六 叫びと祈りを超えて


 バイロイト祝祭から逃げるように立ち去った後、ニーチェはイタリアに滞在していた。親切なマイゼンブーク女史の運営する文学サロンの世話になっていると聞いていたのでエリーザベトは安心していたのだが、一方では不安もあった。なぜかと言えば、そこにはあのパウル・レーも一緒にいたのだ。

 レーに対するエリーザベトの感情は複雑だった。個人としてのレーは紳士でありニーチェの良き友人として慰めを与えているという点は彼女も認めざるをえなかったが、問題は彼がユダヤ人だということだった。

 エリーザベトの最大の友人であるワーグナーもコジマもユダヤ人への軽蔑を隠さない人間で、ユダヤ人と一緒になってバイロイトから逃げ出したニーチェのことを今ではずいぶん冷ややかな目でみるようになっていた。両者を何とか仲直りさせようと願っていたエリーザベトにとって、レーの出自はなんとも不愉快な事実だった。

 それはともかく、イタリアの気候と友人レーは病気をよくするとまではいかなかったが気力の充実をもたらしたらしく、ニーチェは一年間の療養休暇を終えた後は大学の教授職に復帰することができた。その報せをナウムブルクで聞いたエリーザベトと母親はその復活をひじょうに喜んだが――それも長くは続かなかった。もはや彼の心身は人前に立って講義をするストレス自体に耐えられなくなっていた。再び急速に悪化していく健康状態に、ニーチェもついに諦めた。

 1879年9月。大学教授という肩書を失った彼は疲れ果てた様子で家族の待つナウムブルクへと帰ってきた。十年ぶりだった。


 ――帰ってきたニーチェを、老いた母フランシスカとエリーザベトは精いっぱいの愛情で受け入れた。ワーグナーから生活面の影響まで受けていた頃の彼は自然療法を気取ってやっていたが、今では逆に薬漬けだった。朝から晩まで絶えず鎮痛剤をのみ続け、寝るときは睡眠薬を普通より多量にのんだ。鎮痛剤では追い付かない時のためにアヘンまで常に持ち歩いていた。胃痛がひどいときは何も食べられなくなるので栄養状態も最悪だった。手紙は頻繁に交わしていたものの対面するのは数年ぶりのフランシスカは、息子の変貌に内心では酷いショックを受けていた。

 それでも、具合の良い日の彼は以前と変わらぬ温厚で気の優しい人物で、家族との会話や散歩をよく楽しんだ。エリーザベトが焼いた菓子を食べながら思い出話に興じたり、心配したフランシスカが結婚についてたずねると兄妹は二人そろって「どうやら我々は理想が高すぎるようです」などと冗談めかした。

 この頃の彼は散歩中に何度か「この街で植木屋をやるつもりだ」と話すことがあって、エリーザベトはただの冗談だと思っていたが、もしそうなるなら自分が助手だと当然思った。


 ニーチェが比較的のんびりとした隠居生活に移行できたのは、大学が教授時代の年棒と同額の年金を彼に与えることを認めたからだった。勤続十年では本来対象にならないはずだったが親友オーヴァベック教授がはたらきかけたおかげで特例として認められた。

 エリーザベトの方もまたこの頃は様々な活動に手を出していた。英語やイタリア語の学習はあいかわらず続けていたし、絵画を習った時期もあったが兄と同じく非常に下手な絵しか描けない自分に幻滅してすぐにやめたと記述している。

 特筆すべきはナウムブルクにもワーグナー協会を設立しようと尽力していた事で、兄がワーグナーと疎遠になった後も彼女はバイロイトとのかかわりを持ち続けた。コジマとの友情はあいかわず保ち続けていたし、訪ねていけばワーグナーも表面上は以前と変わらず親切に彼女と接してくれていた。

 妹の行動をニーチェは特に咎めなかったし、時には「彼らによろしく」などという時さえあった。エリーザベトは兄の態度を、本心ではワーグナー家との和解を期待しているのだと解してひそかにはりきっていた

