2-2 (カシムの提案)
「突然押しかけて、すみませんでした」
「ケーキ美味しかったです」
「紅茶も!」
口々に別れの言葉を告げる学生達に、玄関の枠に肩を持たせかけたぼくは、ひらひらと手を振った。
「いえいえ。大学生と話す機会なんてあまりないから、楽しかったよ。……まあ、行動経済学の問題でも出されたら、どうしようかと思ってたけど」
ぼくの言葉に、若者達は顔を見合わせる。そして申し訳なさそうに口を開いた。
「ぼくたち、そちらは専門ではないんですよね」
「……理系なんで」
「でも高等数学の問題なら——」
「——期待に応えられるかもって? やめてくれ。もしそんなことしたら、次はケーキ出さないからな」
それは困る、と笑いながら学生達がエレベーターの方へと姿を消した。途端にどっと疲れがぼくを襲う。彼らと話ができて良かった。それは本心だ。けれど、今朝の刑事、ジェーンとマリアに続いて、これだ。揃いも揃って、みんなちょっとぼくに情報を詰め込もうとしすぎだと思う。
事務所に戻り、ぼくはすぐに掃除を開始した。ケーキは見事になくなっていたが、紅茶の減り具合はまちまちで面白い。完全に空のカップが一つ、中身が半分以下になっているカップが二つと、少しも口がつけられていないカップが一つ。
それらを手早く片づけ、台所と事務所を拭き上げた。まだブライアンが来るまでには時間があった。ざっと床も拭いておこうか、と道具を手に取ったところで、玄関のチャイムが鳴る。一階の受付からじゃない。扉の前のベル音だ。
誰だろうか、と不思議に思った。
このマンションでは、受付のコンシェルジュかぼくが操作をしなければ、エレベーターは使えない。だから玄関のベルが突然なるなんてことは、基本的にはあまりないんだけど。
首を傾げつつ扉を開けると、そこには先ほど別れを告げたばかりの青年、カシムが立っていた。身長百七十四センチのぼくが、やや見上げる位置にある、思い詰めたブルーアイズ。その眼差しに捉えられて、ぼくの体が一瞬固まる。予想外の場面で突然目に入れるには、この青年は少々インパクトが強すぎる気がする。
「へ、ヘーイ、カシム。何か忘れ物かい」
できるだけポップに声をかけてみたが、彼の目力は少しも緩まない。目の端でちらりと確認してみたが、一緒に来ていた他の三人はいないようだった。
「……こんな風に突然押しかけて、本当に失礼なことをしていると承知しています。けれど、ポッターさん、あなたにどうしても聞いてみたいことがあって」
「えーと、何かな?」
ぼくの問いに、透明感のある声で低く青年が応えた。
「あなたの目から見て、アランは幸せだったと思いますか」
思わずまじまじと青い目を見つめ返してしまう。しばらくその真剣な目を観察し、ぼくはついに諦めてため息をついた。
「……入ってよ。どうやら、こんな玄関先で済ませられる話じゃなさそうだ」
ぼくが壁に体を寄せると、彼は驚くほど静かにぼくのそばを通り過ぎた。あれだけ力強い気配を撒き散らしているくせにな。後ろから見ると、たてがみのように広がる焦茶色の巻毛が、ライオンのようだった。
お茶を淹れようとするぼくを止め、カシムは大人しくソファへと腰を下ろした。さきほどの答えを促すように、まっすぐな視線を向けてくる。
『アランは幸せだったと思うか』か。なんて難しい質問だろう。
「……あのさ。君とは高校卒業以降、付き合いはない、ってアランから聞いていたんだけど」
仕方なく口を開いたぼくに、カシムが動揺することなく頷いた。
「そうですね。同級生だった高校時代ですら、話をしたことはほとんどありません」
「じゃあどうして、そんなにアランのことを気にするんだい」
いっそ彼の悲しみが「同級生を失った自分」に酔ったものだったなら、話は早いんだけど。適当に心に寄り添ったフリでもして、適当なところで追い出せばいい。
青年がかすかに視線を下げた。何をどう話すべきか、思い悩んでいるように見えた。苦悩する若いライオンが出てくる映画が、そういえば数年前に実写化されたっけ。
