2-3(カフェ・リトルレキサンドラ)

 レキサンドラこと、アレキサンドラ・ローズブレイド——またの名をマックス・アンダーソン——は、ぼくと共に店の扉をくぐった男に色めき立った後、すぐにそれが誰なのかに気がついたらしい。

 口をあんぐり開けて硬直し、そのままぼくを射殺しそうな目で睨みつけた。

「なんで連れてきたんだよ! おれのことは内緒だって言っただろ!」

「いつ言ったんだよ、そんなこと。そもそも何で内緒にしてんのさ」

「おれの心は繊細なの!」

「意味がわからな——あ、もしかしてまだセスのこと好きなの? ドレッシーな格好で、セスの息子と話すのは気まずいとか?」

「黙れこのクソガキ!」

 ぼくの言葉に、レキサンドラが飛び上がりながら小声で叫ぶ。——この気のおけない相手との何でもないやりとりに、ぼくの心はやや柔軟性を取り戻した。

 刑事から始まってカシムで幕を閉じた、長い長い面談と事情徴収からようやく解放されたぼくは、ブライアンと共にカフェ・レキサンドラにやってきていた。待ち合わせた一階のエントランスで、げっそりと疲れ切ったぼくを見たブライアンは開口一番、家で飲むことを提案してきたが、ぼくの方は一刻も早く外の空気を吸いたい気分だった。気持ちを一転させるには、気心のしれた騒がしい場所で、気心の知れた仲間と飲むのが一番だ。

 それに、ぼくとブライアンは悩み多き中学生セカンダリーの頃、『マックス』にずいぶんとお世話になったんだ。ブライアンの方だってきっと、情に厚いかつての『近所のお兄ちゃん』に、一度くらい挨拶したいんじゃないかと思ってさ。

 ちなみに、当のお兄ちゃんは思い切り慌てたそぶりでブライアンをチラチラ見てる。まさかセスに対する長年の片思いに、気づかれていないとでも思ってるんだろうか。ブライアンは昔から、うんざりするほど周りの状況を読むのに長けてるんだ。賭けてもいい、こいつは早々にレキサンドラの気持ちに気付いた上で見て見ぬ振りをし、あまつさえ、それとなくフォローするぐらいのことはしていたはずだ。

 そもそも、こんなわかりやすい態度で気がつかないのは、鈍いセスぐらいだと思うんだけど。

 ぼくはレキサンドラの、必要以上に男らしく振る舞おうとする、落ち着きのない様子に目をやった。

 彼の、自分の反応を伺う怯えた視線に気がついたらしい。ブライアンが、やつにしては優しい声でレキサンドラに向かって声をかけた。

「久しぶりだな、マックス。いや、レキサンドラと呼んだ方がいいか?」

「いや、ええと、いいんだ。マックスの方が呼びやすいだろ」

「あんたが呼ばれたい名前で呼ぶよ。元気そうで何よりだ。ブリズベンに出てきていたのは意外だったが」

「いろいろ偶然が重なったんだ。飲み物は?」

「マッカランはあるか」

「も、もちろん」

「じゃあ、それのロックで」

 慣れた様子でオーダーすると、ブライアンは長い足で器用に席の間をすり抜けながら、さっさと奥のテーブル席の方へと行ってしまった。レキサンドラがぼくに何か言いたがっているのに気がついたのだろう。