 そしてもう一つ。これもまた著述家ニーチェからの影響であろう、彼女はときどき小説を書くようになっていた。彼女には珍しい内向きな活動でほとんど誰にも読ませなかった。ニーチェはそれを「孵らないサナギ」とからかったりもしたようだ。

 ――こういう暖かで平穏な家族の時間もたしかに存在していた。しかしそれは、あくまで幕間の時間でしかなかった。




 1879年12月24日の夜。エリーザベトとフランシスカは沈んだ表情で食卓に着いていた。パイをはじめとしたクリスマスの料理は用意されていたが手はつけられていないし、ニーチェの姿はそこにはなかった。

 彼は二階の自室に閉じこもってしまっていた。おそろしいことに、時々暴れるような転げまわるような激しい物音が天井を通じて響いてくる。獣の咆哮のような声さえ聞こえてきた。それはニーチェの悲鳴だった。

 その空間を切り裂くような声が家の中に響くたびにフランシスカは物憂げに顔を覆い、すすり泣いた。そうして力なく呟いた。


「あの子が神様を信じさえすれば、救いがあるのに」


 エリーザベトも同じ気持ちだった。もし自分がカトリック信者だったなら、彼の罪を償うために喜んで修道院に入っただろうと思った。よりによってクリスマスにひどい発作を起こすとは。母と娘の脳裏にはいま、一つの本が浮かんでいた。

『人間的、あまりに人間的』

 それはひどく冒涜的で破滅的な本だった。一切の善を信用しない人間心理の観察者だと語る著者は、雷鳴のような筆致でこう述べる。

〝 日曜日の朝、古い鐘がひびくのを聞くと我々は自問する。一体これはありうることなのか! こういうことが、自分は神の息子であるといって二千年前十字架にかけられたひとりのユダヤ人にむかってなされているのだ。……現世の女にこどもを産ませる神……罪なきものを身代わりの犠牲として受け入れる公正……弟子たちに自分の血をのむよう命じる人間……死が関門となるような彼岸に対する恐怖……そんなものがまだ信じられていると、人は信じるべきか? 〟

 そのあまりといえばあまりな言葉を読んだ時フランシスカもエリーザベトも目を疑った。彼らの愛するフリッツの名が刻印されたその本は終始そういった調子で、この世界のあらゆる善なるものや美徳をひっくり返そうとしていた。

 いわく。善悪は普遍ではない。それは時代と空間によって定義されているだけのもので、両者の違いは遅れているか新しいかの違いでしかない。いわく。あまりの同情心のつよさに憂鬱症をわずらう人間は昔から多い。同情心自体が心の病気なのではないか。いわく。キリスト教は個人が劣っているのではなく人間自体が劣っているのだという巧妙な理屈を説いた。そうして下劣な弱者たちは初めて穏やかな気持ちで過ごすようになった……。同情心。善意。愛。何より尊い隣人愛。ニーチェはあらゆる温かい人間的なものに懐疑のメスを突き立て、人間と神を攻撃していた。

 エリーザベトはことさら信仰心が篤い方ではなかった――聖書に書かれた突拍子もない内容が全て事実だとは思わないが、そこに説かれた愛の精神は本物だと信じる――そういう十九世紀的な信仰心しか持ち合わせていなかったがそれでもひどく悲しい気持ちになった。また聖職者の妻であることを何より誇りに思っている母の心はどれだけ傷ついただろうと考えるだけで悲しかった。

 案の定、この冒涜的な本は世の道徳家から猛反発を受けた。『悲劇の誕生』を弁護してくれたローデ博士もこの本を拒否したし雑誌の書評は散々だった。

 そしてワーグナーも怒りを爆発させていた。この本でたびたび揶揄される〝やたらと懐古趣味をひけらかして扇動する、思い上がった芸術家〟は明らかに彼のことを指していたからだ。敵対者を絶対に許さないワーグナーはお返しとばかりに自分の機関紙『バイロイト新聞バイロイター・ブレッタ』の論説に「ドイツの教授は人間的なものでも非人間的なものでも妬んですぐにけちをつける」と書いてフリッツを笑いものにした。


