第二章 Unfrangible

 入道雲が青空にポツンと浮かんでいる。ジリジリと照り付ける陽がアスファルトを焼き、茹だるような熱気が肌に纏わりつく。相変わらず、鳴いているセミの種類はわからない。わからないままでよかった。知るつもりがなかった。

 傍らを夏服の制服の女の子が駆けて行く。ワタシの中学校のそれだ。女の子はワタシを振り返ると「おはよう」と声を掛けてくれる。

 隣の席の笹間さんだ。彼女は額に前髪を張り付け、少し息を切らしている。

 ワタシは「おはよう」と応じ「どうしたの?」と聞く。

「夏休み前の最後の登校日だから、教室の掃除をしようと思って」

 そう答える笹間さんは吹奏楽部に所属している。「教室」というのは、楽器を置いている部屋を言っているのだろう。

 「大変だねえ」と言うと、笹間さんは「まあね」と苦笑いして見せた。

「他の子も朝から掃除に行くって言ってたし、応援が始まったら掃除する暇もないし」

 そういえば、うちの学校の野球部が地区大会(?)に出場すると聞いた気がしないでもない。明日からは夏休みだ。それなのに、運動部の子も吹奏楽部の子も休むことができないというのだから、やっぱり大変だ。

「じゃ、また後で。教室で」

 笹間さんは言うが早いか駆けだしていく。「いってらっしゃ~い」と気の抜けるようなエールを送ると「いってきま~す」と笹間さんが応じてくれた。ワタシは声に出して笑ってしまった。

 「なに一人で笑ってんの」と後ろから声が聞かれる。ギョッとして背後を振り返ると、吉岡さんが口角を上げている。

「独り言はボケのはじまりなんだって」

 彼女がからかうように言うから、ワタシは少し頬を膨らませる。

「独り言じゃないよ。笹間さんと話してたんだもん」

 吉岡さんがまた笑う。

「知ってる。見てたもん」と零してワタシの隣に並んだ。

 陸上部の笹間さんはワタシよりも頭一つ分背が高い。長い髪は後ろで一本にまとめられていて、可愛いポニーテールが視界の端で揺れる。

「吉岡さんは背が高いよねえ」

 何の気なしに言う。

「相変わらず、大島ちゃんはちいちゃいですねえ」

 ワタシを見下ろしながら吉岡さんが言う。心なしか顎を上げながら言うものだから、余計に馬鹿にされている気分だ。

「ワタシが小さいんじゃないんだよ。世界がおっきいの」

 吉岡さんが「なにそれ」と噴き出す。ワタシも自分で言っていて可笑しくなって、一緒になって笑った。

 同じクラスの小岩さんが後ろから「おはよう」と声を掛けてくれる。吉岡さんと二人で振り返って「おはよう」と応じると、飯田さんが遠くで手を振っているのが見えた。

 ワタシが一生懸命手を振り返していたら、吉岡さんがワタシの両脇に手を置いて持ち上げてくれる。いつもよりも視線が高い。ワタシはまた一生懸命に手を振る。飯田さんと一緒に歩いている堀内君が笑っている。

 みんなが「おはよう」と言って当然のように並んで歩く。暑さなんか関係が無かった。強過ぎる陽の光も、うるさいくらいのセミの鳴き声も今は届かない。それで良かった。

 吉岡さんが「あっ」と言って「じゃあまた教室で」と駆け出す。

 「はーい」と手を振りながら彼女の視線を追うと、これまた同じクラスの小樽さんが遠く前を歩いていることに気が付いた。

 吉岡さんに声を掛けられたからか、小樽さんが振り返る。一瞬目が合った気がしたけれど、次の瞬間には彼女は吉岡さんと二言三言話をしていた。

 小樽さんも陸上部の子だ。背は吉岡さんと同じくらい。髪は黒いショートヘアーで、ワタシみたいなちんちくりんとは違うスラっと長身の女の子。

 文武両道、容姿端麗という言葉は彼女のために生まれた言葉だと言ってもいいくらいに何をさせてもそつがなく熟せてしまう彼女は、キリっとした目鼻立ちに小さい顔で、男子からは勿論、女の子からも人気が高い。

