十二 愛にまつわる茶飲話(第四幕)


「イェーナまでザロメを迎えに行ってほしい。彼女はいま、僕の友人の家に来ているんだ」

 ニーチェがそう申し出たのを聞いたとき、エリーザベトは我が耳を疑った。一週間前に断りの電報を一緒に打ちにいったではないか!

 エリーザベトが怪しむことを予期していたのか、ニーチェは一通の手紙を差し出した。それはザロメから届いたもので、断りの電報について不審をおぼえ、それはお互いにとってなんともみじめであり、私と貴方の友情を実り多きものにしたいと記されていた。

「つまり、ザロメはどうしても僕に会いたいようなんだ。それに、やはり前々から約束していたことを急に断るのは礼儀に反しているように思うから……」

 言い訳がましくそう語るニーチェの表情はどことなく嬉しそうでさえあったが、エリーザベトにとってはそれも嫌だった。自分に相談もなくザロメと手紙のやりとりをして二人で決めた決断を反故にされたのだ。はっきり言えば癇に障った。

 こんなことになるならばさっさとタウテンブルクから連れ帰っていればよかった。せっかく保養地に来たのだからゆっくりしていこう。今はよいものが書けそうな気分なのだと言うニーチェの提案に乗り、のんびり過ごしている間に叩き出したはずの女が再び顔を出してきてしまったのだ。

「本当は僕自身が行くべきなのだろうが、いまはどうしても手が離せない……僕の息子がついに生まれてきそうなんだ。僕の哲学の最も重大なテーゼが形になる時が来たのだ!」

 ホテルの一室で嬉しそうにしているここ数日のニーチェの姿を喜ばしく思っていたが、今はもう分からない。すべてはあの女にまた会うための時間稼ぎに過ぎなかったのではないか? エリーザベトの内心は再びざわつきだしていた。――ばかにしている。本当に人のことをばかにしている!


 1882年8月7日。エリーザベトはけっきょく頼まれたとおりにイェーナにやってきていた。ニーチェの友人ゲルツァー教授の家が待ち合わせ場所で、ザロメはそこで迎えが来るのを待っているという話だった。

 エリーザベトはなぜ来たのか。神経が高ぶっているニーチェを騒がしい町へ出かけさせるのは心配だったし、ザロメと二人っきりで過ごさせる気もなかった。

 ほんの二週間前にライプツィヒでザロメと対面した時、彼女は自分の妹になるかも知れないと期待に胸をはずませていたが、いま彼女の心に吹き溜まっているのは猛烈な敵愾心。兄をたぶらかして惑わせている小娘への反感と嫉妬だった。

 ――こうなったら徹底的に戦って、フリッツに会わせる前にあの女を追い返してやる。そう心に決めてエリーザベトはゲルツァー家の門をくぐったのだった。


 顔見知りのゲルツァー夫人から案内されたのは寝室だった。ザロメはバイロイトからの長旅で疲れていたので休んでいるのだという。ノックをしてから寝室に入ると、ベッドのへりに座り、なにか文庫本を読んでいるザロメがそこにいた。

「お久しぶりですお姉さま! 再会できて本当にうれしく思います」

 ザロメは本を閉じ、はにかんで笑いながらエリーザベトを迎えた。その中性的な笑みに以前は好感を抱いたが、今はひどく悪戯ぽいように思えてしまう。

「ええ、お久しぶりねザロメさん。――具合はいいのかしら」

「バイロイトからの長距離列車は堪えましたが、ゲルツァー夫人が親切に介抱してくださったので……あの、ひとつよろしいでしょうか?」

「なにかしら?」

「Duで呼ぶのは、やはり遠慮したほうがよいでしょうか」

 その言葉にはっと息を呑み、エリーザベトはザロメの顔を見た。

「急にすみません……お姉さま、いいえ、エリーザベトさんが怒っているように思えたものですから。やはり少し踏み込み過ぎたのかなと……」

 そう告げるザロメは心配げで寂しそうでもあった。その初々しい、間違いを侵した可能性を畏れている表情を見ていると良心の疼きがあった。――ああ! なんて無邪気な顔をするのか! この娘は早熟な感性の持ち主には違いないが、やはりまだ子供だ。自分がを誑かしていることにもきっと無自覚に違いなかった。

「そういうわけではないのよ。心配なさらないで」

 エリーザベトはしばしの間二の足を踏んでしまう。私はけっきょくのところ、この娘に立場をこえた好意を抱いている。どことなく自分に似ているこの娘に。本当に妹になるのだとしたらどんなに良かっただろう。

 ――だけど、この娘は許すべきでないのだ。バイロイトで見せたあの写真! 惨めなフリッツとユダヤ人! そして女主人のように鞭を振るうザロメ!