 フリッツが多くの人を傷つけ敵に回す本を書いたのはイタリア滞在中だった。彼はパウル・レーと一緒に各地を旅しながらあんなおそろしい原稿をしたためていたのだ。「良き友の力によって僕の精神はいま多くの収穫を得ています」当時はその快活な調子に安堵したイタリアからの手紙が今となっては憎らしかった。

 エリーザベトが不安な気持ちでバイロイトに様子伺いに行くと、例の本の中で〝偉大な夫への世間の不評を代わって受け止める避雷針のような女〟と皮肉られたコジマは憤懣やるかたない様子でこう言った。

「イスラエル人がレー博士の姿で現れ、貴女の兄さんを取り込んでしまった!」

 ぞっとする宣告。ワーグナー家の人々はフリッツがとうとうユダヤ人の手先に成り下がったと見なしたらしかった。天才ワーグナーに刃向かうものはユダヤ人か、でなければ気が狂っている。少なくともバイロイトではそう決まっていた。

 腫れ物に触るようにしながら両者の仲直りの機会を伺っていたエリーザベトとしては、この事態はもうひっくり返りそうだった。自分たちをこんなひどい状況に追い込んだの名前は、もうはっきりしていた。



「俺は神をさがしている!! 俺は神を探している!!」

「誰 か 僕 を 殺 し て く れ ! !」

「殺せ殺せ!!!! 殺せー!!!!!」



 獣じみた恐ろしい声がエリーザベトの耳をつんざき、意識をいまこの場所に引き戻す。すっかり錯乱した様子のニーチェの声だ。彼は発作の時、あまりの痛みに耐えかねてあらぬ言葉を無意識に吐くことがあった。彼自身がそれをみじめに思っていたのでどうか聞かないようにとたびたび頼んできたが、ドアを全部閉ざして階下にいてもなお聞こえてくるのだからどうしようもなかった。それを聞いていたフランシスカはまた顔を覆い、とうとう泣き出してしまった。エリーザベトは母に抱きついたが自分自身も泣いてしまいそうだった。

 ニーチェはいまや慢性的な片頭痛と胃痛、そして目の神経的な痛みにひどく苦しめられていた。ひとたび発作がおきると眼球の裏をフォークでえぐられているような激痛がたえず彼を襲った。そして神経が高ぶってしまうのか全身が過敏になり、なにかが肌にこすれただけで激しいショック状態に陥った。そう分かっていてもじっとしている事もできず、余計に痛むと分かっていながらのたうちまわり、最後には失神する。数日はこの繰り返しだった。この年は三日に一度はこのような発作が起こり、彼はほとんどこの激痛の合間に生活しているような状況だった。


「父さんが亡くなる前もああいう状態だったんだよ」

 フランシスカはエリーザベトと抱き合ったまま悲しそうに呟いた。

 彼女の夫、兄妹の父ルードヴィヒ・ニーチェは原因不明の脳症状で死亡していた。――後年のエリーザベトは父の死因を偽ったが――当時の診療記録によれば、プロシア王室への忠誠心が異様なまでに強かったルートヴィヒは三月革命による王の失脚にひどいショックを受けて精神障害を引き起こし、死の一年前にはもはや自分が誰なのかも分からない発狂状態に陥っていた。彼がときおり夜中にあげた大きな叫び声は人々を恐怖させたという。

 ――もしかすると当時五歳だったニーチェには、寝室の父があげる狂気の叫び声の記憶があったのかも知れない。自分があげている絶叫が狂死した父の声と同じだと気づいたとき、彼はどれだけの恐怖を味わっただろうか。

 彼はこのとき三十五歳。奇しくも父が死んだときの年齢だった。彼は頭を掻きむしりながら叫んだ。


「同じ運命がまわってくる!! 同じ運命がまわってくる!!」


 汗、涎、涙に鼻水、それに股間も生温かい。ありとあらゆる体液にまみれながら吐き出されている言葉は本人にすら理解できなかった。階下の女たちには断末魔の叫びとしか思えなかった。

