蛍と向日葵

白瀬直

第1話

 呼び鈴を押すとき、指先が震えたような気がした。

 終業式に聞いた熱中症という言葉がむくりと首を持ち上げたので、帽子のツバを下げて太陽を視界の外に追いやる。

 ここまで来る途中、蝉の大合唱に頭を痛めていたのでそのせいだと言い聞かせて指に力を入れて押し込むと、少しして家の中でバタバタと音が聞こえた。扉が開き、明るい栗色の髪と太陽みたいな笑顔が、炎天下に立っていた僕を出迎える。

「ケイくん! いらっしゃい!」

「うん。来、まし、た」

 いらっしゃいに対して、なんという挨拶が正しいのかとっさに出てこなかった。学校ではもっとちゃんと話せるのに、家に行くとなるとそうはいかない。ヒマちゃんのお母さんやお父さんもいるだろうし、丁寧にしゃべっておいて間違いはないと思うけど。

「どうぞどうぞー。上がって上がってー」

「あ、おじゃまします」

 そんな僕の緊張を知りもしないで、ヒマちゃんは学校と変わらず能天気だ。いつも男子に交じって走り回ってるヒマちゃんは顔も腕も足もこんがりと焼けている。シャツから覗く胸元にほんの少しだけ白い肌を見つけて、僕の周りだけほんの少し気温が上がる。

 ヒマちゃんの部屋。初めて入る女の子の部屋はクーラーが良く利いていて、敷かれた畳の良い匂いがした。隅にある勉強机と、その隣にあるチェストにだけ女の子らしさが見える。あとはベッドも椅子もなく、ヒマちゃんも畳に直に座っている。

「外暑いから、ちょっとクーラー強めにしてるの。寒かったら言ってね」

 ヒマちゃんはそう言ってチェストの上に置いてあった生地の薄い長袖のパーカーを羽織る。そんなに冷えているとは思わなかったけれど、それは僕が炎天下を歩いてきたからかもしれない。夜にカブトムシを取りに行くと聞いているので、一応僕も長袖のパーカー持ってきている。

「それで、何を持ってきたの?」

 楽しさがにじむ声。一緒に遊ぼうと誘われたのだからもちろん楽しいことが待っているという期待はあるんだろうけれど、何の疑いもない声に後ろめたさが大きくなる。こういうのは「むじゃき」というんだったっけ。

 僕は持ってきたリュックからプラスチックケースに入ったトランプを取り出す。

「トランプ持ってきたんだけど」

「トランプ? これ学校の?」

「いや、これは僕が持ってるやつ。柄は同じだけど」

 僕たちのクラスにはトランプが置いてあって、休み時間にはそれを使って遊んでいいことになっている。皆が毎日のように使うトランプは汚れたり折れたり何枚か無くなってしまうこともあって、その度に先生が新しいのを買ってくる。僕は同じものを親に買ってもらって、日々家でこっそり練習しているのだ。そのおかげで僕はクラスで一番トランプが上手い、ということになっている。

 ただ、ヒマちゃんが教室でトランプで遊んでいるのを僕は見たことがない。カードをめくるより、ボールを追いかけている方が楽しいという女の子だ。チェストの上に並んでいる写真立てにもそれが見て取れる。少年団のサッカー大会優勝、ちびっこ水泳大会優勝、町内カブトムシ相撲横綱。彼女のような女の子のことを「おてんば」というのだと、つい最近本で読んだ。漢字は、ちょっと覚えていない。

「ヒマちゃんはブラックジャックって知ってる?」

「うん。21のやつね」

 知っているのは正直なところ意外だった。ヒマちゃんも僕が見てないだけでやったことがあるのかもしれない。ブラックジャックはトランプのカードをお互いに一枚ずつ配っていって数字の合計が21に近い方が勝ちというゲームだ。クラスのみんなは七並べとかババ抜きしかやらないけれど、僕はブラックジャックが特に好きだった。

 カードを取り出し、シャッフルしながら指が震えてないか確認する。

「ブラックジャックって、賭け事のゲームなんだ」

「賭け事?」

 指だけでなく声も震えそうになる。一枚ずつ交互に積み重なるシャッフルの音はその声を隠すのに有効で。ヒマちゃんは僕の手元をじっと眺めていたので、声の震えには気付いていないようだった。

