九 愛にまつわる茶飲話(第一幕)
1882年7月。エリーザベトの生活の中に新たな活動が加わって二年近くが経とうとしていたが、自身でも意外なほどにエリーザベトはその活動に倦むことはなかった。彼女はフェルスターに協力してやたらめたらに署名活動を行い始めていた。
彼女自身が作るわけではなくフェルスターやその仲間が制作したものを預かり、ナウムブルクやザクセンの家々を訪ねて署名を集めるのだ。これはたくさんの人に会える楽しい仕事だった。
民衆の意見をビスマルクや閣僚たちに届けるのだと教えてやるとザクセンの田舎者たちは大抵ぎょっとした顔をしたが、エリーザベトはその反応を見るたびに自分が最先端の政治運動に関わっているのだと感じ、誇らしくさえ思った。自分の腕と足がなしたものがやがては世界を動かす――その満足感が非常に好きだったのだ。
外に出ての署名活動と部屋にこもっての小説執筆。それがこの頃のエリーザベトの楽しみであった。
そしてその頃、事前の知らせもなしにニーチェがナウムブルクの家に帰ってきていた。
エリーザベトは兄との思いがけない再会をもちろん喜んだが、同時に少し困惑していた。彼は放浪の旅をするようになってからも半年に一度は顔を見せに来てくれていたのだが、今回は時期がいつもと外れているのが少しばかり気になった。それに何かを言い出そうとしては逡巡して引っ込めるようなじれったい態度が手に取るように分かったので、彼女は夕食後に「フリッツ、何か頼みがあるんでしょ?」と尋ねた。するとニーチェはようやく安心したような顔を見せ、こう言ったのだった。
「僕の友人と『パルジファル』を聴きに行ってもらいたいんだ。そしてバイロイトを案内してあげて欲しい。そのあいだ僕はイェーナで待っているから、観劇が終わったら三人で一緒に夏季休暇を過ごそう」
少々のことでは動じないつもりでいたエリザベートだったが、その依頼にはやはりどうしようもなく驚かされてしまった。兄が人の面倒をみる事自体前代未聞だったし、いまや犬猿の仲のワーグナーに関わることを口にしたのも珍しかった。
『パルジファル』はワーグナーがキリスト教の聖杯伝説を元にして四十年も前に構想を作り、いつか自分専用の劇場を作ったら上演したいとひそかに願っていた思い入れある作品だった。バイロイト祝祭劇場の実現に意気込んだワーグナーがついに完成させ、今年の八月に上演されると発表されていた。
初演のチケットは目が飛び出すような値段で売られていたので一般人にはとても手が出なかったが、ニーチェは絶交した今となっても律義にワーグナー後援会の会費を払い続けていたので彼の名義で申し込めば二人分のチケットは割引価格で購入できるということだった。
『パルジファル』を聴きに行きたいが値段を見て諦めていたエリーザベトには嬉しい話だったが、割引とはいえ結構な金額になるチケットを自分のみならず友人の分まで購入してやるとはやはり不可解であった。
「フリッツの頼みなら一も二もなく引き受けますけれども、その方はどういった友人なの?」
ニーチェは一瞬言い淀んだようにも見えたが、すぐにこう答える。
「僕の弟子になりたいというロシア人の女学生なんだ。マイゼンブーク氏の紹介で出会ってしばらく哲学を教えたんだがじつに優秀な子でね……そのうちに助手に使って……一緒に暮らすかも知れないよ」
その相手が若い女性だと聞いてエリーザベトはますます驚いた。たしかにニーチェは「リースヒェンにいつまでも迷惑はかけられないしガストも結婚して家庭ができた。新しい助手を探す必要がある」という話をときどきしていたがやはり唐突だった。
そして何より、ニーチェの妙に艶がかって生き生きとした雰囲気! エリーザベトはもうピンと来ていた。フリッツはその女性を愛しているに違いない。
奥手な兄のことだ、若い娘から思いを寄せられてすっかりメロメロになっているのだろう。それで大物ぶってバイロイトとの繋がりを見せたくなったのだろう。
人間関係についてあいかわらず子供のような立ち振る舞いしかできていない兄の腹の底を彼女は簡単に見抜けた。エリーザベトは納得したし、その事に別段腹を立てもしなかった。フリッツに近づく女に嫉妬する感情が噴き出すかのような無分別さからはさすがにもう卒業していた。彼女は今年で三十四歳だった。
