八 快癒しつつある者の三位一体
――エリーザベトが酔狂のような政治運動に手を伸ばし始めたのとちょうど同じ頃、奇妙なことにニーチェもまた精神状態が高揚しだすのを味わっていた。
彼はイタリアのジュノアに滞在し、相変わらず売れない音楽家をやっているペーター・ガストを助手にして次の著書の完成を目指していた。
ニーチェの健康状態は不可解だった。相変わらず発作は短い周期で起きて心身を苛んだが、彼は漠然と「これ以上酷くはなるまい」と感じるようになっていた。そうしてその感覚が、彼の精神状態に新たな変化をもたらすようになっていったのだ。
「つまり、病状が良くなってきたということですか?」
紅茶カップの底のほうに沈んでいるレモンをスプーンで突きながら、ガストは尋ねた。彼がついている安普請のテーブルの向かい側には薄汚れたソファが置かれていて、ニーチェはそこに横たわっていた。顔の上に帽子をかけて両手を組んで横たわっている姿はまるっきり死体だった。
ニーチェは長い口髭をもぞもぞさせながら、その様よりはずっと元気そうな声でこう答えた。
「そうでもない。頭痛が起きると相変わらずピストルで頭をブチ抜きたくなる」
その言い様にガストはぎょっとしたが、見てすらいないニーチェは何一つ構わず続ける。
「要するにだ。僕は79年のクリスマスに地獄の底を経験したのだよ。あれ以来僕はある意味ずっと安堵しているんだ。――あれより酷い目には遭うまい、そう思うようになった」
そう言いながらニーチェは帽子を顔から少しだけずらし、ガストの方を見た。しかし一、二秒目をしばたかせると身震いをしながらまた帽子を元に戻した。
「この感覚はずっと健康だった連中には分からないだろうね。ことによると僕はいまや健康な人間以上に強く健康な病人なのかも知れない。そう、快癒しつつある者の持つ力強さ……これは新境地なのだ!」
快癒しつつある者。そのフレーズを、どういうわけかガストは初めて聞くような気がしなかった。何にせよ明るくて心地よい趣きのある言葉だった。ガストは目の悪いニーチェに代わって口述筆記をする役を何年も勤めてきたが、彼の眼にはじっさいニーチェがワーグナーとの決別の頃の陰鬱さを克服したようにも思えた。
『人間的、あまりに人間的』を口述していた頃のニーチェは筆記している方がびくついてしまうような恐ろしい事を口にしていたが、最近取り組んでいる『曙光』や『悦ばしき知識』などにはどちらかというと前向きな感情が感じられた。我々の住む現実に対する果てしなき懐疑の時間は終わり、
「どうしたね?」その言葉にガストははっとして我に返る。ほんの少しぼんやりしている間にニーチェはソファから起き上がり、すっかり散歩の支度を整えていた。
ガストは改めて師匠の顔を覗き見た。口髭には白髪が混じり始めているが髪はまだふさふさ。目は漸く光に慣れたらしいがまだしょぼしょぼしている。不思議なことに午前中はほとんど使いものにならなくなってしまう目だ。肌の色つやが以前よりずっと良くなっていて外見上はたしかに健康を取り戻しているように見える。怪訝そうな表情を浮かべていたニーチェにガストは告げた。
「いえ。快癒しつつある者。じつによい言葉だと思ったもので」
ジェノアの海沿いの小路をニーチェとガストは連れ立って歩いている。起床したら二、三枚のビスケットを食べ、濃く入れた紅茶を呑み、目がくらまない程度に光に慣れたら散歩に出かける。ニーチェのほぼ生涯変わらなかった日課である。
彼は温かい日差しを浴びながら散歩をするの非常に好きで、一日最低三時間は歩いた。イタリア南部は冬になってもそこまで冷え込まないので体が弱った彼でもなんとか耐えることができた。
ニーチェはイタリア語はほんの片言しか話せなかったが、この頃には周りの人間の言っていることが分からないというのはむしろ利点なのだと考えるようになっていた。おかげでつまらない世事に付き合うことなくゆっくりと考えごとができた。目の悪さにしてもそうだ。くだらない本や新聞を読まずに済む。病気にしてもおかげでわずらわしい重荷だった教授職から自分を解き放ったのだと受け入れた。
ものは考えようの世界だったが、一方で彼は「病める者は幸いである」などという病人以上に病的な考えに屈したつもりは全くなかった。このような不幸は自分のような「強い男」でなければ到底耐えられなかったし、それを受け入れた事は自分をますます強くした。――彼はそう考えたし、またそう信じようとしていた。
今日は月曜日だった。彼の習慣では散歩の途中で郵便局に行く日だ。
彼は手紙は非常にまめに書いたが、一方で配達員が来るのを非常に嫌っていた。受け取ったものの用事があったりしてすぐに読めない事があるのがなんとも不愉快だったからで、郵便物は全て局留めにして出向いたときにまとめて受け取るようにしていた。(これは特にニーチェに限っての習慣というわけでもないらしく、電話登場以前の世界の人々の手紙に対する感覚がなんとなく窺える気がする)
