春風が吹くころに 1

 その人は突然現れた。

 あたしたちがいつもご飯を食べている台所で、その人はゲンちゃんと向かい合って座っていた。

「え、あんた彩葉? やだぁ、大きくなっちゃって!」

 春休みの数日前、いつものように学校から帰って玄関のドアを開けて……そこであたしは固まった。あたしは金縛りにあったことがないけど、それってもしかしてこんな感じなのかなって思う。

「ちょっとどうしたの? びっくりした? なんたって六年ぶりだもんねぇ。あたしのこと、わかる?」

 口を開けたら喉の奥がひりひりした。あたしはそんな喉を震わせて、声を押し出す。

「……ママ」

 あたしの声はひどくかすれていた。そんなあたしの前でママが微笑む。甘ったるい匂いを漂わせ、まったく悪びれた様子もなく。

「そう。あたしは彩葉のママだよ。元気そうだね」

 十八歳であたしを産んだママは、友だちのお母さんと比べると若いし、見た目も綺麗で若々しい。一緒に暮らしていたころ、常に彼氏がいたみたいだったから、きっとモテるんだろう。だけどあたしはそんなママを、自慢に思ったことなんか一度もない。

 心の中がぐるぐると洗濯機のように回り始めた。怒っているのか、泣きたいのか、喜んでいるのか、悔しいのか……感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、よくわからない。

 あたしは助けを求めてゲンちゃんのほうを見た。ゲンちゃんはいつも以上に不機嫌な顔でそこに座っている。だけどあたしのことを見ようとはしない。


「まぁ、こっちにいらっしゃいよ。ほら、座って座って」

 ここはあたしとゲンちゃんの家なのに……ママはまるで自分の家のように手招きする。それでもあたしは言われた通り、ゲンちゃんの隣のあいていた椅子に座った。

「やだ、あんたたち顔似てない? やっぱり一緒に暮らしてると似てくるもんねぇ」

「あのっ」

 あたしは思い切って声を出す。今度は思ったよりずっと大きな声だった。

「な、なにしに来たんですか!」

 強い口調になったのは、あたしがきっと怒っているからだ。

 ゲンちゃんがあたしをここに連れてきたあと、すぐにママに連絡したのを知っている。だけどママは迎えにきてくれなかった。いつまでたっても会いに来てもくれなかった。ゲンちゃんと電話で話しても、あたしとは話そうとしなかった。

 あたしは捨てられたんだって思った。すごく……すごく哀しかった。

 ママはそんなあたしを見ながらふっと小さく笑い、こう言った。


「迎えに来たんだよ、彩葉のこと。ごめんね、遅くなっちゃって」

「へ……」

 思わずマヌケな声が漏れる。

 迎えに来た? あたしのことを? いまさら? なんで?

 頭の中は疑問だらけだ。

「ママね、結婚することになったんだ。大きな会社の社長さんと。彩葉も綺麗な家に住めるよ。こんなしけた街じゃなくて、都心の一等地なんだから。好きな服も買えるし、おいしいものも食べられる。もうこんな汚い家で暮らさなくていいんだよ」

 なにを言ってるんだろう……この人は。

「ね、彩葉、ママと一緒に行こう。新しいお父さん、ママよりだいぶ年上だけど、すごくいい人だから。彼ね、女の子が欲しかったんだって。で、ママが彩葉のこと話したらぜひ一緒に暮らしたいって。だから大丈夫、彩葉にもきっとやさしくしてくれ……」

「ちょっと待って」

 あたしはママの言葉をさえぎった。

「なんなの、それ。いままで一度も会いに来ないで、いきなり結婚するから一緒に行こうって……意味わかんないんだけど」

 あたしは隣で黙り込んでいるゲンちゃんの腕をつかんだ。

「ゲンちゃんもなんとか言ってよ。この人、頭おかしいと思わない?」

 だけどゲンちゃんはなにも言わない。あたしがその腕を強く揺さぶっても、なにも言わない。


「え、ゲンちゃん、どうしたの? まさかママについて行ったほうがいいとでも思ってるの?」

「当たり前だろ」

 ゲンちゃんの低い声が、あたしの胸の奥にずんっと響いた。

「こんなところで暮らすより、自分の親と何不自由なく暮らしたほうがいいに決まってる」

「は? なんなの? もう意味わかんない。この人はあたしを捨てたんだよ。あたしを育ててくれたのはゲンちゃんじゃん。そんな人が突然現れて、あたしを連れてってもいいって思ってるの?」

