七 反ユダヤ主義者


 一年後の1880年12月。エリーザベトはベルリンにやってきていた。

 初めて訪れたドイツ帝国の首都は想像していたよりもあじけない印象だった。彼女が知るもう一つの都会バイロイトがじつに色彩豊かで華やかな印象だったから余計にそう感じたのかも知れない。

 色彩はともかくとしてベルリンはやはり圧倒されるほどにぎわっていた。長距離列車から降りたフリードリヒ通り駅は驚くほど広かったし、駅前にはたくさんの乗り合い馬車が行き交っていた。

 闊歩する市民たちに気後れしてはなるまい。エリーザベトは内心息まきながら、駅舎のウインドウに映った自分の姿に目を遣った。黒のロングスカートに二枚重ねのヴェール。つやのある絹の手袋に羽根帽子。そして毛皮のコート。旅行鞄以外はどれもベルリン行きのために新調したもので、我ながら悪くなかった。まんざらでもない気持ちでウインドウを眺めてにんまり微笑んでいると自分を探していたらしい声がした。


「エリーザベトさーん!」


 目を向けると急ぎ足でこちらにかけてくる男の姿。自分が駅から出てくるのを待ってカフェにでもいたらしかった。その垢抜けない男、フェルスターに対しエリーザベトはにこやかに手を振って応えた。

「お久しぶりですフェルスターさん……って、わあ! ずいぶん酷くやられましたのね」

 エリーザベトははじめは驚き、その後すぐに笑いだしてしまった。原因はフェルスターの顔だった。右目の周りは青アザができていて顔中が擦り傷跡だらけ。おまけに広い額には絆創膏がでかでかと張り付けられていた。けらけらと笑うエリーザベトを見つめながら、フェルスターは頭を掻きながら苦笑した。

「いやはやまあ、名誉の負傷ですよ。おかげで仲間からは尊敬されましたがね」

「フフフ! それじゃあどこかでフェルスター先生の武勇伝をうかがいましょうか。ワーグナー協会に行くのは明日ですし……」

「それなのですが、ちょうどよいことにが集まる集会が今日あるのですよ。少し遠いので辻馬車で行くことになるのですが、いかがです?」

 いかにも出来過ぎな誘い文句で来ると分かっていてスケジュールを組んでいるのが見え見えだったが、エリーザベトはそぶりも見せずにその好意に甘える事にした。

「まあ嬉しい! ぜひご一緒したいです! フェルスターさんの活動を拝見するのが今回のベルリン行きで一番の楽しみだったので」

 じっさいその通りで、彼女が今回ベルリンに来た主な目的はフェルスターに会うためだった。彼とは綿密に手紙をやり取りするようになっていたのだが、喧嘩騒ぎに巻き込まれて怪我をしたと知らされて彼女は見舞いにきたのだった。


 ――辻馬車は一人か二人の客を頼まれた目的地まで乗せていく屋根のない馬車で、大抵はベルリン市内かその近郊までの客を乗せた。イギリスで始まった方式を模倣して今日のバスのように運行される大型の乗合馬車もあった。

 鉄道も存在していたが、当時のドイツは工業化が遅れていた事もあって普及しているとは言い難く、ベルリン市内を循環する市街電車が完成したのがまだ五年前だった。

 エリーザベトはフェルスターが呼んできた辻馬車に乗り込んだ。フェルスターは御者に場所を伝えていたが彼女には地名を聞いても分からなかった。

 馬車が走り始めてようやくひと心地着いたころ、フェルスターは傷ついた原因について勿体ぶって語り始めた。ベルリンの風景はあまり彼女の歓心を引かなかったのでエリーザベトはそう語る彼をじぃっと見つめながら耳を傾けた。

「私はビアホールで仲間たちと語り合っていたんです。もちろんドイツの未来について! そしてその興奮が冷めやらぬまま市街電車に乗り込み、つい友人と一緒になって演説をぶちかましたんです。 今のドイツがユダヤ人の害によって侵されているか! 彼らがいかに巧妙に我々の社会に寄生し、新聞を支配しているか! このままではドイツはいずれ滅んでしまうだろう! なのに君たちは一体何をしているんだ?! 乗り合わせた乗客たち相手に講演会の調子でそう喋りました」

 そこまで話し、フェルスターは思い出したようにエリーザベトの顔を見た。彼女が自分をすぐ近くで見ているのに改めて気づいて少し照れているようだった。

 その表情を見ながらエリーザベトは思った。フェルスターは数年のあいだに変わっていた。少なくとも喋ることは劇的に上手くなっていたし、態度からも神経症的な弱々しさが消えていた。それは好ましいことに思えた。おそらく彼は強くなったのだ。

「――乗客の中にユダヤ人が何人かいて、私たちの前に詰め掛けてきて文句を言ってきた。たった二人に対して五人も! そしてその先頭に立っていたユダヤ人実業家は私にこう言ったのです。『君らを人種差別扇動で告訴するから氏名を言え』と!

