春風が吹くころに 4

 公園を出たあとゲンちゃんとコンビニに寄って、お弁当をふたつ買った。家に帰ってテレビを見ながらこたつで食べて、順番にお風呂に入って、ミルクにご飯をあげて、別々の部屋で寝た。最後の夜のはずなのに、いつもとおんなじ夜で、なんだかそれが不思議だった。

 眠れないかもと思ったのにぐっすり眠ってしまい、気がついたら朝になっていた。

 あたしは自分の部屋の鏡の前で、誕生日に風花からもらったリップをつけてみる。唇がすうっと淡いさくら色に染まって、なんだかすごく変な気分だ。

 それから修学旅行のときに買ってもらった大きなバッグに、周りのものを入るだけ詰め込み、部屋を出る。

 隣の部屋にゲンちゃんはいなかった。代わりにミルクがゲンちゃんのパソコンの前で「みー」と鳴くから、あたしはミルクを抱きしめてお別れを言った。

 玄関ドアを開けて屋上へ出る。空はゲンちゃんが描く絵みたいなやわらかい水色で、ふんわりとした風が吹いていた。


「ゲンちゃん」

 ゲンちゃんは手すりにもたれて、空に向かってタバコの煙をはいている。

「タバコやめなよ」

「お前がいなくなったらやめるよ」

 あたしはまっすぐ歩いて、ゲンちゃんの手からタバコを取り上げ灰皿で消した。

「いますぐやめて」

「うっせぇなぁ、お前は」

 ゲンちゃんが頭をかきながら、めんどくさそうにあたしを見る。あたしはそんなゲンちゃんに、にっと白い歯を見せる。

「じゃあ、行くね」

「あ、ちょっと待て」

 ゲンちゃんはジーンズのお尻のポケットから何かを取り出して、あたしに差し出した。

「これ持ってけ」

 あたしの目の前にあるのは、銀行の通帳と印鑑。そっと手に取り見てみると、あたしの名前が書いてあった。

「ママから巻き上げた金は全部ここに入れてある。お前が大学行くとき、使おうと思って」

 あたしは黙って通帳を開いた。わずかずつだけど、お金が定期的に入金されている。


「ゲンちゃん……」

「いいからもってけ。金持ちのパパができるなら、いらないだろうけど」

「違う。こことここ、それからここも……お金引き出されてる。なにかに使ったの?」

 あたしがところどころ出金されている数字をさすと、ゲンちゃんがちょっとあわてた。

「いや、ちょっと借りただけだよ。ほら、このあとちゃんと戻してあるだろ?」

 ゲンちゃんが通帳をのぞきこんで、指をさす。あたしの頭とゲンちゃんの頭がくっつきそうになる。やっぱりゲンちゃんはタバコ臭い。

 あたしはそっと通帳を閉じ、印鑑と一緒にバッグにしまった。

「ありがと。大切に使う」

「おう」

「でもあたし、大人になったらここに戻ってくるから」

「へ?」

 ゲンちゃんがマヌケな声を出す。

「昨日の情けないゲンちゃん見たら、やっぱり考え変えた」

 あたしは春の空気をすうっと吸い込み、言葉と一緒にそれをはく。

「なにができるようになったら、大人になるのかわかんないけど……ちゃんと進路決めて高校卒業したあと、とりあえずここに戻ってくるよ」

 大人になったらあたしは自由だって、ナナちゃんが教えてくれた。

 ゲンちゃんはあたしの前でぽかんと口を開けている。まったくしょうがない大人だな。

 あたしはそんなしょうがないゲンちゃんに向かって、とどめを刺す。


「だからそのとき結婚しよう」

「は?」

「結婚しよう、ゲンちゃん」

 にっこり笑ったあたしを見たまま、ゲンちゃんは「は?」という顔で固まっている。

 あたしはゲンちゃんのほっぺを、手のひらでぺちんと叩いた。

「わかった? ゲンちゃん」

「え……でも……」

「でもなによ?」

「そのとき俺、何歳だと思ってんだよ? お前とは全然釣り合わない……」

「何歳でもかまわないよ。あたしがゲンちゃんを拾って、本当の家族になる。そして一生面倒みてあげる。なにか不満ある?」

「いや……」

 ゲンちゃんはそこでいったん言葉を止めてから、まっすぐあたしを見つめて言った。

「不満なんかあるはずない」

 心の奥が、ふんわりとあたたかくなる。

「じゃあそれまで彼女作んないでよ。わかった?」

 あたしがもう一度ほっぺを叩くと、ゲンちゃんがやっと、いつもの憎らしい笑顔を見せた。

「わかりました。そのかわりお前も、変な男に引っかかるなよ?」

「ゲンちゃんより変な男はいないよ」

 あたしはにっと笑って、ゲンちゃんから離れる。

「じゃ、また」

 軽く手を上げてそう言ったら、ゲンちゃんも手を上げて言った。

「おう、またな」

 春風が吹く中で、ゲンちゃんが笑った。


 あたしはいつもの階段を駆け下りた。ちょっと荷物が重かったけど、足を止めずに駆け下りる。

 ビルから外へ出て上を見上げた。青い空がいつもより遠い。ちょっと視線を動かすと、あたしの住んでいた屋上が見えた。だけどそこにゲンちゃんの姿はもう見えない。

 あたしは小さく微笑んで、背中を向けた。そして振り向かないで歩く。

 数年後の、こんなふうに春風が吹くころ、あたしはどんな大人になっているんだろう。

 絶対素敵な大人になって、ゲンちゃんをびっくりさせてやるんだから。

 そんな未来が見えるから、明日から始まる毎日も乗り越えていける。きっと乗り越えてやる。

 青い空からなにかが降ってきた。顔を上げると、駅のそばの早咲きの桜がもう満開だった。

「わぁ……」

 風に乗って、何枚かの花びらが落ちてくる。あの夜の、白い雪みたい。あたしは手のひらにのった花びらを、そっとやさしく握りしめた。


 生ぬるくて、心地よかった、大切な思い出と一緒に――。

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雪降る夜に拾われました。 水瀬さら @narumiyu

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