十 愛にまつわる茶飲話(第二幕)


 バイロイトにやって来た二人を迎え入れてくれたのは、同じく『パルジファル』観劇のためにローマから来訪していたマイゼンブーク女史だった。

 ザロメにバイロイト行きを薦めた張本人でもあるマイゼンブークは自分の娘のように可愛がっていた二人がすっかり仲良くなっていたことをとても喜んだが、早くもこの「若い妹」に対して疑問をもつことが多くなっていエリーザベトのほうは胸中複雑だった。


 彼女ら三人はワーグナーの取り巻きたちが開くパーティや茶会にあちこちと招かれたのだが、ザロメはどこの席でも人気者になった。遠いロシアからやって来た、才覚にあふれて美貌をも兼ね備えた若い娘。貴族の男たちが目の色を変えて近づきになろうとするのも無理のない話だった。

 ザロメはどんな立場の男に対してもじつに奔放な態度を取っていた。相手がどれだけ年上で身分の高い人物であっても友人のような言葉遣いで話したし意見も率直に述べた。可笑しければ大笑いし、ダンスを踊りたくなれば自分から男たちをエスコートした。怒れば声を荒げ、違うと思ったことにははっきりと『ナイン!』の意志を示した。ザロメの開放的な態度には長老クラスの老人たちこそ露骨に顔をしかめたが、若い貴族たちの眼にはそれが非常に興味深く、魅力的な娘の振舞に見えたようだった。

 一方でザロメばかりがちやほやされるのは「ニーチェの妹」として遠慮がちに行動しなければならないエリーザベトにとってはおだやかではない出来事で、何故不快に感じてしまうのかと考えるとなおさら不快だった。

 エリーザベトは気づいていなかったが、ザロメのバイロイトでの振る舞い自体はかつての彼女自身のそれによく似ていた。違っていたのは、ザロメの場合は自身の信念のために意図的にそう振るまっていたという一点だった。


 ある夜会から帰る馬車の中で、エリーザベトは思いきって「若い妹」に対して年長者として注意をうながす事にした。ザロメが例によってある伯爵をダンスに誘い、しまいにはハグさえしてみせたのを見かねてのことだった。

「姉として一つだけ忠告したいのだけど――アナタはまだ結婚については考えていないの?」

 窓辺でバイロイトの夜景を眺めていたザロメはふっと振り返る。ザロメの頬は酔いが回ってほんの少しだけ赤らんでいた。彼女は答える。

「いいえ。全く考えていませんわ」

 その表情が妙に笑いを噛み殺しているように見えたのがエリーザベトには不愉快だった。フリッツといずれは結婚する気なのを今は隠しているのは仕方のないことだ。だけど人をくったような態度で隠すのは気に入らない。エリーザベトは毅然としたまま続けた。

「そう。けどいつかは結婚なさるのでしょうから聞いておいて。

 未婚の女にとって何が一番の財産なのかはご存じ? アナタはまだ若いから分からないかも知れないけども、それはなの。未婚の女性が軽率に手ぶりや目くばせや言葉で他人を誘惑してしまうと、自分自身に対する評判を失うことになってしまうのよ。そしていずれはすべてを失ってしまうの。恐ろしいことよ」

 注意しながら、エリーザベトは言葉を紡いでいるうちに自分で自信がなくなってきていた。もしも自分がこのようなことを言われたらきっとお腹を抱えて笑うのではないだろうか? 結婚が無常の幸せなどとはこれっぽっちも信じていないのだから。