 なんたる卑劣! 私はただ批判しただけなのに奴らは差別だなどと騒ぐ。そのユダヤ人的発想を心底軽蔑しながら言ったのです。『黙れユダヤ人!』と。

 するとユダヤ人実業家は私の顔面を殴った。こうして殴り合いになりました」

 あの右目の青アザはその時の跡か。頭のあちこちに怪我をしていることからしてすぐに昏倒して頭を蹴られたのだろうか。

「乱闘騒ぎで電車は止められて警官がやってきました。外に連れ出されて事情を聞かれたので私は堂々と答えたんです。『私はベルンハルト・フェルスター博士。誓って言うが私の父は純粋のアーリア人だ』と。結局私は〝不当に名誉を傷つける行為〟だとかで罰金刑を受けました。その時私は確信したんです。いまや警察も下級裁判所もあの人種たちに支配されているのだと……」

 体験と思いを憤慨と共に語るフェルスターの様子を見ながらエリーザベトは感じていた。彼の眼にはいまや燃えるような意志が宿っているのがはっきりと感じられた。その眼に宿す光こそが、おそらく今の自分には必要なのだ。

 戦う力。行動する足。そして燃え滾るようなエネルギー。今の自分はそれを持ち合わせているのに噴き出せるものを持っていないのだ。ナウムブルクで与えられる慎ましい日常は日に日に自分を失望させていた。

 今となって分かるのは、フリッツも同じような感情をずっと抱いていたということ。彼も探していたのだ、自分の有り余るエネルギーを打ち込める世界を。しかし兄のようになる気はなかった。

 フリッツは善なるものを信じず破壊しようとしていた。あの恐ろしい哲学は言っていた。善も悪もその性質に差などない。善行とは悪行がただ弱々しくなったものだ、と。自分はあのような冷たい懐疑に沈んでいきたくはなかった。

 そんな悲壮さは好まない。皆を幸福にする善意と勇気を持ち、自分自身も瑞々しく充たされたい。

 強く高貴に、そして信念と共に生きる道を見つけだしてフリッツに示して見せる。彼女はそう考えて若き活動家フェルスターの懐にやってきたのだった。このいくらか変わり者な教師が燃やすような意志を自分も持てたとしたら……。


                ◆


 辻馬車が着いたのはベルリン市街からは少し離れた工場地帯傍の小さな町だった。狭い路地が続くのでその先には歩いていくしかないということでフェルスターと共に歩いていたのだが、エリーザベトはベルリンとの落差に驚いていた。

 町全体がなんとなく薄汚れているように感じたが、それは工場の排煙が常に絶え間なく降り注いできているからだった。工場勤めの間の休憩時間らしい労働者プロレタリアートたちが街のあちこちに座り込んでパンをかじっていたが、彼らは大抵顔も含めた全身が煤まみれになっていたがそれを拭おうともしない。拭いてもどうせすぐまた汚れるからだ。

 そして労働者の中に女や子供が多くいることがエリーザベトにとっては非常に驚くことだった。フェルスターが言うには、この辺りの工場労働者は一家全員が働かなければ生活できない程度の賃金しかもらえないのだと。

 自分の知る世界――バイロイトの華やかな社交界はもちろん、世界で一番退屈な場所だと思っていたナウムブルクの市民ブルジョワジー世界とも全く違う現実がそこにはあった。

 エリーザベトは動揺しながら自分の手元を見てはっとした。絹の手袋がもう煤けていた。空気が非常に汚れているのだ。こんな場所で毎日過ごしていたらいずれは病気になってしまうだろう。見かける労働者はじっさい咳をしている者が多かった。

「これが資本家による残忍なる搾取の実態なんです。イギリスやフランスを退廃させた悪魔的支配体制がいまやドイツ国民を食い物にしようとしている。つまるところ我々はこの支配体制の打破を目指さなければならない」

 あいかわらず雄弁にフェルスターは語る。熱意がある事に感激しながらエリーザベトは尋ねる。

「いったいどうやってですか?」

「たとえば近頃はやりの社会主義……あの理念自体には見るところが無いでもないのですが、しかしじつに根本的なところが誤っているのです」

 フェルスターは一呼吸おいて続ける。

「カール・マルクスがユダヤ人だという事実がすべてですよ。ユダヤ人は理念など持ちえず、あるのは悪意のみ。つまり社会主義もまたアーリア人の世界を破壊することのみが目的なのです。そしていま現実に我々を苦しめている資本主義もまたユダヤ人の発明。国際的ユダヤ人の悪意の結晶。