 あの恥辱の夜を思い出すと、ザロメへの怒りが再び激しくたぎりはじめる。いついかなる時もそうだったが、衝動こそが彼女の力だった。

「……タウテンブルクへ行く前に少し話をしましょう。やはり言っておきたいことがあるの」


 エリーザベトは読書用の小さな椅子に座るとザロメに正面から向かい合った。可能な限り感情は押し殺しているつもりだったが、ザロメの表情を見ればそれに失敗しているのはよく分かる。彼女はかまわず続けた。

「率直に言うとね、ザロメさんにはこのまま引き返してもらいたいと思っているの」

「……なぜでしょうか?」

 ザロメはさすがに怪訝そうに眉をひそめ、口元を指で撫ぜながら聞き返す。

「それがフリッツのためだし、アナタのためでもあると思うわ」

「私はニーチェ教授と約束をしたんです。エリーザベトさんが言っているのは先日の電報の一件があるからですよね? それについても彼から手紙をもらいましたわ。あれは手違いで、いまは私が来るのを心待ちにしていると書かれていました。ニーチェ教授の気持ちを無碍にすることはできませんわ」

 ――ニーチェの気持ち! ザロメの口からその言葉が出た途端、エリーザベトは心臓が凍り付いたかと思うほどぞっとした。フリッツの気持ちをお前がいったいどれだけ分かっているというのか! それに、分かっていて弄んでいるというのならますます憎らしかった。エリーザベトは小さく鼻をならし、じろりと睨みつけながら続ける。

「フリッツの気持ちをアナタがどれだけ分かっているというの? もしも彼の気持ちを分かっているというのなら……そう、ワーグナー氏の取り巻き連中のご機嫌取りなんてとてもできるはずがないわ。兄との不仲は知っているでしょう」

 彼の恋心を知っているのか? とはどうしても言うことができず、エリーザベトは矛先をバイロイトでの出来事に向けた。しかしながらザロメの方は納得がいかぬ様子で即座に反論する。

「ワーグナー氏との関係というなら、エリーザベトさんの方がよほど長くて深いではないですか。コジマさんとは親友だとも……」

「私は違うわ。私がワーグナー氏と付き合っていたのはフリッツとの不幸な仲違いを解決するためよ。――ただ、それだけ! 自分のためではないわ!」

「たしかに私はニーチェ教授とワーグナー氏の諍いを知りませんでした。ですがそれを聞かされて以降、むしろ私は教授と彼の哲学が良い話題になるように努めました。だけどワーグナー氏は無視したんですよ。一度など、ニーチェという名前を聞いただけで不機嫌そうに部屋を出て行ってしまった」

「それが余計なことなの! どうしてそんなことを?」

「だって、ニーチェ教授が可哀想じゃありませんか!」

 エリーザベトはついに声を荒げてしまった。聞きたくもないことを聞かされ、気持ちはまたも掻き回される。苛立ちと寂寥で胸がむかつき、せきたてられるように言葉が紡がれるが、それが本音なのか建前なのか自分でさえ分からなくなってくる。

「この話はまぁ、これで終わりにしましょう。過ぎてしまったことより大事なのはこれからのことだわ」

「エリーザベトさんがそうおっしゃるなら……それより大丈夫ですか? 気分が悪そうですが」

 慇懃に話を打ち切ろうとするザロメの言葉を無視し、エリーザベトはさらに彼女を攻撃する。

「もうひとつは、フリッツとレー博士と一緒に生活するなんて計画はきっぱりと中止してもらいたいの。はっきり言えばあまりにで道徳に反しているわ」

 道徳的非難を突き付けられた途端、それまで懸命にこらえていたであろうザロメの様子が一変した。露骨な不審の表情をうかべながら彼女は言う。

「私がセックスにとらわれない関係を築きたいと願っていることはお話ししたと思いますが? 貴女だけではない、パウルにもニーチェ教授にもそう話しました」

「ロシアではそういう習慣もありえるのかも知れないけど、文明化したアーリア人の社会ではとうてい許されないことなのよ。フリッツの名誉が傷つけられるのを黙って見過ごすことはできないわ」

