十一 愛にまつわる茶飲話(第三幕)
〝……いまはもうヨーロッパの南部も忘れてしまいました。私はもう孤独でいようとも思いません、ふたたび人間になることを学ぼうと思います。ああ、この学課では、私はほとんどすべてのことをこれから学ばねばならないのです!
ほんとうにありがとう! あなたが言われたように、すべてはうまくなるでしょう。私たちのレーに、くれぐれもよろしく! ――あなたのF・N〟
(ザロメにあてて書かれたニーチェの手紙の一部。1882年7月2日付)
◆
――ちょうど一年前。1881年の夏。
頭蓋骨を絞め上げる病苦の合間に訪れたスイスの保養地シルス・マリア――彼のいうヨーロッパの南部――で、ニーチェは狭間の幸福を味わっていた。
異常なほど視力を落としたニーチェの目はいまや日差しを乱反射して捉え、日中は周りのすべてが白く輝いているように見えた。しかしながら、いつもなら痛みと吐き気をおぼえる光の氾濫が不思議とその日は心地よく、彼は日傘を差したまま何時間も木漏れ日の中で散歩することができた。
高く軽やかに上がる足に運ばれるままニーチェが辿り着いたのは、プラナ湖畔沿いの小路だった。そうして湖のほとりには無数の岩が立ち並んでいる。とくに面白いものもないその光景を、ニーチェは幸福感に満ちた気持ちで眺めていた。
この美しい時間が永遠に続けばよい。嗚呼、なんと気持ちが良いのだろう……。
その時だった。ひときわ尖った三角岩の姿が視界に浮かび上がったその瞬間。彼の心の中に去来した感覚がダイナマイトのように炸裂してそれを報せたのだ。
自分は、この光景を見たことがある。
初めて訪れたこの場所は、もう何度も訪れているに違いない。
そうしてその時も、同じように驚いた。
初めて見たはずの光景に見覚えがある。初めての出来事のはずなのに以前体験したような気がする。それは誰にでもあるありふれた――フランス人がデジャ・ヴなどと呼んでいるような錯覚であったが、この時のニーチェにとっては違っていた。
それは光満つ湖畔で自分に突き刺さった啓示であった。真理の教師の姿であり説教の声。それが火花のごとき輝きを放ちながら自分に襲いかかってきたのだ。
繰り返す――自分は「やり直し」をするためにまた此処に立った?
何のために? いつか
否! そんな補習授業のようなものが生ならば即座に首を吊った方がよい。
今の自分の生に在るものは何だ? 多幸感、衝動、快癒しつつある者の悦び。
快癒しつつある者の悦びを知るには、まず傷付かねばならぬとしたら。
だとしたら、心身を苛む苦痛さえも人生には愛おしいものとなるのだろうか。
もしも、生の全てがそこに至るための布石だとしたら?
それこそが、運命を愛さねばならない理由だとしたら……?
ニーチェの思考は光の海の中で加速し続けていたが――その最中、思考の海の中にはとうとう別の声が聞こえだした。死んだはずの神か悪魔か、あるいは狂気の最初の兆候かもしれないその声は、厳かに彼に問うたのだった。
「
◆
1882年8月1日。自然に囲まれたタウテンブルクの清浄で柔らかく、それでいて力強い空気は彼の病んだ身体を鼓舞してくれているように思えた。
安ホテルの一室。安楽椅子に腰かけていたニーチェはゆっくりと目を開ける。目はもうすっかり朝日に慣れていてそれで痛みを感じることもなかった。
浅い眠りを終えて朝方に目を覚ました後、こうして一時間ほど過ごすのが彼の日課だった。この後は濃い紅茶を淹れ、朝食代わりのクッキーを二、三枚食べ、昼まで少しだけ読書。それがお定まり。
もちろん朝の日課はどこの誰に強制されたものでも変えられないものでもない。気が変わればコーヒーを飲もうがサンドイッチを食べようが自由だし、何も口にしないという選択肢だってありうる。
何にせよ全ては自分自身の意思によって求められ、成し遂げられている事象のはずだ。世界は間違いなく意思と選択によって成り立っている。
