LとRの狭間で天使は微笑む

すぐり

LとRの狭間で天使は微笑む

 原稿用紙の最後の空白を埋める。

 やっと書き終えることが出来た、これで完成だ。ついに、ついに。

 達成感とともに鉛筆を投げ出すと、机の上を転がった鉛筆が乾いた音を立てて床に落ちた。カランという孤独な音が、柔らかな朝の日差しを纏ったカーテンに吸収され、僅かな寂寥感を残す。震える手を眺め、触れた温もりを忘れないように大切に握る。

 そう、僕は負けなかった。

 すべての始まりを思い出しながら、原稿用紙の束に視線を下ろした。すべては一週間前。あの天使との出会いがなければ、僕はここにいない。体の中に溜まった気持ちをゆっくりと吐き出し、文字一つ書かれていない真っ白な原稿用紙を一枚めくる。

 さあ始めよう。

 僕のすべてを注ぎ込んだこの物語を。

 永遠の物語を。

 きっかけは、天使と出会ったあの日――。


『LとRの狭間で天使は微笑む』


 ――僕は永遠に囚われ続ける。

 彼女のあの瞳に。雲ひとつ無い夏の青空にかざしたサファイアよりも青く、どこまでも柔らかな瞳の色に、僕は永遠に囚われ続けるだろう。

 冬の朝、吐き出した息が世界を白く汚し、灰色の空へと昇る。溶けていく憂鬱の塊を見送りながらゆっくりと坂道を歩いていると、アスファルトをリズムよく踏む乾いた音が響く。

 マフラーに埋めた顔を極力動かさないように、視線だけを音の方へ向けると、そこには小刻みにステップを踏んでは優雅にターンをする天使がいた。いや、天使でないのは分かっている。翼もなければ、頭の上に光る輪も見えない。でも、真冬に寒空の下で揺れる白いワンピース、そこから伸びる細長く白い肢体が、現実感を綺麗に無くした。

 真っ赤な信号が遠くで輝く。

 ふわりとワタのように舞う彼女がピタリと止まる。

 大きく丸い目が猫のように細く鋭い形になった。吸い込まれるように視線が絡み、青く輝くサファイアのような瞳に射抜かれた。

 息が止まるような瞬間。

 その一瞬、僕は彼女が本物の天使だと確信した。

「こんにちは」

 鈴の音が鳴る。音に色があるのなら、今の五つの音は限りなく透明に近い白なのかもしれない。

「こんにちは」

 やっとの思いで声に出した言葉は、しっかり伝わったのだろうか。喉に声が引っかかり、言葉にすらなっていないのではないか。渡り鳥が鳴く。

「やっぱりダメだったか……ここは寒いね。本当に、地上は生きづらくて困っちゃうよ」

「寒いけど、いつも通りじゃないかな」

「へぇ、そうなんだ。やっぱり人間は大変ね」

「なんだよ、自分は人間じゃないみたいな言い方で」

 歩きながら坂道を上り、坂の頂上が足元に見えてきた。そっとマフラーから顔を上げると、彼女の顔がすぐ目の前にあらわれる。長いまつげに、小さく柔らかそうな唇、白磁のような白い肌。綺麗だった。まばたきをしなければ、マネキンだと信じてしまうほどに。

