12. 夢話
タクミが寝ぼけ眼を擦りながら暗くて居心地の良い巣穴(寝室)を抜け出し、朝日が眩しい居室に入ると、スズはすでに起きていて、今朝方届いたのであろう手紙を読んでいるところだった。
「おはよう。調子はどう?」
「うーん、ちょっと喉が痛いかな。ね、それよりこれ、誰からの手紙だと思う?」
少女はいつになく興奮しているようで、頬が上気して赤くなっていた。踊り出さんばかりの勢いでソファーから立ち上がり、手紙を見せようと彼のもとへ駆け寄ってきた。これはまだ夢の続きを見ているのかなと思いながら彼は少女を迎えた。
「なん?メグ・イシアンさんから?」
彼の口から何気なく転び出た久しい名前に、少女は心底驚いたような顔をした。
「なんでわかったの!?」
「え!?ほんとにそうなの!?」
つられて彼も驚いてしまったが、おかげで目が覚めた。少女から手紙を受け取って読んでみると、確かにそれはメグからのもので、魔法の道具を持って逃げたヴィル・レインの現所在地をとうとう突き止め、これから捕縛に向かうという内容だった。
寄り添って一緒に手紙を読んでいた少女が不思議そうな顔で見上げながら尋ねてきた。
「でも、なんでわかったの?」
「わかったっていうか、今日夢にメグさんが出てきたんだよ、これから屋敷に帰りますって。もしかしたら、あれも魔法だったんかな」
もう一度手紙を改めてみた。書かれたのは22日前のようだ。だいぶ遠くまでの追跡行だったらしい。
だんだんと実感が湧いてきた。もうほとんど諦めていた元の世界への帰還も、もしかすると実現するのかもしれない。
「でも、間に合って良かったよ。元の世界に帰れたら、病院で検査すればたぶんもう大丈夫だから。後遺症も、今の感じだったら、そんな無いでしょ」
彼の言葉に少女も嬉しそうに微笑んで頷いた。熱が引いてから32日、投薬を止めてから7日が経過しているが、症状がぶり返す様子は見られない。少女は順調に体力を回復していた。おそらく、治療に成功したのだ。
庭の土から採取された、白い小さな菊の花みたいなコロニーを作る菌から精製した物質はdisk diffusionテストでポジティブかつ肺炎モデルマウスで高い治療指数を示した。その物質を大量に生産し、少女や病院に入院していた他の患者に投与したところ、全員ではないにしろ、約七割の患者に症状の改善が見られ、うちスズを含む三割は熱も引いて咳もほぼ止み、痰も出なくなり、今のところ完治したように見える。少女の肺がどれくらいダメージを受けてしまっていたのか、どれくらい回復できるのかはわからないが、治療後に体力が回復し顔色も良くなっている(血中酸素濃度が回復している)ところを見るに楽観できそうだ。治療に成功したとわかったときは、屋敷も各工房もお祭り騒ぎになった。およそ一年前に突然この世界に迷い込んでしまったとき、タクミは自分には物語の主人公のような振る舞いはできないと思った。けれど、魔法があるとはいえ、決してゲームのように都合の良いものではなく、科学ができて本当に良かった。そして、まさか自分が悪役になるとも思っていなかったが。少女がいつまで保つかもわからず、ゆっくり治験をしている余裕がなかったので、投薬にあたり他の患者で人体実験をしたのだった。
庭の土から採取された中に、白い菌糸を放射状に伸ばし、全体ではやや凸凹のコロニーを作るものがあった。きれいにできたものは小さな菊の花のようにも見えた。増殖速度はやや遅めか。その菌の培養液は弱酸性から中性条件下でdisk diffusionテストで強い殺菌作用を示した。溶媒抽出法では塩基性、中性条件では水層に、酢酸よりも強い酸性条件ではエーテル層に移動した。カラムクロマトグラフィーではエタノール、次いで酢酸水溶液で洗浄したのち、クエン酸と塩化ナトリウムの水溶液で溶出すると効率よく精製できた。フリーズドライで得られた粉末は無臭で白かった。便宜上、以降この菌をシラキク、この物質をシラキクンと呼ぶことにする。