しかし――
「
記憶の中に刻みついたその言葉を、ニーチェは噛み締めるように呟く。
シルス・マリアの閃光を体験したあの日以来、ニーチェは永劫にくりかえされる生というビジョンにすっかり魅入られてしまっていた。もしもそれが「然り」であったとするならば一度きりの生。死によって失われる意思の力。神の手に委ねられた永遠の彼岸としての天国や地獄。神への祈り、神の愛、神から与えられる同情としての救い。……そのような精神の鎖から人間を解放できる可能性を感じたのだった。
「自由意志。能動的な選択。それが存在するのかひとつ実験だ」
ニーチェはそう一人ごちながらゆっくりと立ち上がると老人のような足取りで台所へ向かった。水差しの水を小さなケトルへと移し、火にかける。
そうして戸棚から紅茶葉の袋とコーヒーの袋を取り出すと、湯が沸くまでのあいだぼんやりとその包みを見つめていた。
「……僕はコーヒーが嫌いだ。飲めば昂りすぎて気分が悪くなるし夜は寝られなくなる。だが僕の意志がいつもの習慣を変えてコーヒーを選んだとしたら、巡りめぐって運命が変わるだろうか?」
勿体付けて喋っている事のおかしさにニーチェはふと笑ってしまう。元より真面目な実験などではなく一人遊びだ。ここでコーヒーを選んだところでせいぜい午前中の読書が台無しになるだけだろう。
こんな事に興じているのもここ最近続いている気分の高揚のせいかも知れなかった。しかし「新たなことを期待して待つというのは、悪くない気持ちだな」そう呟きながらニーチェが紅茶の袋を戸棚に戻そうと手に取った、ちょうどその時。
――コン コン コン。
それは自室のドアをノックする音で、ニーチェは訝しんだ。夏のあいだじゅう貸し切り状態の寂れた宿で他の客はいないという話だったし、そうなると宿の主人だろうか? ケトルを火にかけたまま戻ってきたニーチェがドアを開けると、そこに待っていたのはまったく思いがけない相手だった。
「――リースヒェン?! いったいどうした?」
そこに居たのはケーキの入った小箱を抱えたエリーザベトだったのである。彼女は外出着のままで今ここに着いたばかりという風だった。ニーチェは非常に驚いたがそれも無理のない話で、約束ではエリーザベトとザロメがタウテンブルクにやってくるのはまだ一週間も先のはずだった。
「少し予定を早めたのよ。駅馬車を乗り継いで来たのでさすがにクタクタだわ」
エリーザベトは疲れが見える様子でそう答え、ニーチェの部屋に重い足取りで入ってくるとテーブルの上に包みを置いた。バイロイトの菓子屋で売っているニーチェお気に入りのチョコレートケーキだった。
「お前は友達も多いのだし、遠慮せずバイロイトでゆっくりしてくればよかったのに……ところでルー嬢はどうしたのだい?」
「ザロメさんはバイロイトがたいそうお気に入りのようよ。こちらには来ないかも知れないわね」
ニーチェがザロメの所在について尋ねるとエリーザベトは妙に不機嫌そうにそう答えたので、彼は再び面食らってしまった。
「おいおい! 来ないって、それでは僕は困ってしまうよ」
困惑して問い詰めるとエリーザベトはかえって憮然とした表情で見つめていたが、ニーチェの方にはその理由が皆目分からなかった。ちょうどその時、火にかけたままのケトルの蓋がカタカタと鳴った。エリーザベトはニーチェの言葉を半ば聞き流すような態度ですたすたと台所へ向かっていく。
「――あら、お茶を淹れるところだったの? ちょうどいいわ。お茶をしながらでいいから少し聞いてもらいたいの。フリッツの名誉に関わる問題が起こったのよ」
提案のていを取りつつ有無を言わせる気がまるでない態度で、こうなると逆らうことは難しいのは兄の彼が一番よく分かっていることであった。
ニーチェは少しばかり不安になりはじめていた。――気の強い娘二人を引き合わせてしまったのは失敗だったのだろうか?