 頭蓋骨の内側から押し寄せてくる激痛に引き裂かれながら、それでもニーチェの精神の中には一つの心像イメージが妖しく煌めいていた。この日の痛みは間違いなく彼の人生の中で最大のものだった。目はもう何も見えていない。痛みと無感覚の交錯。ひょっとしたら飛び出たのでないか。四肢ももがれ臓腑も引きちぎられたのではないか。しかし心像は見えている。それは彼の頭の中にいるのだ。そこに居た。

 彼の愛するギリシアの神。より正確に言えばギリシアに神。

 ディオニュソス――悲劇の根源! 芸術の根源! 自らを人間どもに引き裂かせ、切り刻ませ、食い散らかさせ、血まみれ灰まみれの中からなお雄々しく再生する――嗚呼!!!!

 ディオニュソスが自身を引き裂かせている。同時に自分自身が引き裂かれている。痛みに追い立てられ精神を破裂させながら、自身が理解していない叫び声を上げ続けた。


「同じものが巡ってくる!! 同じものが巡ってくる!!」



 意味を成しているとはとても思えない叫び。その声が甲高く吊り上がって裏返った後、ドシャリと倒れる重たい音が響いた。ニーチェが失神したらしかった。

 フランシスカはうろたえて立ち上がり部屋へ向かおうとしたが、エリーザベトはそれをとどめた。彼女は涙ながらに言った。

「フリッツを休ませてあげましょう」

 妹の判断は正しかった。異常に高ぶった彼の神経は非常に鋭敏になっていた。誰かが部屋の扉を開けて廊下の明かりでも差し込もうものなら、それだけで彼はただちに覚醒してまた脳髄を切り裂かれるような苦痛を味わうのだ。彼の苦痛の根源は彼の頭の中に今も陣取り続けている。ほんの数分でも意識を失ったことは今の彼には間違いなく幸いなことだった。

 フランシスカは彼女までそのまま失神するのではと思われるような顔色で口元を押さえ、嗚咽を漏らした。そして呻いた。

「……神様におすがりする気持ちをもつことができれば」

 さらに続ける。

「……せめて祈っていられるのに」

 フランシスカは限りない同情をこめてそう呟いた。それは冒涜的な哲学者に対する信心家のそれではなく、苦しみ悶える息子の姿を見せられる母親の叫び声だった。

「せめて、祈れる……」

 エリーザベトは母親の言葉をひどくざらざらした気持ちで繰り返す。皮肉なものだった。兄は聖書の神とその信徒をとことんまで嘲った。母も別に祈った途端に神がフリッツの苦難を取り去ってくれるなどとは信じていないのだ。弱い者のたった一つの無意味な慰めだった。フリッツはこの小さく弱い母親の姿をも、無意味だ、救いなどないと嘲笑うのだろうか。

 エリーザベトはおかしなことに兄の気持ちも母の気持ちもわかる気がした。同時にとめどもなく腹が立った。母に対しても兄に対してもここまで強い反感を抱いたのは初めてだった。思いをかみしめながら弱々しく泣く母を抱きしめているとまた、二階から呻き声と物音が聞こえ始めた。最低のクリスマスだった。


 ――1879年のクリスマスに起こったニーチェの発作は一切途切れることなく三昼夜にわたって続き、鎮痛剤どころかアヘンも効かない苦しみに徹底的に打ちのめされた。のちに彼はこの出来事を「わが生涯最悪の冬」と表現した。

 その後もしばらくナウムブルクでの静養を試みたがやはりドイツの寒冷な気候自体が体質に合わないと判断したのか、――あるいは母親の心労に心を痛めたのか――翌年になると彼は再びイタリアに旅立った。正気の彼が家族とゆっくり過ごした時間はこれが最後となり、彼は放浪者として生活することになっていく。

 ニーチェはナウムブルクに残ったままのエリーザベトに何度かイタリア旅行をすすめたが、彼女はその誘いを都度断っている。

 彼女もまた、自分自身の人生の在り方を求め始めるようになっていた。



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