シラキクンを生理食塩水に溶かして希釈系列を作り、肺炎モデルマウスの腹腔に注射して治療指数を調べた。前回の話で得られたA菌を接種された肺炎モデルマウスでは、非抗生物質を投与された対照群は10日以内に九割以上が死亡するのに対し、シラキクンを毎日一回20mg/kg投与された群は10匹中3匹が、50mg/kg投与された群では10匹中6匹が10日目まで生き残った。また、B菌を接種されたモデルマウスでは、対照群は10日以内に死亡するのが二割、10mg/kg投与された群は全匹が生き残り、うち肺内の菌量が健常なマウスと同程度まで減少したのが2匹、50mg/kg投与された群では7匹に同様の菌量の減少が見られた。一方、シラキクンを健常なマウスに投与した場合、1500mg/kgで10匹中4匹が、2000mg/kgで10匹中6匹が死亡した。治療指数は44ぐらいあるだろうか。
次に、シラキクン10, 100, 1000mg/kgの希釈系列を健常なマウスに投与してどのような副作用があるかを調べた。対照群と10mg/kg投与された群では有意な体重の変化は無かったが、100または1000mg/kg投与された群はどちらも体重が5日でおよそ3%減少した。8日目に屠殺し、解剖して肝臓、腎臓、胃、膵臓、心臓、肺を摘出し、重さを測ったり、個体の重さで割って標準化したが、各群の間で有意な差は無かった。別の臓器か組織が体重の減少に寄与しているのだろうが、見つけられなかった。血圧や血中の細胞濃度、骨密度なども測る手段がない。
尻尾からなどの皮下注射でも同様の傾向が見られたが、経口投与では効果が弱まってしまった。
シラキクンを投与されたマウスの行動に何か変わったところがないか、飼育係の意見を聞いてみたら、毛繕いの時間が長くなっているのではないかと返ってきた。またなぜか尻尾がくるんと丸くなったりもしていた。
Disk diffusionテスト用のテスト菌、肺炎モデルマウス用のA菌とB菌に加え、そのときたまたま培養中だった他のバクテリアや、少女の痰から単離されたいく種類かの菌に対しては殺菌作用を示した。一方でカビに対しては強い殺菌作用は示さなかった。
ずっと求めていたものだ。これはもしかしたら抗生物質として使えるものかもしれない。化学構造も殺菌の作用機序もわからないから確かなことは言えないが、これを肺炎の患者に投与すれば、致命的な副作用を引き起こすことなく、肺内で増殖してしまった病原菌を除菌できるかもしれない。
踊り出したいほど嬉しかった。だって、もうほとんど諦めていたのだ。抗生物質の生産なんて、運が良ければ数年でとか、そんなふうに思っていたのに。
けれど実際に踊り出したりしなかったのは、まだ全てが終わった訳ではなかったから。
このまま、シラキクンを毎日一回20mg/kgヒトに投与して、熱や咳が引いたら治療完了、ではない。一旦治ったように見えても、病原菌がまだ残っていて再び増殖し再発することもある。しかしずっと治療を続けるという訳にもいかない。コストがかかりすぎるというのもあるが、副作用の毒性も無視できない。たとえ人体に直接の影響が全くない抗生物質などというものがあったとしても、皮膚常在菌に肺内常在菌、腸内フローラ、その他の共生関係にあるバクテリアどもまで除菌されてしまうし、それは結果として宿主のヒトの健康を害することにもなる。抗生物質を多用することはその耐性菌を広めてしまうというリスクもある。
現代では、新しい薬、新しい治療法が提案されたら、動物実験で安全性が確認されていても、ヒトの臨床で再度その有効性と安全性を試験する。用量は、投与頻度は、他の薬と併用しても大丈夫か、効果は、副作用は。経過を予後を詳細にモニタリングしながら、いざ何かまずいことが起こったときにはきちんと対応できるよう準備して。
医療行為は患者の人生を大きく左右するかもしれないのだから慎重にならなければならず、厳正な臨床試験が条件付けられている。そして、その厳正さゆえ、かかるお金と時間ゆえ、現代でもせっかく開発された有効な新治療法が実際の医療現場ではなかなか利用できないという問題もある。
今、シラキクンを少女の治療に用いるとして、その必要最小限の用量がわかるならそれにこしたことはない。しかし正式な治験をやっている余裕はない。上にも書いた通り時間がかかりすぎる。現代社会で、多くの医療機関が人が協力してやって数年かかるものを、彼が一人でできる訳ない。そうでなくても少女の肺炎は少しづつ進行しており、いつまで保つともわからない。また、たとえ治療が間に合っても、遅ければ遅いほど肺もダメージを受けていて予後も悪くなる。
なるべく早く治療を開始したくて、でも安全性のため必要最小限の用量を知りたくて。そのための簡単な手が一つ、少女の治療に先行して、同じ症状を患っている他の患者に様々な用量を試してみて、十分に治療効果のある用量のうち最小のものを選べばいいのだ。