それから少し後。妹によって用意された完璧な仕立ての紅茶に浮いている檸檬を突きながら、ニーチェは様子をうかがっていた。エリーザベトはというと表情はあいかわらず憮然としていて、その憤りがザロメに対するものなのかニーチェに対するものなのか外面上はよく分からなかった。
「ルー嬢と喧嘩でもしてしまったのかい? 彼女は口が達者だし、リースヒェンもその……勝気だからね」
ニーチェは半ばからかうような口調でそう尋ねたが、エリーザベトはにこりともせずにこう答えた。
「喧嘩はしていない。ザロメさんはもう少しバイロイトを楽しみたいということだから、マイゼンブーク氏に後をお願いして私は一足先に此方に来たのよ。早くフリッツと話したかったから……」
バイロイトの賑やかさが大好きな妹がそそくさと帰ってきたのもおかしかったが、案内を頼んだザロメをほったらかして来たというのも解せない話だった。色々と問いただしたかったが、ニーチェが口を開く前にエリーザベトが先に口を開いていた。
「ねえ。フリッツはザロメさんをどう評価しているのかしら?」
「どうって……実家でも話しただろう? 彼女はとても聡明で優秀な娘さんだ。そのうちに僕の助手として働いてもらいたいと思っているよ」
エリーザベトのぴりぴりとした雰囲気に不穏なものを感じたが、それがニーチェの率直な答えだった。その答えを聞いたエリーザベトは感情を押し殺した表情のまま兄を見つめ、断言した。
「そう……残念だけどフリッツの見立ては間違っていたのよ」
「どういうことだい?」
「ザロメさんはつまらない娘ということよ。フリッツの高潔さには釣り合わないと思うの。あまり深く関わらない方がいいわ」
エリーザベトが嫌悪感をあらわにして語りはじめたのを見て、ニーチェはやはりバイロイトでトラブルがあったのだなと察することができた。
「なるほど。女性同士では見え方が違うということもままあるのだろうね」
ニーチェがなだめるつもりで口にした言葉がかえってカンにさわったらしく、エリーザベトはやや力んだ様子で「やっぱりフリッツはザロメさんを女として見ているの?!」と切り返した。
ザロメを女として見ている――。そう言われた途端ニーチェは滑稽なくらい狼狽した態度を取った。それがもう答えといわんばかりで、エリーザベトは口火を切ったように喋り始めた。
「あの女と付き合うのは絶対にやめるべきよ! あの女は……ザロメは、フリッツが思っているような人間ではないわ。あの女はフリッツを利用して自分が偉くなろうとしているだけよ」
「どういうことだ? なぜ僕の友達の悪口を言うんだ。いったいバイロイトで何があったんだい」
「写真を見せたのよ!」
エリーザベトが震える声でそう喚くと、ニーチェの表情がこわばった。どうやら事態のあらましに気が付いたようだった。
「写真というと、まさか僕の写っている写真か?」
「そう! アナタがユダヤ人の友達といっしょになって車を引いている、あのみじめな写真よ! ザロメはそれをバイロイトじゅうに見せて歩いたわ。フリッツを笑いものにしてあの女は人気者を気取っていたの!」
その告白にニーチェはしばらくのあいだ放心状態のようにぼうっとしてしまっていたが、やがて彼はこう口にした。
「……それが作り話ならどんなによいだろうと思うが、お前が知っているということは、ルーは写真をたしかに見せたということだ。ひどく残念なことだ」
そう語るニーチェの顔色は気の毒なほど青ざめていた。バイロイトの敵対者たちが自分を嘲笑う――想像するだけで頭が痛くなる屈辱的な出来事だろう。
「アナタの名誉を守る気なんてかけらもない。ザロメは信頼のおけない女よ。――そもそもどうしてあんな侮辱的な写真を撮ったの? 私にはまずそのことが信じられない」
憐れむような調子で尋ねるとニーチェはしばらく口ごもっていたが、「その写真は僕の提案で撮った……そうだな、悪ふざけをしたい気分だったんだ。当然三人だけの秘密のつもりであったんだが……」と途切れ途切れに語った。
