2章 アラン・マクスウェル(大学生の突撃)

 学生たちが事務所に上がってくるまでの間、ぼくは落ち着きなく部屋を片付けたりお茶を淹れたりして回った。

 彼らの来訪の目的が、ちっとも分からなかった。そもそも、アランとぼくが知り合いだということを、彼らが知っていたことにぼくは驚いていた。アランが話していたのか、何かの偶然で知ったのか——どちらにしても、わざわざぼくの元にやってくる意味がわからない。分からなくて怖い。怖いと言えば、大学生っていったい、どんな話をするんだろう。難しいこと聞かれても、ぼくは答えられないぞ。

 憂鬱な気持ちでポットにお湯を注ぎながら、ぼくはもしラテン語の問題でも解かされそうになったら奥の寝室に逃げ込もう、と心に決めた。玄関を入って右奥に位置する寝室は、文字通りぼくの聖域そのものだ。中からも外からも鍵をかけることができるその部屋は、友人どころかかつての恋人にも立ち入りを遠慮してもらった。ぼく以外の誰も、今まで足を踏み入れたことがない。

 そこまで考えて、ふと一つの可能性に行き当たる。事件当日の夜、ぼくを送ってくれた人物は、あの部屋に入ったかもしれない。

 その可能性に、少し動揺する。

 もしぼくの寝室に足を踏み入れたとしたら——その人物は、部屋のインテリアに何を思っただろう。

 よぎった疑問を振り払う。思い入れがある内装とはいえ、ただのベッドとクッション、カーテンとライトで構成された部屋だ。誰も何も思いはしないさ。生首や頭蓋骨が並べられているわけでもないし。

 彼らの到着を告げるベルがなった。ぼくは念のため、貴重品を置いている書斎兼資料部屋の鍵をかけ、その鍵を空の保存容器キャニスターに放り込む。深呼吸をしながら玄関へと向かい、恐る恐る扉を開けた。

 果たしてそこには四人の若者たちが控えていた。揃いも揃って顔をこわばらせていて、ぼくの顔もつられて引きつりそうになる。

「やあ、いらっしゃい。ぼくがルークだよ。ぼくの事務所へようこそ」

「あ、ども」

「こんにちは」

「なんかあれです、その、突然すみませんっていうか」

 口々に彼らが呟き、その次の瞬間には沈黙が訪れてしまった。

 ぼくはうんうん、と意味もなく相槌を打つと、努めてにこやかに口を開いた。

「と、とりあえず、中へどうぞ。さすがにちょっと夕方は冷えるよね」

 そう促しつつ、こっそりと四人の学生を観察する。一人は女の子で、残りは男の子だ。背が高くてモデルのようにしなやかなお嬢さんが、キリッと顔を引き締めたまままず扉をくぐり、ヒョロヒョロとマッチョな二人の赤毛がその後に続いた。最後に、どことなく他の三人とは毛色の違う、真面目そうな青年がついてくる。

 彼らをソファーに誘導し、シンプルなイッタラのティーカップをテーブルに配置した。事務所が、かつてないほどポップな印象になった。

「改めまして、ぼくはルーカス。念のために聞くけど、ぼくにインテリアデザインの依頼をしにきたってわけじゃないよね?」

 その言葉に、四人は慌てて首を横に振る。ぼくが顧客から、とんでもない金額を搾り取っているとでも思ったのだろうか。そんな邪推をしてしまうほどの慌てっぷりだ。

 またしても沈黙が訪れそうな気配。ぼくがこの会話をリードしたほうがいいのかな、と思い始めたその時、ソファの一番奥に腰掛けていた青年がためらいがちに「あの」と声を上げる。ほっとして視線を向け、ぼくはほんの一瞬だけど固まってしまった。

 褐色の肌に緩やかなウェーブを描くダークブラウンの髪。バサバサの睫毛に縁取られた、透明度の高い青色の目。意志の強そうな眉——ハンサムではあると思うが、際立って美形というほどでもない。四人まとめて観察していた時には、他の三人に埋もれていたほど、第一印象は地味だったのだが。