 「高嶺の花」と男子がコソコソ話をしていた中で聴こえたこともあった。まさにその通りだと思った。

 きっと彼女は、多くの子が悩むことに同じように悩むことなんかなくて、学力の高い学校に進学して、それなりのアルバイトをして、大学で素敵な彼氏に出会って、働きながら結婚して、寿退社して子育てをする。最初こそ子育てに悩むことはあっても、素敵な旦那さんが支えてくれて、幸せな家族を作るんだ。

 なんて、他人の人生についてわかったような気分になっちゃうのは、きっと近からずも遠からず、幸せな未来が約束されている彼女が眩しいからだ。

――ドラマチックな瞬間なんてものはない。いつも通りの日常が繰り返して、意識しないところで何かが起きるんだ――

 ふと脳裏に過ぎる声を振り払おうと頭を振る。

 セミの鳴き声がうるさい。

 アスファルトが熱気を発している。

 陽の光が熱い。

「大丈夫か?」

 堀内君がワタシの顔を覗き込んでいる。小岩さんと飯田さんは何も言わないけれど、心配そうにワタシを見つめている。

 心臓を鷲掴みにされるように、胸がざわざわと騒ぐ。

 ワタシは「アハハ」と声に出して笑って「まだ寝ぼけてるかも」と惚けて見せた。三人はホッとしたような、詰まっていた喉が通ったような表情をして、一つ息を吸って「しっかりしてよ」と口々に笑った。

 胸のざわざわはまだ取れなかったけど、セミの鳴き声が少し遠くなった。

 桜の木の日陰に入り、日差しも暑さも和らいだ。

 ワタシは遠くを歩く吉岡さんと小樽さんを見つめた。吉岡さんは夏服の襟をパタパタと動かして風を送っているみたい。

 それなのに隣の小樽さんは、まるで全身に張り付くようなこのジメジメとした暑さは届いていないかのようで、照り付ける日差しも彼女には和らいでいるように、涼しい背中をして吉岡さんの傍らを歩いている。

 不思議と違和感を抱かなかった。小樽さんのような女の子は、あらゆる面で無敵なんだろうと思った。

 結局、教室に入る直前まで彼女を目で追ってしまっていた。

 チャイムが鳴ると、担任の濱野先生が「おはよ~」と戸を開けた。濱野先生に声をかけられるままにみんなが教室を出て、並んで廊下を歩く。冷房の効いた体育館に入ると、クラスごとに整列した。

 校長先生が長~いお話をしてくれたけれど、結局何が言いたいのかはわからなかった。終えてみても心に残らないお話をすることができる才能というものは、校長先生になる前から持っていたのだろうか。それとも、校長先生になると途端にお話が下手になってしまうのだろうか。

 野球部の担当で、三年生の学年主任である強面の戸田先生が、夏休みの過ごし方について念入りに生徒に含んで聞かせる。夏休みになった途端に羽目を外しそうな子の顔を一人ずつ睨んでいるようだったけれど、みんな素知らぬ顔でやり過ごしてた。

 号令がかかり、一クラスずつ体育館を後にしていく。回れ右をすると、すぐ後ろに居た小樽さんの背中が目の前にあって、ちょっとドキリとした。

 ふんわりといい香りがする気がした。そんな気がしたところで、ちょっと変態みたいだと思って半歩後ろに下がった。隣を歩く大槻君が怪訝そうにワタシを見ている。ワタシはロボットのようにぎこちなく手足を動かして、小樽さんとの距離を保った。

 夏休み前の最後の登校日と言う日は特に授業らしい授業が無くて、教室に戻ってみんながそれぞれの席に座ると、濱野先生が「オホン」とわざとらしい咳払いをした。

 濱野先生が話すことは戸田先生の言っていたことの繰り返しのようなもので「来年の受験に控えて、夏休みになっても気を抜かないように」だとか「どこかに家族や友達と出掛けた際に事故に遭ったり怪我をした場合には、慌てずに、落ち着いたら学校にも連絡を」だったり、兎に角、長期の休みの前のお決まりの定型句だった。