窓口から受け取った手紙の差出人の名をニーチェは注意深く見ていく。すぐに読むべき手紙と後回しの手紙を吟味しているのだ。どうでもいい手紙は無造作にポケットに押し込まれていき、彼の手には二通の手紙が残っていた。
それからニーチェは急ぎ足で郵便局前の喫茶店に向かっていく。よほど早く読みたい手紙があるなとガストは思った。そういう時彼はきまって此処に寄るのだ。
お気に入りのフルーツケーキを上機嫌で二人分注文した後――彼は甘い物が無類の好物だった――彼は案の定さっそく手紙の封を開けて読み始めた。ほとんど顔にくっつけるようにして手紙を読む姿はわりと滑稽だったがガストは笑わなかった。彼の眉間にしわが寄っているのが分かったからだった。何か考え込んでいる。
「何て書いてあったんです?」
ガストが尋ねると、ニーチェはわりと不機嫌そうな様子でぼやいた。
「リースヒェンのやつ、くだらん政治運動とまだ手を切っていなかった!」
そう聞いてガストは思い出した。半月ほど前の手紙で〝ベルリン運動〟の手伝いをする事にしたと彼女は書いていたのだ。イタリア暮らしのガストにはそれが何なのかよく知らなかったのだが、一緒に同封されていた署名用紙をニーチェは憤慨しながら捨てていた。
「あいつは今ベルンハルト・フェルスターとかいうクズみたいな扇動家の手伝いをしているそうだ。どこで知り合ってしまったやら……弟のパウル・フェルスターにはバイロイトで会った事があるがソイツはとんでもないロクデナシだった。たぶん兄貴も同じだろうな!」
同じように憤慨しながらニーチェは愚痴を言いつつ、さらに先を読み進める。すると怪訝そうな顔をして、今度はこう尋ねた。
「……なあガスト君。〝それとは別に私はいま、一生を捧げられそうな希望をも見出したのです!〟というのはどう解釈するべきだと思う? 僕にはさっぱり分からない」
ガストは即座にピンときて答えた。
「ははーん! エリーザベトさん、きっと恋人ができたんですよ!」
それを聞いたニーチェは滑稽なほど目を丸くして「恋人?!」とうろたえた様子で口走った。
「素敵な殿方との燃えるような恋! そして結婚! 女性の一番の希望といえばやっぱりそうなるでしょう!」
ガストは知ったような調子で口をきくが、ニーチェの方は複雑そうな顔をして思った以上に考え込みだしてしまった。
相手は誰なのだろうか。ニーチェには検討がつかないらしいが、もしやそのフェルスターという男では? とガストは考えたが今のニーチェにますます余計な不安を与えるのはなんとも気の毒かった。
「やはり心配ですか?」
「……いや、あの子は賢い女だから心配は……リースヒェンが幸せなのがそりゃあ一番なんだが……結婚……」
汗までかきだすうろたえようが見ていられなくなり、ガストはとりあえず次の手紙を読むようすすめた。
二枚目の手紙は彼が親友と呼んでいる若き心理学者パウル・レーからのもので、消印はローマだった。その手紙もニーチェは目を丸くしたり眉をひそめたりしながら読んでいて、何か考えさせられているらしい。三度も読み返していた。
「レー博士からは何と?」
ガストが再び尋ねると、ニーチェは答えた。
「僕に憧れている女性を紹介したいから、是非ローマに来いとさ!」
それを聞いて、ガストは揚々と微笑んで言った。
「先生にもエリーザベトさんにも、いっぺんに春が来たようですね」
――ペーター・ガストにはふしぎなことに、ニーチェの気持ちがよく分かった。付き合いが長いからだろうか、あるいは死んだ親父が古風な口髭を生やしている男でそれをよく観察したからだろうか、エリーザベトすらときおり「読めない」と語るニーチェの表情が判別できたのだ。
なのでこの時もガストにはよく分かっていた。ニーチェは口こそ閉ざしていたが、彼の表情はまんざらでもなく……いや明らかに嬉しそうで、じつに幸せな気持ちでいるようだった。
◆
1882年の4月。ニーチェは誘いに応じてローマを訪れていた。
数カ月ぶりに年長の友人と再会したパウル・レーは彼の様子が以前と変わっていることに内心ひどく驚いていた。相変わらず不健康そうにやつれてはいたが肌の色つやは頬がピンクがかるほど良くなっており、目は少し不気味なほど輝いていた。帽子の被り方まで気取っていたし、態度や話し方もどことなくうわついていて高揚しているようにも感じられた。
「僕もまた彼女のような魂を持つ相手が必要だと思っていたんだよ。さあ、略奪に出かけるとしよう!」
ニーチェが上機嫌な様子で妙な事を言ったのでレーはますます訝しんだ。
――ちょっと彼女のすばらしさを率直に伝え過ぎたかも知れない!
