春風が吹くころに 3
放課後、あたしが転校するって噂がクラスに広まり、みんなにまた泣かれた。担任の先生まで飛んできてちょっと困ったけど、あたしって意外と人気者だったのかもって、今になって気づく。
ひとりひとりとお別れしていたら帰りがずいぶん遅くなった。わかれ道でまた泣いている風花と別れると、あたしは近くにある電話ボックスに入った。あたしはスマホを持っていないから、公衆電話の使い方、ちゃんとわかる。
ポケットからぐしゃぐしゃのメモを取り出し、その番号に電話をかけた。少しコール音が響いたあと、あたしの耳にママの声が聞こえてきた。
「はい?」
「あたし……彩葉」
「彩葉? 戻ってくる気になった?」
「うん」
「じゃあ駅まで迎えに行ってあげる。いつがいい?」
「明日」
「身の回りのものだけ持ってくればいいよ。足りないものはこっちで買ってあげる。学校は……」
「明日から春休みだから。休みのうちに転校手続きして」
「わかった。じゃ、明日」
話し合いもなにもない。あたしがそこへ行くことは、まるで最初から決まっていたように、スムーズに会話は進む。でもあたしは、切れそうになった電話を引きとめる。
「ママ、ひとつ言いたいんだけど」
「なによ?」
あたしは受話器を握りしめて言う。
「ママは血のつながらない男の人と暮らすなんてダメって言ったけど、あたしの新しいお父さんも、血のつながらない男の人だよね? それはおかしいと思わないの?」
ママは電話の向こうで息をはく。
「それとこれとは全然違うでしょ? 屁理屈言ってないで、大人の言うこと聞いてればいいの。彩葉はまだ子どもなんだから」
やっぱりこの人は、あたしのことなんかなにも考えてない。邪魔なときは追い払って、必要になったら迎えに来て……あたしの気持ちなんか、なんにも考えてない。
自分の産んだ子どもを、ペットかおもちゃにしか思ってないんだ。
この人は……あたしのママは――大人になりきれない子どもだ。
「じゃあ、明日ね」
あっさり電話が切れた。あたしは受話器を置いて、電話ボックスを出る。春風がふんわりと吹いて、あたしのちょっと伸びた髪を揺らす。
『いろちゃんは髪を伸ばしたら、きっと大人っぽくなると思うよ?』
なんとなくナナちゃんの言葉を思い出しながら、あたしは毛先を指にくるくるっと巻き付けた。そしてそのままの格好で、目の前に見えてきた細長いビルを見上げる。
だけどあたしはそこへは入らず、まっすぐ前を見て進んだ。
夕暮れの公園に子どもたちの姿はなかった。ぐるりと周りを囲む桜の木は、もうすぐ花を咲かせようとしている。
あたしはひとりで公園の中に入った。ゲンちゃんとナナちゃんが喧嘩したとき、いつも仲直りする場所だ。
「やっぱり……いた」
オレンジ色に染まるブランコに、ぼうっと座っている大人の男。あたしは地面にスニーカーをこすりつけてから、足を踏み出す。そのまままっすぐブランコの前まで歩き、名前を呼んだ。
「ゲンちゃん」
目の前でうつむいていたゲンちゃんが、びくっと背中を震わせ視線を上げる。
「いろは……」
ゲンちゃんは無精ひげの生えた顔で、情けない声を出す。でもすぐにいつもの不機嫌な表情になって、ふいっと横を向いた。
「なにしに来たんだよ」
「ママから全部聞いたよ」
ゲンちゃんはこっちを向かない。
「あたしの面倒みる代わりに、ママからお金もらってたって本当?」
「ああ、本当だよ」
あたしはぎゅっと手を握り、座っているゲンちゃんを見下ろす。
「じゃあ、あたしと血のつながりがないっていうのは?」
「それも本当」
「そっか……」
あたしはバッグを地面に投げ捨て、隣のブランコに飛び乗った。立ったままブランコを揺らし始めると、キイキイと錆びた音が公園に響く。
桜の木の向こうに高いビルが見える。その上の空の色が、オレンジから藍色に変わっていく。もうすぐ今日が終わって明日になる。明日、あさって……あたしが大人になるのはいつだろう。
「あたし、ママのところに戻るから」
制服のスカートを揺らし、ブランコを勢いよくこぎながら言った。
「自分で考えてそう決めた」
ゲンちゃんはやっぱりなにも言わない。あたしはもっとブランコをこぐ。このまま空まで飛んで行っちゃいそうなくらい高くこぐ。
そしてあたりが薄暗くなってきたころ、あたしはブランコに座り、足を地面にこすって止めた。
「ねぇ、ゲンちゃん」
ゲンちゃんはまだそこにいた。なにもしゃべらないくせに、まだぼんやりとそこに座っていた。
「あの日……あの雪の降った日……なんであたしのこと、連れて行ったの?」
寒くて、手足の感覚もなくなって、なにも考えられなくなっていたあたしを……なんで抱き上げてくれたの?
「たまたまそこにいたから?」
ゲンちゃんは答えない。
「あたしが、かわいそうだったから?」
ゲンちゃんはまだ黙ってる。
「あたしをさらって、お金をもらおうとしたから?」
あたしはなにも言わないゲンちゃんを見る。
「ねぇ、ゲンちゃん、なんで……」
「かわいかったからだよ!」
あたしの体がびくんっとはねた。ゲンちゃんはブランコを乱暴に揺らして立ち上がり、あたしを見下ろして怒鳴る。
「かわいかったからに決まってるだろ!」
「な、なに……それ……」
あたしはぶるぶると体を震わせながら、ゲンちゃんの前に立ち上がる。
「なにそれ! かわいいからって、ママに黙って連れてくって……それ犯罪じゃん! 誘拐犯! 変態! ロリコン!」
「うるせぇ! 黙れ! 俺はいまでも、かわいいって思ってるよ! しょっちゅうお前のことばっか、考えてるんだよ!」
一瞬呼吸が止まった。気がついたらあたしは、ゲンちゃんにぎゅうっと抱きしめられていた。
「ゲンちゃ……」
「悪かったな……ロリコンで」
あたしの顔がゲンちゃんのジャケットの中に押し付けられる。息が苦しくて、タバコ臭い。
だけどあたしはもそもそと手を動かして、ゲンちゃんの背中をやっぱりぎゅうって抱きしめた。
「いろは」
ゲンちゃんの大きな手が、あたしの伸びかけの髪をそっとなでる。
「元気で……」
そうつぶやいたゲンちゃんの声はすごくかすれていて、泣いているみたいだった。
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