番外編・ノラの物語
〝11月8日未明、世界的に著名なエリーザベト・フェルスター・ニーチェ女史がワイマールの自宅にて死去。八十九歳。ニーチェ
――1935年11月12日。
ウィーンに居を構えるジークムント・フロイトはこの日も変わらず亡命した弟子たちの患者の引継ぎに追われていた。ドイツにヒトラー政権が成立したあの日から、こと東欧のユダヤ人たちは非常な恐怖をおぼえるようになった。
いずれヒトラーはオーストリアまで手を伸ばし、我々を絶滅させに来る……。誰ともなく言い出したこの悲観的予測が少しずつ現実味をおびはじめるに従い、多くのユダヤ人たちがロンドンやアメリカに逃げ出しはじめていた。
そのディアスポラの発生によってウィーンの精神医学界はひどい混乱の中にあった。こと精神分析医にはユダヤ人が多く、彼らが一人また一人と欠けていくたびに患者たちにまた別の医師を紹介せねばならなかったからだ。精神分析医たちの実質的なリーダーであるフロイトはその責任感もあっていまだウィーンにとどまっていた。
最初にヒトラーが政権を取った時、彼もまた多くの人々と同じように「ドイツ人はどれだけ愚かになったのだ」と苦笑した。
彼らがフロイトの本を焼いたときにはまだ冗談をたたく余裕があった。「人間は進歩したものだ。中世だったら彼らは私自身を焼きに来ただろう」
しかしそれから二年が経ち、今ではフロイトにも逃げ出した弟子たちの気持ちがよく理解できた。――ああ奴らは本当に
午前中に済ませておきたかったカルテ整理をようやく片付けて簡単な昼食を済ませた頃、彼の妻が伝えた。「ルイーズが訪問してきましたがお会いになります?」
フロイトは勿論と答え、書斎に案内してやってくれと付け加えた。それから紅茶を一服し、午後の仕事が詰まった封書を携えて書斎にもどると、客人は本棚を眺めながら待ち侘びていたのだった。
「お久しぶりですフロイト先生。ご無沙汰しておりました」
慇懃に挨拶し握手を交わしたのはフロイトと同年代の細身の女だった。髪も真っ白で病的に痩せていたが、青い瞳だけは娘のようにみずみずしく輝いている。
「わざわざドイツからありがとう。――私からはもう訪ねられそうにないので、ありがたいよ。久しぶりだねルイーズ」
その女性の名はルイーズ・アンドレアス・ザロメ。――そう、あのルー・ザロメ。
彼女は執筆家としての活動のかたわら、二十世紀に入ると精神分析に興味をもってフロイトの弟子となり、今では彼のもっとも親しい友人の一人となっていた。そうして彼女は七十歳を超えた今でも快活に活動を続けていた。
「フロイト先生、貴方も一刻も早くウィーンから亡命なさるべきですわ。ヒトラーは本当に危険な男です。ナチスはきっと大変なことをしでかす……」
「分かっているよ。しかし患者を捨てて逃げ出すことは医者の良心に反するし、〝城〟を捨てて逃げるというのは、それもなかなか勇気がいることだ……」
ザロメがこの日フロイトを訪ねたのは、第一に恩師に亡命を薦めるためだった。ドイツで生活しているザロメにはナチスというものの本質がすでに見えていた。しかしながらフロイトも危機感は憶えているが医師としての責任感、そしてウィーンから始まった精神分析学の開祖としての意地もあり、なかなか動けない状態に陥っているようだった。話し合いはいくら行っても平行線をたどり、結局は「遅くても三年以内に」という約束を取り付けることしかできなかった。
ザロメの方はそれでもまだ不満そうだったがこれ以上は踏み込めまいと諦め、フロイトから分けてもらった葉巻で一服しながら別の話に転じる。
「久しぶりにマトモな葉巻を吸えました。ドイツ製愛国的煙草ときたらまるで雑草を燻してるような味で……ところでお忙しいようですが、新聞はお読みになりましたか?」
「朝刊はそこに置いてるよ。そういえば君の不倶戴天の敵が死んだようだね。一面に出ていた」
葉巻に火をつけながらフロイトが告げた言葉に、ザロメはおもわず苦笑する。