ニーチェとレー、そして件の女性が体面を果たしたのは
ルー・ザロメ。それがその神秘的なロシア人女性の名前だった。ロシアの将軍の娘で雪のように白い肌と輝くような金髪を持ち、流暢なドイツ語を話すドイツ系ロシア人。彼女自身も当時は知らなかったが数代前の先祖はユダヤ人で、彼女もまた才能ある若者を支援するのを使命と感じるマイゼンブーク女史の客人だった。
マイゼンブークの目は実際正しかった。ザロメは後に二十世紀前半の女性文筆家の代表格に昇り詰めるほどの才覚を持っていた――そしてまた、彼ら三人は似たような思想的問題に答えを求める同志でもあった。すなわち罪悪の問題、善意や道徳意識の起源に関する考察、そして神の不在とニヒリズムへの対決。
どういう因果かカトリックの総本山で対面を果たした「神の死」を語る三人の哲学者たちは、出会った瞬間から引かれ合うものを感じていた。
ザロメはこれから一年間ほどフランスかイタリア、あるいはドイツで生活するつもりだと話した。彼女は肺に病気を抱えており、母国より温暖な国で静養しながら哲学の勉強をしたいと考えていた。そう自己紹介したあと、彼女はニーチェを心底仰天させる提案を持ち掛けたのであった。
「私とレー博士。それにニーチェ教授。三人で一緒に暮らしてみませんか?
もちろんセックスの問題は別として……」
三十八歳のニーチェと三十三歳のレーに対し、ザロメはまだ二十一歳だった。
スマートで背が高く、いかにも強い意志を秘めた雰囲気を持ったザロメはじつに出会って数分でニーチェの度肝を抜いて見せた。――男が二人に女が二人の同棲。彼女は言う。
「私はレー博士から何度もニーチェ教授の話を聞かされました。とても挑戦的な考え方をして、同時にじつに誇り高く魅力的な人物だと。お話を聞くうちに私はニーチェ教授に憧れたんです! 崇拝に近い気持ちを持って本を読みましたしずっとお話ししたいと思っていました。そして今日、現実にお会いして希望はさらに強くなりました。私もニーチェ教授のもとで議論をし、三人で学んでみたいんです」
ニーチェは目をぱちくりさせながら、熱弁するザロメの隣に立つレーの顔を見た。彼は気恥ずかしそうに目をそらしてしまった。それでニーチェは察した。
レーはたぶん、二人で議論を重ねながら本を書いたクリンゲンブルンの森やソレントでの日々をザロメに話したのだろう。あの日々はニーチェに『人間的、あまりに人間的』を生み出させたし、レーは『道徳感情の起源』という本に結実させていた。
ニーチェにとってあの日々は、ワーグナーから――少なくとも彼にとっては――裏切られた痛みを忘れさせ再び立ち上がるきっかけになった楽しい思い出だった。彼の気持ちは複雑だった。大事な思い出を勝手に他人へ露呈されたのはシャクに障ったが、レーにとっても話したくなるような良い思い出であったのは嬉しかった。
そしてこの若い女性は、その思い出に加わりたいと願った。ニーチェは答える。
「なるほど素敵な提案だ。僕も貴女のような聡明な女性を交えて探究を深めることができるならどれだけ素晴らしいだろうと考えていたのです。
……しかし問題は、いくら知的な友情関係の同棲生活だと言っても世間はそうだと見ないだろうという事です」
彼の言う事は至極もっともだった。そういった生活は十九世紀の人間の良識を大きく超えていたし、世間は確実にスキャンダラスな関係だと噂するだろう。
彼の理性は当然のようにそう警告を発したのだが、同時に内心で酷い後悔が沸き起こっていた。
――ばか! なぜせっかくの提案を否定してしまったんだ! こんなに若くて魅力的な女が自分を欲しいと言っているのに!