ザロメの喋っていたとおりか、とエリーザベトは気づいていた。ニーチェはやはりあの女を妻にしたいと願っていて、それを断られた後となっては半ば自嘲気味であんな悪趣味の写真を撮ったに違いなかった。おまけにそれで気持ちを振り切ったわけでも全然なく、ようやくこぎつけたタウテンブルクでの再会で何かが起きないかと未練がましい期待をしているのだ。
それにしてもあの写真。ニーチェは三人だけの秘密と言ったが……もしもレー博士もまたザロメに恋をしているとしたら? あの写真はそんなおぞましい三角関係の戯画でさえあったかも知れない。あまりといえばあまりの醜態だった。
「わかったでしょう? ザロメは不誠実な女。会うのもどうかやめてちょうだい。お願いだからもう関わってほしくないの」
エリーザベトはそう訴えたがニーチェは腕を組んでずいぶん長く沈黙した末、がっくりとした様子でこう答えたのだった。
「心配してくれる気持ちはありがたいし、お前が話してくれたことを信じないわけではないが、何か行き違いがあったのかも知れない。とにかく一度ルーに会って話し合うべきだと僕は思う」
「嫌よ! 私はもうあの女に会いたくない!」
「お前は会わなくても大丈夫だよ。僕が彼女と話し合うさ」
同情の気持ちが次第にざらついていく。エリーザベトの胸中に渦巻いていたのは怒りだった。この期におよんでまだザロメに期待しようとする兄の姿に腹を立てていた。自分をのけものにしてザロメと二人で話し合う……冗談ではなかった。
「……フリッツはまだ分かっていないのよ。あの女、ザロメはフリッツをこれっぱかしも尊敬していないし信じてもいない。なんならばかにして嘲笑っているわ!
あの女が言っていた言葉を聞いたら兄さんも失望すること間違いなしよ」
頭に血が上ったままエリーザベトは椅子から立ち上がり、そのまままくし立て続ける。
「ええと、そうだわ。『アナタの兄さんはバイロイトでは案外大したことないのね?』とも言ったし『もしかしてニーチェ教授はそんなに有名ではないの?』とも言った。それに『ニーチェさんって皆からばかにされているのね!』……そう、たしかに言ったわ! 私は聞いたの、色々聞いてるのよ!」
エリーザベトは記憶を手繰りながら、兄へ向けられた罵倒の言葉を呼び覚ましていく。それはまったくの絵空事ではなく、かつてどこかで彼女が耳にした言葉には違いなかった。バイロイトの貴族連中の陰口、バーゼルの小市民の中傷、遠い子供の頃に自分が言われた悪口……何もかもが一緒くただった。
たしかに今のはザロメが言った言葉ではない。だがどうでもよかった。
あの女も私たちの敵なのだから同じことで、これでフリッツが考え直してくれるなら些細な問題だった。
「それにね!」一呼吸おいてエリーザベトはさらに攻勢を続けようとしたが、途端にニーチェがテーブルに拳を叩きつける。大きな音とともに軽いテーブルはガタガタと揺れ、一口も手をつけていない紅茶のカップがひっくり返った。
驚いたエリーザベトははっとして口を閉じ、兄の顔を見る。ニーチェは自分をじっと見つめていたが、感情を押し殺しているせいか表情からは読み取れなかった。
ひどい言葉でフリッツの気持ちを傷つけてしまった。
エリーザベトはすぐに謝罪したがニーチェは静かに首を振り「いいんだ」と呟くように答え、それから改めて「本当にルーはそんなことを言ったのかい?」と尋ねてきた。
エリーザベトは一瞬戸惑ったが、もはや後には引けなかった。彼女は不安をおくびにも出さず、しっかりと頷き「ええ。すべて本当のことよ」と断言した。エリーザベトがそう答えた瞬間ニーチェの目に微かに涙がにじんだように見えたが、すぐに手で擦ってごまかしたのでよくは分からなかった。
――それから幾らかの沈黙があり、ニーチェは深く息を吐き、そして言った。
「よくわかった。僕が必要とされる教師でないなら、彼女に会う理由ももはや無い。タウテンブルクで会うのは中止にすると電報を打とう」
ニーチェがそう口にしたのを見てもエリーザベトは複雑だった。満足感以上に胸の中に冷たいものが走るような感覚がいやだった。それが寂しそうな兄を憐れんでか、やむを得ずながら嘘をついた罪悪感なのかは自分でも判断できなかった。
