4.結晶樹の街の風景

幕間.ある家族の肖像――あるいは幸福な日々

 運命、あるいは奇縁とでも言うべきものがある。

 

 東都の夏はなと思いながら、須藤隆はネクタイを胸元まで引き下ろした。

 平世14年8月のその日は朝から晴天だった。郷里くにである九洲福丘の片田舎とは違い、近くに山も川もないせいか、はたまた人口密度やビルの反射のせいか、やたらと蒸し暑く感じる。あるいは、学生の時に習ったヒートアイランド現象というやつか……。不意に上京した日のことを思い出す。4か月前、新幹線の長旅の果てに降り立った東都駅の入口で、陽に照り映える赤煉瓦の駅舎に結晶樹の蔦が這っているのを見つけて、こういうところは郷里くにと変わらんのだなあ……と感じたものだった。

 1958年に第三次南極観測隊の手によってはじめて日本国内に持ち込まれた結晶樹は、良くも悪くもその後の数十年で社会を劇的に変えていた。

 高度経済成長に伴うモータリゼーションの影響を受けて社会問題となっていた、交通インフラの不備や自動車規制の甘さに起因する交通事故の激増を、結晶樹は速やかに解決した。世界各国の研究機関によって結晶樹の実の持つ『あらゆる外傷を無効化する』という特性が明かされて以来、人々の生活には結晶樹の実が組み込まれ、日本の交通事故死傷者は1970年の凡そ16000人をピークに減少していくことになる。

 一方、治安については悪化することになる。結晶樹の実を食した人間による零結晶の形状操作、所謂思惟による介入ディレクションにより、銃刀法による刃物の規制が事実上無意味となった。大学闘争で火炎瓶やゲバ棒と共に、活動家からは矜持を、体制側からは皮肉を込めて『三種の神器』と評された硬結晶は、学生運動の鎮静化と共に不良少年たちの抗争の道具へとその立ち位置を変えていった。子供に人気のあるテレビドラマや漫画やアニメの中で印象的に使われる様々な形状の武器は、その危険性を認識されるよりも前に広く真似をされ、痛ましい事故が相次いだ。結果、義務教育の中で、硬化ディレクションの正しい扱い方についての授業が行われるようになった。

 空き巣の件数が増加した。当時一般的であったピンシリンダー錠であれば、鍵穴に詰め込んだ零結晶を硬化させるだけですぐに『合鍵』が手に入ったからだ。現在においてはあらゆる建築物において電子錠の機能を持つことが法的に義務付けられ、アナログ錠の建物はわずかな例外を除き存在しない。

 官・民を問わずさまざまな機関において結晶樹とその果実についての研究が進められた。1971年に結晶樹の実を特定企業のみが取り扱えるようにするための結晶樹の果実の専売に関する法律――通称『果実専売法』が制定され、文字通りの意味で命を守るセーフティネットとしての結晶樹の実が安定供給されるようになった。結晶樹の実が生活必需品として薬局やドラッグストアに流通し、CMが打たれ、人々の生活は結晶樹の存在を前提として営まれるようになった。

 もっとも、隆自身について言うなら、結晶樹の実を口にすることはほとんどなかったのだが。

 

 法人相手の車の営業で、隆は見慣れたビルのエントランスを潜り抜ける。

 オフィスのフロントで、とろんと目尻の下がったような、まだ新人と思われる受付嬢に記名を乞われた。今回で三度目。既に顔見知りである。新人同士、なんとなく親近感が湧く。

 しゃちほこばった楷書体で社名と自分の名前を書くが早いか、颯爽と身を翻して、隆はエレベーターに向かっていく。

 飛び込み営業などもう慣れたものだ。何度断られてもへこたれない、一念岩をも通す、そういうタフさが隆にはあった。

 ――あの、

 と受付嬢が何かを言いかけたことに、隆は気付かなかった。

 外で緩めていたネクタイが、そのままであることにも。


 商談相手からは出会い頭に激昂された。

 訪問先の商談窓口となっている課長はマナーに厳しいことで有名で、上司からも気を付けて臨むよう口酸っぱく言い含められていたにも関わらずだ。

 ――君は他社を訪問するときに身だしなみの確認もしないのか?

 ――自分の会社を背負って来ている自覚はあるのか?

 ――君のところは、弊社のことを、そんなだらしない服装なりでも取引できる低レベルな会社だと考えているのか?

 いきなりの雷に面食らっていた隆がネクタイのことに気付いたのは、しばらく後のことだった。

 慌てて締め直したときには、もちろん、とっくに手遅れだった。


 チーン、というお悔やみのような到着音とともに、エレベーターのドアが開く。隆がとぼとぼと一階のフロントに戻ったとき、先程の受付嬢が、はっと顔を上げた。

 ――ネクタイ……。

 と彼女が言うのを聞きつけて、隆はむっとなるのを抑えられなかった。

 商談にしては早い帰り、しょぼくれた自分の顔、それらの情報から上で何が起こっていたのかを予想したのだろう。

 気付いていたなら教えてくれれば良かったのに、と、口を開きかけたところ、


 ――あの、気ば落とさんでくださいね、きっと、ですけど。


 隆は、えっ、という顔をした。

 それは彼にとって耳慣れたイントネーションで、言葉を発した受付嬢を、まじまじと見つめてしまった。そして思わず、こう尋ねていた。

 ――もしかして、きみ、福丘ん人と?

 今度は受付嬢の方が、えっ、という顔をした。

 

 勢いで彼女を喫茶店に誘って、随分と話し込んだ。

 彼女は名前を莉子と言った。驚いたことに彼女とは、出身県のみならず、生まれた市までが隣り合わせだった。話し込む間にお互いの高校の文化祭に行っていたことが判明したときには、あまりにも出来過ぎていて、二人して笑ってしまったほどだ。

 お互いに、運命、という言葉に酔えるくらいの若さがあった。

 その場で携帯電話のアドレスを交換したことも、一週間後に食事の約束を取り付けたことも、数回のデートののちに交際が始まったことも、約一年の交際期間を経て結婚に至ったことも、ごく自然な流れと言えた。

 ――飛び込みで契約を結んだ上に、夫婦の契りまで結んでしまうとはねえ……。

 式の場では、いつぞやの商談相手の課長に、随分からかわれたものだったが。

 

 東都狗吠市いぬぼえし、駅から徒歩10分の閑静な住宅街。

 二人で頭を悩ませて、新居の場所をそこに決めた。

 もっとも、正確を期すのであれば『三人で』と言うべきだったろう。その時には既に、妻である莉子の身体に、新しい命が宿っていたからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

結晶樹の街のエデンズフィールド 広咲瞑 @t_hirosaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