「だから、何か、賭けようと」

「いいよ」

 返事が早い。何も考えていないように感じるのはいつものことだけれど、逆にこちらが不安になる。これから言う言葉は、ほんの少し遠回りをした告白みたいなものなのだ。

「じゃ、じゃあ負けた人は、」

「勝った人の言うこと聞く?」

 僕の言うことを先回りした声にはっと顔を上げる。吸い込まれそうな大きく黒い瞳がじっと僕を見つめていた。その瞳に映る自分を確認できるほどの近さに驚くけれど、なんとか顔には出さずに言葉を出せた。

「そ、そう。うんそれ」

 顔には出なかったけれど、言葉には出ていた。

「ごめんごめん。そうだねー、大きなカブトムシいたらケイくんにあげよう!」

 パッと離れたヒマちゃんは相変わらず「むじゃき」に笑っている。僕はカブトムシが取れるかどうか心配していたわけではないんだけど、受け入れてもらったなら問題は無い。夏なのに暑苦しくはない、けれど太陽のような明るさを感じる笑顔にめまいを感じた。軽く頭を振って、ほんの少しの不安を指先に残しながら、9回目のシャッフルを終えて、カードの束を手に持つ。

「じゃあ、親は僕で」

「うん、いいよ」

 まず、カードを1枚ずつ配る。ヒマちゃんには裏のまま、僕は親なので表にめくる。僕の札はダイヤの10。ブラックジャックでは11以上の絵札は全部10になるので上から二番目に強い20が作りやすく、さらに1は11としても扱えるのでちょうど21になる「ブラックジャック」も作りやすい。最初に来るものとしてはかなりいい札だ。

「じゃあ、一枚ください!」

 僕はいい札が来ても顔に出さないけれど、ヒマちゃんは1枚目が良かったのが簡単に判るくらい機嫌がいい。けれど次の札で、その顔がほんの少し曇るだろうことを僕は知っている。

 2枚目を配る。このゲームは2枚では絶対に22以上にはならないので、これは全プレイヤーに必ず配られる。僕の手元にはスペードの5。これで15だ。ちなみに、親は17以上でないと上がれないので僕は必ず3枚目を引かなければいけない。

「う」

 短い言葉を発したヒマちゃんは判りやすく悩んでいた。眉間にしわを寄せて2枚目を睨んでいる。僕には、ヒマちゃんの引いたカードが判る。スペードの6だ。ついでに言うとヒマちゃんの1枚目はハートの12で、2枚の合計は16になってる。そこまで僕には判ってる。これが僕の「練習」の成果だ。

「どうする?」

 僕は平静を装った声で聞く。3枚目を引くかどうかの確認だ。2枚目の時点でヒマちゃんは僕より大きい手札を作れている。22以上になってしまうと負けになるので3枚目を引くかどうかの判断は結構難しい。僕は必ず引くのでヒマちゃんの数字を上回る可能性はあるが、同じように22以上になってしまう可能性もある。引くのと止めるのとどっちがいいか、そして山札の一番上のカードは何か。それを予想するのが、ブラックジャックの「だいご味」だ。

「うーん」

 ヒマちゃんは地面に置いた手札を両手で覆って、そこに額をつけるようにして大げさに悩んでいる。ゆっくり頭を振るのに合わせて栗色の髪が揺れて、その隙間から綺麗に磨かれた爪がキラキラ光って見えた。マニキュアとかは付けていないみたいだけれど、あまり気を配らないタイプだと思っていたので、そういう女の子らしさを見るとドキッとする。

 確かに、ここはすごく悩ましいところだ。でも実は、どちらを選んでもヒマちゃんは勝てないのだ。

「どうする? 引く?」

 僕は平静でいたつもりでいたけど、やっぱりちょっと嬉しさが出てしまったかもしれない。僕はヒマちゃんの札も、そして次に引くカードも判ってる。僕が左手に持ってる山札の一番上は、ハートの6なのだ。なのでヒマちゃんがカードを引いたら22になってしまい、負け。引かなかったら、僕の手札が21になって負け。どちらでも、負けてしまうようになっている。そういう風に仕組んであるのだ。

「ください!」

 ガバっと上がったのは勇気に満ちた笑顔だった。何事にも本気で挑む太陽みたいなヒマちゃんは最後まで挑戦を止めないのだ。そして僕もそれが判っていたから、山札には6のカードを2枚重ねている。ハートの6をヒマちゃんが引いたとしても、僕の手札にはダイヤの6が回ってくるようになっている。