「――そういう偏見にみちた考えは不愉快です!」

 ザロメは苛立った様子で声を荒げ、さらに「ロシア人に対する侮辱よ!」と続けながらその青い瞳でエリーザベトを睨みつけた。驚いたのはエリーザベトのほうで「アナタはドイツ人でしょう?」と拍子抜けしたように尋ねる。

「遠い先祖はドイツ人だけど私はロシアで育った。――それに私がドイツ人だったとしてもを聞かされてよい気持ちはしない。そんなことが分からないのですか?」

 いささか呆れと軽蔑を含んだ言葉だったがエリーザベトにはピンとこない。ふと、いつだったかフェルスターが〝良きヨーロッパ人を名乗る偽善者を軽蔑する〟と言っていたのを思い出す。彼女は良きヨーロッパ人を気取っているのだろうか? 今はそれよりも話を逸らされた気がしたことのほうが不快だった。

「あのね、私が言いたいのはそういうことではないの。話をちゃんと聞いてちょうだい。フリッツを誘惑するような真似をやめてほしいと言っているのよ」

「私はそんなことしていない」

「フリッツは真面目で禁欲的なのよ。失礼だけどアナタが誘惑してしまったとしか、私には考えられない」

 エリーザベトのその言葉に、ザロメの方はとうとう怒りを爆発させたらしかった。彼女は腰掛けから立ち上がるが早いか、大砲のように矢継ぎ早に叫んだ。

「私が彼に恋しているとか誘っているとでも思っているの? 断言しておくけれど、私が彼をそういう目でみたことはただ一度もないわ! 私が彼に求めたのは対等で知的な交流だった! ふしだらな意図? それを問うべきはむしろ貴女の兄さんの方よ! 最初は私を妻にしたいと言ってきたし、それがダメとわかると自由恋愛でいいと言い出した。それからようやく教師と弟子として付き合いたいと取り繕ってきたけれど本当のところどうなのかわからない。ニーチェ教授の頭の中にまだセックスの妄念があるのかどうか! ――少なくとも私には無いわ。たとえ彼と一晩一緒に寝たって何も感じない! もしも彼が私をと思っているならお気の毒さまよ」

 ザロメの口から腹立ちまぎれに飛び出した言葉の数々に、エリーザベトはもう頭を打たれたような気分だった。今まで口げんかで負けたことはほとんどなかったが、彼女が暮らしていたのは十九世紀的な道徳社会の中であって、萌芽しつつあったリベラリズムや性の解放などとはどこまでも無縁の世界だった。

 セックスの問題を平気で口にする女など目にしたことすら初めてで、ましてやそれは兄の性に関する事であって――聞かされているだけでエリーザベトは顔が熱くなり、胸の中に酸いものがこみあげてくるのを感じ、打ち消すように「ふしだらな話はやめて!」と何度も叫んだ。

 狼狽しきったエリーザベトの様子に、売られた喧嘩ですっかり血が上っていたザロメの方はじつにサディスティックな笑みを浮かべ、挑発するようにこう続けたのだった。

「パウルやニーチェ教授とはもっとふしだらな話もするのよ? だって私たちはなんですから……」

  悪魔トイフェル魔女ヘクセー。ヴェーヌス・ベルグの女。神の敵、善性の破壊者、退廃芸術家――いくらでも言葉が思い浮かぶ。

  そうだ、いまやこの娘は存在しているだけでフリッツを侮辱しているのだ!

 はっきりした。この女は《うそつき》だ。この女がフリッツを誘惑した。この女が兄を悪を愛するなどとうそぶく男に変えてしまったのだ!

 猛烈な吐き気に打ちのめされながら、エリーザベトは歯を食いしばり眼を開けた。奇妙なことに視界がひどくぼやけている。涙があふれているせいかと思ったが、部屋中にチカチカ瞬く星が舞っているようにも見えた。

 消え去りもせず相変わらずそこにいたザロメ。ご愛想などもはやひとかけらも残ってはいなかった。

「アナタみたいな女――フリッツにはふさわしくない」

 吐き出すように告げられた言葉に、問いがかえってくる。

「じゃあ、どんな女が?」

 ぼやけた影を呪うように睨みつけながら、答える。

「彼にふさわしいのは家庭的で細やかな気配りができる女よ。料理も上手で家事一切も面倒みてあげられて……」

 エリーザベトは精一杯ザロメから離れた人物像を言い連ねていく。

「……それにフリッツはね、小柄で可愛いらしい女が好みなのよ」

 なんとか言い終えたところで、フッと意識が遠のいていく。チカチカ星が目の中に飛び込んでくるような感覚とザーザー聞こえる耳鳴りに幻惑されながら、エリーザベトは椅子から崩れ落ちるように倒れたのだった。