「ええ、エリーザベト・ニーチェが亡くなりました。今頃は故郷の土の下でしょうか……彼女ったら死ぬ直前まで私の悪口を書いたのですよ。つい先月出版された『ニーチェと当時の女性たち』をお読みになりました? ニーチェは手紙で私を偽物の胸をぶらさげた汚い雌猿とまで言っていたそうです」
「ずいぶんあんまりな悪態だが、なんだかルイーズは面白そうにしているね」
「いえ、けっきょくニーチェが正しかったのだなと思うと少し可笑しくて」
「?」
「私は五十のときに癌手術をして胸を切り取りました。いまここにあるのは詰め物ですわ」
そう言いながらザロメは微笑みながら自身の胸元を指さしたので、フロイトは笑っていいのか悪いのかも分からず目を白黒させるばかりだった。
ひとしきりクスクス笑ったあと、ザロメは気を取り直してこう続ける。
「そう、もう一つの要件はニーチェとあのエリーザベトについてなんです」
つづけてザロメがそう言うと、フロイトは少しむっとした様子で答える。
「悪いが、私はニーチェについてはろくに知らないんだよ。ユングのやつはやたら凝ってるがね。そのせいでよけいに読む気にならない」
「では即席で連想法とまいりましょう、先生はニーチェについて何をごぞんじ?」
「……。神の死。超人。ワーグナー。ツァラトゥストラ。……戦争の肯定。権力への意志。ルイーズにふられた男。……ナチス。あのけばけばしい妹」
「ものすごく印象が悪いですわね」
「ユダヤ人に聞くほうが悪いよ」
「ごもっとも。しかしそれだけご存じなら充分かと思います。これをご覧になってください」
そういうとザロメはハンドバッグから封筒を取り出し、その中から古びた原稿用紙の束を取り出す。十枚弱の薄っぺらいものだ。
「私は前の戦争が終わった頃、ひょんなことからシュタイナー博士と知り合いになりました。その時に彼から譲られたものです」
「シュタイナーというと、ルドルフ・シュタイナー博士かね? あの人智学の? あいかわらず君は妙な人間とばかり付き合うね」
「精神分析家も世間から見ればまぁ……ともかく、これは彼がまだ無名でニーチェ文庫の雇われ編集者だった頃に取得した〝小説〟の原稿だそうです。あのエリーザベトが書いたものだと」
「私小説か?」
「ええ。それも1882年の夏に書いたものだと――私がニーチェと一緒に過ごし、そして関係を清算したあの夏に書いた作品だそうです。あの時、彼女はあきらかに情緒不安定でしたがそういえば部屋にこもって何かを書いていた。書いたはいいが誰にも見せず、やがてニーチェ文庫に死蔵。編集作業で出入りしていたシュタイナー氏がゴミに放り込まれた中にあるのを偶然見つけて保管したそうです」
「ルイーズへの怒りを燃え立たせてしたためた最初の文章というわけか。さぞ怖い内容だろうな」
フロイトは豊かなひげを撫でつけながら机におかれた原稿用紙に目を向ける。その原稿には題字はなく、小さく几帳面な文字がびっしりと書き込まれていた。
「なるほど分かった。これを読んで、天に召された君の宿敵の精神分析をしてみてくれというわけかね? 楽しそうなこころみだ」
フロイトは本心から面白そうにそう告げ、原稿を手にしたが、ザロメは小さく肩をすくめ「残念ながら分析の必要すらありません。あまりに赤裸々、あまりに人間的ですので。とりあえずお読みください」そう言い含めた。
それがどういうことか分からないままフロイトは原稿を読んでいく。手持無沙汰になったザロメの方は窓辺におきっぱなしの朝刊を手に取り、一面に目を通す。一面には大見出しでエリーザベトの葬式の写真が掲載されており、棺の前でヒトラーがわざとらしく目を閉じていた。
〝さる11日、エリーザベト・フェルスター・ニーチェ女史の葬儀がニーチェ文庫にて執り行われた。ドイツの多数の政財界人が多数参列し、偉大な女傑の死を悼んだ。政界からはヒトラー総統およびシュペーアGBIが私人として参列したが、ニーチェ文庫の職員全員が筋金入りのナチス党員ということもあり、葬儀はさながらナチス政府による国葬の様相を呈していた……棺は明日正午にエリーザベト女史の故郷レッケンにて埋葬されるとのこと……〟