そういうわけで彼女は隠したい気持ちをあくまで尊重したまま、兄からの頼みを引き受けることになった。そして複雑な事情の頼みをあっさりと引き受けてくれた妹にニーチェは安堵した様子で何度も礼を述べ、じつに上機嫌な数日間をナウムブルクで過ごしたのだった。
◆
ニーチェがまだプフォルタ学院の学生だった頃、友人の姉に憧れて彼女と仲良くなるための助言をエリーザベトに求めたことがある。エリーザベトは嫉妬の感情に駆られて滅茶滅茶な悪口を書いた手紙を送り返した事があった。
エリーザベトが二十歳の時、縁談を何回も蹴って母を怒らせたと兄に語る手紙の中で彼女はこう懇願した。
〝私はこういう性格ですしこのまま一生独身かもしれません。だけど、もしも私がこのまま歳を取っていったとしても、変わらず愛してくださいね〟。
――それは彼女が時と共に眠らせつつあった願望であったのだが、あるいはもしかすると、この時再び目を覚ましたのかもしれなかった。
◆
同年七月の末、エリーザベトはライプツィヒ駅の待合所で汽車が来るのを待ちわびていた。待ち人はもちろんあのルー・ザロメである。
エリーザベトは彼女に対して好奇心を抱いていた。ロシア人には会った事がないが、フリッツの話ではドイツ語の堪能な知的な女性だという。しかし自分の抱く関心は異邦からの客人に対するそれではなく、近いうちにフリッツの妻、すなわち自分の妹になることを望んでいるらしい女性に対する興味だ。
新しい家族となるのならやはり仲良くしていきたいし、彼女をきっかけにしてフリッツとバイロイトのお歴々の不幸な行き違いを解消することだってできるかも知れない。フリッツは相変わらずバイロイトへ立ち入ることを拒否して一足先にイェーナの避暑地に行ってしまっていたが、本心ではワーグナーとの仲直りの機会をずっと探っているのだ。
エリーザベトがそう思いふけっていたちょうどその時、ザロメが乗っているはずの汽車が構内に入ってくるのが見えた。
長距離列車から降りてきたルー・ザロメは一目ですぐに分かった。フリッツから聞いていたような背が高い金髪の女性は一人しかいなかったのだ。
服装もドイツ人とは少々違っていて、彼女は喉あたりまで覆い隠す縦襟が印象的なスーツを着用していた。〝淑女〟ならかぶっていて当たり前の帽子もかぶっておらず――エリーザベトは今日の帽子に合う花飾りを選ぶためにとっぷり一時間迷った――そのため後ろで括ってまとめられた長い金髪がよく映えていた。
エリーザベトの眼には彼女の黒ずくめでぴったりと張り付いたような服装はどことなく
「アナタが、ルー・アンドレアス・ザロメさん?」
女がフリッツが待ち合わせの場所として指定しておいた三番ベンチに向かって歩いてきたので、エリーザベトはおもいきって声をかけた。旅行鞄を片手に男のような身のこなしで歩いていた女は、それに気づいてふと顔をあげた。
「
そのザロメが敬服したような態度で兄の名を口にしたことにエリーザベトは少なからず気をよくした。それに彼女の貴族的な優美さにも好感を抱いた。ザロメはエリーザベトより頭一個分背が高かったが物腰はじつに丁寧で、見下ろされている不快感は微塵も感じさせなかった。エリーザベトは上機嫌で微笑みながら答えた。
「ええ、私が妹のエリーザベトです。兄から伺っていると思いますが、バイロイトへの案内と付添人を務めさせていただきます」
それをきくとザロメの表情がふっとやわらいだ。先祖の国とはいえ彼女にとっては初めて訪れた土地だ、やはりすくなからず緊張していたのだろう。
「お世話になります。ドイツは初めてでわからない事だらけで……ニーチェ教授の妹さんと一緒というのはとても心強いです」
そう言ってからようやく笑みを浮かべたザロメの顔は中性的で、どことなく少年のように見えた。
「世界に冠たる国・ドイツへようこそ! 私と兄の国が素敵な思い出の地になるよう力を尽くさせていただくわ」
エリーザベトが歓迎の気持ちを込めて手を差し出すと、ザロメはその手をすっと握り返す。エリーザベトはザロメの顔を見た。ザロメの肌は雪のように白く目は青色。鼻は少しばかり鷲鼻がかっていてそのせいか全体的に強気な印象を与えている。
化粧も髪型も淡泊で帽子もかぶっていないせいか、ザロメの外見にはどこか中性的な印象が漂ってきた。――フリッツはこういう女性が好みなのかしら?