 消え失せつつある彼女の意識の奥底に、寝室に向かっているゲルツァー夫人の足音と、「――まるでエリーザベトさん自身の事を言ってるみたいね」ザロメのその言葉だけが脳裏に鳴り響き続けていた……。


 エリーザベトはルー・ザロメとは再会するなり道徳上の問題について激しい口論になり、失神するほど激昂させられたと後に記している。この激しい争いはゲルツァー夫人が仲裁に入ったことで中断されたが、両者の不信と嫌悪の念はもうどうしようもないほどに高まっていた。

 ――にもかかわらず、二人はけっきょくその日のうちに一緒に連れ立ってタウテンブルクのニーチェの元へと向かった。じっさいのところたとえエリーザベトが案内を拒んだとしてもザロメは一人でそこへ向かっただろうし、彼らが二人きりになることをエリーザベトはとうてい容認できなかった。会話はほとんど交わさなかったが、まるでなにごともなかったように二人は乗合馬車に乗ったのだった。

 そうして二人がようやくタウテンブルクにやってきたときのニーチェの喜びようは大変なもので、馬車から降りてきたザロメの手を恭しく握ってエスコートし、気取ってその手に接吻までして見せた。彼は先日の「電報」の一件についてアレはとんでもない勘違いだった、あのような間違いで貴女を失ってしまえばもはや僕は生きていられなかったろうと語り、深々と謝罪した。

 それから三人はニーチェが宿泊するホテル――十九世紀では未婚の男女が旅行するときは大抵別々のホテルに宿泊した。ホテルが一軒しかない場合は女性が教会や牧師館に泊まることが多かった――のレストランで夕食を一緒にとったが、その時もニーチェは機嫌よく近況の話をした。

「僕はいまはギリシア以前の精神に関するものを色々と読んでいるんだ。こういう時は古典文献学もまぁまぁ役に立つ」

 これにザロメが「教授の関心を特に引いたものはありますか?」と尋ねると、ニーチェは嬉しそうにこう答えた。

「Zarathustra――拝火教の教祖。善悪二元論の創始者。あるいはアーリア人の遠い祖先……」

「ザラ……なんですって?」

「ツァラトゥストラ、さ」

「ツァラツ……すみません、もう一度!」

 ニーチェとザロメが笑みを浮かべて聞き慣れない名を弄んでいる間じゅう、いやじつのところ到着してからというもの、エリーザベトはほとんど喋りもせず不機嫌そうに黙っていた。彼女なりの兄へのアピールであったがニーチェの方は気づきもせず、ザロメに背筋が寒くなるような愛想やおべっかを使うところばかりを見せられ続けていた。しまいにとうとう我慢しきれなくなったエリーザベトは「気分が悪い」とだけ告げると、牧師館に一足先に戻ったのだった。

 個室に戻ってからもエリーザベトの気分は少しも落ち着かず、一人になるともう涙が止まらなかった。明かりもつけないまま彼女はベッドに伏せて声もなく泣いた。回っているはずの酔いも今は安楽な気持ちを与えてくれなかった。


                ◆


 ザロメが微笑む。あの写真のままの、ぞっとするような微笑み。

 暗闇の中で瞬間的に浮かびあがったのはザロメ、レー、そしてニーチェが薄暗い祭壇で結婚式をあげているヴィジョンだった。黒ずくめのユダヤ人やイエズス会士ジェスイットが祝福しながら踊り狂う中、レーとニーチェが崇拝者のようにザロメの足元へ跪く。ザロメが二人に淫らに口づけし、ニーチェは恍惚の表情で宣言する。と。

 喉はまるでふさがったかのように詰まり、いくら叫ぼうとしてもそれは声にならない。それでも私は叫び続けた。全身の血が沸騰しそうになりながら何度も何度も、このおぞましいヴィジョンに対してあらん限りに抗い続けた。


「――認めないナイン!!」


 自分自身の絞りだした叫び声に起こされ、意識は再び還ってくる。私はいつのまにやら眠っていたのだ。化粧を落とさないままベッドに倒れこんでいたのでシーツはひどい有様になっていたし、あごには妙な鈍痛がある――たぶんそれは無意識に歯を食いしばっていたせいだった。