ところで、シラキクン10, 50, 100mg/kgの希釈系列と対照群用の生理食塩水を用意し、肺炎の患者に投与して経過を観察するという実験は、実は現代社会では犯罪行為だ。別に、健康なヒトを麻酔して肺に病原菌を植菌するだとか、副作用がはっきりわかるように過剰投与するだとか、投与後にサツガイして解剖するだとかはもちろんしない。もともとその病気を患っている患者に、動物実験をもとにおそらく安全だと思われる用量を投与するだけなのに。
それでもヒトが対象である限り最大限の注意を持って安全性を確保せねばならない。本来だったら、患者に適当な用量を投与してみる前に、まずは自由意志で治験に志願してくれた健康な人を対象に極微量の投与から始めて、少しづつ用量を上げて安全性を確かめる。次に、安全性が確かめられた範囲の用量で症状が比較的軽度な患者を対象に投与し、その有効性を確かめる。重篤な患者にいきなり投与して、薬効よりも副作用の方が強く出て容態が悪化してしまったら大変だから。最後に、その薬あるいは治療法が本来対象とする患者の群で効果を検証し、ここを通過してやっと実際の医療に用いることができると認められる。
本来通らねばならない治験のプロセスを省略し、安全の確証が取れていないシラキクンを任意の用量で患者に投与することは許されるだろうか。科学の未発達なこの世界では、彼がわざわざ説明しなければ誰も疑問を抱くこともないだろう。大体、治験に関する法律はおろか、医療行為だの医師の資格だのに関する法律も制度も未整備らしいので、彼が何をしようがそもそも違法ではない。相手の無知につけ込み好き勝手する、不義理をするというだけだ。
彼は自問してみた。
肺炎の患者を集め、十分な説明もせずに、シラキクンの安全性を確かめる実験に利用することはできるだろうか、良心は痛まないだろうか、何食わぬ顔を保てるだろうか。きっと大丈夫だろう。良心が痛まないこともないが、それは例えば路上で人にぶつかってしまっただとか、階級制度の恩恵に与っているだとか、日常生活の中でも申し訳ないと思うことは多々ある中、仕方のないことだと思って生きているし、それらと比べてこの人体実験が特別悪いことだとも思わない(どちらかと言えば階級制度を甘受し低階級の人々を搾取していることの方が悪いことかもしれない)。
もしも治療がうまく行かず、患者が亡くなってしまったら。残念だが仕方ない。いずれ不治の病だ。治療が必ずしもうまくいくとは限らないということぐらいは事前に説明しよう。もしももしも主たる死因が薬の副作用だったら本当に残念だが、仕方ない。精一杯手を尽くしたがダメだったと、彼の故郷の病とよく似ていたので同じ治療法を試したが、違う病だったのかもしれないと言って謝ろう。実際病原菌は元の世界のものとは違うかもしれなくて、だからその言い訳は嘘ではないし、治療法が間違っていた、薬に毒性があったと疑われることはないだろう。
たとえ法に明文化されていなくとも、人道的観点から人権を尊重し正しい手続きで治験を行うべきではないか。第一目標が少女の治療で、それに間に合わせることが最優先だ。
この世界の他の肺炎患者よりも少女を特別に優先する理由は何か。それは彼と少女が私的に親しくしているから。この世界の見知らぬ誰かが肺炎に苦しんでいたとしても、それはもともと彼の関わることではないし、技術を持っているからといって提供しなければならない義理も義務もない。
あれこれ考えて正当化を試みて、そして、どうしても正当である必要はないのだということに気がついた。彼は正義漢ではない。不特定の他人に不義理なことをして後で悔いるよりも、少女の治療が間に合わなくて悔いる方がよっぽど辛い。今彼と少女がこの屋敷の世話になっているのも、悪い魔法使いの追跡という危険な任務を保身のためにアキラという少年に押し付けたからだ。善人ぶるには今更だ。
スズのためだ。もう知らない相手じゃない。タクミは、愛国心なんて糞食らえだし、同郷だからってなんとも思わないが、だからこの世界に来たばかりの頃だったら少女とこの世界の人々の間に優先順位をあえて付けなかったろうが、今は違う。