 灰色の空とアスファルトに挟まれた僕には、彼女の白さが眩しすぎる。

 やっぱりこの子は天使なのかもしれない。

「人間じゃないみたい……ね」

 悪巧みを考える子供のような目を向け、小さな口元を歪ませた。

「だって私、天使だから」

 空気中の水分の一粒一粒が凍り、風が吹き抜ける。

 前言撤回、やっぱり天使じゃない気がしてきた。いまの一言で、彼女に対する天使像が一気に崩れた。

 少し危ない人なのだろうか。

 引き返そう、今すぐ引き返そう。思わず後ずさりをし、距離を取る。

「酷いな。いま、可笑しい奴って思ったでしょう?」

「どうして……」

「ほら、私は天使だから」

「……うん、そっか。天使ね。それで天使がどうしてこんなところに?」

「信じてないな、まあ良いか。私はキミに会いに来たんだ」

「僕に?」

 仮にも天使が僕に会いに来る。これが意味するところなんて、どう考えても一つくらいだ。

 そっか、僕はもう死ぬのか。早かったな。

 見上げた空は、やっぱり厚い雲が覆い鈍く輝いている。僕の最期にお似合いの季節だ。

 昨日の夕飯は何を食べたっけな。死ぬと思ってもやけに落ち着いている自分に驚く、走馬灯が走るどころか昨日のことすら曖昧で。

 溜め息一つ空に吐く。

 一度くらい、まともな小説を書いてみたかったな。

「こら、勝手に死のうとしないの。私は小説の天使だから、命をとったりするのとは別なの」

「え、違う?」

「違うよ。これだから人間は駄目ね。私は小説の神様のもとからの来たの。命は別の部署だからね」

「部署なんてあるのかよ。でも小説の天使が、僕のところに何の用だ?」

「キミ、願いがあるんでしょ? 言ってみて、売れない小説家さん」

 ドクンと心臓の音が鳴る。

 僕がいつ小説家だと言ったっけ。僕の名前を知っていたのか、それとも偶然か。

 しかも小説なんて、先月やっと一冊出版できただけで。

 あの日を思い出して手が震える。これは寒さなんかじゃない。

「忘れないで、私は天使よ。キミのことなんて全部知っているから。ほら、望みを言ってみなよ。良い? 希望や願いは言葉にしないとダメだからね」

「どんなことでも良いの?」

「もちろん」

「僕は永遠に小説を書き続けたい。小説を書いて生きていきたい」

「永遠にね。そんなのは簡単だよ、死ななければ良いだけ」

「いや」

 言葉に詰まった。

 死にたくはないけれど違う。僕が言いたいのは、死ぬまで小説を書いて生きていたいということ。つまり、小説家として生きることだ。

「キミが言いたいのは、永遠じゃなくて延々でしょ。死ぬまで小説を書いていたいっていう。そんなの簡単だけどね」

「そっか延々だ。え、簡単なの?」

「だって面白い小説を書き続ければ良いんだからね。それとも――」

 そう言うと彼女は腕を広げて、首をかしげた。真っ白く大きな翼が見える。日に照らされた羽の一枚一枚が淡い光を帯びる。

 表情が柔らかく天使のようだった。違う、忘れかけていたけれど天使だ。

「キミは永遠の小説でも書いてみたいのかな?」

 目を細めて笑う。

 小悪魔的で気を抜けば堕落させられそうな、引きずり込まれるような表情に、僕は無意識の内に頷いていた。そう、僕は完全に気を抜いていたのだ、この天使の前で。

 シグナルが青になる。

 止まっていた時間が動き出した。

「それじゃあキミに教えてあげよう、小説の書き方を」

 唇に指を当て左目でウインクをする。厚く重い雲の切れ間から光の柱が降り注ぎ、黒だと思っていた彼女の髪が光を帯びて濃紺に輝く。いつかの美術館で見た宗教画が頭によぎり、思わず息を呑んだ。

 あぁ、ハレルヤ。


 これが彼女との出会い。

 そしてきっかけだった。

 それからは毎朝、鼻の頭が痛くなるような寒さの中、僕のリビングに彼女が現れては、小説を書く僕に無駄話を一時間語っては消える日々が続くことになった。

 毎朝の流れは決まっていて、僕はダンボールのように薄い布団から起きてお湯を沸かすと、いつの間にか彼女がリビングのこたつに座っている。白い湯気がゆらゆらと立つ熱い緑茶を彼女の前に置くと、ずずっと小さく音を立てて口をつけてから、ふぅっと息を吐き彼女の自称講義が始まるのだった。