 みんなが口々に「は~い」だとか「わかりました~」なんて気の抜けた返事をするものだから、濱野先生は呆れたような、仕方ないなと諦めたようなそんな表情をして「いいか?」と口を開いた。

 みんなが背筋を伸ばす。

 先生は優しく微笑んだ。

「日々、様々な変化がある。変化することは怖いかもしれない。何もかもが初めて経験することだ。わからないことだらけだ。どうすればいいのかわからない」

 ちくり、と心臓に痛みが走る。ワタシはその痛みに気が付かない振りをして、濱野先生の顔を見つめる。先生は、一人ひとりの顔を順番に見渡しているようだった。

「“恐れるな”とは言わない。言える立場にないからだ。先生も変化が怖い。夏休みが終わって、みんなが今日とは違うみんなになっている。どう接するべきか、一から考え直さなければならない」

 「でも」と先生は言う。

「アルベルト・アインシュタインは『時間の相対性』を説いた。全ての物体は、ある一方向の時間の流れに沿って絶えず変化する。先生も、夏休みが終わったら変化していることだろう」

 後ろの席の古谷くんが「どんなふうに?」と茶化す。

 先生は古谷君を見て「わからない」と小さく顔を振る。

「全ての物体は、ある一方向の時間の流れに沿って絶えず変化するんだ。時間の流れは、過去から今を経て未来に繋がる一本の線で結ばれている。未来はわからない。だが、その善し悪しは別として、必ず変化する。仏教ではこれを『諸行無常』と言う」

 そう一息に言って、先生は「だから」と続ける。

「一人で抱え込まないで欲しい。変わることが必ずしもみんなと同じものではないだろう。君たち一人ひとりにそれぞれの変化が起きる。だが、忘れないで欲しい――

 斜め前に座っている小樽さんの横顔が見える。彼女は真剣に先生の話に聞き入っているように見える。

 小樽さんが、持っているペンを指先で回すのを止める。

 全ての時間が止まってしまったかのように、一瞬の静寂があった。

 ワタシは濱野先生に視線を戻した。先生は一つ頷いた。

――君たちは、一人じゃない」

 濱野先生のお話はその後も続いたけれど、どれもあまり覚えていない。兎に角、夏休み前の最終日にすべきことは速やかに執り行われて、一人またひとりと席を立っては「またね~」と声を掛けてくれる。ワタシも「またね」と応じながらスクールバッグのジッパーを閉じた。

 下駄箱に向かおうとして、足が止まった。傍らをいろんな子が次々と下駄箱へ向けて歩みを進めていく。みんなの後頭部を見つめて、ワタシは背後に振り返った。そのまま意味もなく足が動く。下駄箱は遠のいていく。

 「どこへ行こう」という目的はなかった。だから自然と足が動いていた。廊下は無限に続いているように思えた。どこまでも、どこまでも、「学校」という廊下がワタシの前に立ちはだかっているように。

 そこでふと思い至った。

 無限の廊から逃げ出すように足を左に向けた。階段をゆっくりと登っていく。二階、三階、四階。屋上に出る扉のノブを握って回す。微かにカタンと鳴って、ノブはそれ以上動かなかった。鍵が掛かっているんだ。

 今にして思えば至極当然のことに、どうして気が付かずにいたのだろう。古今東西、今昔合わせてみても、十代の子どもが屋上で遊んだことで起きた事故は枚挙に暇がない。鍵が掛かっているのは自明だった。ワタシはドアノブを握った自身の手を見て自嘲した。

「鍵、掛かってるでしょ」

 不意に後ろから声を掛けられたものだから、ワタシは飛び上がった。ノブから手を放して階下を見た。

 階下には小樽さんがいる。彼女は、手に持った何かを顔の横に持ち上げる。

「これで開けられる」

 どうやら彼女がその手に持っているものは、ワタシの背後にあって屋上へと至る道を阻む扉の鍵だった。小樽さんがドアノブの上に誂えられた鍵穴に差し込んで手首を回す。カチャンと気味の良い音が鳴る。彼女はワタシを見て「ね?」と首を傾げた。整った容姿の彼女がそうして見せると、凄く様になるものだなと思った。