薬が完成したと伝え、臨床試験の準備にとりかかった。街の医者や病院を周り、新薬の実験に参加してくれる肺炎患者を集めた。また、屋敷からそれほど離れていないところの街の一角、三階建ての建物五軒を買い取って実験参加者の入院施設を準備した。もともと普通の住宅で、元の持ち主が遺産相続の折の整理のために売り出していたのを買い取り、病院としてリフォームしたのだ。階段を広げ、ベッドを並べ、洗濯室や調理室、浄水装置に浴室、事務室、作業部屋などを整えた。
病院といっても来院した患者を診察するわけではないし、行う治療も一種類きり。食事を与え、衛生管理をするが、シラキクンの投与以外の医療行為は基本的に行わない。
通常の部屋では一部屋にベッドが五つ並び、一フロアに部屋が四つ、六フロア24部屋に112人の患者が収容された。また、貴族や金持ちの患者が21人それぞれ個室に入り、合わせて133人が入院した。清掃や洗濯、調理や介助などを行う従業員は40人、治療のサポートを行う従業員は10人。この従業員に屋敷の使用人は含まれず、全て新たに公募して雇った人たちだ。ちなみにスズは入院せず、屋敷で治療する。
患者からは治療費をとってはいない。薬の効果を証明するために協力して欲しいのだということにして、入院費から食費から薬代から全部タクミが持つことにした。実際の治験でも治療費を患者に請求したりはしないのだし、そうするのが当然だと思っていたのだが、この世界の住人からはたいそう驚かれてしまった。
どういうわけか、屋敷の使用人連中も工房の連中も、それに彼の薬開発に全く関わっていなかった街の他の住人たちもその新薬が効果的なものだと信じて疑わぬようなのだ。熱機関磁石発電機電磁モーター冷却機などを作ってみせたことで、彼が何かすごい技術を持っているのだと盲信させてしまったのか、それとも薬には副作用がつきものなのだという知識が無いからなのか。
せめてもの誠意は見せようと、タクミは参加してくれた患者一人一人と面談し、彼がここで行う治療とその新薬が必ずしも病気を治すとは限らないのだと説明した。
「ですから、この薬は魔法の薬じゃないし、万能薬でもないんです。これを使っても全ての病気を治せるわけじゃないし、同じ病気でも治せる人と治せない人もいます。ここに入院している人たちのうちのどれだけに効くかもまだわかりません。それに、治療にどれくらいかかるのかもわからないし、完全には治せないかもしれない。それでもいいですか?」
これだけネガティブに説明しても、車椅子に座って聞いていた貴族の御婦人は迷うことなく頷いた。
「ええ、構いません。いずれ他に治療法もなくて、我が家の主治医にだってどうすることもできなかったんですから。もし少しでも治せる望みがあるのなら、それに賭けてみたいのです。それから、せめて私の身の回りの世話をしてくれる人たちのお給金ぐらいは出させてくださいな」
「わかりました。ご理解、ご協力ありがとうございます。それでは、治療法と今後の予定について説明しますね」
他の患者もだいたいこんな感じだった。どころか、家が裕福でない患者たちは清潔な服とベッド、十分な食事が無料で供されるというだけで大変ありがたがられた。仕方のないことだが、家庭にも社会にも経済的な余裕がなければ、不治の病を患った患者は症状緩和のための対処療法どころか日常の十分な世話を受けられないということもある。医療技術が未発達という以前に、社会が産業が前近代のレベルなのだ。
病院のリフォーム中、そして患者が入院してから面談、診察、症状の分類などを行なっている間に、ラボの方ではシラキクンの生産をひたすら行なった。133人の患者を四つの群に分けて、それぞれにシラキクンを0, 10, 50, 100mg/kg投与するとして、平均体重が50kgだとして、一回につき約264g必要で、毎日一回投与するとして、実験期間の日数分だから、相当な量だ。シラキクンの精製は上に述べたとおりで、一日で生産できる量はおよそ100gが限界だったから予め作り置きしておく必要がある。幸いシラキクンは乾燥粉末の状態で冷暗所に保存することができた。工業用エタノール醸造所の運営を行っている使用人のバスク及びその醸造所のスタッフがシラキクの培養を、工房から見習いに来ているスチューダや他数名の職人たちが試薬の調整やシラキクンの精製を手伝ってくれている。
