「全員から拒否されました。私の計画は見放されたのです」と答えた。

 フェルスターの言葉ははっきりいって歯切れが悪く、現状へ勇ましく牙をむく一方で〝できない理由〟を見つけてはどこか安堵しているような屈折した口ぶりだった。

 一方で驚くべき計画を聞かされたエリーザベトはいまや彼に対して羨望の念を抱いていた。彼はどれだけ逆境におかれても挫けず、なお戦いに挑もうとしている。希望と理想を胸にして前に進む人生の体現者だった。そして友たちからの裏切りを告白し、孤独を感じてしょげている姿はひどく彼女の感情の何かをくすぐった。

 そうしてエリーザベトは言った。――いつものことだが彼女は直観に従った。己の人生を大きく変えかねない決断をいとも容易く選び取った。

「私、アナタのお仕事を手伝いたいわ」

 唐突な申し出にフェルスターは思わず顔をあげた。信じられないといった表情で気の毒なほど目をぱちくりさせている。

「君は私の話を本当に理解してくれていたのかい? これは大変な難事業なんだよ。ケーニッヒなんかは命さえ危ないと言いやがって……いや、私を気遣ってそう言ってくれるのは嬉しいのだけれど……」

 冗談か同情によるおためごかしと決めてかかっているフェルスターはまごつきながらそう言ったが、エリーザベトは射すくめるような目で彼を睨むとこう言い返す。

「女が軽はずみな口約束しかしないと思ってるなら大間違い。ベルン、アナタの力になりたいの。アナタの信念が素敵だと思ったから手伝いたいと思ったのよ」

 そう言うとエリーザベトはフェルスターの手を包み込むように両手で握る。触れた瞬間びくりと震えたのが子ヤギのような印象を受けた。そうして手を握ったまま彼の目を覗き込むように見つめたのだった。

 その燃えるような目で覗き込まれていると不思議なことにフェルスターの方も心の中に勇気が湧き上がるような感覚をおぼえる。――これこそ彼がエリーザベトに惹きつけられてきたそもそもの理由だった。彼の中に欠けている何かを見事に埋め合わせるものが彼女との交際の中にたしかにあった。

「ありがとう。そうだ、エリーがパートナーになってくれるなら私は戦える。エリーこそが私が求めていた相手なんだ――いっしょにドイツを救おう」

 フェルスターが消え入りそうな小声でそう答えると、エリーザベトはようやく微笑を浮かべて「植民地の名前は考えてあるの?」と尋ねる。

「ああ、考えてはいるんだ……けどどうしてだい?」

「私の新しい仕事をお母さんに説明するのに名前がないのは変でしょう。これから忙しくなるのだからお母さんにも手伝ってもらいたいしね」

 嗚呼、彼女は本気で実現のために動き始めるつもりなのか。それも今から! フェルスターはたった今自分のパートナーとなることを約束した相手を改めて顧みる。

 類いまれなる行動力と強い意志を持つ女。ひ弱な自分の夢を後押しできる力のある唯一の人間! それこそが彼にとってのエリーザベトだった。

新ゲルマニアNeu Germaniaだ。純血アーリア人の暮らす〝真のドイツ〟としてこれ以上にふさわしい名前を私は思いつかないよ」

「新ゲルマニア……」

 《夢》の精髄ともいえるその名前をエリーザベトは感慨深げに口ずさみ、それから満足げに頷いてほめたたえる。

「素晴らしい名前――! 私たちの力で信念を実現させましょう。空虚な言葉の上でだけ戦うと息巻く臆病な人たちを二人で見返すのよ!」

 エリーザベトがそう言って対決心を向けた相手が誰なのかフェルスターは分からなかった。しかしいまはそれよりも、自分自身でも打ち捨てかけていた計画への情熱が彼女によって一気に燃え上がったことへの驚きのほうがはるかに大きかった。運命はじつに些細な出来事で決まるのか。それとも彼女はとてつもなく大きな存在なのか。



 ――1882年の暮れ。彼らの人生を大きく変えることになる植民地「新ゲルマニア」建設事業はこうして最初の一歩を踏み出したのだった。

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