 ザロメの方にも忠告はさっぱり響かなかったらしい。軽いため息を一つついた後、彼女は薄笑いを浮かべながらこう答えた。

「その忠告は私には必要ないことのようです。だって、お姉さまの言うとおりだとしたら私はとうの昔に失ってしまっている。だけど私は少しも後悔しない。

 私は女として生きたいのではないんです。誰かのものになりたいわけでも置物になりたいわけでもない。私はただ私らしく生きてみたいというのが信念なんです」

 ザロメがけろっとした顔でそう答えると、エリーザベトは唖然としてしまった。

 それは世間の価値観を真っ当から無視する態度だった。そしてもしも、こうも心をざらつかせる相手が言ったのでなければ本来なら自分も同意するような考えだった。

「……なるほどアナタの考え方は分かったわ。だけど兄はどう思うかしら」

「ニーチェ教授も同じように考えると信じています」

「フリッツがそんな考えに賛成できるものですか」

 カッとなったエリーザベトは間髪入れずに否定したが、この頃はとまで名乗りだしたニーチェが道徳的非難に賛成するとはそのじつ彼女にも思えなかった。しかし一方、どんな男にも色目を使っている風に見えるザロメの態度を内向的な兄が喜ぶともやはり思えなかった。今まで考えてみたこともなかったが、現実にはニーチェ自身が著書の中の彼とはまるで違う生き方をしているのだ。

 ――自分は彼女の意見には同調できるのに彼女をひどく不快に感じている。では兄は彼女をどう思っているのだろう?

 エリーザベトは自身の中に浮かび上がってきた疑念に困惑したが。意外にも折れたのはザロメの方だった。

「そうかも知れません。じつはニーチェ教授もお姉さまと同じ立場な気がします」

 彼女が肩をすくめながらそう言った時の表情はどことなく寂し気で、エリーザベトはそれから何も言うことができなかった。その後はザロメが「せっかくの忠告にひどく失礼な態度を取ってしまいました」と丁重に謝罪したのでエリーザベトも陳謝し、けっきょく話の是非はうやむやに終わってしまったのだった。


 彼女たちは出会って以来終始そんな調子で、表面的な交際のうえでは非常に性格も合って楽しめ、昔からの親友のように感じられたのだが、精神や道徳の話となるとまるで噛み合わなかった。

 話し合うと喧嘩しそうになってしまうのでエリーザベトはザロメとぶつかる話題を自然に避けるようになった。彼女の男性との付き合い方はあいかわらずイライラさせられたが当面の間は口を閉ざすようにした。二人を繋いだ人間であるニーチェの態度こそが齟齬の根本的な原因だろうことはエリーザベトにも察することができたが、それはすなわちニーチェが自分には見せない部分をザロメには見せているということで、それを考えるとどうしてだか胸が苦しかった。

 ともかくニーチェと合流すれば。兄と合流して彼を交えて話し合いさえすれば、このおかしな感情的行き違いはなくなるのだと彼女は考えた。その結果自分のほうが間違っていたと分かっても別に良かった。それが終わりさえすれば、自分とザロメはようやくわだかまりのない親友になれるのだ。「気に入るけど気に入らない妹」と過ごす日々も終わりに近づいていた。



                 ◆

 

            Höchsten Heiles Wunder:

            Erlösung dem Erlöser!

           (このうえない奇跡が起こった。

            救い主が救われたのだ!)

             ――『パルジファル』第三幕


                 ◆



 ――『パルジファル』初演は大成功に終わり、その翌日。

 ワーグナーの居城ヴァーンフリート荘では例によって賑々しく祝杯があげられていた。夜空には花火がひっきりなしに打ち上げられていて、今夜こそがバイロイト祝祭の代わりといわんばかりの浮かれ様だった。

 この頃のワーグナーはドイツ最大の芸術家として不動の名声を得ていたが、バイロイト祝祭で新たに抱えた莫大な借金返済のためヨーロッパ各国へと演奏旅行に飛び回る忙しい日々を送っていた。彼は帰国するたびに休みもせずに次々と派手なイベントやパーティを催したが、それはまた彼にとってやむなき事情でもあった。費用はパトロン達が喜んで肩代わりしてくれたし、派手なパーティに客を招くたびに支援者が増えるのでとてもやめられなかったのだ。

 バイロイトの帝王は上演の後も多忙を極めていたが、マイゼンブークの紹介でザロメとエリーザベトは特別にワーグナーと客間でゆっくり対面することができた。

 その席でエリーザベトは『パルジファル』に対して思いつく限りの賛辞を贈り、ザロメも観たばかりの作品を批評してみせた。とくに彼女が「聖杯伝説の単なる翻案ではなく北欧神話の薫りがする」と評したことはワーグナーを喜ばせたらしく、彼は自身の新作についてじつに饒舌に語った。