 しこたま飲みすぎた後の倦怠感で体は重く、ようやく起き上がって手探りで水差しを探して水を一杯飲み、ふと窓を見遣ると月が見えた。時刻は分からないがもうすっかり夜になっていたのだった。牧師館の前にある木製の古びた門だけが月明かりの中で浮かび上がって見えていた。

 なかば放心状態でぼんやりとそれを眺めていると、カンテラの小さな灯りを持った人影が夜道を歩いているのにやがて気がつく。真っ暗で輪郭以外何もわからなかったが背格好からするにそれは間違いなくザロメだった。フリッツとの歓談を終えて部屋に戻るところらしかった。

 自分が真っ暗な部屋で泣きひどく厭な夢にうなされていた間じゅう、フリッツとあの女はレストランで楽しく過ごしていたのだ。そう考えるだけで胸が余計に苦しくなり、もはや歩く姿さえもにくたらしい。

 廊下をきしませる小さな足音に注意を尖らせ、私はゆっくりと廊下に出る。想像した通りザロメが帰ってきていたようで、彼女の部屋の扉がちょうど閉まったところだった。

 もしもいまピストルを持っていたら――そんなおそろしい想像ができることに自分自身驚いたが――私はあの女を殺そうとさえしたかも知れない。追いつめられ切ったあさましい考えだと思った。

 すべては私があの女を追い返せなかったからだ。あの女の意志は私の意志を上回り、ここに来る運命をくつがえらせなかった。私の意志を無視してあらかじめのお定まり通りに進んだ結果で、これからもきっとその通りに進んでいくのだろう。

 閉じられたドアをじぃっと見つめたまま、私は私自身に問う。

 私はもはやこの運命を受け入れるのか。兄をあの女に譲り渡してしまうのか。

 私はこの運命を愛せるのか。

 ――ナインナイン、――三度ナイン。 ああ、嘔気、嘔気、嘔気。

 ならば。もはや意志を、愛を示すほかはない。


                ◆


 コンコン、コン。ホテルの廊下に軽いノックの音が三度響き、しばらくすると閂を外す音がしてドアが開く。

 ドアを開けたニーチェは目をまん丸くして驚いた。すでに消灯された薄暗い廊下に立っていたのはエリーザベトだったのだ。

「リースヒェンじゃないか、どうしたんだ?」

 彼は不審の色を隠せない様子で声をかけたがそれも無理もないことだった。零時近くにもなってわざわざ訪ねてくるのも妙だったし、服装もいつもと違っていた。

 エリーザベトは人前に出るときは些細な用事でもいつも身なりを完全に整えていた。妹がバッスルも着けず帽子もかぶらずにいる姿を見たのはいつ以来だろうか。自分よりずっと外交意識の強い妹が深夜とはいえ格好で人前に出てきているのは大珍事だった。

「……何かあったのかい?」

 ニーチェが重ねて尋ねるとエリーザベトは小首をかしげてうっすらと微笑み、部屋へ招かれるのを待っている様子だった。


 部屋にやってきたエリーザベトは椅子をすすめられたが、何を思ったのか彼女は粗末なベッドの方へ向かいそちらにすとんと腰をおろしてしまう。そうしてニヤっといじわるそうに笑うと「フリッツもここに座って!」と言い出した。

「いやいや、何を言ってるんだい」

「いいから座って! 子どもの時はよくこうやってお話ししたじゃない」

 ――たしかに子供の頃はよくお互いの寝室へ行き、肩を寄せ合って本の読み聞かせや字を書く練習をしたものだった。エリーザベトは彼の肩に寄りかかったままよく寝てしまったし、ニーチェの脳裏には妹の髪の匂いの記憶がいまだに残っている。当然ながら大人になってそのような触れ合いはとんと無くなっていたが、どうも今の彼女は昔を懐かしんでいるように思えた。

 躊躇しているうちにニーチェはなかば強引に腕を引いて座らされ、とうとうあの頃のように肩を寄せて座ったのだった。

「酔ってるのかね? 食事のときにもひどく飲んでいたが」

 やたら無遠慮に手で触れてくる妹のしぐさに困惑しながらニーチェが尋ねたが、彼女はあいかわらずにやけたままでこう話した。

「どうかしら? ねえフリッツはビアホールには行ったことがある? 工場で働いてる人たちは男も女もこうやって肩が触れ合うほど狭い席について、大声で騒ぎながらビールを飲むのよ」