各患者に関して、体温や脈拍をはじめ、容体をできる限り詳しく毎日記録した。前話で肺炎の原因として複数種の病原菌またはウイルスがいることを紹介したが、その治療に関して、ウイルスには当然抗生物質は効かないし、バクテリアでも種類によって効果的な抗生物質が違う。タクミは秘密裏に患者をスズと似た症状の群と似てない症状の群に分けた。スズと同じ病原菌が原因で肺炎を患っている患者をシラキクンで治療することができれば、同じ用量で少女の治療を開始できる。一方で、異なる病原菌が原因の患者を治療できたとしても少女の治療を同様にできるという保証はないが、しかしどのような副作用がありうるか、その参考にすることはできるから、実験に意味がないわけではない。そうこうしているうちに、シラキクンの備蓄が十分にできて、いよいよ実験を開始した。
といっても、やることが大きく変わるわけではない。相変わらず毎日体温や脈拍やらを測って、そして、それに加えて毎日一度注射をするだけだ。上記四種類の濃度のシラキクンの希釈系列に関して、スズと似た症状の患者群及び似ていない患者群それぞれを年齢や病状がなるべく均等になるように割り振った。ここまで読んできた読者ならもうわかると思うが、薬を患者に投与したときに効果があるか、その効果が用量によってどう変わるかを調べるためには、用量以外の条件をできるだけ同じに揃えなければならない。
投薬後、咳が止むとか顔色が良くなる(血中酸素濃度が上がる)だとか熱が下がるだとかしたら万々歳だ。そして投薬をやめても症状がぶり返したりしなければ治療完了だ。逆に、症状が急激に悪化したり、あるいは別の重篤な変化が出てきてしまったら薬の副作用が疑われる。少しでもその兆しが見えたら即投薬を止めて回復に努めなければならない。CTスキャンはおろかX線撮影すらできないから、患部を観察して判断できないのがもどかしいが。
調剤室でシラキクンの希釈系列を調整していたら、患者の診察を終えたスタッフたちが報告にやって来た。
「ノートここに置いておきますね。あと、ヘーンショーグさんがまた朝食残しちゃってたみたいで」
「また?今度は何がダメだったの」
「サラダに入ってたチクパー(香りの強い葉菜)がダメだったみたいで」
「なんでぇ?あれ美味しいじゃない」
「まぁ、私も好きですけど、苦手な人は多いですから」
好き嫌いはよくないよなと思いつつも、無理やり口に詰め込んでも吐き気を催してしまうのだと反論されたら仕方ない。食育ってほんと大事。やれやれとため息を吐きながら診察記録を確認し、他に大きな問題も無さそうなので放置することにした。個別メニューを組めるほどの余裕があるわけでもない。
投薬を開始してから五日間が経過しても、まだ参加者たちの容態に明らかな変化は見られなかった。重大な副作用が出てこないのは幸いだが、このまま薬としての効果も出てこないのであれば用量の増加を検討しなければならないかもしれない。などと思っていたら、11日が経過したところで、50、100mg/kg投与された患者群の内18人で咳の頻度が下がる、痰が出なくなる、熱が下がるなどの症状の緩和が観察された。内訳は、50mg/kg投与群の方が回復した人数が若干多かったが有意差があるかまでは分からず、またスズと症状の似た群、似てない群の間にも大きな差はなさそうだった。用量0mg/kgの対照群や10mg/kgの群では症状の改善は見られていないから、栄養状態や衛生状態の改善が原因ということもないだろう。
診察を行っていたスタッフも、それに清掃や調理を行なっていた他の従業員たちもこのニュースにとても興奮していた。翌日の朝のミーティングでは人伝に聞いたのであろう、皆が期待に目を輝かせて臨み、タクミの口から正式に報告がなされると一斉に大きな拍手と歓声が上がった。
「まだだよ。まだ完全に治ったわけじゃないし、ここからまたぶり返しちゃったら意味ないんだからね。それに、他の患者さんたちの症状は変わってないだから、気を緩めずにいきましょう」
ラテックス手袋やマスク、石鹸、消毒用エタノールの在庫を確認し、従業員たちの健康を確認し、その他の細かな連絡をして、前日までと全く同じように業務を行うよう指示をした。