余計なことを考え始めたぼくを現実に引き戻すように、カシムがゆっくりと話し始める。
「彼は気付いていなかったようですが、わたしはアランのことを、卒業後も時々見かけていました。お互い、ブリズベンにある大学に進学したし、工科大学の近くに行く機会も多かったので」
「つまり、アランが思っていた以上に、君は彼を気にかけてたと?」
ちらりと逡巡するように視線を彷徨わせ、そして青年はこくりと頷いた。そして、ぼくと目を合わせないままぽつぽつと続ける。
「ポッタ——ルークは、わたしがアランに声をかけた時のこと、聞いたんですよね?」
「アランの怪我に気がついて、彼に声をかけたんだろ。三、四回は聞いたよ」
「どんな怪我だったかは、聞きましたか?」
「いや……擦り傷程度の話かと思ってたんだけど」
カシムが鋭く首を左右に振る。
「いいえ。門外漢であるわたしに多くは語れませんが……とにかくあれは、素人目にも明らかな、ひどい暴行の跡でした」
静まり返った事務所の中で、こくりとぼくの喉が鳴った。ぼくの中の、『アランと初恋相手との淡い思い出』のワンシーンが、一瞬にして凄惨な情景へと書き変えられる。
吐き出す息ともに、ぼくは思わず強く目を瞑った。
「なんてこった……」
「……でも、本当にショックだったのは、アランがその怪我に対して、他人事のように無関心だったことです。こっちはパニックになっているのに、彼はただ、ぽかんとするばかりで」
——初めは、何を言われているのかわからなかったんだ。気づいたら視界いっぱいに、彼の顔と目があって。世界が、光でいっぱいになって……一拍おいて、やっと腕を掴む感触と、ぼくを問い詰める彼の声に気づいた。
カシムとの思い出を語るアランの声が、ぼくの脳裏によみがえった。あの時、アランの目には、ただ純粋な喜びだけが踊っていたのに。
——腕を掴まれた感触が、今でも肌に焼き付いている。あの感触を辿るだけで、どんな状況でも耐えられると思った。心が安らかになったんだ、本当に……
「あの時から、わたしはアランのことが心配で仕方がなかった」
「……もしかして、ひどいいじめがあったとか?」
「学校内での、という意味でなら、いいえ。注意して見ていたんですが、特に彼に対する暴行や嫌がらせはなかったようです。うちの学校は、精神的に落ち着いた生徒が多かったし、それに彼は良くも悪くもそれほど周りを刺激しない人だったと思います。物静かだけど、協調性がないと言うわけでもなく、成績が良かったから名前は知られていたけど、注目の的と言うほどでもなく。最低限の人との関わりの中で、うまくやっているな、と思っていました」
本当によく観ていたんだな、と感心するような言葉をすらすら並べたて、元同級生は小さく付け加えた。
「それに、小さなことですぐにお礼を言うから、彼を嫌っているやつなんていなかったんじゃないかな」
「ああ、それは分かる」
ぼくの言葉に、カシムが微笑む。
「……正直、卒業後に彼を見かける時はいつも、友人たちに囲まれていて楽しそうだったから——最近はもう、ほとんど安心していたんです」
「そうだったんだ」
目の前の青年は、アランのことを本当に気にかけていたんだ。
ぼくの、やや安堵を含んだ呟きに、青年が改めて先程の質問を重ねた。
「ルーク。あなたは、アランが幸せだったと思いますか?」
「君が見かける時はいつも、アランは楽しそうだったんだろ。それが答えだよ。何か不満なのかい」
「…………」
ぼくの微笑みに、カシムは黙り込んでしまった。オーケイ。ご不満ってわけだ。
歳の離れた弟に言い聞かせるように——ぼくには妹しかいないけど——ぼくは青年に語りかける。
「なあ、カシム。アランは、確かに自身の性的指向で悩んでいたけれど、少なくともぼくの目には毎日が楽しそうに見えた。でもさ。彼の日常も、その怪我のことさえも何も知らなかったぼくが、その問いに答えられるはずがないんだよ」