「リースヒェン、お前そんなところにも出入りしてるのか?」

「ええ。ベルンの所へ遊びに行った時に連れて行ってもらったの」

「ベルンって誰だい?」

「ベルンハルト・フェルスターさんよ。フリッツにも彼が作ったパンフレットを贈ったでしょう。読んでくれた?」

 フルネームを聞いた途端にニーチェは露骨に顔をしかめた。面識はないがワーグナーの最もくだらない取り巻きのうちの一人。反ユダヤ主義などというばかげた妄想を本気で吹聴し、どういうわけか妹を通じて自分にまで接触しようとしてくる男。いずれにせよろくな印象はなかった。

「読んでいない。僕にはあの男のイデオロギーが受け入れられない」

「やっぱり」

 エリーザベトが予想通りという調子でそう呟くと、ニーチェは不興半分心配半分の気持ちで口撃する。

「まだあんなくだらない男と付き合っているとはなんとも心配だよ。頼むから縁を切ってくれ。友達は選ぶべきだ」

「彼は優しいし人柄も真面目よ。それにベルンはフリッツの本をとても褒めてくれるのよ。いつかベルリンからたくさん注文が来て喜んでいたけど、あれは彼が読書会で紹介してくれたからなのよ」

「そんな連中は僕を理解していないし、仲間だとも思われたくない!」

 ニーチェは不機嫌そうに叱責したが、エリーザベトはそれには何もいわず兄の手の甲に指を這わせ、そしてこう続けたのだった。

「――私ね、ベルンと結婚しようと思っているの」

 エリーザベトの言葉を聞いた途端ニーチェはしばらく呆けたような顔になり、妹の顔を穴があくほどまじまじと見て、震えるような息を吐きだし――それからようやく囁くような声で「本気か?」と声に出した。

 沈黙した兄の顔をずっと見つめていたエリーザベトはそれを見届けてから漸く「本気よ。まあいずれはだけどね」と答えた。

 ニーチェはそれが今すぐの話ではないと分かっていくらか安堵した様子だったが、エリーザベトは兄が心配そうな顔をしたことをかえって嬉しそうにしていた。

「やめておくれよ。妹が悪辣な扇動家と結婚だなんて……なんとも悪い冗談だ。お前、本当にフェルスターを愛しているのか?」

「一緒にいて楽しいと感じることが多いし、正義感の強い立派な人よ。それに私、彼と一緒にいると情熱を燃やせるの」

「そんなのは愛とは言わないよ。なあラーマ、頭を冷やしておくれよ。お前はきっと自分の感情に対して思い違いをしているんだ」

 心配げに語りかけるニーチェに対し、エリーザベトはぷいと顔をそらす。そして尋ねる。

「――フリッツにはわかるの? 愛のことが」

「お前よりはわかっているさ」

「じゃあ聞きますけど、フリッツはザロメを愛しているの? 私は自分の気持ちを正直に話したし、これからも話すつもりよ。フリッツにも話してもらいたいの」

「………!」

 その言葉を聞いた途端、ニーチェはびくついたように口をつぐんでしまう。彼はしばらくの間気の毒なほど目を白黒させたが、やがて取り繕うようにこう答えた。

「いやお前はやっぱり何か勘違いをしているようだがね、僕はルーをそういう目で見たことはたったの一度もないんだよ。彼女は僕の弟子であり……そう、後継者なんだ!」

 一方的に早口でまくしたてる兄の姿は、エリーザベトの目にはなんともあわれっぽい自己弁護者としか映らなかった。愚かなことに兄はまだがザロメにも自分にも見透かされてないと思っているのだ。

「僕とルーの間にあるのはどこまでも知の探究者としての信頼関係なんだ。もちろん彼女もそのことは充分に分かってくれて……」

「――うそつき」

 顔もむけないままエリーザベトが呟いたその一言に、もとより歯切れの悪かったニーチェの言葉はかき消されたように途切れる。困惑した兄に対し、彼女は続けてこう口にした。

「フリッツもうそつきだし、ザロメもうそつき! もううんざりだわ!」

 そう宣告したあと、エリーザベトはもう我慢ならないとばかりに今日あった出来事の何もかもを兄に向けてとうとうそっくり暴露した。

 ゲルツァー家でのこと。ザロメはニーチェを憐れんでワーグナーとの話題にしようとしたが却って話をこじれさせたこと。彼女はニーチェの隠している感情にとっくに気づいていること。彼女はその点に軽蔑じみた感情を抱いていること……。

