第5話 ぶたのきもち
退社時間になった。
朝と同様に挨拶をして無機質な返事を受け、私はアニマルグラスとともに帰路に就いていた。赤く染まる西の空から、カラス達の話し声が小さく聞こえてくる。今日は異常に疲れた一日だった。ずっと背後からシャミの視線を受けていたからだろうか。
……なんだか聞きたくない本音を聞いてしまった。確かに、猫には野生に生きていた名残として狩りの本能が根強く残っており、棄てられてもある程度成熟していれば自力で生き残ることができる生き物だ。だがそれにしてもだ。エサを与えてくれる人間に、少しは感謝してもよいのでは?
私はもやもやとした心持ちを晴らしてくれる何かを期待して、アニマルグラスをかけて自転車を押して歩いていた。すると、赤信号で止まった私のすぐ横から、なにやら騒がしい声が聞こえてきた。
見るとそこには、何十頭もの豚の鼻が覗く豚積車が信号待ちをしていた。豚達は賑やかに会話をしながら、ひしめき合っている。
『今日は随分と大胆なお散歩だな!』
『狭いんだけど。早く出せよ』
『早く寝かせろ!』
どうやら彼らは哀れにも、今から食肉となるという自分達の運命を知らないようだった。誰に向けてか、各々が思い思いに叫んでいる。
「……こんにちは、豚さんたち」
私のその声に、豚たちの鼻が一斉にこちらに向いた。
『なんだなんだ、人間が話しかけて来やがった』
『やっと人間が俺らに追いついて来たか!』
『ちょっと、私らと人間を一緒にしないでよ』
なぜだ? 家畜という身分で、彼らは人間を見下していた。明らかに閉じ込められているこの状況で、なぜこんなにも尊大でいられるのだろう。
私はアニマルグラスのスイッチを押して「恐怖フィルター」を解除してみた。だが、彼らから恐怖の声は一切聞こえてこない。
「豚さんたち、なんで人間をそんなに見下しているの?」
『は? 当たり前だろ、俺らの方が偉いからだよ』
『人間は俺らのためにエサを運ぶんだ。俺らに仕えるただの奴隷なんだよ』
『そんなことも知らないのか? さすが人間だな!』
彼らの罵倒を前に、私は茫然とした。
仕事に行くと言った私に大笑いしたカラスども、『人間の手など要らない』と吐き捨てた猫のシャミ、そして『人間は奴隷だ』と言い放った食肉用の豚ども……一匹として人間への心からの畏敬や信仰を持つ者がいないのは、どうしてだろう? なにより、「動物は人間に支配され恐れ萎縮している」という私の従来の考えを打破して“くれた”この瞬間に、こんなにも感謝できないのはどうしてだろう? 動物を見下す人間と、人間を見下す動物、両者が精神的に対等であるという喜ばしい事実に、こんなにも絶望しているのはどうしてだろう?
青信号の前で立ち尽くす私を置いて、尚も騒がしい豚積車は交差点を走り去って行った。取り残された豚の糞の不快な匂いが、私の鼻にまとわりつく。
……そうだ、ハナがいる。ハナなら私に愛をくれる。ずっと直向きに世話をしてきた、ハナなら……。
私は自転車にまたがり、勢いよく漕ぎ始めた。
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