 扉を開け放つと、すぐに茹だるような熱気がワタシたちを包んだ。種類のわからないセミの鳴き声が合唱している。全てを包み込んでくれる様な群青と、大きく聳える入道雲。太陽は真上にあって、翳した掌越しじゃないと眩しすぎてまともに見れそうにない。

 小樽さんは転落防止のための金網に寄りかかって座ると、スクールバッグからスケッチブックと筆箱を取り出して傍らに置いた。

「絵、描くの?」

 ワタシが聞くと、彼女は「え?」とオウム返しに言って、スケッチブックを見て悪戯っぽく笑った。ワタシの心臓はどきりと跳ねた。小樽さんのそんな表情は初めて見たからだ。

「口実。ワタシは信用されてるから大丈夫だと思うけど、もし先生が見に来た時にこれがないと不味いから」

 彼女はそう言うと、何気なくバッグから煙草の箱と使い捨てライター、それに消臭スプレーを取り出した。煙草の箱には丸の図形がいくつも重なり、中心の赤い丸の中には白文字で「LUCKY STRIKE」と書かれている。

 ワタシが見つめていることも構わずに、小樽さんは慣れた手つきで煙草の箱を開けて一本を手に取って口に咥えた。右手にライターを持つと、親指を押し込んで着火する。左手は風を遮るように添えられている。

 一息吸って、次いで彼女は上を見上げた。ふぅと吐息を漏らすと、白い煙が彼女の頭上に吐き出される。ワタシはその様を黙って見つめていた。

 違う。何も言うことができないでいたんだ。

「意外?」

 小樽さんが微笑む。

「……“意外”って言うか、“違法”でしょ。“ワタシたちの年齢”だと」

 ワタシの言葉が面白かったのか、小樽さんは「アハハ」と声に出して笑う。

「そうだね。“違法”だ。“ワタシたちの年齢”だと」

 認めはしても彼女は煙草を吸うことを止めはしなかった。再び口に咥えて浅く息を吸う。右手に持った煙草を口元から離して、白い息を吐きだす。

「“ワタシたちの年齢”はできないことが多いね。法的にも、物理的にも」

 ワタシは彼女の傍らに座った。右膝を立ててそこに腕を置く彼女の前に立っていると、スカートの中が見えてしまってどぎまぎしたからだ。少なくとも、人ひとりが入れる程度のスペースを置いて隣に座る限りは、落ち着かない動悸は薄れた。

「よく、ここに来るの?」

 小樽さんを見ることができなくて、眼前に広がる青空を見ながら、そう口にしていた。彼女は煙草を咥えて「ふふっ」と笑う。そうしてまた白い息を吐く。

「偶に、ね。儘ならないことが多い現実から逃避したくなる時に、ここに来るの」

 と、言って見せて彼女はワタシを見る。

「今のが、“模範的”な回答。ワタシたちは常に“模範的”な回答を求められる。授業でも、日常でも。何かにつけて“模範的”な“理由”がないと、大人は納得してくれない」

 小樽さんは手に持った煙草を見つめた。ワタシもその細い指先が弄ぶそれを見つめる。

「こんなもの、“理由”なんてないの。ここに来ることも意味なんてない。でも『なんでここに来るの?』と聞かれた途端に“理由”が必要になる」

 「馬鹿みたいじゃない?」と彼女は言う。

「第三者が観測した時、“理由”のない行動は不自然に見える。だから“理由”を捏ね繰り出して、行動に意味付けをする。第三者から見て『だからこの行動は不自然なものではないんですよ』と教えるために」

 小樽さんは自身のバッグを漁って銀色の小さな箱を取り出した。それを親指と人差し指で開け、煙草の先の灰を落とす。

「“ワタシたちの年齢”でも、大人の年齢でも関係はない。人間は変化が怖いから、他者と違うことを恐れるから、小さなコミュニティで生存していくために“理由”という嘘をつく」