 青年が、真っ直ぐな眼差しでぼくを見つめながら口を開いた。

「はじめまして、カシムです」

 確かアラブ系の名前だったかな。

「突然の訪問にもかかわらず、こうしてわたし達を迎えてくださったことに感謝します」

「いや、まあぼくも、たまたま時間があったから」

 ぼくはなんとか大人の威厳を保ちながら、カシムの持つ、何かオーラのようなものに耐えた。彼には言葉では説明できない『何か』があった。何か——人目を惹きつけずにはいられない何かが。学生時代のブライアンから陰りを取り除いたら、こんな感じに仕上がる気がする。

「まあ、まずはお茶でもどうぞ。カカオフレーバーの紅茶なんだけど」

 その言葉に、カシムの反対側に座っていたお嬢さんが、ぱっと顔を輝かせた。驚くほど可憐な笑顔だった。滑らかなダークブラウンの肌が、笑顔に合わせてツヤっと光る。思い切ったベリーショートの髪に、全身真っ黒なコーディネートだから近寄り難い印象だったけど、この笑顔がリバーシのように、彼女の全てを愛らしさに変えてしまった。

 彼女は頬を緩めたままカップに口をつけ、さらに嬉しそうににっこりと笑った。そして、ぼくの視線に気づいて慌てる。

「えっと、クロエです。……すみません、先に飲んじゃった」

「気に入ってもらえたようでとても嬉しいよ、クロエ。それで、君たちの名前は?」

 ぼくが真ん中に座る二人の青年に声をかけると、彼らはそれぞれ「ヴィクトールです」「イーサンです」と名乗った。二人ともきれいな赤毛だったが、体格や顔つきは真逆だ。小柄で細身で、個性的な顔立ちをしているヴィクトールと、わかりやすく筋肉質で整った顔をした、このメンバーで一番長身のイーサン。

「ぼく達三人が、アランと同じクイーンズランド工科大学の学生で」イーサンがクロエとヴィクトールを指差しながら説明する。「カシムはクイーンズランド大学の学生です。アランの高校時代の同級生らしくて」

 なるほど、カシムは違う大学の学生なのか。他の三人とは、なんとなく雰囲気が違うと思った——ちょっと待ってくれ。クイーンズランド工科大学と、クイーンズランド大学だって?

 学問に苦手意識を持つぼくですらよく知っている、ブリズベンが誇る二大大学の名前に、ぼくは飛び上がりそうになった。

 なんてこった、よりによって理系と文系の超名門大学じゃないか!

 クロエの笑顔によってどこかに行っていた緊張の糸が、再び張り詰め始めた。やつらがオルメカ文明の話題で談笑し始める前に、早く本題を終わらせなくちゃ。

「ええとそれで、ぼくにどんな用事なのかな?」

 ぼくの言葉に、ヴィクトールが屈託のない緑色の目をこちらに向ける。

「ポッターさんは、アランの恋人だったんですか?」

「な……」

 唖然とするぼくの声にかぶさるように、残りの三人が絶望の声を上げた。

「なんでだよ!」

「うそだろ……」

「このばか!!」

 頭を抱える友人らを見て、ヴィクトールがやや気を悪くしたように口を尖らせる。

「なぜ責める? 君らが彼に聞きたいと言っていたことはどれも、この疑問の答えを知らないことには進まないじゃないか」

「ばか、あんたホントばか」

「成績の話をしてるのかな? ちなみにぼくの前年度の——」

「——うっさいのよ、くそが!!」クロエが、目尻を吊り上げて青年に噛みつく。「まずは天気の話を振ろうって、さっき話し合ったでしょ。何聞いてたのよ!」

 彼女の言葉に、残りの二人がうなずいている。純真な学生たちに教えてあげたい。大人にとって天気の話は気まずさの象徴であって、アイスブレーキングには向かない。

「ええと、その質問に答える前に確認させて欲しいんだけど」四人の賑やかなやりとりをなんとか遮り、ぼくは言葉を滑り込ませた。「君たちはアランから、彼の性的指向について何か聞いていたのかな?」