 このそっけない気遣いをしみじみ懐かしく思っていたぼくの腕を、レキサンドラが力任せに握りしめて、振り向かせる。

「痛いよ、レキサンドラ! 腕がもげる!」

「あの、あの、あの子、あの子ったら」

「なに」

「めちゃくちゃ、いい男に、成長しちゃってるじゃないのぉ!」

「ブライアン?」

「他に誰がいるってんだよ!!」

 興奮しきったレキサンドラが、身悶えしながら小声で叫ぶ。

「さすがセスの遺伝子だね。彼の周りの空気を吸ってるだけで、こう、頭がぼうっとなっちゃう。それにあの子、なんだかすごく優しくなってない? ちょっとびっくり」

「あっそ……」

 ぼくの熱のない相槌に、レキサンドラは気がそがれた様子で目を細めた。

「なあんだってんだよ。あんただってあの子に夢中だったくせに、手に入ったとたん余裕見せちゃってさ。言っとくけど、あんまり隙を見せてるとねえ……」

「付き合ってない」

 レキサンドラの言葉に、ぼくは自分でもびっくりするくらい、ささくれ立った気分でそう吐き出した。

「別にこれもデートってわけじゃないし。三年前ぼくがあいつに振られたってこと、あんただって知ってるだろ」

「いや、でもあんたたちどう見ても」

 言いかけたレキサンドラだったが、ぼくのじっとりとした視線に気がついて言葉を止めた。

「まあいいさ。ほら、お酒。こっちがジントニック」

「……ぼくもあいつと同じの飲む」

「あんたはやめときなさい。マッカランの景観が損なわれる」

 そう言ってグラスをぼくに押し付けると、レキサンドラはぼくが噛みつく前にさっさとこちらに背を向けてしまった。

 ぼくは別の常連と挨拶を交わし始めた彼の背中に向かって顔をしかめると、店内の視線を一身に集めながら足を組む幼馴染の元へと足を向けた。

「ウィスキーのロックなんて、格好つけてる」

 ブライアンの前にグラスを置きながらぶつくさいうと、やつは平然とした様子で眉をあげた。

「今さら格好なんざつけなくても、おれは自分がクールだということを把握してる。——おい、まだ飲むなよ。おれの話が終わってからだ」

「このくらいじゃ酔わないよ」

「念のためな」

「すっかりその気になってたのに」

 ぼくはため息をついて、グラスの中の炭酸を悩ましく見つめた。今日は朝から晩まで、本当に大変だったんだ。この上さらに焦らされるなんて! こんなことならブライアンを待たせてでも、ちょっと引っ掛けておくんだった。

 そんなぼくをじっと見下ろしていたブライアンが、唸り声のようなため息をついて、その大きな背中をイスの背もたれに預けた。

「……ひとくちだけだ」

「やった、そうこなくちゃ!」

 ぼくは素早くグラスを自分の方へと引き寄せると、満面の笑みでそれを目の前に掲げる。

「ぼくたちの再会に」

 ぼくの乾杯の合図トーストに、ブライアンもまた、苦笑しながらグラスを掲げる。

「さて、早速だが」

「……もう本題かよ、せっかちなやつ」

 嘆息しながらグラスを置いたぼくを無視して、ブライアンがするりとポケットから手帳を取り出した。シンプルであまり目立たない、黒色の手帳。いかにも探偵って感じの。どうしてこう、いかにもできそうなやつってのは——やめておこう。今日起こった出来事を、ぼくは何一つまともに消化できていないんだ。今は何も思い出したくない。面倒なことは明日以降のぼくが考えてくれればいいさ。

 そう自分に言い聞かせつつも、頭の片隅で青い目の大学生を思い出していたぼくは、続くブライアンの言葉に思わず身を乗り出した。

「お前が事件の時間に一緒にいた男について、店のスタッフに聞いてきた」

「うそ、もう動いてくれてたの?」

「ああ。お前、何度かあの店に行ってたんだろ。お前のことを覚えているスタッフが、何人かいたよ」

 あんな薄暗いダイニングバーで、ぼくのことをちゃんと覚えてくれている人がいたなんて!

