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緋那真意

第1話

 そこには、音がありました。

 楽しい音、悲しい音、大きい音、小さな音、穏やかな音、荒々しい音。

 様々な音が入り混じり、世界に溢れていました。

 人々は、そんなたくさんの音が満ち溢れる世界で暮らしていたのです。

 ところがあるとき、色々な音の溢れる世界を嫌っていた一人の男が世界から音を消してしまおうと、様々な音の源を壊して回っていくようになりました。

 少しずつ世界から音は消えていき、やがて何一つ音は聞こえなくなってしまいました。

 音のない静かな世界の中で、人々は少しずつ元気を失い、ふさぎこんで暮らすようになりました。

 そんなある日のこと、一人の少女が音のない世界によく響き渡るような大きな声で歌を歌い始めました。

 その声を聞いた人々は、皆驚いたように顔を上げました。

 少女は歌いました。ある時は楽しく、ある時は悲しく、ある時は大きな声で、またある時は小さな声で、時には穏やかに、時には荒々しく、心を込めて一生懸命に歌い続けたのです。

 最初はただただ歌を聞いているばかりだった周囲の人々も、やがて少しずつ声を上げるようになり、中には少女に習って歌を歌いだす人も出てくるようになりました。音の亡くなった世界に声が溢れるようになっていったのです。

 ところが、それを不満に感じる人がいました。音の源を壊して回っていた男です。

 男は声が溢れるようになった世界から、今度は声を奪ってやろうと始まりとなった少女のもとへと向かいました。


 男がそこに現れた時、少女は大勢の人たちとともに歌を歌っていました。

 男はその場所に荒々しく乗り込んでいくと、「歌うな!」と大きな声で怒鳴りつけました。

 男の声に、少女と一緒にいた人々は驚いて歌うのをやめました。しかし、少女だけは男の声にも構わずに歌を歌い続けました。

 それに苛立った男は、殺気のこもった声で「歌を止めろ!」と少女を脅しました。

 少女も今度は歌うのを止めました。そして、男のことを正面から見据えるとよく通る声で「どうしてですか?」とたずねました。

 男は言いました。「俺は音も声も何も聞きたくない」と。

 少女はこう言いました。「私は世界で歌も声も聞いていたいし、響かせていたい」と。

 男はその言葉を聞いて吐き捨てるように言いました。「そんなもののどこがいいのか?」と。

 少女は男の言葉に悲しげな表情を浮かべました。「どうしてそんなに嫌うのですか?」

 少女の問に男が答えました。

「音も声も、俺自身は聞きたくもないのに勝手に聞こえてくる。勝手に俺の心の中に入ってくる。俺の心のなかで好き勝手をして俺を苦しめる」

 男の表情は苛立ちと怒りに満ちていました。そんな男のことをしっかりと見据えながら、少女は言いました。

「でも、音も声も聞こえない世界ならば、あなたの苦しみは消えるのですか?」

「なんだと!?」その言葉を聞いた男も少女のことを険しい表情で見つめ返しました。

 少女は言葉を続けました。

「あなたの言う通り、音も声も自由気ままに、ある意味ではあなたの言うように勝手に世界に響いています。中にはあなたのように、それが辛い、嫌だと言う人だっていると思います」

 少女は一言一言を確かめるように、ゆっくりと話し、言葉を紡いでいきます。

「でも、そういう世界だからこそ、それが辛いのだと、嫌なのだと気付いたのではないのですか?音も声もない世界では、そんなことを気付くこともなかったのではないですか?」

「うるさい!!」男はその少女の言葉に髪の毛をバリバリ掻き毟りながら少女を再び怒鳴りつけました。「だから何だと言うんだ!!」

 少女はそんな男の態度にも一切怯むことなく言葉をぶつけました。

「あなたの苦しみや苛立ちは、音や声が聞こえているのが原因ではないと私は思います。もし私がいなくなって、世界から音や声が消えてしまったとしても、あなたはきっと違うことに不満を持って、それを無くしてしまおうとまた同じことを繰り返すばかりなのではありませんか?」

「黙れ!」男は今にも少女に掴みかからんばかりの勢いで怒鳴りつけました。

「嫌です!」そんな男の行為を遮るかのように少女はきっぱりと言い放ちました。鋭い声でした。

 その言葉の鋭さに男も一瞬毒気を抜かれたかのようにピタリと動きを止めました。周囲の人々はことの成り行きをどうなることかと心配そうに見守っています、

 少女はまっすぐに男のことだけを見つめていました。真剣な表情でした。

「私が産まれたのは、世界にまだ音が満ちていた頃です。私は世界に溢れる音に負けないほど、大きな声で泣いていたと母は言っていました。きっと周囲の人達にはうるさい思いをさせていたんだろうな、と思います」