 「大島さんはなんでここに来たの?」と小樽さんがワタシを見る。

「ワタシは……」

 考えて、彼女を見つめ返した。小樽さんは片方の眉を上げて微笑んだ。

「『“理由”なんてない』でしょ?それでいいの。ここに来た意味なんてなくていい。今ここに“居る”ことが重要なんだから」

 ワタシは彼女の言葉を反芻していた。

「“居る”……」

 小樽さんは煙草を咥えて「そう、“居る”」と言う。

「事故のこと、聞いたよ」

 彼女の言葉に、ワタシの心臓はまたどきりと跳ねた。

 彼女はそんなワタシを横目にしつつ白い息を吐いて頭上を、見た。ワタシもそれに倣う。雲がゆっくりと流れていく。照り付ける太陽は雲に隠れてくれそうにない。

「三連休の初日の土曜日。高速道路は行楽に向かう車で溢れていて、下道の一般道も渋滞してた。大島さんの車もその渋滞に嵌まってたの?」

 いつの間にか、見上げていた顔をこちらに向き直していた小樽さんが聞く。ワタシは「うん」と短く応じていた。

「その渋滞に向かう一つのトラックがあった。故意だったのか、事故だったのか。もうわからない。兎に角、ガソリンスタンドに輸送する予定だったガソリンを積載したそのトラックはブレーキも踏まずに、渋滞の一番後ろにあった車に正面から突っ込んだ」

 脳裏で天使がラッパを吹いている。その次に映るのは、真っ暗な視界。

「乗用車27台が巻き込まれた多重事故。犠牲者は、小さな子どもを含めて全部で53人。重体の者と重傷者は、今なお病院で治療してる。更に犠牲者が増えるかもしれない」

 小樽さんは煙草を咥える。

「何が言いたいの?」

 ワタシは焦れたように浅く息を吸う。心臓が早鐘を打っている。

 彼女は白い息を吐いて、銀色の箱に煙草を押し付けた。白煙が小さく上がる。小樽さんは吸殻を箱に入れてワタシの目を見つめる。

「あなただけがこうしてここに“居る”。見たところ目立った傷は見えない。どこか体を庇っているようにも見えない。大島さん、あなた――

 「母子手帳を見たの」とワタシは小樽さんの言葉を遮った。彼女は開いていた口を閉ざした。

「お母さんはマメなタイプだし、ワタシは長女で初めての子どもだったから、母子手帳は探せばすぐに見つかった。普通分娩で、特に問題はなく生まれた2,780gの正常出生体重児。出生後も大きな問題はなくて、赤ちゃんが罹りやすい沢山の病気になったことはなかった」

 ワタシの口は、ワタシの意志に反して動き続ける。

こんなことを彼女に話して何になるの?と頭の中のワタシが言う。

何にもならなくていい、ともう一人のワタシが言う。

小樽さんの言う通り、「“理由”なんてなくていい」んだ。

「ワタシは運動が苦手で、この前の体育大会も憂鬱だった。脚が遅いから、徒競走が特に苦手なの。転ぶかもしれないと思って怖かった」

 「そういえば」とワタシは小樽さんの目を見つめる。

「小樽さんは陸上部で、脚が速いよね」

 彼女は何でもないことのように「そうね」と言い「それで?」とワタシに続きを促す。

「運動が苦手なのは、昔からだった。『よく転んで泣いてたのよ』ってお母さんは言っているけれど、ワタシの記憶の限り、膝に絆創膏を貼った覚えがないことに気が付いた」

 口の中が乾いていた。こめかみを汗が伝う。生温い風がワタシたちの間を吹き抜ける。

「小樽さんは、インフルエンザに罹ったことは?」

 ワタシが問うと、彼女は頷く。

「勿論ある。インフルエンザも、上気道感染――いわゆる風邪になったこともある。それがどうしたの?」

 ワタシも頷いた。

「ワタシは、覚えてる限りではその風邪やインフルエンザに罹ったことがない。病院に行ったことがないから、保険証はあっても、病院の診察券は持ってない。虫歯になったことはない。これまで怪我をした覚えもない。だから試しに、ナイフを力いっぱい腕に押し当ててみたの」

