春風が吹くころに 2
「それで家を飛び出してきちゃったのね?」
あたしは家を飛び出し、制服のポケットに入っていたわずかなお金で電車に乗り、ナナちゃんのお店まで来た。棒切れみたいに突っ立っていたあたしにナナちゃんが気づいてくれて、あたしを自分の部屋に入れてくれた。そこであたしは一気に、さっき聞いた話を泣きながら話したんだ。
「まぁ、お茶でも飲んで? お菓子もどうぞ」
ナナちゃんはあたしの前に、綺麗な若草色のお茶と、ピンク色のお花の形の和菓子を出してくれた。
「……ありがとう」
そう言ったけど、手は出なかった。さっきあんまり強く握りしめたせいで、手のひらには爪痕がつき赤くなっていた。
「帰りたくないなら、うちに泊まったらいいわよ。ママの電話番号わかる?」
「わかるわけない」
「じゃあゲンちゃんに連絡しておこう。きっと心配してるよ」
ナナちゃんが取り出したスマホを、あたしは両手で奪った。
「ダメっ! ゲンちゃんに言わないで!」
「でも……」
「やだよ……だってゲンちゃんはあたしのこと……」
ママからお金をもらうための、道具として使ってたのかも。
そう思ったら腹が立ってきたけど、それよりもっと腹が立つのは、今日あの場にあたしを置いて逃げたことだ。
「そうね。ママもひどいけど、ゲンちゃんもゲンちゃんよね」
「でしょ! そう思うでしょ!」
ナナちゃんが顔を上げたあたしを見て、穏やかに微笑む。
「でも、ゲンちゃんはいろちゃんのことかわいがってたよ?」
「だからそれはお金のためだったんでしょ?」
「それだけで六年間も、ほんとは血のつながっていない姪っ子を育てたりする? 最初はお金が欲しかったのかもしれないけど、少なくとも今は違うと思うなぁ」
あたしはぎゅっと唇を噛む。
「それにゲンちゃん、お金なんかもらってたのかな? だっていっつもビンボーだったじゃない? 口では大きなこと言ってたけど」
ナナちゃんがいたずらっぽく小さく笑う。
「そんなお金があれば、もっと自分のために使ってたんじゃない?」
「あたしたちの知らないところで使ってたんだよ、きっと」
「そうかなぁ……」
「そうだよ」
あたしは口をとがらせる。そんなあたしにナナちゃんが言う。
「じゃあいろちゃんは、ママのところに戻るの?」
「えっ」
「ゲンちゃんにそうしろって言われたんでしょ?」
「そうだけど……」
ふうっと息をはき出して、ナナちゃんがやさしくあたしを見る。
「あたしも……いろちゃんはいったん、ママのところへ戻ったほうがいいと思う」
「ナナちゃん……」
「大人になるまでのちょっとの間だけだよ。大人になれば、いろちゃんは自由だよ?」
大人になれば……あたしは自由?
ナナちゃんがあたしに笑いかけた。あたしは黙って考えていた。
ずっとずっと考えていたから、その夜は全然眠れなかった。
「ナナちゃん、お世話になりました」
ナナちゃんの家に転がり込んできたのが金曜日。それから週末の二日間、あたしはナナちゃんの部屋で過ごした。
ナナちゃんはあれから特に口を出さないで、ゲンちゃんがここに来ることもなかった。もしかしたらナナちゃんがこっそり電話していたかもしれないけど。
そしてあたしはひとりでずっと考えていた。ずっと考えて今日の朝、決めた。
「これからどうするの?」
月曜日の早朝、お店の前まで見送りにきてくれたナナちゃんがあたしに聞く。
「今日は学校行くよ。あ、でもカバン置いてきちゃったから、一回家に帰る」
「そう」
ナナちゃんがやさしくあたしに笑いかけてくれる。ナナちゃんはそれ以上、あたしがどうするのか聞かなかった。
「また……会いに来てもいい?」
ちょっとうつむいてそう言うと、ナナちゃんはあたしの両手をぎゅっと握って言った。
「もちろん。いつでも待ってるよ」
あたしは顔を上げて笑顔のナナちゃんに笑いかけた。
ナナちゃんの手はちょっとごつごつしていて、ゲンちゃんの手に似ていた。
通勤のおじさんたちにもまれて電車に乗り、家に帰った。
屋上に続く階段を上るとき、すごく足が重かったけど、気合を入れて一番上まで上る。それからもっと気合を入れて重いドアを開けたら、見慣れた屋上の景色が見えた。
あたしが六年間暮らした場所。ぎゅっと一回手を握り、ずんずんと歩いて玄関のドアを開ける。
「……」
一番に見える台所には誰もいなかった。なんて言ったらいいのかわからず、黙ったまま靴を脱ぐ。そっとパソコンの部屋をのぞいたら、布団がきちんとたたんであって、パソコンの電源も消えていた。
「ゲンちゃん……いない」
念のため、あたしの部屋とトイレとお風呂も探したけどいなかった。
段ボール箱で眠っていたミルクが起きて、眠そうな顔で「みぃ」と鳴く。
「ねぇ、ミルク、ゲンちゃんはどこ行っちゃったの? 鍵開けっ放しでさ。あたしが気合入れて帰ってきてやったのに」