――いや! 彼女は教師としてのお前を欲しているのだ! ただそれだけだ!
――だが! 女を獲得するにはまず接近するしかなかろう! 教え子をモノにする教師なんてドイツには吐いて捨てるほどいるではないか!
――おい? お前はそんな最低のクズ教師の仲間になりたいのか?! 最低だ!
頭の中が煮え上がるような奇妙な感覚に困惑しながら、ニーチェはその後を続けられずにまごついていた。しかしながらこの若き令嬢は、いとも簡単に彼がまごついている壁を飛び越えてみせた。
「世間からの評価なんて……私は気に留めませんわ。古臭い道徳からは自由でありたいと何年も前から心に誓っているんです。それどころか、男女の関係といえばセックス、女の幸せといえば結婚しか見い出そうとしない世の俗物どもに、男女の知的な友情を示してやりたいとすら思います」
大聖堂の僧侶が聞いたら失神しそうなせりふを、ザロメはじつに揚々と言ってのけたのである。 その大胆さにニーチェは改めて驚いた。そして同時に、道徳家たちから寄ってたかっての猛攻撃を食らっている自分が、今は型破りな主張に面食らっていることが奇妙なほど可笑しかった。ニーチェは鼻息荒く、髭をぴくぴく動かしながら満足げに答えた。
「……ますます貴女とじっくり話し合いたくなりましたよ! 僕はその提案に賛成だ!」
それを聞くとレーは安堵したように息を吐き、そしてサロメの方も満足げに微笑んだ。十歳以上も年上の男たちを見事に説き伏せたのだ、大得意になっても当然だった。
――それから彼らは聖ピエトロ大聖堂の外廊をゆっくりと散歩しながら、今後の計画を話し合った。奇遇なことにレーの家族もザロメの母親もスイスのルツェルン湖に旅行に行く予定があった。ニーチェにとってはトリプシェンの旧ワーグナー亭での思い出と結びついて複雑な感情の存在する土地だったが、彼はそこでふたたび再開しようと自ら提案した。自分はもう自分は過去の痛みを乗り切ったのだ。そう確信していた。かつてない高揚感が自信を生んだし、何より自分は快癒しつつある者なのだ。恐れる必要はもはやなかった。
彼らはるか上にある天井には絵が描かれていた。父なる神と神の子イエスと聖霊を表現した荘厳な装飾――しかし彼ら三人にとっては、もはや過去の偶像だった。「神は死んだ」のだから。
その絵をにんまりと見上げ、それから二人の男を見つめながらザロメは宣言した。
「神聖なる――新たな三位一体の結成ね!」
そういうと彼女はニーチェとレーの前に立ち、両手を差し出した。二人の男は一瞬きょとんとしていたがすぐにその意図を理解し、まずお互いが片手を握り合った。そしてほぼ同時に、それぞれがザロメの手を握った。
ザロメのほのかに温かく柔らかい掌を感じた瞬間、ニーチェは心臓が高鳴るのを感じた。彼は教会で幸福など断固として感じたくなかったが、幸福な気持ちでいっぱいだった。そして恋愛感情なしの友情を宣言した次の瞬間にもう、ザロメを獲得したいという欲望が自分の中に渦巻いているのを認めざるを得なかった。この状況を喜んでいるのか嘆いているのか自分でも分からない、異様な気分だった。脳裏には花嫁姿のザロメをレーと二人で抱き上げるおぞましいヴィジョンまでが浮かんでいた。
戸惑いながらふと天井を見上げると、神とキリストが彼を冷たい目で見降ろしているのが見えた。自分はあんなものは少しも怖くはない。それは間違いない。
だが次の瞬間に思い浮かんだのは愛しいラーマ――リースヒェンの姿だった。
彼女はこの関係を絶対に許さないだろう。そう確信していた。
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