あのひとを追う僕は

ななくさつゆり

あのひとを追う僕は

 いつも、僕はあのひとを追いかけていた気がする。

 記憶を掘り起こせば、僕の記憶はあのひとのまぶしい背中ばかりだ。

 そして、あのひと――彼女はいつも、走り抜こうとする僕を呼び止めてくれた。


「洋ちゃん!」

 その小さな手に引かれて、なっちゃんと一緒に登校するのが日課だった。


「おはよ。洋介」

 身長が同じくらいになり、夏実となんとなく対等になった気分になれた。


「おはよう、元気ね」

 僕が中学生になってからは、高校生の夏実さんと一緒に登校するのが難しくなる。少し、淋しい想いをした。


「洋介くん? 久しぶりかな」

「あ、はい……」

 僕が高校生になると、むこうは大学生で、バイトやサークルや試験だったり、なにかと多忙になっていく彼女とは会う機会が殆どなくなった。そのうち、自分も大学受験でそれどころではなくなってしまう。

 それでも、忘れられるのが怖くて、電話やSNSで頻繁にやり取りをしようとする。何気ないこと、色んな悩み事。そして、僕からは見えない、彼女の背後にあるはずの恋の話とか――。彼氏という単語が、文面に踊りでない事を祈りながら。

 それだけ頻繁にやり取りはしていたのに、真正面から好きだとは言えない……。決して言えなかった。


「えっ。洋介くんって、こんなに背が高かったの?」

 僕は大学生になり、ある程度自分の意思で、自分の時間を確保できるようになる。ようやく、彼女と直接話す機会を自分から作りだせるようになった。

 そしていずれは、そんな関係もいつか変えたいと思っている。

 自分の力と、自分の言葉で。だから、それまでは――。

 彼女には決して変わらないでほしい。昔のままでいてほしい。それだけが、自分の中で願っていたことだった……。

 でも、ある日を境に僕は、彼女の指を見なくなる。

 彼女の指に収まっているそれをはじめて見たとき、これまで気付けずにいた自分がとんだ間抜けに思えた。

 こみ上げてきた感情は惨めさ。そして、自分に対する恥ずかしさ。こうなってしまった以上、もう僕には、何も言えなかった。

 彼女はもう、僕にとって、好きだとすら言えない距離にいたんだ。

 それでも彼女はいつもの通り、気軽に僕を呼ぶ。

「洋介くん。今日はどうしたの?」

「バイトです」

 会う機会が増えたけれど、今度は会話が続かなくなった。

「そう……」

「……」

 会話の糸口を探すあまり、口が滑る。

「その、それってさ――」

 つい、それを尋ねてしまった。

「ああ、コレ?」

 彼女は何気なく左手を振り、それを僕に見せつける。扱いが少しぞんざいな風なのが意外だった。

「うん。……つけろって、言われてね」

 僕の視線が落ちる。すえた重苦しい何かが体の底にたまる想いだ。それ以上は聞けない。聞きたくなかった。

 そして彼女も、それ以上は語らなかった。

 もう、何も話すことができなくて、アルバイト先へ行くために自転車の鍵を外し始める。ついでに訊いた。

「夏実さんは?」

「お出かけ」

 笑いながら、彼女はしきりに髪をかきあげる仕草を見せる。そのしなやかな指の動きにつられ、つい彼女を視線で追ってしまう自分がいる。

 彼女の指に嵌まったそれは、西日に照らされてより一層目立って見えた。

「でも、洋介君って、なんだか変わったね。雰囲気が大人びたっていうのかな?」

 そう笑いかけてくれる彼女を尻目に、僕の中でひとつの想いが萎んでいく。

「そんなこと、ないです」

「ううん。絶対そうだって」

「……」

 そんなこと……ない、って。

 ここからはもう、何も言えなかった。


 ――違うんだ。

 変わったのは僕じゃない。夏実さんの方なんだよ。


 口が裂けても、そんなことは言えなかった。

 今更になって、肚に溜まっていた吐き出したい言葉がどっと喉元に押し寄せてくる。それを堰き止めて呑み下し、底でまとめて押しつぶした。


 僕は、手を引かれていたあの時から、何にも変わっていないんだ。

 僕はただ、夏実さんを追いかけていただけなんだよ。


 言ってしまいたい。

 それでも、言えない。言いたくない。


 そういえば、風が吹いているのをここで思い出した。

 足で自転車のペダルを逆踏みして、クランクがカラカラと鳴る。目も合わせずに言った。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 見送られてそのまま、振り返ることもなく自転車をこぎ出した。彼女をいつまでも、追いかけるわけにはいかないから。

 煽る風がうなじに汗を誘う。

 どこからか、風に混じり蚊取り線香の匂いが漂ってきていた。それは匂いだけで、白く立ち上る煙は風に浚われて消えたのだろう。

「煙は消えるけれど、その匂いはしばらく留まっているんだよね」

 そうこぼして僕は、のんびりと自転車をこぎながら、暮れゆく中空を眺めていた。

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