その一方で、彼は秘密裏に計画を次の段階に進める準備を始めた。用量10mg/kgでは効果が弱すぎるが、50mg/kgで効果が認められ、また今のところ目立った副作用もないことから、今まで10mg/kg投与されていた群にこれからは50mg/kgを、また50mg/kg投与しても効果が認められなかった患者に対しては100mg/kg投与することにする(もちろん0mg/kgの対称群はそのまま)。そして、どれくらい投薬を続けなければいけないかを調べるために、熱が引いてから0日、10日、20日、あるいはもっと時間が経ってから投薬を止めて、その後症状が振り返さないか、予後を観察する。
上にも書いた通り、病気が治った後いつまでも投薬を続けるのは副作用をはじめ様々な問題があるから、投薬期間は短いに越したことはない。しかし、もしも患部に病原菌が十分に残っていたら再び増殖し、症状が再発してしまうかもしれない。滅菌や除菌という言葉から、微生物の細胞を破壊するような絵面が想像されるだろう。実際アルコールや熱による消毒はそれに近いと思うが、一方で抗生物質の微生物の細胞内の特定のプロセスに干渉するような場合では、その細胞がどれだけ活発であるかによって効き方も変わってしまう。一般的に、活発に分裂を繰り返しているような細胞には薬は効きやすいが、反対に、少しづつ栄養をため込んでいるだけの細胞など、あまり細胞内に大きな変化がない細胞に対しては効果が薄いことが多い。増殖の遅い病原菌は数度の投薬で分裂中だった何割かが除菌されたとしても、休止状態だった何割かは生き残っているかもしれない。全ての病原菌を完全に除菌できていなくてもいい。十分にその数を減らして、患者の身体が自力で残りの病原菌を排除し回復できるようになればいい。
熱が引いて0日目に投薬を止めてしまったら、もしかしたら患部にまだ病原菌が大量に残っているかもしれない。もし症状が再発するとしたら、それは投薬を止めてから何日後だろうか、投薬していた期間の長さによって再発する患者の割合や再発するまでの時間は変化するだろうか。一旦熱が引いたらそれが完治の験で、そこで投薬を止めても再発しないのだったら嬉しい。しかし、例えば0日目に投薬を止めた群では六日後に八割が再発し、10日目に止めた群では六日後に三割が再発し、20日後に止めた群では誰も再発しなかった、そして0日目に止めた群の残り二割、10日目に止めた群の残り七割もその後20日以上経過しても再発しなかったなら、そちらの方が安心できる。タクミは病院に入院している実験参加者全員の病気が治ればいいと望んでいるが、同時に0日目で投薬を止められた群の何割かが症状を再発することを何処かで期待してもいた。
動物実験で安全が確認された薬の投与を、なぜ人体実験などという大仰な言葉を使って表したかがわかってもらえたと思う。ちなみに、これらの実験のノートは病院のスタッフと共有している診察記録とは別にタクミ個人でつけている。日本語で書いているから、偶然誰かに読まれてしまってもその内容がバレてしまう心配はない。
結論から言えば、シラキクンはかなり優秀な抗生物質で、肺炎の治療にも有効であるらしかった。
それでも全ての患者が完治したわけではない。薬の投与を続けてもいくつかの症状が緩和しただけの患者もいたし、一旦熱が引いた後に投薬を止めたら全然別の症状を発症した患者もいた。薬の副作用というわけではなく、併発していた別の疾患、栄養不足や重労働、不衛生などに起因する基礎疾患や他の感染症など、原因はいくらでも考えられる。幹部に重大なダメージを負っていたら、病原菌が取り除かれた後もその組織の機能は完全には回復しないかもしれない。抗生物質でできるのはバクテリアの数を減らすことだけだ。
スズと似た症状の患者のうち、熱が引いた0日後に投薬を止めてその後同じ症状を再発したのは七割ほどで、再発までの日数は五日から17日とばらけていた。10日後に投薬を止めた群では、一割の患者が10日後から15日後の間に再発した。20日後に投薬を止めた群では、再発した患者もいたのかもしれないが、別の疾患が顕在化したものと見分けることはできなかった。
シラキクンを投与された患者のうち症状の改善が見られたのはおよそ七割で、薬が効き始めるまでには二日から19日(まず10日間シラキクンを50mg/kg投与して、効果が認められなかった場合には100mg/kgに増量した)かかった。患者によっては薬の副作用もあったのかもしれないが、併発していたのであろう別の疾患の症状と見分けることはできなかった。