「読み終えたよ。未完なのだな」
「完結前に彼女は王国を創りに旅立ちました。そのまま忘れられたのでしょうね」
短く簡潔な文章でしかないので、フロイトがそれを読み終わるには葉巻一本が終わるほども時間がかからなかった。フロイトは「なるほど赤裸々だ」と言いながら薄笑いを浮かべ、原稿をザロメに返却した。
「これが彼女の誰にも知らせなかった深層的な願望だとして、君はどう思うね?」
「――私はこの事件の〝関係者〟ですので……。しかしそれとはまったく別問題として、彼女の胸中には少し同情をおぼえてしまいます」
「たしかに気の毒ではある。彼女も。兄上も」
「ええ。彼女は間違いなくニーチェを愛していた。その愛と崇敬の強すぎる炎が彼をナチスの預言者に仕立て上げて――彼は妹に二度殺された。もしも……もしもこの小説の『ノラ』になる夢が叶っていたら、あるいは違っていたのかも」
火の消えた葉巻を捻じり消しながら、フロイトは淡々という。
「我々分析家は異常心理なんて言葉は使わないが、世間の人々はこの小説をスキャンダラスにとるだろう。発表してみたらどうだね? 少なくとも、君に五十年も不名誉を浴びせ続けた女の権威は失墜するぞ。君の名誉回復だ」
しかしザロメは静かに首を振り、微笑と共にこう答えた。
「私は世間の目なんて昔から一度も気にしたことがありませんから。この原稿はそのうちに私の蔵書とともに図書館にでも寄贈してしまいます。私や貴方の手元では、いつか焼かれるかも知れませんから……」
それを聞いたフロイトはほんの一瞬だけおどろいたような顔をしたが、すぐに「それも君らしい」と笑い飛ばした。
それからザロメはわざわざ時間を作ってくれたことに重ね重ね礼を言い、最後にもう一度「一刻も早く亡命して下さい」と念を押して、ドイツに帰っていった。
これが四十年親しくつきあった、二人のユダヤ人の最後の邂逅となったのだった。
ルー・ザロメは1937年2月、持病と合併した尿毒症によって自宅で死去。
ジークムント・フロイトは1939年9月、亡命先のロンドンで癌により死去。
残された彼らの親族のうち、多くは強制収容所の中で焼き殺されたという。
◆
1991年。東西ドイツ統一によって改めてゲーテ・シラー資料館(ワイマール所在)の資料が再検討された際、どういう経緯で渡って来たかは不明なものの、その中にエリーザベト・ニーチェが1882年頃に執筆した未完の小説原稿が含まれていることが確認された。
その内容は非常に素朴かつ稚拙であったものの、当時の彼女の深層心理や願望がとても強く反映されていた。物語のあらすじはこうだ。
バイセンブルクという田舎町に三十歳過ぎの哲学者にして古典文献教授のゲオルク・アイヒシュテットという人物が住んでいた。
ゲオルクには昔から親しくつきあっているノラ・ヴェルナーという幼馴染の娘がいて、彼女は花嫁修業よりもカントを読むのを好む独立心の強い女性だった。
ノラは秘かにゲオルクに恋しているが学問一筋の彼はそのことに全く気がつかず、いつも自分を助けてくれるノラの美しさに気づくこともなかった。
あるときバイテンブルクにある地方の貴族の娘が現れる。彼女の名はユーリエ・フォン・ラムシュタインといい、学識豊かで容姿も美しいが、じつは多くの男たちを誘惑して手玉に取る「魔女のような女」だった。
ゲオルクもユーリエの誘惑によって夢中になってしまい、ノラはそれを悲しみながらもなお献身的に彼を支え続けた。
やがてゲオルクも自身に本当にふさわしい女性はノラであったと気がつき、感情に身を震わせて激しく愛の告白をする。そして彼は教授職を捨ててまでノラの元へとやってきて、二人きりで人知れず暮らそうと決心するのだった。
二人が美しい森の中で抱擁し合い、愛を誓うところで……原稿は未完となる。
おそらくこの物語こそが、決して叶うことのないエリーザベトの願望であった。
【第二部・新ゲルマニア編へと続く】
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