 ユダヤ人は旧約聖書の時代から黄金の仔牛を崇拝していた。彼らの頭には金銭のことしかなく、空虚で冷たく人の心がないのです。あの民族にはドイツ人の美徳すなわち誠実な努力への尊敬、誇り高さ、優しさの全てが欠けている。やつらの不潔な思考に接することでドイツ人がどれだけ堕落したことか! 最も高貴な人種であるドイツ人を堕落させるということはつまり本質的には全人類への敵対者なのです」


 フェルスターがどこまでも大きな言葉を弄ぶのに対して、その熱弁をいくら吹き込まれてもエリーザベトの脳裏に浮かんでいたのはパウル・レーの姿だった。

 ――そもそも彼女は彼以外のユダヤ人をよく知らなかった――

 そうだ、たしかにあのユダヤ人思想家はフリッツをひどい人間に変えてしまった。そういうことなのだ。たぶんそれがということなのか。

 そういえばワーグナーがつい最近出版した『宗教と芸術』という著作の中で、あの小柄な巨匠は言っていた。その不遜なフレーズは忘れられなかった。

「ユダヤ民族は純然たる人間性と高貴なものすべてに対する敵として生まれた……」

 エリーザベトは思い返すなかでいつの間にかその言葉を諳んじていたようだ。フェルスターは一瞬おどろいたように立ち止まって彼女の顔を見て、それから嬉しそうに叫んだ。

「そう! そうなのです! ワーグナー氏がそう仰ったのです! 私は彼の言葉に感動して彼を愛するようになったのです! さすがはエリーザベトさんだ、ふさわしい時にふさわしい言葉を引いてくれました。

 我々はまさに、人間世界を守るためにやつらを絶滅させるか、我々自身が敗北者になるかを選ばなければいけない時にいるんだ!」



 ――異教徒、異文化たるユダヤ人に対する差別感情。それはフェルスターやワーグナーだけが個人的に抱いている奇矯なものではなく、ヨーロッパ人と彼らの社会そのものに長きにわたって刻みついていた宿痾だった。

 色分けを試みるならばワーグナーが抱いているものは旧態依然の「伝統的」な差別感情のほうに近かった。それに加えて彼の場合は過去にユダヤ人の名士と何度も争いになった経験や、彼の金銭に執着しない性格――清貧というわけではなく派手好きな浪費癖――が原因で常に借金取りから追われていたことに対する恨みがあった。

 いっぽうこの時代の若者たちがAntiSemitismus(反セム主義)という新しい名称を掲げて取り組んだのは、彼らのいうところでは新時代の科学と大衆の政治参加意識の高まりによって発生した政治運動とされているものだった。

 十九世紀ヨーロッパの世界観を決定づけたのはダーウィンの進化論と民主制だったが、それに酷く捻じ曲がった解釈をする人々が現れて来ていた。

 いわく、生物が進化によって枝分かれしたように人間もまた優秀な人種と下等な人種とに分かれている。これが科学によって保障されたのだ。

 いわく、市民の意見が重要視される時代となったのだから下等な人種を排斥したいという市民の意思は実現されなければならないのだ。

 少なくとも彼らはそういう使命感に燃えていた。

 ワーグナーは若い反ユダヤ主義者たちから思想的指導者として崇められていたが、皮肉なことに彼は政治運動も地位のない市民のことも軽蔑していた。彼らを刺激するような発言はいくらでもしたが絶対に手を貸したり署名したりはしなかった。

 若き運動家フェルスターが最初にエリーザベトに近づいたのは、ワーグナーに近しい女性とみての接近だった。しかし今はもう違っていた。

 フェルスターにとってエリーザベトは自分に欠けている積極性やエネルギーの象徴して自身をも強くしてくれるように感じられる女性だった。

 あとは彼女の中のエネルギーがフェルスターのに寄り添うことを好むかどうか。それだけだった。


                ◆


 工場地帯のこれまた奥まった一角にあるコンクリート造りの小さなビアホール。労働者が仕事帰りに寄って憂さを晴らすような店で、そこがフェルスターたちの集会所だということだった。

 薄暗い店の中にはランプをのせた丸テーブルがいくつか並んでいて、工場の勤務交代時間の関係でこの時間でも賑わっていた。店内は焼いたソーセージの匂いや強烈なビール臭さがとにかく鼻をついた。エリーザベトはくたびれた男たちが吐き出した酒臭い息までが狭い店内に充満しているようなかんじを覚え、少しばかり嫌悪感を感じてしまっていた。