 確かこの不思議な講義は、僕が彼女の名前を聞くことから始まったのだけは覚えている。

 水も凍るような寒い灰色の冬。明かりが少なく色のない部屋で僕は、彼女の名前を初めて知った。

「名前を聞いても良い?」

「私は、レアエル」

「レアエル?」

「そう、ちゃんと名前で天使だって分かったでしょ」

「まあ、エルっていうのが天使っぽいけど」

「ぽいっていうか、天使なの」

 頬を膨らませながら、いくつか文句を呟いてお茶を飲む。両手で湯飲みを持ってお茶を啜る姿は、小動物らしさがあって可愛く感じる。

 レアエルは一息つくと人差し指を立てて、始めようかと笑った。

 すでに湯呑からは湯気が消えていた。

「小説ってどんなものだと思う? どうして小説なんて書くと思う? そこから考えてみよう」

「小説は娯楽だよな。本の中の世界観に浸って、現実から目を背けてさ、自分以外のなにかになれるものだと思う」

「そうだね。今のは小説を読む理由だけど、それなら小説を書く理由は?」

「それは書きたいからかな。自分の頭で考えた世界を形にしたいから。これが全てだと思う」

「半分くらい正解。いや、正解なんて無いんだけどね。今から伝えるのはただの私の考えで、永遠の小説を書くために理解して貰いたいことなんだけど、小説はタイムカプセルなんだよ。人間は短い一生の中で、生きた証を残したいと足掻いて、自分自身が語り継がれることを望む。ときには永遠の命を求めて、沢山の犠牲の上で死ぬの。私はね、そんな人達を沢山見てきたんだ。そんな人間にも唯一つ永遠性があるの。分かった?」

「なるほど、記録することか。それが小説に繋がるんだな」

「そう、現実や時間を切り取って、それが劣化しないように、伝えられるように詳細に記録するの。それができると、世界を小説の中に永遠に閉じ込めることが出来るんだよ」

「永遠に閉じ込める」

 僕の呟きにレアエルは満足げに頷いて、空になった湯呑を僕に差し出す。右手で髪を耳にかけると、緩慢な動きで微笑む。ベランダのカーテンが朝日の淡い光に包まれた。

 だめだ、見惚れてしまう。呼吸が出来ない。

 唇を噛み締め、固まった体を無理やり動かしお茶を注ぐ。暖かな湯気が固まった体を溶かす。

「大事なものを文章にしておけば、忘れることも消えて無くなることもないの。永遠にその中で生き続けるってわけ。つまりね、自分自身を描けば永遠の命が得られるの」

「それって普通の小説と変わらない気がするけど」

「うん、変わらない。でもポイントが有るの、それはね、細かく描写すること。例えば、小説を読み終えたあとに、小説の世界と現実の世界の境界が曖昧になることって無いかな」

 ゆっくりと指を立てて説明を始める。

 そういえば、文字と現実の境界が曖昧になる小説は何度か出会ったことがある。どれも読後に、地に足がつかないような独特な浮遊感に包まれていたのを思い出す。

「物語に閉じ込めるには、閉じ込めたいものの特徴を書き漏らしちゃダメなの。指先まで、髪の毛先一本一本まで、呼吸の一瞬まで、丁寧に描く必要がある」

「現実を写すイメージか?」

「そう現実を閉じ込めるの。でもね気をつけて、閉じ込められちゃダメ。現実を閉じ込める過程で、自分自身がその物語の中に囚われてはいけないの。キミは合わせ鏡って知ってるかな?」