 それから三十分ほど歓談は続いたが、ワーグナーはよほど疲れたのか話を切り上げると「夜会を楽しんでいってくれ」と言い残して私室へと引っ込んでしまった。久しぶりにワーグナーと対面したエリーザベトとしては、楽劇の話題そのものよりも彼の老けこみように驚いていた。体型はスマートでなくなっていたし、数年前は獅子のたてがみのようだった金髪と髭が今では真っ白だった。

 その後のひどい出来事もあってワーグナーが熱っぽく語っていた芸術論のほとんどをエリーザベトは忘れてしまったが、ザロメのほうは彼が真っ白な髭を撫でつけながら語っていたある言葉が印象に残っていたようで、ずっと後にこう回想している。

「ワーグナー氏はこう言っていた。私にはキリスト教がアーリア文化に回帰するヴィジョンがある。私の幻想の中で主イエスは金髪碧眼のアーリア人となった……」


 エリーザベトがひどいショックを受けたのは、まずその後の夜会が始まる前の出来事だった。エリーザベトが与えられた私室で休んでいるところに訪ねてきたのはコジマ夫人で、彼女はそこに大きな箱を持ってきたのだった。

「これをお返ししたいの」

 コジマがそう言いながら開けた箱の中に収められていたのは大量の手紙だった。ワーグナー宛てのものもあればコジマ宛てのものもあり、すべてニーチェが出したものだった。

「リヒャルトは全て焼くか貴女に突き返してしまえと言うのだけど……」

 コジマはそう告げたが、エリーザベトのほうはひどく動揺した。それを受け取ってしまったらニーチェとワーグナー家の関係が本当に失われるような気がしたのだ。それはエリーザベトにとって恐ろしいことだったし、

「受け取れません。その手紙には兄からの気持ちがこもっているはずですもの。兄が可哀想ですわ」――何よりもニーチェが哀れに思えて仕方がなかった。

 彼女が青ざめながら受け取ることを拒否するとコジマも困った様子で「私もそう思うわ。だけどリヒャルトは処分しろと言うの」と答えた。

「どうしてワーグナーさんはフリッツを……兄をそこまで嫌うのでしょうか? 前のように仲直りをするのはもう不可能だとしても、交際の痕跡まで無くしてしまおうとするなんて! あんまりです」

「そう、リヒャルトは今やニーチェ教授の存在すら自分の中から抹消しようとしている。昔から諍いの絶えない人だったけどあんなに嫌う相手は他に誰もいない……もうどうしようもないことなの」

 コジマが告げた言葉をエリーザベトは胸の中を抉られたような思いで聞いていた。もはや関係は修復不可能なほどに悪化し、自分のやってきたこと全てが無駄であったことがはっきりした。ワーグナーは表面的なご愛想の上でフリッツともども自分にも軽蔑の眼差しを向けていたに違いないのだ。

 コジマはどうだろうか? 歳も近い彼女が親しく接してくれるのを自分は友情と感じていた。しかし彼女も本心では自分を軽蔑していたのだろうか? エリーザベトは泣きそうな目でコジマの顔を見遣ったが、彼女の表情から伺えるのはただ憐憫の情だけだった。同情。憐み。その色はますます彼女の心情を傷つけた。

 怒りと悲しみがないまぜになった感情に押しつぶされ、息苦しい。なかばうめくような調子でエリーザベトは口走った。


「ばかにしないで」


「大丈夫。私は貴女の味方よ。手紙を引き取ることが貴女のプライドを傷つけるなら、これは私が預かっておくから……リそれにヒャルトがどう言おうと、貴女は私とワーグナー家の大事な友達なのよ」

 コジマは予想以上にショックを受けた友人を心から心配したが、エリーザベトの方は顔を手で覆って泣き出すのを堪えていた。しかしそれも長くは続かず、やがて決壊したかのように落涙してしまっていた。

「……ええ。私はコジマさんを信じています。それにフリッツとワーグナー氏の友情も信じています。それは素晴らしい価値のある時間でした。ただ、二つの輝かしい魂が一つの場所に収まるということは難しいのでしょう」

 涙をハンカチで拭いながらエリーザベトは話す。いくぶん感情が落ち着いた様子で、もうあのしゃがれた声ではなかった。

「コジマさんはワーグナー氏をお守りください。手紙はお預かりをお願いします。私もまたフリッツの名誉と誇りを守らねばならないのです。二人はドイツの歴史に並び立つ英雄なのですから」