「私を信じてくれたのね」
どういうわけかエリーザベトはそう尋ねた。どう答えてほしかったのか、それも分からなかった。とにかく口をついて出た質問だった。
居心地悪げなエリーザベトの心境を知る由もなく、ニーチェはこぼれてしまった紅茶をハンカチで不器用にふき取りながらこう答えるだけだった。
「妹を信じない? そんなやつはきっとお前の兄ではないさ」
――それから兄妹は再び紅茶を淹れ直し、土産のケーキを改めてゆっくりと味わった。午後は散歩がてらに郵便局に出かけ、まだバイロイトにいるはずのザロメに予定の中止を報せる電報を打った。理由は当り障りもなく「当地の天候が悪いため」とし、詳細はまた後日手紙で知らせると書き添えた。
いびつな三角関係。哲学者ニーチェを巻き込む醜悪なスキャンダル。すべてがこれで終わったはずだった。
◆
「
最初にこの言葉が聞こえたとき、彼の脳裏に浮かんだ感情はとめどもない嫌悪感だった。
同じ運命を、同じ人生を、この自分が永遠にくり返す――彼にとってそれとてつもなくおぞましいヴィジョンだった。永遠の時間の中に無限のフリードリヒ・ニーチェが存在し、そのすべてが名誉ある教授職を失い、ひどい病気に苦しめられ、ワーグナーから裏切られ、友達も失い孤独の中で苛まれていく。耐えようと抗おうただの一つの例外もなく、苦痛と苦悩にまみれたこの人生が永遠に繰り返されていく。……一切はむなしい。一切は同じこと。一切はすでにすぎたこと。そこにあるのはとてつもない
神は死んだ。天国や地獄の幻想は消え失せ、残っているのはただ無意味なだけの生。全身を引き裂かれたディオニュソスはなぜ復活するのか? ――嗚呼、また全身を引き裂かれるため! これが生だったのか! だとしたら……。
彼の精神がシルス・マリアで出くわした《深淵の怪物》の恐怖によって押しつぶされる寸前まで追い込まれていた頃、奇妙な巡りあわせで出会ったのがあのルー・フォン・ザロメであり「三位一体」計画だった。
ニーチェの感情はザロメとの最初の出会い以降ずっと揺れ動いていた。彼女のことを想うだけで奇妙な幸福感に包まれるようになった。
――自分はこの若い娘に恋をしているのではあるまいか?
そう自問自答してはなんとも言い得ぬ罪悪感をかんじ、時には怒りをおぼえた。彼女をモノにしたいなどという感情は自分自身許せないもので、あくまで年長の教師として彼女と接するよう努めていたが、結局のところ恋愛感情と素晴らしい生徒への期待を上手く区別することができなかった。
彼ら三人はルツェルンに向かう前のしばらくのあいだ、オルタ湖畔の小さな村で一緒に時間を過ごした。ニーチェはそこで大いに語ったのだ。盟友レーとザロメ。同じ哲学上の問題に取り組む素晴らしい仲間たち。シルス・マリアで受けた恐ろしい霊感――Ewig Wiederkehren――永劫回帰のヴィジョン、それをはじめて語ったのもこの二人に対してだった。
ある日、レーは家族の用事に出席するためにまる一日彼らのそばを離れることとなり、ニーチェとザロメは二人きりで散歩する機会があった。
正午過ぎの明るい丘を散策する彼らの話題は、自然とあの永劫回帰という魅惑の仮説へと向かっていき、ニーチェは語った。
「つまり僕たちの過去、現在、未来すべてが数珠つなぎに連なり、無限の円環をなしているのではないか。ゆえに歩き得る者はすべてこの道を歩いたことがあるのではないか。すべての起こり得ることはすでに起こったことがあるのではないか。仮定の話ではなく、僕はいまやそう確信しつつあるのです」
温暖な陽光を受けてきらきらと輝く湖面が眩しい。シルス・マリアの時と同じだった。身震いするような多幸感に包まれた感覚。いまもまたあの時のように美しい時だったし、その美しい時間の中にいまはザロメもいた。
彼女が永劫回帰という考えを受け入れてくれたかは分からなかったが、答えを見出そうと真剣なまなざしを向けてくれるザロメ、どこか陰のある横顔が印象的なザロメ……話を聞く彼女の表情そのものがニーチェの心には焼き付いた。
「それは仏陀が説いたという