 それらを聞かされるあいだじゅう、ニーチェの顔色は怒りに打ち震えんばかりの時もあれば気の毒なほど青ざめもしたが、けっきょく彼の心をどこまでもみたして打ちのめしたのは恥辱の思いだった。自分よりはるかに年下の娘に情けないほど心の底を見透かされ、気づいていないふりをされ、あろうことか憐れまれてさえいた。

 その事実は彼のプライドを大きく傷つけるもので――けっきょく彼は例の頭痛と胃痛を耐え忍んでいる時のように、もう唇を噛み石のように押し黙って塞ぎ込むことしかできなくなってしまった。

 兄が腰を猿のように曲げて肩を震わせている姿を見て、エリーザベトは「自分はひどく残酷なことをしたのではないか」と一瞬ためらったが、ただちにその考えを打ち払う。

「あの女の本性がわかったでしょう! ね、明日には追い払ってやりましょう」

 精一杯の虚勢で彼女は凛々しくそう告げたが、ニーチェは呆然とし視線すら投げかけない。手で口元を覆い隠し、うつろな目でただ虚空を見つめるばかり。不安になったエリーザベトは何度も彼の身体をゆすって呼びかけ、何度もフリッツと呼び続けた。何十回目かの呼びかけで彼はようやく目を閉じ、あいかわらず身体を丸めて座ったまま呻くように言葉を口にした。

「……なかった」「え?」「知りたくなかったよ」

 泣きそうな表情で、まるで拒絶する子どものようになってニーチェは喚く。

「僕は知りたくなかった。僕は彼女のそばにただ居られるだけで良かった。たとえ……愛されなくても。だけどもうダメだ! 僕は知った。――ザロメがしていることを知ってしまった! 知ってしまったこの羞恥に僕の心は耐えられまい!」

 自分自身の言葉にますます興奮させられたような形で、彼はますます大声で泣きじゃくった。

「リースヒェン! お前は――お前は僕が漕ぎついたになんてことをしてくれたんだ! お前はいつもよけいなことをして僕の心に土足で踏み込んでくる! クソッ追い払ってやりたい女がいるとしたら、それはお前なんだ!」

 小児のように泣きじゃくりだした兄がとうとう怒りの矛先を自分に向けてきて、エリーザベトのほうも冷静ではいられなかった。

「それはあんまりだわ! 私はフリッツのためを思っているからこそ色々やってあげているの。私は何もかも知ってるのよ! あのユダヤ人とザロメとアナタ、三人での恥知らずな計画だって知っていた」

「黙れ! ――お前はそんな思いで僕につきまとっているのか! いつもそうだ、いつでもだ!」

「アナタを守らねばならない時に私がいるのよ! それを分かってよ!」

 言い合っている二人の脳裏にその時浮かんでいたのは、皮肉なことに同じ思い出だった。ニーチェがプフォルタ学院の学生だった頃。彼は初恋相手に贈る女向けの詩集のアドバイスを妹に求めたが、エリーザベトはそれを台無しにしたのだ。若きニーチェは求めた以上のことをする妹を恨んだが、エリーザベトにとっては兄を悪しき誘惑から守り、その権威を守るための行動だった。

 この兄妹の間には親愛の一方、いつもこうしたわだかまりがあった。そしてもうひとつ。人生の中で刻んできた長くつらい時間によって、かえって兄は弱さと同情を卑しむ哲学を抱いていたのだということを、妹は本質的に理解していなかった。

「もううんざりだ。何もかもが合わない人間と血の鎖で縛られるのは。母も、お前も! ことにお前は、いまや道徳的に僕の上に立ったつもりなんだろう」

「私がアナタの上に?! 違うわ、私がアナタに尽くしているのは……」

「僕が気の毒な病人だからか?! 僕が憐れだからか?! それとも」

「違う! 違うわ! ――アナタを愛しているからよ」

 言葉の応酬を遮るようにそう叫ぶと、エリーザベトは兄の両肩をつかみ、すがりつくように彼に顔を近づける。吐息がまじり合うほどに二人の身体が密着し、妹の鼻先は彼の口髭に触れた。驚愕して見開かれたニーチェの目には、自分を見つめる妹の涙ぐんだ瞳が湿った輝きを放っているようにみえた。