ばんっと台所のテーブルに手をついたら、ミルクは驚いて毛布の中にもぐりこんでしまった。あたしはふと、テーブルの上に置いてあるメモ用紙に気がつく。指を伸ばし、それをそうっと手に取る。
『ママの電話番号』
そう書かれた文字のあとに、数字が並んでいる。でもこれはママの文字じゃない。ママの字がどんなだったか覚えてないけど、ゲンちゃんの字はわかるから。
ゲンちゃんはあたしに、ママに電話しろって言いたいんだ。
「ゲンのバカ! 逃げ回りやがって! あたしに言いたいことあるなら、口で言いなよ!」
胸の奥がむかむかしてきて、そのメモをぐしゃぐしゃにつぶした。そしてごみ箱に捨てようと思って手を止める。
そうだ、あたし決めたんだった。
『こんなところで暮らすより、自分の親と何不自由なく暮らしたほうがいいに決まってる』
ゲンちゃんが言った言葉。
『あたしも……いろちゃんはいったん、ママのところへ戻ったほうがいいと思う』
ナナちゃんも言っていた言葉。
あたしは握りつぶしたメモをポケットの中に押し込んだ。そして学校のカバンを持って、家を出た。
「え、いろちゃん、引っ越しちゃうの?」
学校に着くと、あたしは一番に風花と湊斗に言った。それを口に出さないと、実行できないような気がしたから。
「うん。ママが迎えに来てくれたんだ。新しいお父さんのところに行くの。都内だって言ってたから、転校することになる」
「よかったじゃない!」
風花が小さな手で、あたしの両手を握った。
「よかった……のかな……」
「なんで? よかったに決まってるでしょ? やっとママと暮らせるんだから」
風花はそう言うけど、あたしはママと暮らしたいなんて思ったことなかった。でもきっと、風花の言ってることが『普通』なんだろう。
あたしもこれからは普通の子になれってことなんだ。
「でもゲンちゃんが、寂しがるね」
風花があたしの手を握ったままつぶやく。
「まさか。ゲンちゃんはあたしにさっさと出て行けって思ってるよ。だって全然引き止めてくれなかったし」
「そうかなぁ……ゲンちゃんあんなにいろちゃんのことかわいがってたのに……」
胸の奥がじんじんしてきた。さりげなく風花の手を離すと、めずらしく黙り込んでいた湊斗が口を開いた。
「彩葉の気持ちはどうなんだよ?」
「え?」
あたしは湊斗の顔を見る。湊斗は真面目な顔をしていた。
「彩葉は平気なのか? ゲンさんとあの家で暮らせなくなっても」
学校帰り。長い階段を上って、重いドアを開けると、そこにはいつもゲンちゃんがいた。
屋上から見える青い空。ゲンちゃんの口元からもれる白い煙。どんどん高く上がっていって、それは空に溶けていく。
タバコやめなって言ってるのに、あたしの言うことを全然きいてくれなくて……
そんなことを思い出して、あたしはそれを振り払うように首を振る。
「平気だよ。あたしは」
あたしは決めたんだ。ゲンちゃんの家を出て、ママのところへ行くって。
だってそれは、ゲンちゃんのためでもあるから。
「あたしみたいなお荷物がいなくなれば、きっとゲンちゃんにも彼女ができるよ」
そう言って笑った。笑ったつもりだった。
「いろちゃん……」
風花が悲しそうな顔をする。湊斗も眉をひそめている。
なんで? なんでふたりとも、そんな顔してるの?
「いろちゃん! いままでありがとう!」
突然風花があたしの体を抱きしめる。
「わたしっ、こんなだから……いろちゃんしか友だちいなくて……でもいろちゃんがいてくれたから毎日学校にも来れて……」
「風花?」
風花があたしを抱きしめながら泣いている。
「わたし、いろちゃんのこと大好きだから……だから……いろちゃんには幸せになってほしい……」
あたしはそのとき、気がついた。あたしの目から、涙がこぼれていることに。
「俺も……」
そんなあたしの耳に、湊斗の声が聞こえる。
「俺も、そう思うよ」
風花のやわらかそうな髪の向こうに、ぎゅっと唇を結んだ湊斗の顔が見えた。
なんでそんな顔するのよ? 風花もなんで泣くのよ?
もう、意味わかんない。
「バカぁ……」
あたしはそう口に出して、風花の柔らかい体を抱きとめた。
バカなのはあたしを抱きしめている風花で、変な顔して突っ立ってる湊斗で、超自分勝手なママで、意気地なしのゲンちゃんで……それに、泣いているあたしだ。
周りの子が不思議そうに見ている前で、あたしと風花は抱き合って泣いていた。湊斗もその隣で泣いていた。
「これからは俺が……師匠のお世話するから心配するな」
「わたしもまたお菓子作って遊びに行くから……ゲンちゃんのことは心配しないでね」
やっぱりこの子たち、意味わかんない。
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