「……それでも、あなたが一番、彼の内面と深く関わっていたはずだ」
「買い被りすぎだよ。ぼくはたまたまアランの悩みを知る機会があっただけだ。そもそもぼくは、彼が大学生だってことすら知らなかったんだぞ」
「記号的な情報をいくら知っているかなんて、何の意味もないことです。わたしたちは四人とも、アランが声を上げて笑うところを見たことがなかった。それが答えだと思っています」
ぼくがつい先ほど使った言葉で切り返された。全く、なんて可愛げのない。
窓から見える風景は、すっかり夜のものとなっていた。暗い夜空を背景に、ビルや車が思い思いに光を撒き散らしている。時々思い出したように遠くの方から、車のクラクションらしき鈍い響きが、十五階に位置するこの事務所まで届いてきた。
この冬の空を眺めていると、何だか無性に暖かいものが飲みたくなってくる。ホットチョコレートに、ちょっとブランデーでも垂らすのはどうだろう。ブランデーの量は多めがいいな。まずはカカオとアルコールの香りを存分に楽しんで、続いてチョコレートの甘さを口の中いっぱいに広げて。喉を通り抜けるブランデーはすぐに、張り詰めた緊張の糸を温かく緩ませてくれるだろう……。
あまりに魅惑的な想像に、ぼくは深くため息をついた。
「大丈夫ですか?」
その青年の少し優しい声のトーンに、ぼくは思わず口を滑らせる。
「お酒が飲みたい」
「なんですって?」途端にカシムが、気を悪くしたように目を細めた。「ちゃんとわたしの話を聞いていましたか?」
「しょうがないだろ、こっちは朝から大変な一日だったんだから!」
疲れているのかな。ぼろぼろと溢れる本音が、自分でも抑えられなくなってきた。
「もう限界だよ、ただでさえ大学生相手に緊張してたのに、最後の最後でこんな頑固な奴に捕まって」
「が、頑固……」
打ちのめされたように呟く青年に、ぼくはさらに本音を被せていく。
「だいたい君、ぼくの話が聞きたいってやってきたくせに、ひとつもぼくの言うことに納得しないじゃないか! どうしろって言うんだよ!」
「それは……」
「分かってるよ、自分が何をしたいのか、自分でも分かってないんだよな。分かるけど、それに付き合う方がアルコール入りのホットチョコレートを飲みたくなるのは、仕方がないの!」
「ええと、何かすみません……あ、チョコレートならありますけど、食べますか?」
「もらう」
「食べるんだ……」
自分で聞いたくせに呆れつつ、青年が本の隙間から赤い包みを取り出した。遠慮なく受け取って、チョコレートを口の中で溶かと、干からびかけていたぼくの中の『思いやり』が少し息を吹き返した気がした。その思い出した心の余裕で、ぼくは話を軌道に戻す。
「なあ、本当は君だって分かってるんだろ。幸せなんて、そもそも主観的な感覚じゃないか。君がいくらアランの親しい人にそれを聞いて回ったところで、本当のことなんてきっと分からない」
「それでも、わたしは生前の彼のことが知りたい」
「……なあ、カシム。気づいているかい? その望みは裏を返せば、彼が幸せじゃなかった可能性に怯えているから出てくるものだ」
カシムの体が、びくりとこわばった。燃え上がるように輝きを増したブルーアイズは『そんなことは分かっている』とぼくに訴えているようだった。
きっと、同級生の体に見てしまった傷跡が、彼の心にもまた大きな傷を残してしまったのだろう。
「……まあ、なんと言うか。どうしてもそれを知りたいのなら、君が調べて回ることを止めはしないよ」
青年が顔を上げた。その目を見た瞬間、嫌な予感が稲妻のようにぼくの中を走り抜ける。
「……ポッターさん。ちょっとお願いがあるんですが」
嫌な予感がさらに濃度を増し、ぼくは思わず身を引いた。
「な、何、かな?」
「わたしが彼について調べて回るのを、手伝ってくれませんか」
「——おおっとごめん、何を言っているのか聞こえなかった」
逃げを打つぼくに、頑固なライオンが追い討ちをかける。
「わたしは、あの時の怪我の意味や、彼の抱えている問題のことが、どうしても知りたい。けれど——」