「思ってるよ」

 頭の中が真っ白になる。

「だってこの人は……お前のママだろ」

 息を吸ってそれをはく。喉も胸も震えてる。

「でもゲンちゃんは……あたしの叔父さんだよ。あたしは……あたしをいらないママよりも、あたしをかわいがってくれる叔父さんのほうがいい」

 ゲンちゃんがはっとした顔であたしを見た。でもすぐに顔をそむけて立ち上がる。

「俺、バイトあるから」

「ちょっ、待ってよ! なんで逃げるの? あたしを置いていかないでよ!」

 だけどゲンちゃんはそのまま上着も着ないで外へ出て行ってしまった。

「どうして……」

 ゲンちゃんは……あたしがここからいなくなってもいいの?


「あの日……」

 あたしの耳にママの声が聞こえた。あたしはそんな声聞きたくなくて、耳を塞ぎたくなる。

「絃がなんであたしたちのアパートに来たのか知ってる?」

 あの、雪が降った日のこと?

「あたしにお金を借りようとしてたんだよ、あいつは」

 あたしは静かに顔を上げる。ママはじっとあたしのことを見ている。

「うちも困ってたけど、絃もよっぽど困ってたんだろうね。あんたを勝手に連れてって、あいつなんて言ったと思う? こいつの面倒みてやるから、養育費くれって言ったんだよ?」

 心臓がずっとどきどきしている。その先を聞きたいけど、聞きたくない。

「まぁ、あたしもあのころはまだ若くて、いろいろやりたいことあったし。だから契約したの。あたしは好きなことしてお金を稼ぐ。その一部を受け取る代わりに、絃は彩葉の面倒みるってね」

 ママがあたしから目をそらし、ふっと息をはく。あたしはテーブルの下で、両手を強く握りしめる。爪がぎりぎりと、手のひらに食い込むくらい。

「でもその契約ももう終わり。あたしは十分やりたいことさせてもらったし、これからは働かなくても生活できるし。だからあんたを迎えに来たの」

「な……なんなのそれ……」

 あたしの声が震えている。

「あんたが怒るのも無理ないよね。でも説明したってわかってくれなかったでしょう? 大人の事情なんて。だけどこれからは思いっきり贅沢させてあげられるから、今までのことは全部忘れて……」

「バカにしないでよ!」

 あたしはばんっとテーブルを叩いて立ち上がる。ママが勝手に使ってるあたしのマグカップが揺れて、中のコーヒーがこぼれた。

「あたしのこと子どもだと思ってバカにしないで!」

「そうだね。あんたもう十三になったんだっけ? だったら余計ここにいたらダメだよ」

「ど、どうしてよ」

 あたしは怒りで体を震わせていた。だけどママは悔しいほど落ち着いていて、残ったコーヒーを一口飲んで口を開く。


「やっぱり言ってなかったんだ、あいつ」

 立ち尽くすあたしの耳に、ママの声が聞こえた。

「絃とあたしはね、姉弟だけど血がつながってないの。親が再婚したとき、お互いが連れてきた連れ子同士だから」

「え……」

「絃はあんたのおばあちゃんの子、あたしはおじいちゃんの子。小さいころだったけど、それは絃も知ってるよ。つまりあんたと絃も、血のつながりなんて何にもない。叔父さんって言っても、他人とおんなじ。そんな男とこれ以上暮らせないでしょ?」

 体中が熱くなって、そのあと急に背筋が冷えた。

 この前海に行ったとき、ゲンちゃんはお母さんの話をしてくれた。体が弱くて料理が作れなかったお母さん。だからゲンちゃんはあの定食屋さんで、よくご飯を食べさせてもらったって――ひとりで。

 聞いたときは気にならなかったけど、そういえばゲンちゃんの昔話に、ゲンちゃんのお父さんやママの話題は出てこない。

 あたしはふらふらと立ち上がる。

「彩葉? どこ行くの?」

 そして次に気がついたとき、あたしはママの声から逃げるように、ビルの階段を駆け下りていた。

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