 四人がちらりと視線を交わし合った。そして小さく首を横に振る。

「高校では、アランはたいてい一人でいたので。彼の恋人の性別なんて、考えたこともありませんでした」

「おれたちは……まあ、本人から聞かされてはいなかったけど。三年もつるんでたしなあ」

「な。話題に対する反応なんかで、なんとなくそうなのだろうと」

「気付いて遠回しにからかう、クソヤロウもいたわよね」

 冷たいクロエの視線に、ヴィクトールが悪びれなく肩を竦める。

「だって反応が面白かったんだ」

「それ、何度でも言うけどね、ほんっとうに最低なんだからね!」

 至極真っ当な意見だと思うが、ヴィクトールはつまらなそうにそっぽ向くだけだった。なんだか、それぞれがずいぶんと個性的な子達だ。アランがどういう経緯で彼らと一緒に過ごすようになったのか、不思議に思う。

「まず質問に答えると、ぼくとアランは恋人同士ではなかったよ」

 学生達が慌ててこちらに顔を向けた。ぼくの答えが本当かどうか見定めようとしているのか、じっと視線をぼくの目に固定する。

「ぼく達は友人同士で、ぼくはよく彼の相談に乗っていたんだ。相談内容を、話すつもりはないよ。誰にも話さないで欲しいって、言われていたからね」

 ぼくの本気が伝わったのだろうか。しばらく何か言いたげにもぞもぞしていた四人が、しゅんと口を閉じてしまう。あまりにも彼らが素直に落ち込むものだから、ぼくはなんだか申し訳なくなってしまった。褒められた方法ではないけれど、こうして見ず知らずの人間を訪ねるのにも勇気がいったことだろう。

 ぼくは少し考え、「アランが語っていた君たちの話なら、伝えても怒られないかな」と譲歩する。途端に、学生達がぱっと顔を上げた。

「わたしたちのこと、アランが話してたの?」

「年齢も性別も外見的特徴も聞いていないから、ぼくの推測になるけどね。まず、LGBTの話題をふざけて振っていたのは、たぶん君かな、ヴィクトール? アランはそのことでよく拗ねてた」

 オブラートに包んだぼくの表現に、それでもヴィクトールはぎくりと顔をこわばらせた。なんでもないように振る舞っていたから、少し意外な気がした。もう二度と解消できない罪悪感を、彼もまた抱えているのかもしれない。

「君が、アランを君の仲間に引き入れたんだよね?」彼の心が和らぐよう、できるだけ優しく、ぼくは続ける。「アランは、そのことでどれだけ自分の生活を変わったのか、ぼくに話してくれていた。君は彼の恩人だと思う」

「……別に。ぼくはぼくがやりたいように、振る舞っていただけですから」

 言葉とは裏腹に、ヴィクトールが悲しげにそう呟く。

「それから、その彼の友達にしっかり者がいて」ぼくが続けると、今度はクロエの背筋がピンと伸びた。「……いつも楽しそうに宇宙の話をしてくれるから、最近は空を見上げるのが好きだ、って」

 クロエが目を見開く。すぐにその両目から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 ぼくはティッシュケースと小さなゴミ箱を彼女のそばに置くと、今度は抜きん出て大きな赤毛の青年に視線を向けた。

「あとは、これはぼくが一度だけ、アランが声を上げて笑うところを見た時の話なんだけど」

「声をあげて笑ったって、アランがですか?」

 戸惑うイーサンに、ぼくはにやりと口角を上げる。

「『赤毛同盟』とやらの寡黙な方、と言っていたから、君のことだと思うんだけどさ、イーサン。君、アランに赤毛についての持論を、延々と語って聞かせたことがあったんだって?」