熱も引き、他の症状もなく、見た目ほぼ健康体になった患者を、予後を見ると言って30日間病院に留めておいたが、再発の様子もなく、本人も元の生活に戻りたいと言い出したので、身体に異常を感じたらすぐに連絡するように言い含めて退院させた。その後、感謝の手紙が届いたが、どうやら健康を維持できているらしい。
実験に参加した患者のうち完治したといえるのは三割ほどだったが、これは予想以上に高い数値だった。
シラキクンの効果がある程度確かめられたところで、並行して屋敷の方でもスズの治療を開始した。用量50mg/kgで毎日注射し、八日後に一旦熱が下がったが、13日後に再びやや上がり、15日後に平熱に落ち着いた。19日後の夕方に一度だけ熱が若干出たので、念のためそこから20日間シラキクンの投与を続けた。
声はかすれたままだったが、咳や痰はだんだんと止み、紫だった唇にも蒼白だった頬にも赤い血の色が戻ってきた。倦怠感もなくなったのだろう、以前はずっと座るか寝るかで過ごしていたのが、再び庭に散歩に出るようにもなった。
目に見えて健康になる少女に屋敷中がソワソワと浮かれだし、調理人たちは少女の食欲が戻ってきたからと料理を作りすぎてバートルに叱られたりしていた。メーイたちは、少女の体型が細くなってしまったから、それに合うよう服も新調しようと言いだした。タクミが止めなければセンセアは回復祝賀パーティーを開催しようとまでしていた。
研究に協力していた各工房からもお祝いの品が届けられた。
「タクミさんタクミさん、見てこれ、奥様宛だって」
スズのことを詳しく紹介したことはなかったから、タクミと一緒に遠い国(異世界)からやってきた女性という情報からパートナーだと誤解したのだろう。贈られてきた大きな化粧台やアクセサリーは日本人の感覚からすれば中学生には不相応なもので、二人して笑い転げた。
「けど、今後なんて紹介するのがいいんだろうね。親戚でもないし、もともとただ同郷ってだけだからねえ」
「別に、親戚ってことにしてもいいんじゃない?ここの人たちから見たら私たち日本人同士は見た目も似てるんだし。それか後見人とか?」
「うーん、後見人つっても、保護者してるわけじゃないしな」
屋敷に来たばかりの頃ならともかく、今は少女も独自に本を出版するなど、随分とたくましくなっている。
およそ一年間、決して長い時間ではないが、ずっと必死にあれこれやってきたので、日本にいた頃がまるで大昔のように感じられる。タクミとスズの関係もだいぶ変わった。保護者と被保護者ではないが、互いに一番大事な人だ。
少女の治療にはおそらく成功したが、抗生物質の研究は規模を縮小しつつ続けている。肺炎が再発した場合、あるいは彼または少女が他の病気に感染してしまった場合、シラキクン以外にも利用可能なものがあればそれだけ心強い。もう急ぐ必要もないから、心にも時間にも余裕を持ってやっているが。
少女の方は気が早いもので、治療が終わったら何をしたい、どこに行きたいと色々計画を立てだしている。
「このネックレスとか、ちょっと豪華すぎるよねー。うちの学校でさ、女子の間ではビーズアクセサリーとか流行ってたんだけど、100均でビーズ買ってきて手作りするの。ガラス工房でビーズ作ってもらうのとかできるかな?」
「それは面白そうだけど、投薬が終わってもしばらくは安静にして予後の観察だからね?」
「わかってますよう」
そんなことを話しながら二人して贈り物の整理をしていたら、バートルが渋い顔をして居間に入ってきた。
「夕食の用意が遅くなり申し訳ありません。また料理人どもが無駄に張り切っておりまして」
「あはは、待ってないから大丈夫だよ。じゃあ行こうか」
「ええ。美味しいのは嬉しいんだけど、せっかく痩せたのに、また太っちゃいそう」
シラキクンの投与を止めてからもスズの症状が振り返す様子はなく、順調に体力を回復しているようだった。ここまで来てようやくタクミも安心して眠れるようになった。以前は、実験がうまくいく夢を見たりして、起きてから夢だったことに気がついてがっかりするなんてことがよくあった。
しばらく経った頃に、懐かしい人物の夢を見た。約一年前にほんの数時間会話しただけで、屋敷に肖像画の類もなかったからほとんど顔も忘れていたのに、その夢の中では相手の姿が随分とはっきりしていた。着ている服は記憶と違うようだったが。
「メグ・イシアンさん?」
「はい、タクミさん、お久しぶりです。長らくお待たせしてしまって、申し訳ありません。うかつに連絡すると、相手に気取られる心配があったので」