ようやく笑顔を見せたザロメの顔ははにかんだ少年のようにも見え、なるほど愛らしい。と同時に外見よりも幼い印象でさえある。いいや立ち振る舞いこそ大人びているが彼女はじっさい自分より十歳以上若い。まだ子どもなのだ。
フリッツの大切な女性だというなら自分にとっても大切な女性だ。自分がしっかりと導いてバイロイトにもニーチェ家にも良い印象を持ってもらいたい。
今日からしばらくは決しておろそかにはできない、おそらく兄や自身の人生を左右する大切な数日間になるのだろう。まずは信頼関係を築かなければ。――バイロイトに向かう列車の中でゆっくりと話せればいいのだけど。
「まずは乗り継ぎがあるのでそちらへ向かいましょうか。着くまで八時間かかるけど、ゆっくりお話しできたらいいなと思うのだけど……」
バイロイト行きの乗り場に向かうエリーザベトの隣を寄り添うように歩きながら、ザロメが尋ねる。
「そういえば、エリーザベトさんの事はなんとお呼びすればいいでしょうか?」
「うーん。ザロメさんのお好きなようにどうぞ。ファーストネームでも構いませんし、フリッツ……じゃなかった兄は子どもの時から私のことをラーマとかリースヒェンと呼びますわ」
「ラーマ? どういう意味なのかしら……」
「働き者だけど怒ると怖い動物の名前だそうですわ。私にぴったりだって」
それを聞いたザロメは可笑しそうに笑い、こう語る。
「仲が良いのですね。私には兄弟は居るのですがみんな歳が離れていたので……ニックネームなんてもらった記憶がないのですよ」
そう語るザロメの横顔がどこか寂しげに見えた。フリッツからも詳しくは知らされていないが、彼女は家庭に不和があって寂しがっているとも聞かされていた。その時ふとエリーザベトは思いついた。
「――それなら私のことは『姉さま』と呼んでください。私もアナタを『若い妹』と呼ぶことにします。いかが?」
エリーザベトがニヤリと笑いながらそう告げるとザロメは一瞬びっくりしたような顔をしていたが、すぐに喜ばしそうにうなずいてみせた。
「とても素敵なアイデアです! お姉さま!」
「素敵な妹ができて私も嬉しいわ!」
エリーザベトが笑いかけるとザロメはまた無邪気な笑みを浮かべてくれた。本心から喜んでくれているようで、そのはにかんだような笑顔を見ているとふしぎなことにエリーザベトの心も和んだ。
バイロイト行きの列車に乗り込んだあと、二人は持ち込んだザクセン名物の菓子を食べたりザロメがロシアやスイスに居た頃の話に興じた。彼女が気管支の病気で長いあいだ苦しんだが闘病を続けついに克服したと話した時、エリーザベトは感激のあまりにすすり泣いた。
逆に聖ピエトロ大聖堂でニーチェに出会った時の話を聞かされた時は思わず笑ってしまい大変だった。彼のまるで儀式や芝居でもしているかのような気取ったしぐさが容易に想像できたからだ。
一緒に泣いたり笑ったりしているうち、エリーザベトもまたザロメのことが社交辞令や打算を抜きにして好きになっていた。彼女はたしかに人当たりの良さと知性を兼ね備えた魅力ある女性で、こんな娘ならばフリッツの奥さんになってもふさわしいだろうという暖かな感情で胸がいっぱいだった。
「――アナタは〝妹〟だし、これからはSieではなくDuで呼びかけることにするわ」
何時間か経った頃にはエリーザベトは自然にこう提案していた。家族や本当に親しい友人、それに恋人に対してだけ使う親しげな〝Du〟での呼びかけはドイツ語話者にとってポピュラーな親愛表現のひとつだった。ザロメはこの提案にも顔をほころばせて喜び、エリーザベトの手をとっては何度もしたしげにその親称で呼びかけてみせた。
「Duで呼び合える間柄の相手はスイスに居る時は母だけでした。こんなに温かくて嬉しいことはありません」
その喜びぶりを見ているエリーザベトも勿論嬉しかった。
が、彼女が笑顔のままなにげなく続けた次の言葉には心臓が止まるのではというほど驚かされた。
「こちらに来てからはレー博士もDuで呼び合ってくれているのですよ」
それはエリーザベトが持って生きてきた常識からはまったく考えられないことだった。おそらく彼女はロシアで育ったのでこういう無作法について疎いのだろう。それにレー博士はうまれつき不道徳な人種だ。家族でも恋人でもない男にそんな態度をとるなど、自分は想像すらできない。
エリーザベトはいささか憤慨しながら彼女にそのことを注意しようとしたが、ちょうどその時「もうすぐバイロイト駅に到着する」と車掌が知らせに来てうやむやになってしまった。
――まあ、あとで注意してあげればよいか。
エリーザベトはそう考えながらザロメとともに列車を降りる支度にとりかかり始める。ザロメの方は上機嫌でエリーザベトの憤慨などまったく気づいていないようだった。
バイロイト駅に降り立った時、街はすでに夜になっていた。この街はいつでもそうだったが『パルジファル』初演を控えているせいか、今はあのバイロイト祝祭の頃のようにけばけばしく輝いていた。
「さ、行きましょうか。ザロメさん」
急に変わったエリーザベトの呼びかけにザロメは一瞬ひっかかったような顔をしたが、いまは目の前の芸術都市の方がはるかに関心を引いたらしく軽く頷いただけで何も言う事はなかった。
二人の行動的な女たちの間には早くも黒雲が現れ始め、ニーチェにとっての計算外の事態が早くも起こり始めていたのだった。
(第二幕へつづく)
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