 合わせ鏡。それなら聞いたことはあるし、よく都市伝説なんかでも耳にするフレーズだ。悪魔を呼び出してしまうとか、未来が見えるとか。

 とにかく縁起が悪いものだって印象があるな。

「鏡と鏡を向かい合わせにおいてみると、鏡の中がどこまでも続いているように見える」

「そう。それと同じことが小説の中にも起きて抜け出せなくなるから、永遠の小説を書くのに失敗しちゃダメだよ。何か質問はあるかな?」

「永遠に小説を書くということは、死ななければ良いか、小説に書く姿を小説に書けば良いということだね」

「うん、正解」

「永遠の小説っていうのは、その永遠が上手く描けている小説のこと?」

「そうだね、誰が読んでも描かれたものがイメージとして思い起こせる小説、もしくは終わることのない小説、あとは完結したあとの世界をどこまでも想像させられる小説かな」

「最後に一つ聞いて良い?」

「良いよ」

「どうしてレアエルは僕の前に現れたの? 小説を書いている人なんてもっと沢山いるのに」

「――簡単だよ、それはキミに素質があったからさ。永遠を描く素質がね」

「僕に……素質が……?」

「もちろん、失敗する可能性もあるから、ある意味私の賭けなんだけれど」

 もしかして、期待されているのか。こんな僕が。

 素質があると言われるのは初めてだし、先月やっとの思いで出版できた小説も、蓋を開ければ散々な評価ばかりだった。

 本当に出来るのか。もし僕が永遠を捉えることができれば、絶対に僕の力になるはずなんだ。いや、僕には出来る。だって目の前には天使がいる。小説の神様から遣わされたという天使がいるのだから。

「分かった。書いてみるよ」

「その言葉、待っていたよ。最後にアドバイスを一つあげよう。良い? 世界をしっかりと見て、現実を正しく捉えること」

 レアエルはそう言うと左目を瞑りウインクをする。なんてこと無い仕草の一つ一つが光を帯びて、現実離れした姿に目を奪われる。

 現実を見る――。

 目に見えるものをすべて受け入れてみよう。一度、目を閉じて真っ暗な世界で自分を見つめる。なにもない、真っ暗だと思っていた空間に、僅かな光が溢れているのが見えてきた。

 そうか、世界は黒だけでは無いのか。

 これが正しい捉え方。ゆっくりと重く閉ざされた瞼を開ける。

 光が僕の中へと流れ込み、灰色だと思っていた部屋が彩られていく。プリズムの欠片が弾け、世界が輝いた。そして、僕の前に――。

「――天使だ」

「やっと見えた?」

 家具の殆ど無い淋しげな部屋の真ん中に、新雪のように柔らかな翼を背に生やしたレアエルがいた。現実の中に埋め込まれた非現実。羽の一枚一枚が静かに揺れ、部屋中には羽が舞い上がっていた。真っ白な翼は、やはり絵画の中の天使のようで。僕らの中の天使像のままだ。

 これまで一瞬だけ見えていたその翼は、現実だったのか。

「その翼は本物なの?」

「翼が見えたのね。うん、本物だよ。やっぱりキミには素質があるんだよ」

「それって……」

「私達を天使だって認識出来る力を持った人が、現実を正しく捉えられるってことなの。あとはキミが捉えられなければ、囚われなければ良いだけ」

「分かった」

「うん、良い返事だね。それじゃあ、何を書いてみたい?」

「レアエルを書きたい。僕はレアエルを、天使を書きたい」

「私は難しいよ?」

「それでも書きたいんだ」

 初めてみた天使。

 もう二度と出会えないだろうその姿を、この世のものとは思えない美しさを永遠に残しておきたいのだ。

「ちょっと可愛く書いてね」

 それは現実を正しく捉えられて無いだろというツッコミをする間もなく、言葉が出なくなった。カーテンから漏れた朝の光を吸収して輝く、コーンフラワーブルーの瞳。この世界で一番綺麗な青に息が止まる。

 レアエルの右手が僕の左頬を優しく撫でる。

「どうして泣いているの?」

 泣いている? 誰が?

 誰でもない、僕だ。レアエルの瞳に映った僕の顔。目を見開いて涙を流している、これが僕なのか。涙の理由が分からない。分からなくてさらに涙が出る。

「そっか分からないのね」

 そう言って優しく微笑んだレアエルは、涙が止まるまで只々無言で僕の頭を抱きしめてくれた。ぬくもりの中に、ゆっくりとした心臓の音が聞こえてくる。

 抱きしめながら僕は、天使にも心臓ってあるんだなと曖昧な意識の中で考えていた。

「もう大丈夫そうだね。あとは書くだけ。永遠の小説を書いてみてよ、私とキミが永遠に一緒に過ごせる小説を」

「分かった。絶対に書いてみせる、絶対に永遠を捉えてみせる」

「うん。負けちゃダメだよ、永遠に囚われないでね」

 そしてレアエルは僕の手を握りしめたまま、光に溶けるように消えた。

 甘酸っぱいりんごのような香りが、ふわりと鼻をかすめる。

 全ては幻だったのか。

 いや、現実だ。

 湯呑の中に半分だけ残った冷たい緑茶と、わずかに潰れたクッションがレアエルの存在を証明する。ふと天井のライトを見上げると、柔らかそうな羽が一枚ゆらりと落ちてきて僕の肩に載った。