 アルコールまじりの甘ったるい吐息。入り混じってただよう香水。そして微かに感じ取れる妹の髪の匂いと体臭……幼少期の無邪気な触れ合い、顔をつきあわせての〝悪魔の顔〟遊び、そして口づけ。嗅覚によってこみあがるはるか昔の感情に彼が幻惑されているなか、エリーザベトがかすれたように小さな声でささやいた。

 ――私はフリッツを愛してるの。今でも愛してるのはアナタだけなのよ。

 ニーチェの手足がぶるりと震える。耳も鼻も異常な感覚によって撫ぜられ、ないまぜの感情がぶちまけられそうになってくるのを懸命にこらえているようだった。

 彼はとうとう一言も口をきかなかった。その間ずっとエリーザベトは彼の眼を観察するように見据えていたが、やがて寂しそうに目を伏せ「うそつき」と今度ははっきり口にした。

 エリーザベトは彼の背に回していた両腕を離して立ち上がり、ようやくニーチェは解放された。小柄な妹をつき飛ばそうと思えばいつでもできたはずだが彼はそうはしなかった。二人の衣服はほんの一瞬のあいだに汗だくとなって濡れていた。

 張り付いたような空気に差し込むかのような夏の夜らしからぬ風が吹き、ホテルの窓をガタガタと鳴らした。重苦しい静寂が続いたが、やがてニーチェが重い足取りでドアの前まで歩いて荒っぽく開け放った。そうして彼は、立ちすくんでいる妹にもう顔も向けないままこう告げた。

「出て行ってくれ。お前とは話したくないんだ」


 それが最後だった。

 振り絞られた思いは、意志は、こうして拒絶されたのだった。


                ◆



 それから三週間のあいだエリーザベト、ニーチェ、そしてルー・ザロメはタウテンブルクの避暑地に滞在した。同じ場所で過ごしながら三人一緒に揃うことはほとんどなく、きまって誰かが同席を避けた。

 ザロメは周囲――それにニーチェ自身が見込んだように卓越した才覚を持った女性であった。この時期の彼女がノートや手紙に記したニーチェ評は歴史上最も早いものながら、彼の哲学の本質を的確につかんだテキストだとみなされている。

 ニーチェとザロメは日々議論を戦わせ、ニーチェはその手応えを感じたようだが、ザロメの方は次第に彼に対する違和感を感じるようになったようだ。この時期にパウル・レーに向けて書いた手紙の中で、ザロメはこう書いている。

「二、三週間前、ニーチェを有頂天にさせていたあの私との結婚の思いが、陰のように私たちの気持ちの上におおいかぶさっていて、それが私たちを離間させ、割り込んでくるのです……ニーチェという人には古いお城のように、いくつか暗い地下牢や隠された穴蔵があって、しかしそこに彼の本性があるのかも知れません」

 最初は順調であった避暑地での勉強会はニーチェ自身の態度の、そしてエリーザベトの敵対的行動によって破綻した。彼女はザロメとニーチェが一緒に居るときには顔を出さず、どちらかが一人で居るとその道徳的な間違いをひどく論難しに現れたという。そのたび激しい口論となり、終わった後には必ず誰かが疲弊して寝込むありさまだった。

 こうしてしだいに彼らの人間関係は軋みだしていき、8月25日にはニーチェとザロメもまた激しい言い争いをしてしまい――おそらくこれを最期に、ザロメはニーチェという人間への信頼を完全に失ったのである。彼女は最後に『生への祈りLebensgebet』という詩をニーチェに贈り、そして彼の元から去っていったのだった。

 じっさいのところ彼らの関係崩壊の一番大きな原因はニーチェ自身の性格にあったとみて間違いないだろう。彼は自分の〝あまりに人間的〟な部分をほとんど抑制することができなかった。エリーザベトのみが原因ではなかった。

 しかし彼の感情はもはや、自分の最も内的な問題に対して土足で踏み込んできた妹を許すことができなかったのだ。彼もまた部屋にとじこもって塞ぎ込んでいる妹を残してタウテンブルクを去っていった。最後に聞くに堪えない罵声を浴びせて。


 ザロメが去りニーチェが去ったタウテンブルクでエリーザベトは何をしていたのか。――彼女は誰とも話さず一人で小説を書いていた。

 彼女は後にじつに多くの文章を書くことになるが、それは多くのスタッフや友人と語り合いながらだった。元来明るく社交的な暮らしが好きな彼女はどんなに大事な文書を書くときも書斎にこもることをしなかった。

 そんな彼女が自分の気持ちだけに向き合い、誰にも読ませることのない短い小説を書いていたのだった。

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