第6話 いぬのきもち(最終話)


 こんなにもハナに早く会いたいと思ったことが今までにあっただろうか。朝は忙しくて、ハナの言葉はまだアニマルグラスで聞いてはいなかった。自分にまとわりつくこの糞の匂いを早く落としたい。ハナの毛並みの優しい香りで打ち消したい。その一心でペダルを漕ぎ続けていたら、いつのまにかマンションの部屋のドアの前に立っていた。

 意味もなく震える指先で鍵を開け、焦りに任せてドアを開いた。思っていたよりもゆっくりと動いたその扉は、不気味なほどに静かに開く。

 電気の消えた小さな部屋の中、艶のある床に窓の白い光が鈍く反射して、不気味な逆光を演出していた。ハナの姿は無い。

 小さな足音が聞こえる……ハナだ。それはこちらに気づいたのか、近づいてくる。タタタタタタッ……と、フローリングに爪がぶつかる音がだんだんと大きくなる。

 そうして私の目の前に来た我が愛犬、「ハナ」とぴったり目が合う。泣きそうな私の目を、いつもと全く変わらぬ眼で見つめる。そして口を開きーー

『××××××××、×××××××××××××××』













 電話が鳴った。「はいはいー」と誰にともなく言ってそっと番号を覗き込むと、それは女性動物愛護団体「LAP」の会長のものだった。

 会長には先日、「アニマルグラス」を郵送し、予定通りなら昨日の夕方に家に届いたはずだ。退会者が続出したことについて、何か情報を掴めたのだろうか。

 受話器を手に取り、耳に当てる。

「もしもし、会長さん?」

『はい』

「アニマルグラスのことですよね、何か情報掴めました? あっ、あとどうです? 使用感というか、感想みたいな!」

『北内さん』

「は、はい。なんですか?」

『私、会長をおります』

「……は?」

『LAPも辞めます』

「ちょっと、どうしたんですか。冗談よしてくださいよ」

『いいえ、私は本気です』

「アニマルグラスで何かあったんですか?」

『……何もありませんよ。それより、北内さん犬を沢山飼ってますよね』

「飼ってますけど……それがどうしたんですか」

『私のペットのハナを引き取ってくれませんか?』

「え……ちょっと、本当にどうしたんですか? 会長さんがそんなこと言うなんて変ですよ!」

『本当に何もありませんから。明日、引き継ぎ資料とハナを持って行きます』

「待ってください。アニマルグラスの事で何かあったんですよね? 会長さん? 会長さんっ」

 プツッ、と言う音。次いでスピーカーから聞こえるのは、こちらの声はもう会長には聞こえないことを示す冷たい電子音。

……始終、彼女の声は死んだようだった。何が彼女をあんなにしてしまったのだろう。LAPからの退会者を続出させたアニマルグラスが、彼女にも牙を剥いた……そうとしか考えられなかった。状況的に飼い犬であるハナが会長に何かを言ったことは間違いなさそうだが、ハナが彼女に何を口にしたのか、もはや知る由もない。あれほどハナ一匹に愛情を注いでいた会長が「引き取ってくれ」と言うほどの、決定的な言葉……。

 北内は既に起動していたパソコンの画面を操作し、会計管理画面を起動した。十回ほどのクリックの末、「Animal Glasses」という名前のついたファイルを開く。

 ……いい機会だ、この目で確かめてみよう。

   北内は躊躇うことなく、「賃借」のボタンをクリックした。





















〈アニマルグラス 取り扱い説明書〉

p.47

『アニマルグラスの仕組み・諸注意』

⑦使用上の注意

・頭痛など身体に異常が見られる時はすぐに使用をやめ、時間をおいて回復が見られない場合は、p.2に記載したお問い合わせ先にお電話いただくか、医師への受診をお願いします。

・長時間の使用はお控えください。

・アニマルグラスの使用による精神的ショック及び価値観の変化等につきましては、一切の責任を負いかねます。

・外出時に使用するにあたり、……

・…………

・……

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アニマルグラス @Sureno

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