「そうそう。実はこのあと、ぼくの幼なじみと飲みに行くんだ」
「アランがごくプライベートに会っていた人をたどる手段が、わたしにはない。だから——」
「クソ真面目で頑固でリーダータイプで、あはは、ちょっと君に似てるかもな」
「あなたの手を借りたい」
「むり!」
間髪入れずに返事をしたぼくに、カシムが言い募る。
「どうしてですか?」
「どうしてだって? むしろ自分が何を提案したのか、ちゃんと考えてみなよ! 一体君は、何を考えているんだ?!」
「わたしは、このまま何も知らなかったふりをして、後悔したくないんです」
後悔、という言葉に、ぼくは深くため息をつく。
「カシム、これは元刑事からの受け売りなんだけどね。身近な人が亡くなると、人は『自分に何かできたことがあったんじゃないか』と後悔しがちなんだって。でも、アランの死は、君のせいじゃないから」
年長者ぶったぼくの言葉に、カシムの顔が憂いを帯びたものになる。
「そうやって、自分に言い聞かせているんですか?」
「何だって?」
我ながら、いかにも不穏な響きだ。正論を突きつけられた悪役が、ヒーローに食ってかかる直前のセリフ。映画だと迫力があるはずのぼくの言葉に、カシムは怯むことなく淡々と告げる。
「これは、わたしがオーストラリアン・フットボールを通して学んだ一つの教訓なんですが。誰かに何かのアドバイスを与えるとき、一番そのアドバイスを必要としている人間は、本当は自分自身だと思うんです」
その時、ほおがピクリと痙攣を起こすほどの強い苛立ちがぼくを襲った。——そんな自分の反応で分かってしまった。認めたくないけれど、ぼくはこれを図星だと思っているんだ。
ぼくのこわばった表情に何を思ったのか、カシムが魔法のようにどこからともなくメモ帳を取り出し、サラサラとペンを走らせる。いかにもできそうなやつというのはどうしてこう、いつでもメモ帳を隠し持っているんだろう。
「これは、ぼくの連絡先です。気が変わっても変わらなくても、連絡ください」
「気が向いたら、連絡する」
まるでやる気の感じられないぼくの返答に、カシムが眉を上げた。改めてその圧力の強い視線で、ぼくを串刺しにする。
「……一つだけ、あなたに言い忘れていたことがあります。これは彼の葬式で耳に挟んだものなんですが——アランは死の間際、笑顔を浮かべていたそうです」
今度は脳裏にアランの笑顔がよぎり、ぼくはまたもや絶句した。頭が、それ以上の情報処理を拒絶していた。勘弁してくれ。こいつは一体、一日に何回人に爆弾を投げつけたら気が済むんだ。
頭が本日の業務を終了してしまったぼくに、いかにも無害そうな爆弾魔が続ける。
「アランの顔は、筋肉の緩みでは説明ができないほど口角が引き上がった、満面の笑顔だったらしいですよ」
「……それが、一体どうしたっていうんだよ」
「わたしは、あいつが死ぬ間際に笑顔を浮かべていた意味を、あなたなら分かるのではないかと思ったんです」
どこまでも真剣なカシムの言葉に、ぼくは唾を飲み込む。
「——つまり、君はぼくが犯人だと」
「今なら間に合いますから、自首してください。——って、違いますよ。何を言っているんですか」
呆れたようにそう言って、青年が続ける。
「彼の笑顔が、幸せを感じていたからなのか、辛い人生からの開放を喜んだものだったのか、わたしは知りたい。それには、あなたの力が必要です」
「さっき断った!」
ぼくのかたくなな返事に、ぼくの目をじっと見つめていた青年が、にこりと微笑んだ。
「……今日は、わたし達の話を聞いてくださって、本当にありがとうございました。数々の無礼をお詫びします」
礼儀正しい引き際の挨拶に、ぼくはほんの少しだけ、自分の態度を反省する。
そんなぼくの反省の気持ちを嘲笑うかのように、カシムが悪びれなく続けた。
「——また来ます」
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