 「どうなったの?」と小樽さんは言う。普通、ただの女子高生が「自分の腕にナイフの刃を立てた」なんて聞いたら心配をするものだけど、まあこの文脈では仕方ないとも思った。

「……ナイフが折れたの」

 小樽さんは息を呑んだ。ワタシはその表情を見て安心した。彼女もワタシと同じように“ただの女の子”なんだと思えたからだ。

 ……尤も、ワタシは“ただの女の子”なのかと言えばわからないのだけど。

「小樽さんの推測の通り、あの事故で無事だったのはワタシだけ。無事どころか、無傷だった。気は失っていたみたいだけど、病院で目を覚ました時に来たお医者さんは、ワタシが何か特別な措置を取ったのか、何処に居たのか聞いたの」

 「何かしたの?」と小樽さんが恐るおそる言う。ワタシは頭を振る。

「何もしていないの。あの瞬間、ワタシは助手席に座ってシートベルトをしていただけ。何かしていれば良かった。“理由”があれば良かったのに。……ワタシは、何もしていないの」

 「何も」と続けようとして視界がぼやけていることに気が付いた。小樽さんが眉の間に皴を刻んでワタシを見つめている。喉がしゃくりあげる。みっともない声が出る。タイルに置いた手の甲に雫が落ちたのが分かった。

 「何も」と言おうとして、肩が揺れる。小樽さんの顔がすぐ横にあった。彼女の頬とワタシの頬が触れる。彼女の腕が背中を包み込み、ぎゅっと抱き寄せてくれる。

柔らかい、と頭の中のワタシが言った。

「大丈夫。あなたは悪くない。“理由”なんてなくていいの」

 彼女の声色が湿っている。

 彼女も泣いているのかもしれない。そう考えた途端に涙が溢れて止まらなくなった。ワタシは小さな女の子がそうするように声を上げて泣いた。あの事故の日からずっとそうしたくて堪らなかった。でも、できないでいたんだ。

 ワタシと小樽さんはセミが鳴いている間、ずっとそうしていた。

 離れたくなかった。

 離れられなかった。

 太陽の位置が西の空に傾いてきた頃、ワタシたちはやっと泣き止みはじめて、冷静になった小樽さんは「ごめんね」と言いながら、ワタシをその華奢な両腕から解放した。

 ワタシは「ううん」と応じながら、少し身を引く。

 いつの間にか、人ひとり分あった空間はぎゅっと狭くなっていて、彼女の整った顔かたちが視線で傷つけられるぐらいに近くにあった。ワタシたちはじっと互いの目を見つめている。

 「ワタシは脚が速いの、知ってるよね」と小樽さんが言う。

 ワタシは「うん」と小さく頷いた。今や、彼女の吐息が鼻先にかかる。

「陸上部で走るとき、ワタシは力をセーブしてるの。ホントはもっと速く走れるの。その気になれば、きっとジェット機と同じくらい。生まれた時から、ずっとそうなの」

 彼女の睫毛は、雑誌に載っている海外のモデルさんくらいに長い。その鼻筋は綺麗な弧を描き、高い鼻先まで繋がっている。

「きっと、ワタシと大島さんは、種類は違うけど同じことに悩んでる」

 「えっ?」とワタシは首を傾げた。

 小樽さんがまた悪戯っぽく笑う。その様があまりにも艶っぽくて、ワタシは顔が熱くなるのを感じた。

「“ワタシたちの年齢”だと調べられることにも限界がある。でも、この悩みに名前があることは突き止めた」

 「名前?」とオウム返しに言うワタシに彼女は「そう、名前」と頷く。

「“脆い”人間とは違う、新たな能力を持った“脆くない”人間。海外の学者さんが命名したみたい。Unfrangible (アンフレンジブル)って」

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フレンジブル-friendible- ともハンクス。 @tomo05hanks04

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