 手にした羽の色は白ではなく、ほんのりと青みを帯びていた。


 レアエルが消えてから原稿用紙の束を用意し、早速書き出す。

 どれだけ時間をかけてもタイトルが思い浮かばず、一枚目が真っ白のままだった。

 いつものだ。タイトルが決まらずに先に進めない。僕は原稿用紙を左から右へ順に埋めないと書き進められないのだ。どれだけ先が見えても、一行先の文章が思いついても、次の一文字が思い浮かばずに筆が止まる。

 まだ見ぬ一文字を探し続け推敲を繰り返し、一日がそうやって終わっていく。果たして書けるのかという悩みを断ち切るように布団に潜り込んだ。

 レアエルの期待を裏切らないように、ただそれだけを考えて。

 

 それから毎朝、目が覚めるとリビングに座るレアエルが目に入り、お茶を渡してから小説を書き始める日々が続いた。彼女は朝の一時間だけ僕の向かいに座り、他愛のないことを喋っては消えていく。消える直前に必ず、「負けちゃダメ、永遠に囚われないでね。現実をしっかり見るんだよ」と微笑むのだった。

 いつの間にか僕は、そんなレアエルのことが好きになっていたのかもしれない。彼女と会える朝だけが生きる楽しみで、永遠にこの時間が続けば良いのにと願っていた。

 永遠に彼女と居られたら……。

 そんな願いをしても終わりは平等に訪れる。それは人間に科せられた罰。

「小説は完成しそう?」

 彼女の声が形になって体に流れ込まない。

「完成しそうなのかな?」

 完成……この小説が完成したらどうなる。もう会えなくなるのか。そんなの――。

 残り一日、それが小説が完成するまでの時間だ。

「……明日には完成する」

「そうなんだ、楽しみにしてるね。じゃあ、また明日」

 その言葉を最後に、レアエルは消えてしまった。

 待ってとも、一緒に居て欲しいとも言えずに鉛筆を片手に座っているだけ。

 言いたかった。伝えたかった。

 鉛筆を握る手が震え、原稿用紙が滲む。

 気付けば僕は机の上に倒れるように眠ってしまっていた。

 朝の日差しと、仄かなりんごの香りで目が覚める。

 目を開けるとそこには天使がいた。見慣れた天使だ。

 優しい青で覗かれた僕の顔は、りんごのように赤くなっているかもしれない。日差しを帯びて黒い髪にほんのりと青が差す。やっぱり天使なんだと実感する瞬間。

「おはよう、今日も寒いね。こんなところで眠ったら風邪引いちゃうよ? 人間は弱いんだから」

「おはよう。大丈夫、今日だけだから」

 そっかと笑うと、レアエルがふらりといなくなる。消えないでと力なく手を伸ばすが、伸ばした手は空を掴む。

「ほら、これ飲んで目を覚まして」

 目の前に置かれた黒いマグカップ。その中には白い湯気を立てる緑茶が注がれていた。

「ありがとう」

「良いの良いの、これはご褒美です。小説を完成させた……ね」

「あっ」

 声が出なくなる。

「ごめん、ご褒美ってのは冗談だからね。そんな顔しないで」

「違う。違うんだ。小説は完成していない。タイトルがまだ……」

「うん、知っているよ。でもタイトルさえ書ければ完成でしょ。いまのキミには書けるはずだよ」

「タイトルを決めたらレアエルは僕の前から消えるだろ。もう会えなく無くなると思うと、怖いんだ」

「うん」

 困ったような、寂しいような表情をして笑うレアエル。右頬に浮かぶ笑窪だけが彼女が笑っていることを教えてくれる。

 一度大きく呼吸をすると、右手で僕の頬に触り口を開いた。

「実はね、私も怖いんだ。でも、キミが小説を完成させたなら、必ずもう一度会える。永遠の小説が完成していたら、また変わらずに会えるし、失敗していたらキミが小説を完成させるまで、何回だって会いに来るよ。だって私は――」