「はい」

 裏のまま、ハートの6のカードをヒマちゃんの手元へ滑らせる。これでヒマちゃんの手札はハートの12、スペードの6、ハートの6。合計が22になるので「バースト」だ。バーストで負けた場合、自分から申告するのがルールだけど、

「よし、ストップ!」

 元気に宣言したヒマちゃんに、思わず聞き返した。

「え?」

「ん?」

「ば、バーストじゃないの?」

「え、うん」

 本当はそんなはずは無いんだけれど、ここでそれを追求することもできないので、

「そ、そう。じゃあ、強そうだね」

 と言って引き下がった。ニコニコしているヒマちゃんは本当にバーストしていなさそうに見える。でも、間違いなく配られた合計は22のはずだ。はずなのだ。そういう風にシャッフルしたのだから。……どうだろう。そんな風にポーカーフェイスができるタイプ、とは正反対だと思ってたんだけど。ひょっとしたらシャッフルの時に少しやり方を間違えた、かもしれない。

 そんな風に考えていると、急にクーラーの効いた部屋が寒く感じてきた。持ってきたパーカーを着たいとも思ったけれど、左手の山札を手放すのが怖くてできなかった。

「じゃあ、僕の番、ね」

 こういう時に「かたずをのむ」のだろう。既に重なっているダイヤの10とスペードの5の上に、山札からカードを配る。不安に指が震えたのが自分で判った。もし配り間違いがあるなら勝てないかもしれないのだ。ヒマちゃんではなく僕の方がバーストする可能性すらある。ゆっくりと、その1枚をめくる。

「あ」

 僕の引いたカードは、ダイヤの6だった。手元と合わせて合計21。ブラックジャックの完成だ。そして僕が覚えている通りのカードだということは、少なくとも大きく配り間違いをしたわけではない。

「あー、そっかー」

 声にほんの少しの悔しさをにじませて、ヒマちゃんは自分の手札を開ける。3枚あるカードはそれぞれ、ハートの12、ハートの6、そして、ハートの5。ヒマちゃんの手札は僕と同じ、だけど、できるはずのないブラックジャックだった。

「なん」

「同じ時って、どうなるんだっけ?」

 ヒマちゃんが笑顔のまま尋ねてくる。そのおかげで僕は実は助かっていた。少なくとも、ここで「なんでブラックジャックができているのか」の確認はできないのだ。ヒマちゃんにしてみれば、僕たちは、ただ普通にカードを配って、ただ普通に二人ともブラックジャックになっただけなのだから。

「同じ、時は」

 どうしよう。失敗した時のことは考えていなかった。もう一度シャッフルでのトリックはできない。そもそもこれはカードを選んで先に並べておかないとできないのだ。少なくとも、僕はバレずにもう一度できるだけの「練習」はしていなかった。

 僕の頭は混乱していたけど、それを思い付くのに時間はあまりかからなかった。ヒマちゃんはこの状況を、引き分けのルールを知らないのだ。それなら、もう一つ重ねれば、できなくはない。

 思い付いたそれを口にするにはかなりの勇気が必要だった。ヒマちゃんと二人で遊ぶ約束をしたときも、ここまで緊張はしなかった。家に向かっているときも、呼び鈴を押すときも、部屋に入った時も、さっき最後のカードをめくった時も、ここまでではなかった。

「17以上の制限があるから、親の勝ち、かな」

 6つ並んだダイヤを見つめながら、僕はそう口にした。

 嘘を、一つ積み重ねた。

「ふーん」

 ヒマちゃんの声は楽しそうだった。少なくとも、負けを宣告された悔しさは無いみたいに聞こえた。だけれど、その声にはさっきまでの太陽みたいな温かさは感じなかった。クーラーの風がシャツ一枚の背中に当たり、その冷たさに体が震える。夏の昼間なのに、外から蝉の声がほとんど聞こえないことに気付いた。

「ケイくん」

 僕の目の前に差し出された彼女の指先。

 磨かれた爪が輝く指にはスペードの6のトランプが挟まれていた。

 さっき配ったはずのそれを見て、僕は思わず顔を上げる。

「嘘つき」

 ヒマちゃんの月みたいな冷たい笑顔を、僕はその時初めて見た。

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