フレンジブル-friendible-
ともハンクス。
第一章 愛してる
真っ白なカンバスに青い絵の具をぶちまける。
何もかもを受容し、その全てを吸い込んでしまいそうだった白を、青色はさもそれが当然のことかのように、無垢で、無知だから、何でもないことのように自分の色で染め上げていく。
白にできることは、何もない。ゆっくりと青の指先が白の肌の上を撫ぜて、そうしてその軌跡を塗り潰した。
澄んだ青空に浮かぶ入道雲を見上げ、ワタシは何故だかそんな情景を思い浮かべてしまって、ぶるっと身震いした。
「冷房、弱めていい?」
隣でハンドルを握るお父さんがワタシの言葉に気が付いたのか「ああ、ごめん。寒かったか」と言って、ワタシとお父さんの間に置かれた機械の摘みの一つを指先で回した。車内を冷やす風の勢いが少し弱まる。
お父さんはハンドルを握ったまま、前を向いて顔を顰める。
「参ったな」
お父さんを見ていたワタシも、同じように前方に視線を動かした。車のリアウィンドウとリアランプにナンバープレートが、横並びに二つ。それが見える限り遠くまで何台も連なっている。
渋滞に嵌まっているんだ。
「迷ったの?」
さっきまで高速道路を走っていたはずだ。でも、事故かなんかで渋滞していて、そこでも車がゆっくりとしか動いていなかった。ワタシがボーっと空を見上げていた間に、どうやら下道に降りていたらしい。
車線は二つに減り、まるでこの前の体育大会の日みたいに、車がみんなきれいに整列して身動きが取れなくなっている。そんな連想をしてしまったものだから、ワタシの脳みそは体育大会の徒競走まで引き合いに出してしまって、いつの間にか眉を寄せてしまう。
お父さんが「アカネ、ごめんね」と言う。
ワタシは言葉の意味するところが解らなくて、「えっ?」とポカンとした顔でお父さんの顔を見上げた。お父さんはそんなワタシを見て、困ったような、どうすればいいのかわからないような、そういう表情をしている。
「近道を知ってたから高速を降りちゃったんだけど……。みんな考えることは同じなんだなあ」
ワタシはそこで漸くお父さんの言葉の意味を理解して、「ああ」と馬鹿みたいに声を出しながら顔を横に強く振った。
別に、お父さんを責めたかったわけじゃない。渋滞に嵌まっていることは確かに退屈だけど、最近足が遠のいてしまっていたおばあちゃんとおじいちゃんの家に、やっといくことができるんだ。
電車だと片道何時間掛かるかわからなかった。お父さんがお仕事の休みを合わせてくれたお陰で、土曜日の朝に出掛けて、夜に帰ってくるなんていうことができる。
休日の朝、それもこんなに良い天気なのだから、高速道路も国道何号線だかわからない大きな道路も、車で渋滞することは考えなくてもわかることだった。織り込み済みのことで、何の不満もない。それだけ。
「ダイジョブ。ちょっと嫌なこと思い出しちゃって、渋滞が嫌だとかそんなじゃないの」
取り繕うために口から漏れ出した言葉は言い訳じみていて、そんなつもりもないのに後ろめたくなった。
大きく頭を振るワタシにお父さんが噴き出す。
「アハハ」と笑って、ワタシの髪をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でつける。お父さんの顔を見上げる。もう、困ったような、どうすればいいのかわからないような表情はそこにはなかった。
ワタシはホッと胸を撫で下ろして、けれどなんだか気恥ずかしくなって、お父さんから視線を外して前に向き直った。
お父さんはそんなワタシをしばらく見つめていたみたいだけれど、二秒と経たずにハンドルに手を伸ばして、同じように前の車のナンバープレートか、リアウィンドウかリアランプに視線を移した。この時、お父さんがどんな表情でワタシを見つめていたのか、今はもうわからない。
出し抜けに、お父さんが言う。
「道に“迷う”っていうのは、なんだか不思議な言葉だよね」
お父さんは時々変なことを言うから、ワタシは「うん?」と聞きながら、目の前の車のナンバープレートの数字の並びに意味を見出そうとしている。
「進むべき道がわからない。どうすればいいのかわからない。これを人は“迷う”と言う」
このナンバープレートの数字に意味は見出せない。ワタシは諦めて隣の車のナンバーに視線を移す。お父さんは、変わらずに前を向いたままだ。
「“迷う”ことだけをすることはできないんだ。必ず行きたい場所、叶えたいことがあって、その道のりで人は“迷う”んだよ」
ナンバーは「1235」だ。「1234」だったら良かったのに。惜しい。
ワタシは「うん」と応じながら、その一つ奥の車のナンバープレートに視線を移す。
「アカネは……――
気がつけば、お父さんがワタシを見つめている。
ワタシはそんな視線に気が付かない振りをして、ナンバープレートを見つめている。
「アカネは、これから多くのことに悩むかもしれない。“難しい時期だから”なんて曖昧な言葉ではぐらかすこともできるかもしれない。けどお父さんは、そういう無責任なことをアカネにしたくない」
お父さんがハンドルから手を放して「ふう」と息を吐く。右手で左肩を揉んで、左手で右肩を揉む。長い時間ハンドルを握っていたから、肩の筋肉が強張っているんだ。
「じゃあ、そういう時に思い出す言葉が、ある7月の土曜日、渋滞に嵌まった車の中で言われたものであっていいのかとも、思う」
ワタシは思わずナンバープレートから視線を外して、お父さんを見上げていた。
お父さんの言っている言葉の意味が、解らなかった。
そんなワタシを見て、お父さんは微笑む。
「でも、そんな時に思い出す記憶が、何気ない時間のものであって欲しい。ドラマチックな瞬間なんてものはない。いつも通りの日常が繰り返して、決して意識しないところで何かが起きるんだ」
お父さんの大きな右手がワタシの頬に触れる。優しくて暖かい掌が頬に触れ、長い指先が髪を撫でつける。
「……こんな力、あっても邪魔なだけだと思ってた。喪うことが初めからわかっているのに、どうして――
その眼が、眉が、口元が、歪む。
「お父さん?」と、ワタシはか細く呼んだ。その声は宙空に胡散する。
「喪うとわかっていても、お母さんを愛した。アカネとアヤトを愛してる。未来への希望を、君たちのお母さんは教えてくれた。行き先がわかっていても、迷う楽しさを知ることができた。これはお父さんの意志だ。――そうだ。他の誰の意志でもない。お父さんの意志なんだ」
車は全く動かない。窓越しにセミの鳴き声が聞こえる。種類はわからない。アブラゼミかもしれない。陽の光が、ワタシの左手と膝に照り付ける。
「今から言うことを、よく聞きなさい。アカネ」
お父さんの手が頬を離れて、頭の上に置かれる。お母さん譲りの明るい色のワタシの髪を、そっと掬い上げる。
「人はどうして“迷う”と思う?」
「どうして?」とワタシは問うている。
お父さんがその言葉を待っていたように、深く息を吸う。
「“辿り着く”ためさ」
柔らかい笑みを称えるお父さんに、ワタシは自然と微笑み返していた。
けれどお父さんは、何故だか強く目を瞑った。
どこか遠くで低いラッパのような音が鳴り響く。その音が近づいてくる。
前に観たアニメでキャラクターが言っていた。「ヨハネの黙示録」にはこう記されている。終末の日、天使が舞い降りてラッパを吹く。なんてタイトルだったっけ……?
衝撃が車内を揺さぶった。
ワタシの視界は、黒一色に塗り潰された。
どこか遠くで、お父さんの声が響いている。
「アカネ。愛してる」
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