 エリーザベトはそう言うとこれでおしまいとばかりに薄く微笑んで見せ、化粧を直したいのでお引き取り下さいと請願するのだった。コジマは何も言わずにそのまま部屋から出て行った。


 ――部屋を出たコジマは自分の心臓が高鳴りっぱなしなことに今更気づいた。

 驚かされたのはじっさいコジマの方だった。ワーグナーからの絶縁宣言を伝えた途端、エリーザベトは明らかに取り乱して大声を出した。

 彼女の持ち味である人好きのする艶っぽい表情と甲高い少女のような声。彼女自身がそれを忘れて生来のやぶにらみが剥き出しになった途端、エリーザベトの声はしゃがれ、目はひどくデーモニッシュな輝きを覗かせたのである。

 コジマが瞬間的に連想したのは狼の皮ウルフヘズナルの絵だった。オーディンに仕えるベルセルクたちが敵を引き裂き噛み殺している情景の中に描かれた、あの血まみれ狼たちのうつろな瞳によく似ていたのだ。エリーザベトが狼のようにいきなり噛みついてくるのではないかと――ひどくばかげていたがあの時は本気で――恐れていた。

 コジマはエリーザベトに対して初対面の時から好感を持っていたが、一方でどこか油断ならない雰囲気があるとずっと感じていた。ニーチェが彼女に風変わりな動物のニックネームをつけていると聞かされた時も妙に納得したものだった。感情の整理が未熟なのか、あるいはもっと腹黒い何かを抱えているのかは分からないが、あの狼のような目こそが案外彼女の本性なのかも知れない。

 なんにせよあの娘とは注意深くつきあうべきだろう。うかつに縁を断てばもっと煩いことになる。――コジマは結局渡さないまま持ち帰った手紙の箱を疎ましそうに見つめる。思えばニーチェ教授もそうだった。少壮の天才的若者と聞いて引き合わせたがその実とんでもない異常者で、リヒャルトの名誉を大きく傷つけた。

 そのくせ今でも付きまとうように手紙を送ってきたり、ばかげた〝冒険的哲学〟とやらでリヒャルトに挑戦しようとし続けている。

 コジマはエリーザベトの言葉を思い出した。「二人はドイツの歴史に並び立つ英雄」。コジマにとってはあのようなユダヤかぶれの敗北者とリヒャルトが並べられたと想像するだけで虫唾が走る思いだった。

 リヒャルトは間違いなくドイツ――いや世界の歴史に名を残す男だ。この私が見出したのだ、そうでなくてはならない。私は彼に人生をかけた。

 あんな敗北者の存在を、彼の殿堂に断じて残してなるものか。



                ◆



 ヴァーンフリート荘の夜会は定刻通りに開かれ、エリーザベトとザロメ、それにマイゼンブークは予定通りに参列していた。エリーザベトとしては憂鬱な気持ちが強かったが欠席する気持ちにはなれなかった。

「……まるで逃げたように思われるじゃない」

 誰にも聞こえないようそう呟きながら、彼女は主催として振るまっているワーグナー夫妻を見た。二人ともまるでなにごともなかったような顔をしているのが今となっては不愉快だったし、ザロメがあっさり二人と親密になっていたのも嫌な気分にさせられた。

 気分がのらないのもあってこの日の彼女はほとんど会話にも参加せず、マイゼンブークと一緒に少々不機嫌そうに座っていることが多かった。

 マイゼンブークもはじめは「今日はご機嫌斜めのようね」などと探るように尋ねたがエリーザベトは曖昧な言葉しか返さず、そうと分かると彼女もそれ以上はなにも聞かなかった。二人はただ黙ってワイングラスを傾けていた。

 とやかく聞かずに様々な面倒を見てくれるマイゼンブークの鷹揚さが今はとてもありがたかった。ニーチェのイタリア滞在もマイゼンブークの援助に負っているところが多く、彼女の運営するサロンによく顔を出していると聞いていた。