 少女はそこで少し表情を緩め、恥ずかしそうに軽くうつむいたあと、言葉を続けました。

「でも、私が物心ついた頃から世界の音が消えていきました。父も、母も、家族も、元気をなくして黙っていることが多くなりました」

 少女はそこで一度言葉を切りました。静かな表情で男のことを見つめています。

 男の方も先程までの苛立ちや殺気をひとまず抑えて、話を続けるように身振りで促しました。

「私も最初のうちはそんな家族の姿を見て、あまりしゃべることもなく沈み込んでいました。でも、ある時母がこんなことをポツンと言ったんです。『こうして音のない世界にいると、どんなにやかましい音でも懐かしく聞こえるわ。何も聞こえない世界じゃ、それが嬉しいことなのか悲しいことなのか、何もわからないよ』と」

 少女は語り続けました。男も、周囲の人々もただただ少女の言葉に黙って耳を傾けています。

「私はその言葉で気がついたんです。音のない世界は確かに静かで平穏かもしれない。でも、音の中には木や草や動物や、たくさんの人たちの、あらゆる物の”心”が詰まっているのだと。でも、音のない世界ではそれは何一つ感じられなくなるのだと」

 少女はそこまで言うと一つ大きく息をつき、穏やかな表情で男を見つめました。

 男の方も少女のことを静かな表情で見つめ返し、ややあってから口を開きました。

「俺は、音や声が響く世界が嫌いだ。音や声がいつも断りもなく俺の耳に入ってきては俺に色々なことを聞かせてくる。俺の聞きたいことや聞きやすいことばかりならそれでも良いかもしれない。でも、実際はそうはいかない。嫌なこと、聞きたくないことも一緒くたに入ってくる。俺は自分の意志でそれを分別できない」

 淡々とそう語る男の声には、もう苛立ちや激しい怒りは浮かんでいません。

 少女は男の言葉を聞いて一つ頷きました。

「私も色々な音や声を聞いてきました。時には嫌だな、聞きたくないなと思える音や声だって勿論聞きました。でも、そうやって嫌だなと思えることは大切なんだなとも思います。嫌なことを嫌だとも言えない、そんな静かな世界では何の想いも伝えることも出来ませんから」

 少女はそこでニッコリと男に微笑みかけました。穏やかな笑顔でした。

「私はこれからも歌い続けます。音が、声が、気持ちが人に伝わるように、一生懸命歌っていきます」

 その言葉を聞いた男は無言でした。苛立つことも怒りを浮かべることもなく、首を微かに左右に振りながら何事を考えているようでした。

 少女もそれ以上言葉を紡ぐこともなく、微笑みながらじっと男のことを見守っていました。

 しばらくして、男は黙ったまま少女に背を向けました。

「帰られるのですか?」少女は男の背に言葉を投げかけました。

「お前はお前のやりたいようにすればいい。俺には俺なりにやることがある」男はそう答えると、それ以上は何も語ることもなくそこから足早に立ち去っていきました。

 少女はそんな男の姿を見送ってから、周囲で心配そうに見守っていた人々に「さぁ、歌の続きを始めましょう」と明るく呼びかけました。


 その出来事からしばらく後、世界には声だけでなく再び音も響くようになりました。

 男に壊されてしまった音の源がひとつひとつ綺麗に直されていったのです。

 世界は音と声とが混ざり合い、一つになって奏でられるようになりました。

 そんな世界の中でも少女は一生懸命に声を響かせ続けていましたが、ある時病を得て、そのまま回復することなく若くしてこの世を去っていきました。

 大勢の人々がその死を嘆き、悲しみました。少女の葬儀には多くの人々が参加して、天国の少女に向けて歌を贈りました。

 そして、葬儀が一通り終わって人気の無くなった少女のお墓の前には、一人の年老いた男が静かに立っていました。

 男は少女の墓に花を手向けると、こう語りかけました。

「ついにお前と一緒に歌ってやることは出来なかったな。直に俺も死ぬだろう。万が一、天国にたどり着けたらその時は、一緒に声を天国中に響かせてやろうな」

 墓に手を合わせたあと、年老いた男は何処へともなく歩み去っていきました。

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