 右手はそのままに左腕を僕の首に回し、顔を近づけた。

 僕と彼女の距離がゼロになる。

 柔らかな感触だけが、僕の世界に広がった。

 世界が青に染まる。

 光を帯びた彼女の瞳が僕を捉えて離さない。あぁ、僕はこの瞳に囚われているんだな。

 彼女が顔を離した瞬間、もう逃さないように抱きしめた。

「ありがとう。僕も――」

「ダメ、それ以上は今は言わないで。小説を完成させたら聞かせて、明日の朝に聞かせてよ。でも可笑しいよね、天使が人間に恋をするなんて。そんな人間に小説を書かせようって会いに来ちゃうんだもん」

「そんなことない」

「だって私達天使から見たら、人間なんてすぐに死んじゃう、ちっぽけな存在なんだよ。そんな相手を好きになってさ――。あ、好きになった理由は聞かないでね。これは秘密。前に、私がキミの前に現れた理由を聞いたよね。キミに素質があるから来たんだって言った話、覚えてる?」

 その日のことは今でも鮮明に思い出せる。僕はゆっくりと頷いた。

「あの話は半分正解でさ、本当はただキミに逢いたかっただけなんだよ」

「そっか。ありがとう、こんな僕を好きになってくれて。書くよ、タイトルを書く」

 抱きしめていた腕を離し、机の上に転がった鉛筆を握り原稿用紙を開く。

「ありがとう。私、明日楽しみにしているね。絶対、明日の朝に会おうね」

 タイトルを書こうとしている間に、今日の別れを告げられる。

 まだ一文字も書けていないのに。

「待ってレアエル」

「ダメだよ、また明日」

 そう言って手を握り、もう一度優しく唇を合わせる。

 顔を離したレアエルは、どこか悲しそうに微笑んで消えた。

 甘い香りが残った部屋は、いつも以上に広く寒かった。

 震える手で鉛筆を握り直す。さっきまでレアエルに握られていた手のぬくもりが残っている今なら、書ける気がする。いや、今すぐ書かないともう書くことができなくなる。

 タイトルは決まっていた。

 僕は彼女との約束を思い出し筆を走らせる。

 永遠に囚われないこと。負けないこと。明日の朝、もう一度会うこと。現実を……リアルを捉えること。

 僕は小説と現実の境界で、彼女との永遠を願い手を動かす。

 ――ただ一心に、祈りにも似た願いを込めて。


 この小説のタイトルは――。

『LとRの狭間で天使は微笑む』


 原稿用紙の最後の空白を埋める。

 やっと書き終えることが出来た、これで完成だ。ついに、ついに。

 達成感とともに鉛筆を投げ出すと、机の上を転がった鉛筆が乾いた音を立てて床に落ちた。カランという孤独な音が、柔らかな朝の日差しを纏ったカーテンに吸収され、僅かな寂寥感を残す。震える手を眺め、触れた温もりを忘れないように大切に握る。

 そう、僕は負けなかった。

 すべての始まりを思い出しながら、原稿用紙の束に視線を下ろした。すべては一週間前。あの天使との出会いがなければ、僕はここにいない。体の中に溜まった気持ちをゆっくりと吐き出し、文字一つ書かれていない真っ白な原稿用紙を一枚めくる。

 さあ始めよう。

 僕のすべてを注ぎ込んだこの物語を。

 永遠の物語を。

 きっかけは、天使と出会ったあの日――。


『LとRの狭間で天使は微笑む』


 ――僕は永遠に囚われ続ける。

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LとRの狭間で天使は微笑む すぐり @cassis_shino

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