 ――イタリアか。ワーグナー家にも愛想が尽きてしまった今、自分もイタリアに渡ってフリッツと一緒に暮らすのが良いかも知れない。

 エリーザベトはふと思い立ち、尋ねた。

「兄はイタリアではどう過ごしているのでしょうか?」

 マイゼンブークはゆったりと座ったまま答える。

「苦しんでいるわね」

 こともなくそう答えられたことにエリーザベトはびっくりしたが、考えてみればそれも当然の話で、イタリアに渡ったからといって頭痛がなくなるわけでもなければ世間から認められない悩みが解消されるわけでもない。少なくともマイゼンブークは自分に嘘をついていない。

「苦しんで、悩んで、また苦しんで、それでも自分の心の中に何らかの答えを見出そうと格闘しているわ。私はそういう人間を応援したくなっちゃうの。

 最近はパウルとルーと一緒にいることも多いわね。仲も良いようで、彼らといると笑っていることもあるわ」

 マイゼンブークがそう言ったことがエリーザベトは嬉しかった。フリッツが少しでも幸せな時間を持てているというのはやはり喜ばしいことだった。

 レー博士は「良いユダヤ人」でフリッツの心を慰めてくれるし、美しいザロメはなにしろ彼を愛しているのだ。少々羽目を外しすぎているきらいがあるがあの型破りさはかえって兄には似合いなのかも知れない。

 彼らが兄を愛してくれている……そう感じるとエリーザベトの心は揺れていた。自分もイタリアへ行き、彼らと一緒に大好きな兄を支えたい。そんな気持ちが沸き上がり始めていた。唯一の気がかりはフェルスターたちと取り組んでいる政治活動で、彼らとの付き合いも満足感のある愉しいものだったが、それでも――自分はイタリアへ行きたいという自らの心に従いたい。「あの、マイゼンブークさん。じつは私も……」

 エリーザベトがその気持ちを打ち明けようと決心した、まさにその時だった。どっと広がる笑い声が二人の居る離れの席にまで届いてきた。そして誰かがばかにしたような調子で叫ぶ。


「ワオ! まさにというわけか!」

「いいや、さ!」


 エリーザベトははっとして彼らの方に目を遣った。その言葉は明らかにニーチェが書いた哲学をもじったあてこすりだったからだ。理由がわからないがワーグナーの取巻き達がニーチェをネタに大笑いしていてらしい。そして心底驚いたことに――その中心にいるのはザロメだったのだ。

 その瞬間、エリーザベトはマイゼンブークに断りを告げることも忘れたまま立ち上がり、速足で彼らの元へと近づいて行き始める。彼らは何かを仲間内で見せ合ってケラケラと笑っているらしかった。その中でザロメも可笑しそうに笑っている。

 なんだかとてつもなく厭な予感があった。とても厭な感覚がエリーザベトの全神経を高ぶらせていた。


「おや、ニーチェ教授の妹君ではないか」

 最初にエリーザベトに気が付いたのはジュコフスキー伯爵だった。彼はロシア出身の貴族で画家やデザイナーとしても名声を得ていた、ワーグナーお気に入りの若者の一人だった。

 彼の声掛けで気がついた取巻き連中は一斉に彼女の方を見る。そのうちの何人かは明らかに気まずそうな顔をしていたが、ザロメはその雰囲気にはまったく気が付いていない様子で「お姉さま、体調が良くなったのね」と嬉しそうに声をかけてきた。

 それに対してエリーザベトは素気なく返事をすると、できる限りの平静を装いながら尋ねる。「ずいぶんと楽しそうにしていたわね。なんの話をしていたの?」

「ルツェルンで撮った記念写真を皆に見せていたのですよ。戻ったらお姉さまにも見せようと思っていたからちょうどよかったわ」

 そう言うとザロメはちょうどジュコフスキー伯爵の手元に回っていた写真を受け取り、エリーザベトに手渡してきたのだった。

 渡された写真に写っているのはザロメとニーチェ、それにレーの三人だった。写真館で撮られたものだろうが、その状況が想像を絶していた。

 背広姿のニーチェとレーは撮影用の小道具であろう荷車を引きながら微笑み、ザロメは荷車の上で片膝をついて不敵に笑い、その手にはご丁寧に鞭まで携えている。――御者と馬車馬、女王と奴隷、あるいは魔女と従者。そういった印象を与える、とにかくひどく悪趣味な写真だったのだ。