 カシムの喉がヒュッと鳴り、ヴィクトールが「なんて酷い拷問だ」とげんなりした様子でつぶやいた。イーサンの大人びた顔が狼狽に崩れ、頬が赤く染まる。

 彼らと肩を並べていたはずの青年を思い出しながら、ぼくは続ける。

「後からじわじわ面白くなっちゃったみたいでさ。その後も時々、その時のことを思い出して楽しそうだった。なんの前触れもなくにやりと笑う時はいつも、君のことを思い出していたみたい」

「あいつ……」

 イーサンの表情が、ゆるりと緩んで、ひどく優しげなものになった。

「あとは……これは、本当にただのカンだから、君かどうか自信がないんだけどさ、カシム。高校時代、アランの怪我を心配して声をかけた同級生って、もしかして君?」

 ぼくの問いに、青年が愕然とした表情で目を見開く。

「……あの時のこと、覚えていたのか」

 ということは、アランの初恋の相手はこいつだったのか。アランは、その出来事が自分にとってどれだけ特別だったかを語るばかりで、相手の人物像なんて「学校の中心人物」としか説明しなかった。だから本当に、ただの当てずっぽうだったんだけど。

「嬉しかったって言ってたよ」

 端的にそれだけ伝えると、カシムが沈痛な表情で目を閉じる。

「さて、ぼくがアランのことで話ができるのは、ここまでだよ。申し訳ないけれど、これ以上は——」言いかけて、そのどんよりとした空気に思わずぼくは言葉を変えた。「——ドライフルーツ入りのパウンドケーキ食べる?」

 ヴィクトールとクロエが間髪入れずに頷く。食べるのかよ。スムージー片手に学術書を読む族は一味違うね。まあ、いいんだけど。

 ケーキを切り分けて、四人の前に置いた。次の瞬間には、ケーキは瞬く間に姿を消してしまう。彼らが落ち着くまでの間を保たせようと思っていたんだけど、ぼくのケーキではどうやら力不足だったみたいだ。

 彼らに気づかれないように、ちらりと横目で時計を確認した。まだ五時過ぎだ。驚くべきことに、ぼく達は出会ってまだせいぜい五十分程度の仲らしい。

 アランも大学構内の芝生でスムージー飲んでたのかな、なんてことをぼんやりと想像をしていたぼくに、涙を拭いたクロエが尋ねる。

「ポッターさん、アランはどうしてこの世を去ったんだと思いますか」

「ええと、どういう意味?」

「自殺と他殺、どちらだと思うかっていう意味です」

 彼女の言葉に、ぼくは衝撃を受けた。刑事が『殺された』と言っていたから、他殺だと思い込んでいた。自殺の可能性もあるんだろうか。それとも、まだ彼らが知らされていないだけか?

 黙り込むぼくに、クロエが続ける。

「わたし達、アランのお葬式に行ったんです——そこでカシムとも知り合ったんですけど。お葬式では、みんながアランの噂をしていました。『死因ははっきりしているけど、自殺か他殺かがまだ分かっていないらしい。でもまあ、たぶん自殺だろう』って」

 まさか、と言いかけてぼくは口をつぐむ。見ている方が不安になるような、ガリガリに痩せた体。きれいだけど陰りを帯びた顔。噂をしていた人たちは知らないだろうが、彼は自分の性的指向への悩みも抱えていた。

 どうして彼のことを何も知らないぼくが、自殺なんてありえないと言える?

 ぼくが口をつぐんだことに、四人は少なからずショックを受けたようだった。

 けれど彼らもまた同じように口をつぐむのは、自分たちもまた完全には否定しきれないからなのだ。アランが人生を、自ら終わらせた可能性を。

「ねえ、ポッターさん。アランは、どうして死ななければならなかったのかな」

 そんなこと、ぼくに答えられるわけがない。

「——ルークでいいよ。出会って一時間を過ぎたら、もう友達だろ」

 返事の代わりにそう言うと、理系組の三人が小さく笑い返してくれた。

 その隣で一人、カシムだけが思い詰めた表情で、じっと自分の足元を見つめていた。


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