「嬉しいな。また行かなくちゃ」

 ぼくの言葉に、ブライアンが一瞬だけ口元を緩めた。

 そしてその顔をすぐに引き締めて続ける。

「店員の話によると、お前が一人で飲んでいたところを、その男が声をかけたんだと。キャップをかぶっていたから髪色はよく分からないが、おそらくはダークブロンドからダークブラウンくらいの髪色、暗い色のTシャツを着たかなり体格のいい男で、あまり愛想は良くなかったらしい」

「あれ、途中からお前の話になった?」

 ぼくが混ぜっ返した瞬間、目を細めたブライアンがすかさずぼくの鼻を摘んだ。

「真面目に聞け。身長はおそらく百九十センチメートル前後で、年齢は二十代か三十代前半くらいではないかとのことだ。念のために聞くが、お前の知り合いに心当たりはないか」

「ぼくの幼馴染に、ブライアンっていう名前の男がいるんだけど……」

「ああ、そいつがあの一夜だけ髪を明るく染めて、横幅を十五センチばかり膨らませたのかもな。——真面目に考えろ、このばか」

「そう言われてもなあ」

 ぼくは頭の中で、その特徴に当てはまりそうな知り合いを一人一人思い浮かべていく。「よくある特徴じゃないか。それっぽいやつなら、いくらでもいるぞ。——例えば、あいつとか」

 たまたま目についた知り合いの知り合いを視線で指し示すと、その視線に気づいた男がぼくに向かって——というよりもほとんどブライアンに向かってにこりと笑った。

 ブライアンがその男に目を向けると、男の顔が店に入ってきたときのレキサンドラと同じように、さっと色めき立つ。

 なんか、うすうすそうじゃないかとは感じていたけど、三年前よりさらに引力が増してないか。こいつの周りの磁場は一体どうなってるんだろう。

 うんざりした気分でグラスに口をつけたぼくの視線の先で、男がこちらに向かって足を向けたそうにそわそわいている。けれど彼がその決心を固める前に、ブライアンがさっとこちらに向き直り、ぼくの手からグラスを取り上げてしまった。

「……違うな。聞いた話よりも細い」

「あいつより筋肉質ってこと? ホントに結構、体格がいい感じなんだな」

 やつの手に渡ったグラスをうらめしく見つめながら、ぼくはため息をついた。

「ってことは、かなり候補が絞られるよ。最近ぼくと飲んだか聞いておこうか?」

 一番手っ取り早い方法だと思ったんだけど、ぼくの申し出にブライアンは即座に首を横に振る。

「——いや、思いつく限り候補をあげてくれ。まずはそれをおれに伝えるだけでいい」

「ふうん。まあお前がそう言うのなら」

「でもまあ、お前の知り合いである可能性は、低いだろうとは思う」

 そう言ってマッカランに手を伸ばしたブライアンは、思い直したようにその手でぎゅっとこぶしを握った。

「なあ、お前。本当にその夜のことを思い出せないのか?」

 ブライアンの低い声に、なんとなくそのこぶしを見つめていたぼくは、視線をやつの目へと移した。声色以上に真剣なその青灰色に、思わず言葉が詰まる。

「もしかして、ぼくの状況って、思っていたより深刻?」

「…………」

「わかったよ。でもその、バーで誰かと一緒だったていうの、自分でも不思議なくらい記憶が曖昧なんだよなあ。疲れてたのかな。いつもよりずいぶん酔いが回りやすかったと思う」

「……続けろ」

 ブライアンの言葉に、ぼくは再びあの日の夜のことを振り返った。

 あの日、アランとのランチの後、ぼくはそれまで散々振り回されてきた仕事の最終確認のために、フェアフィールドへと向かった。そして、簡単な調整だけでようやく長期間にわたる仕事から解放されたぼくは、早々に例のダイニングバーへと飛び込んだのだった。

 時刻は、午後七時前くらい。

 ありがたいお客様とはいえ、ちょっとした調整と最終確認だけのために、延々と時間を取られるのは、なかなか辛いものがあった。

「法律の規定内のアルコールで済ませるつもりなんてなかったから(*)、フェアフィールドまでは電車で来てたんだ。一杯目のジンフィズはすぐに空けて、オイスターとかナッツとか、確かそんなのをつまみながら二杯目を頼んでさ。それから——あれ?」

 そこまで言って、ぼくは言葉を止めた。

 心臓が、嫌な感じでどくんと跳ねて、ぼくの呼吸を奪った。


*オーストラリアでは、規定内の飲酒であれば、飲酒後の運転が法律で認められています。

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