二人は薄暗い見たこともない部屋の中で小さなテーブルを挟んで座っていた。そのテーブルの上で、小さなコマが静かに回りながら1677万色に光っていた。
「無事にお過ごしみたいで良かったです。何か不便していることはありませんか?」
夢にしては会話の内容もはっきりしている。
「いえ、ちょうどひと段落したところですよ。おかげさまで不便はしてないのですが、代わりに謝らなければいけないことが。この一年間でだいぶ色々ありまして、裏庭の倉庫を改造しちゃったんです。あと屋敷も少し」
「えっと、バートルとセンセアが賛成したのなら大丈夫ですが、それはどういったものなのでしょう?」
「実はスズが肺炎に罹っちゃいまして、それで抗生物質を作るためにラボを作ったんです」
「ハイ、エン?何かの病気ですか?そのコーセーブッシというのは薬か何かですか?」
「ええ、そうです」
たちまちメグの表情が痛ましいほどに曇った。
「それは、大変苦労されたのでしょうね。スズさんは今どうしているか、聞いてもよろしいですか?」
「ええ、今は回復してますよ。実のところ抗生物質の精製に成功したのもここ最近のことで、ようやく治療できたんですけど。予後も良さそうだし、うまくいったんじゃないかな」
「ということは、スズさんも無事なのですか?」
「無事です。他の患者と比べても一番回復してるし」
それから最近の屋敷の状況や、提携している工房のこと、彼らが何をしているのかをかいつまんで伝えた。メグは時々質問をしながらその話を熱心に聞いていた。説明しながら、タクミは自分がなんとも無謀なことを計画し、そしてあり得ないほどの幸運でその計画を成し遂げてしまったものだと笑ってしまった。もしかしたら誰かがLUC値が+20される魔法をかけてくれたのかもしれない、なんて。
「そんなことがあったのですか。スズさんだけでなく他の患者まで治していただいて、なんとお礼すればいいかわかりません」
「そんな。他の患者たちは、善意で治療したんじゃないし、全員治せたわけでもないんだし」
「それでも治療してくれたことには変わりありません。その、チケンというのをやったことを後悔しているわけでもないのでしょう?」
無断で患者たちを実験に利用したことについて、後悔はしていない。必要なことだったし、結果論だが重篤な副作用もなかったので誰も不利益を被っていない。実験が一通り終わったあと、全ての患者に対してできる限りの治療を施したが、それでも完治に向かっているのは全体の三割ほどだった。しかし、例えば正しい手順で治験を行なったとしても、薬の効果自体が変わるわけではない。本当に結果論だが、おそらくシラキクンで救える最大人数を救った。運が良かった、が、
「運に任せてやっていいようなことではなかったんです。言い訳はできません」
「それでもやはりお礼を言わせてください。それから、こちらも全員無事です。アキラさんもお元気ですよ」
メグが柔らかく微笑むと同時に部屋の中に朝日が差し込んできた。
「ああ、もうこんな時間ですね。最後に、世界を渡る魔法とあなたたちの帰還について、ご安心ください。無事魔法の道具を取り返すことができましたので、これからそちらに戻ります。あとほんのしばらくの間お待ちください」
ずっと静かに回っていたコマがゆっくりと倒れ、カラカラと音を立ててテーブルの上を転げ回り、止まった頃には光も消えていた。
目を覚ますと、見慣れた天井があった。不思議なことに、夢の中で交わした会話を全部覚えていた。空はすでに明るく、時計を見ればだいぶ寝坊してしまったらしい。
タクミが寝ぼけ眼を擦りながら暗くて居心地の良い巣穴(寝室)を抜け出し、朝日が眩しい居室に入ると、スズはすでに起きていて、今朝方届いたのであろう手紙を読んでいるところだった。
「おはよう。調子はどう?」
「うーん、ちょっと喉が痛いかな。ね、それよりこれ、誰からの手紙だと思う?」
少女はいつになく興奮しているようで、頬が上気して赤くなっていた。踊り出さんばかりの勢いでソファーから立ち上がり、手紙を見せようと彼のもとへ駆け寄ってきた。これはまだ夢の続きを見ているのかなと思いながら彼は少女を迎えた。
異世界の都で @joblessCat
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