一滴で滲む

唯ノ芥

人知れずこそ思いそめしか




私はとても根に持つタイプの人間なのです。




先日、3歳になろうかという息子は2週間ばかり忘れていたワガママをまた思い出して、ショッピングモールの帰りに大好きなバナナを買いたいと泣き出しました。


家にまだバナナは5本あったので、私は息子に買うことが出来ない旨を伝えました。


しかし息子は今ここにバナナはないの一点張りで、ただひたすらにバナナを欲しがります。


私はこの時、強い気持ちで息子を引きずってショッピングモールを去りました。


息子は一人で寝ることが出来る子でしたが、この日の夜は大好きなぬいぐるみを片手に泣いて起きてくることが2回ありました。


翌朝、息子はパンが食べたいとまたワガママを言いました。


息子はゴハンよりもパンが好きなのです。

お気に入りのパンを昨日、買い忘れてしまったため、ゴハンを出したらこの始末。


私はこの時、何かの糸が切れるのを感じました。


息子を寝室に連れて行き、ベッドに放り投げて『じゃあ、もう出てくるな!』という捨て台詞と共に力一杯ドアを閉めました。


息子は小一時間泣きじゃくり、静かにベッドで寝ました。


お昼時になって、けろっとした笑顔で起きてきた息子は再びパンを要求してきました。


根に持つタイプの人間である私は午前中のこともあって、息子にだいぶ苛立っていました。


『だから!ないって言ってんじゃんか!』


息子はまた目に一杯の涙を浮かべて、ぐずぐずし始めました。


『なんでママの言うこと分かんないの⁉︎』


とうとう息子は堰を切ったように涙を垂れ流しながら、私を小さな両の拳でドンドンと叩いてきました。


私は息子の手を引いて玄関まで連れて行き、『ママの言うこと聞けないなら、どっか行きなさい!』と怒鳴ってそっぽを向きました。


息子は地団駄を踏んでいました。


私は顔を合わせるとどうにかなりそうだったため、リビングへ向かいました。


するとガチャっと玄関の扉が開く音がしました。


私は血が逆流するような感覚に陥りました。

私たちが住む一軒家は環状の通りが目の前にあり、車の往来もそのスピードも凄まじい場所に面しています。


脚がもつれて一度つまずいて足首をひねりまさしたが、私はスニーカーを浅く履いて駆け出しました。


息子はいつも遊ぶ公園の方に首を振りながら走っています。


交差点まで約20メートル。


歩行者信号は青く点滅していました。


私は私の肉体のどこかが千切れても構わないという想いで後を駆けます。


なぜスニーカーなんか履いてきたのか…

いや、なぜ息子から目を離してしまったのか…

そもそも、なぜつまらない事で怒ってしまったのか…




走馬灯のように巡る疑問。




気がつくと私は息子を抱いて横断歩道の真ん中で泣いていました。




息子の足の裏はは夏の熱い陽射しに焼かれたアスファルトの熱と母の理不尽な怒りに焼かれて、赤く擦り剥けていました。




私がこの時泣いたのは後悔をしたからでも、安心をしたからでもありません。




靴さえ履かずに私から逃げようとした息子の裸足が…足の裏の赤が、ただただ悲しかったのです。




◇◇◇◇◇




そんな息子はもう34歳になり、先日子供を連れて久々に実家に帰ってきました。


その時私は孫である男の子の足の裏の柔らかく小さなさまを見て泣いてしまいました。


息子は『歳を取るとこれだよ』と笑いました。


私は『馬鹿ね。あなたにもいつか分かる時が来るかも知れないわよ。』と笑い返しました。




しかし本当は違うのです。我が子よ。




私は孫の可愛さに涙したのではないのです。




私はあの日の赤を思い出してしまったのです。




それはあなたの記憶にはない

──私だけがずっと抱く悔恨。




私はとても根に持つタイプの人間なのです。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一滴で滲む 唯ノ芥 @garbagegarden

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