 この世で誰よりも尊敬している兄が、こともあろうにユダヤ人と仲良く並んで鞭をふるう女の馬になっている――そんな写真を見せられたエリーザベトの顔はたちまち顔面蒼白になり、思わずあげそうになる悲鳴を抑えるのに必死で何も言うことができなかった。

 エリーザベトが絶句している中、ジュコフスキーは笑いながらこう茶化した。

「じつにユニークな写真だ! 一緒に写っているのはパウル・レー氏ではないかね。ほら、例のあのユダヤ人の……それにしてもニーチェ教授は我々が思っていたよりもずっと愉快な人物だったみたいだね」

 すると他の取巻き連中も調子に乗り出して「女に鞭打たれる二人の哲学者! まさに現代批評だ!」などと言いだして大笑いするのだった。彼らの哄笑には明らかにニーチェに対する侮蔑と、そしてエリーザベトに対する嘲笑が込められていた。

 その悪意的な大勢の笑い声を耳にしていると、エリーザベトの目には今日二度目の涙が浮かんでくる。ザロメの方も雰囲気がおかしくなってきたことにようやく気が付いたようだったが、彼女にはいまさらどうすることもできなかった。

 呆然と立ち尽くしたエリーザベトには自身を取り囲む哄笑の時間がずいぶん長く続いたように感じられた。


               ◆


 それからしばらく後、ザロメは失神しそうなほどうろたえているエリーザベトの手を引き、下卑た笑い声から避難するようにして二階のバルコニーへと出て行った。

「その、申し訳ないことをしたようです。皆さんの間で諍いがあったと全く知らなかったとはいえ……教授と一緒に写真を撮ったという話をしたらジュコフスキー伯爵が見たいと仰ったので、つい……」

「いいのよ。元より私とフリッツはバイロイトでは腫れ物扱いだったのだから」

 夜風を浴びたおかげかエリーザベトはようやく気持ちが落ち着いてきていた。ザロメはショックを受けた様子のエリーザベトを心から心配しているようで、少なくとも悪意で写真を見せびらかしていたわけではないらしかった。

「姉としてもう一つ忠告させてね。結婚前の娘が、男性から言われるがままに何もかも見せてしまうべきではないわ。それは恥ずべきこと」

 ザロメにとってはその忠告もおそらく不快なものだったろうが今は何も口答えをしなかった。その沈黙が彼女なりの恐縮と譲歩なのはよくわかった。

 エリーザベトは立ち上がるとバルコニーの手すりに両腕をかけてもたれかかるように立ち、ザロメはその隣に遠慮ぶかげに立った。正直憤りは未だ収まらないが、ようやく穏やかな態度を取り繕ってエリーザベトは尋ねる。

「――どうしてあんな写真を撮ったのかしら?」

「あの写真はニーチェ教授の発案なのですよ。ニーチェ教授がポーズから表情まで全部指示して、小道具用の花に紐をくくって鞭まで作ったんです。一時間近く膝をつかされたから大変でしたわ」

 ニーチェが写真撮影に異様にこだわるのは昔からのことで、エリーザベトには神経質に何度もポーズを変えさせては腕組んで考え込む兄の姿が即座に思い浮かんだ。何よりあの写真に写っているニーチェの嬉しそうな顔。本当に満足していなければあんな表情は決して見せない。兄の性格と表情は自分が一番知っているのだ。

 あの写真は間違いなくニーチェ自身の意志を反映している。しかしエリーザベトには、一人の男としての尊厳をひどく傷つけるあんな写真を撮った理由がやはり皆目分からなかった。それだけにザロメがなかば呆れ、なかば微笑んで続けた言葉には凍り付くような思いがした。

「せっかくの記念写真でふざけすぎだって抗議したのですけど、ニーチェ教授は『僕たちの関係性を表すにはこれが一番ぴったりだ』と譲らなかったんです」


 ――僕たちの関係性? どういうこと? 女から鞭ふるわれる二人の男の……意味?