「よお! 英雄ジークフリートの先生が来たぜ!」

 酔っ払っていた客の一人が店に入ってきたフェルスターに気づいてそう叫んだ。途端に大勢の客がフェルスターとエリーザベトの方を向き、その全てがフェルスターの姿を認めるとしたしげな笑顔を見せたり手をふっていた。

 彼らの間を通り抜けながらも、フェルスターは向けられた挨拶にはすべて愛想よく答えていく。彼はここの人気者らしかった。

「フェルスターさんは皆から慕われていますのね」

 やや後ろをついて歩いていたエリーザベトは素直に感心し、彼の人望を褒めた。するとフェルスターは小さく首を振って答えた。

「私が慕われているのではありませんよ。彼らが期待しているのは私のイデオロギーです。ベルリンで背広を着て働く市民たちは我々の活動をまだ嘲笑するだけですが、労働者たちは分かっているんです。何がドイツを救うのかを……」


 そう言って振り向いた彼が示したのは店内でも一番奥の席で、そこに架けているのは他とは違い背広姿の男たちだった。うち一人だけが軍服を着ていた。

「彼らが私の同志です。関係しますよエリーザベトさん。

 さあ皆にも紹介するよ、こちらがあの有名なエリーザベト・ニーチェ氏! ワーグナー氏から厚く信頼されている女性だ。彼女の兄上が有名な『バイロイトのワーグナー』を書いたニーチェ教授だ。――私がお連れしたんだぜ? 感謝してくれ」

 フェルスターの口調がくだけたものになった。よほど信頼している友人たちなのだろう。紹介を受けたエリーザベトは社交界仕込みの慇懃な挨拶を述べながら、男たちの顔をざっと見渡す。六人が六人とも見事な口髭と顎鬚をたくわえているので誰が誰だかよく分からなかったが、彼らが皆友好的な笑顔を見せていることに安堵をおぼえた。それに兄よりも先に紹介されたのはとても気分が良かった。

 促されるままに丸テーブルの一角にフェルスターと並んで座らされ、それからすぐにビールが出てきた。エリーザベトはビールはほとんど飲んだことがなく、それもジョッキなどという〝下品〟な容器で出されたのは初めての経験だったがその味は気に入るものだった。

 どろりとした舌ざわりの労働者向けの酒の味を楽しみながら彼女は髭の男たちの自己紹介や経歴自慢、会ったこともないだろうワーグナーへの賛美の言葉を聞いていたが、最後に話し出した軍服姿の髭の男が切り出した言葉には少々面食らってしまった。

「さて、そろそろ〝ベルリン運動Berliner Bewegung〟の議題に入るとしようか。エリーザベトさんのために改めて伝えると、じつは喜ばしいことにプロイセンの保守派議員達は私たちの運動に目をかけてくれている。宰相ビスマルクは彼らの口添えを受けて我々の嘆願を必ずや実行に移す事だろう」

 訝しむエリーザベトに、フェルスターはこう言い添えた。

「我々はユダヤ人のドイツへの入国制限、あらゆる公職からユダヤ人を追放、ユダヤ人に高等教育を受けさせる事の禁止、国内ユダヤ人を全て監視下におくという四箇条を嘆願する署名運動を行ってるんです。ドイツ国民の切なる訴えを国政に届ける必要がありますから。すでに十万人以上の証明が集まっています。――来年の四月に私とソネンベルグ氏が官邸に行ってビスマルクにじかに渡すのですよ!」

 最初は驚くばかりだったが、話を理解するとともに今度は胸が高鳴りだすのを感じ始めた。――彼らはこの工場の下に居るような不幸な人々を救うために、良心にもとづいて行動しているのだ! 理想と善意の実現のためにはたらくという事は何よりも尊ばれるべき美徳であり、そこに湧き出ているエネルギーと生成の神秘がまぶしいほど光り輝いている! 恍惚とするような思いがした。

 エリーザベトはまたあの高揚したようなぽーっとした心地になったまま、彼らがテーブルを叩きジョッキを掲げ、唄うように議論する様子にただただ聞き惚れていた。そればかりでなくときどき口を差し込んで意見を言ってみると男たちは「じつにもっともなこと!」と手を叩いて賛同してきて、それはなんとも気持ちの良い体験だった。自分は置物では決してないという感激だった。