「この永劫回帰は少し違うのです。ずっと前にも1882年の今日があり、ずっと後にも同様にあり……ええと」
ニーチェは大胆な思考を展開する一方、それを他人に伝えることははっきりいって不得手だった。思考の速さに対して話下手の口が追い付かず、しばしば断片的になって口ごもる癖があった。その性癖はやがて文章さえも
しかしながらすぐに合点がいったとばかりにザロメは微笑み、続ける。
「円環の中で1882年の今日が訪れるたび、こうして私とニーチェ教授は湖畔の傍に立ち、美しい湖面の見える丘の上でこの話をすることになる、ということでしょうか」
「……そう、そうなのです!」
ニーチェの心は弾んだ。心のうちから歓喜と高揚が噴き上がる感覚が彼をどこまでも痺れさせた。ザロメは彼の抱いたヴィジョンを瞬時に理解し、ニーチェが最も渇きをおぼえていた感情を的確に満たしてみせたのだ。
――同情してくれるのではなく、理解してくれる。
彼の生涯で初めて感じられた愉悦だった。
黄色く滲んで輝く世界の中でニーチェは恍惚とした微笑を浮かべていたが、ザロメはいつの間にか彼の目の前、それも親指一本分もないほどすぐ傍に立っていた。彼女は宝石のようなその瞳でニーチェの顔を見つめていたが、やがてどこか挑発的な表情を浮かべるとこう尋ねる。
「世界がくりかえされる円環で、私たちの人生も、意志も、選択も、じつは始めから終わりまで全てがお定まりになっている……そう信じる場合、人生には意味があるのかしら?」
その問いの恐ろしさ。ザロメの美しさ。どちらが原因かは分からないがニーチェは身震いするのを感じた。息を呑みながら、しかしはっきりと彼は答える。
「しかし、運命を、人生を、愛さなければならないのです」
そう答えた瞬間、ザロメはたしかに笑った。そうして彼女はニーチェの頬に手を添え、そのまま流れるようにキスをした。
二人の湿った唇は柔らかく触れ合い、吐息の音が重なり、精神は融合していく。突如として訪れた至福の瞬間。冷え切った心がずっと求めていたぬくもりと情緒が一度にニーチェを包み込んだのだった。
やがて至福の瞬間も終わりを告げる。精神の交わりは再び切り離され、ザロメはニーチェの背中に回していた腕をそっと緩め、笑みを浮かべながらこう口にする。
「これもすでにくりかえされた運命?」
ニーチェは多幸感に埋もれ、もはや何も答えることができない。湧き上がる感情をそのままにしておけば赤ん坊のように泣きわめいてしまいそうだった。精神は幸福の絶頂にあり、初めて感じた強烈な感情に抱かれ、微笑むことができた。
シルス・マリアの霊感、いやそれ以上の悦びか。ともかく、抱き合った二人の頭上には今も太陽が明々と輝き、大いなる正午の到来を告げていた。
◆
〝拝啓 電報で約束してくれましたお手紙を期待して二、三事だけお伝えします。
……私たちが別々でいて、八月をいたずらに空費しなければならないのはなんともみじめだと思います。あなたのご意見はいかがでしょうか?
バイロイトで起こった出来事については、今日はとり急いでいるので詳細を述べる
……近い再会を楽しみにして、友情と私たちの実り多き静かな生活の始まりを衷心より願っております!〟
(ニーチェにあてて書かれたルー・ザロメの手紙の一部。1882年8月2日付。電報に対する返答の手紙)
〝いまなお私の側についてくれる一人の友人の義務でさえ、なんと重くなったことでしょうか。――私はひとり生きていこうと思ったのでした。
しかしそこにルーという愛しい鳥が飛んできたのです。私はその鳥を鷲だと思いました。そして、今の私はその鷲を私の側におきたいと思うようになったのです。
どうぞ来てください。あなたに苦しい思いをさせてしまったことについて、私はとても苦しい思いをしているのです。
私たちはお互いにもっとよく堪えていくことにしましょう。〟
(ザロメにあてて書かれたニーチェの手紙の一部。1882年8月4日付。前述の手紙に対する返信)
【第四幕へと続く】
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