「アナタたちの関係性というと……つまりはフリッツとアナタのということでしょう? レー博士がどう関係するというの?」

 エリーザベトが唖然としながらそう聞き返すと今度はザロメが驚く番だった。

「婚約ですか? 誰がそんなことを言ったのです?」

 たしかにザロメは一言も婚約とは言わなかったし、エリーザベトも深くは尋ねなかった。だが「フリッツがそう言っていたわ」エリーザベトはそう断言したのだった。ニーチェがそう言い自分は信じた。彼女にとってはそれだけで十分だった。

 ――もっともエリーザベトがそう誤解したのもある意味では無理のない話で、男性が女性を助手に使うことと結婚は、この時代の常識ではほぼ同義であった。

「だけど事実はそうではないし、私は誰かの妻になるなんてことも望んでいないんです」

 ここに至ってザロメの方もエリーザベトの誤解の(不愉快な)理由の察しがついたようで、彼女は未だ遠慮しつつも少しばかり苛立った様子をあらわにし始めていた。

 対するエリーザベトの方も再び憤りがこみ上げ始めていた。それがどういう感情なのかは自分でも理解し難かったが、目の前のこの娘がという事実がますます自分の怒りを掻き立てているようだった。

「男性の所に女性が転がり込んで一緒に暮らす! 結婚を誓い合うような間柄以外で……この世にそんなことがあるというの?」

 兄妹以外で――という言葉も出かかったがどういうわけかそれを口にする気にならず、最後に言い捨てるようにエリーザベトは告げた。

「あるとしたら、とんでもなくふしだらな考えね」

一方でそれを聞かされたザロメの方も一瞬だけひどく忌々しそうな表情を浮かべたが、すぐに悲しそうにこう言い返した。

「そうかも知れません。パウルもニーチェ教授も結局は私を自分の女にしようとしています。二人ともがお互いに隠して、まるで出し抜くように私へプロポーズをしてきたのです。私は断りました。誰かの妻になりたいわけではない。年齢もセックスも関係なく自由を尊重し、同時に信頼し、対等に学び合える相手が欲しいの!」

 あれだけ他の男を挑発するような振る舞いを見せておいて何を勝手な――荒れ始めたエリーザベトの感情を無視するかのごとく、ザロメは堰が切れたように言葉を続ける。

「二人が結局結婚という目を通してしか私を求めないことに失望して、私は出来事を全て話した上で〝三位一体〟は中止しお互い別れようと言いました。だけどニーチェ教授は言ったのですよ。『もう一度やり直そう。僕たちはぜったい三人一緒に暮らすべきだ』……と」



 ようやく事の真相を掴んだエリーザベトはもう涙も出なかった。

 兄の方からこの娘にプロポーズ! 考えただけでますます頭に血がのぼり、何も考えられなくなりそうだった。

 フリッツが女性から慕われる分には満足だ。いや許せる。だがフリッツの方からこんな娘に興味を持つ。それだけはどうしても許せなかった。そのあげくの果てにプロポーズを断られてもなお滑稽に彼女との関係を求め、あろうことかユダヤ人と一緒になっておぞましい三角関係を持とうとしている。

 そしてその無様な振る舞いの集大成こそが、馬のように荷車を引き女から鞭を打たれているあの写真だったのだ! 悪魔のように微笑んで鞭を構えるザロメの姿。熱に浮かれたように笑っているニーチェの姿。今となってはあの写真の何もかもが不道徳でグロテスクで、尊敬する兄があの鞭に絡めとられた果てに惨めな姿を見せているという失望はエリーザベトの心を徹底的に打ちのめしたのだった。


 絶望的な気持ちでバルコニーの向こうに広がるバイエルンの森の方に目をやる。

夜空には満月が輝き、手すりの上を小さな蜘蛛が這っているのが妙に印象に残る。

 此処から見る黒々とした森の景色には見覚えがある。いつだったろうか。そうだ、泥酔して老婆の幻影を視たときだ。

 あの時は老婆がたしか――「女の元に向かう時は、鞭を携えるのを忘れるな」。混乱した記憶の底を探るうち、無意識にあの時の言葉を囁いていた。

 彼女がゆっくりと振り返ると、ザロメは相変わらずそこに居た。コジマの幻影はあっさり消えたがあの女はまだ此処に居るのだ。

 絶対に許してなるものか。あの悪魔のような女からフリッツを助け出して見せる。

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