 エリーザベトはビールを調子にのって何杯も飲み、明らかに酔っ払っていた。しかし意識はますます冴え渡っているように感じられた。今こそ自分が本当に輝いている瞬間なのではないか。ナウムブルクに閉塞されていたつまらない自分も、破滅的哲学者の手足になっていた自分も、おそらく夢だったに違いない。

 夢から抜け出した夢の中。どいつもこいつもビールの匂いで酔っ払っていて、今は近いうちに政党を作り、その投手はフェルスターがふさわしいなどと言い合って笑っていた。その時だった、髭の男の一人が何枚かの紙を丸テーブルの上に広げ始め、赤ら顔のまま皆に向けてこう言った。


「諸君! それでは我々のシンボルを決めようではないか! 党旗だ!」


 髭の男が示した数枚の紙にはどれも一つずつ記号が描かれていて、そのいくつかはエリーザベトも見た事があった。たしかアマチュア神話学者だと言っていた髭の男は、どれも古代アーリア人に由来する由緒あるもので、自分は何年もアーリア人の優越性を示すシンボルについて悩んでいたのだと説明した。

 それを受けた男たちはこの気の早い男を笑ったが、やがておぼつかない指先で紙を手にとってはあれは良いこれは駄目だと遊び半分な調子で――おそろしい事にそれまでの話は真剣だった――語りあっていたのだが、フェルスターはふと、エリーザベトがさきほどから一枚のシンボルをじぃっと見つめていることに気が付いた。

「諸君どうだろう、この重大な決定にエリーザベトさんの意見を尊重しようではないか。彼女はどうやらこれが気に入ったらしい」

 フェルスターがそう言ってエリーザベトの見ていた紙を指し示すとほかの男たちも興味深げにその紙に目を向けた。神話学者を自称する男は待っていたとばかりに得意げに口を開く。これは古代アーリア人種が用いた幸運のシンボルでインドにも伝わっ……

「――ナイン!」

 急にエリーザベトが大きな声を上げたことにぎょっとして押し黙り、フェルスターも神話学者も軍服も同時に彼女の顔に目を遣った。大声に同じテーブルの男達どころか店中の人間が彼女に注目していた。

 注目されたエリーザベトは躊躇するどころか顔を火照らせた様子で、にやっと笑いながらそのシンボルを指さしてこう言った。

「否! 否! 三度否! 他のライオンとか剣とか狼とかのシンボルは素敵だと思うけど、このみたいなやつはまるでダメだわ! 最悪! 私はこんな変なシンボルがぶら下がってたらきっと笑っちゃう!」

 エリーザベトはとろんとした据わった目つきのままそのシンボルをボロクソにけなすと紙を素早くひったくってクシャクシャと丸めてしまい、みんなの見ている前で店の入口のカウンター目がけて放り投げてしまった。そうして投げられた紙くずは大きな弧を描いて飛んで行き――店中の人間がぽかんとしながら見つめている中、見事にくずかごの中に落ちていった。「鉤十字スワスティカがぁ……」神話学者の歯切れの悪い声だけが消え入った。


 そしてそれを見届けたエリーザベトは飛び上がるように立ち上がると「ブラーボ!」と陽気に叫び、いきおいよく片手をあげて大はしゃぎをしてみせた。一瞬の間だけ静まり返っていた店内は次の瞬間に破裂したような笑い声が起こり……この陽気な淑女を讃える拍手がごく自然に湧き上がってきたのだった。

 酔っ払いたちのブラーボ! の歓声に笑顔で応えてみせながら、エリーザベトは上気したような表情のままフェルスターの方を見て告げる。

「フェルスターさん! 考えてたけど決めました! 私も署名運動を――いいえアナタたちの夢をかなえる手伝いがしたい!」

 仲間の男達もフェルスターも椅子に座ったまま唖然としながらその宣言を聞いていた。フェルスターの方は勿論その答えを期待していたのだが、その高揚ぶりは彼にも理解できなかった。

「……あの、エリーザベトさん?」

「なぁに?」

「酔ってます?」

 心配を察したエリーザベトは、彼の方に向き直って顎に手を当てながら正直に答える。

「んー。たぶん酔ってしまってます」

 その答えにフェルスターはますます困惑した。いくらかろれつが怪しいがその目はじっとフェルスターを見つめている。彼女の瞳の中に光が宿っていた。その煌めきが何倍も極まっていることに彼は気づかない。エリーザベトは満足げに続ける。

「けどそれでいいんです。だって私、みんなを幸せにするためにはたらきたい気持ちでいっぱいで……人として生まれてこんなに幸せな事って、きっと他にはないでしょう?」

 彼女は充ちていた。そして捌け口を求めていた。彼女の足と意志の力が、彼女をそこに導いた。



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