エピローグ:新人賞発表10分前

 あれから半年が過ぎた。

 最寄駅のホームに降り立った修次は、人の波に乗っかって改札へ続く階段へと向かった。帰宅ラッシュに押しつぶされたポケットからパスケースを取り出し、絞り出されるようにして自動改札を抜ける。ようやく自由になった手でワイシャツの襟元を仰ぐと、生温い風が汗ばんだ体に入り込んできた。

 背負ったリュックの位置を正しながら、修次は七月の夕暮れを自宅へ急いだ。商店街には惣菜の匂いが漂っていて、仕事終わりの胃袋は立ち止まるよう促してくるが修次は断腸の思いでいくつもの店を通り過ぎた。今日は寄り道している時間はないのだ。

 何度も転びそうになりながらアパートの階段を駆け上がり、自室にたどり着く。四月から借り始めた家賃六万円の1K。靴を三和土に脱ぎ捨て、ネクタイを乱暴に襟から抜き取って床に放り捨てる。カバンをベッドの上に投げると、自分の抜け殻のような形をしたバスタオルがくしゃりと潰れた。ベルトを緩めてスラックスを脱ぎ、ソファの背もたれにかけてあったスウェットを素早く履いた。そしてちゃぶ台の上に乗っかっていたノートパソコンを開く。時刻は午後六時五十分。運命の結果発表まで、あと一○分。

「ふぅ」

 深く息を吐いたところでスマホが鳴った。電話だ。辺りを見渡すがスマホはどこにもない。少し考えてスラックスのポケットに入れたままだったことを思い出す。床に潰れたそれを拾って慌ただしくスマホを取り出して耳に当てた。

『や、どうも。葉加瀬です』

「ああ、お疲れ」

『もう仕事終わったの?』

「うん。ちょうど今家に帰ってきた。葉加瀬さんは?」

『私は今地元の駅に着いたところ。まだ出てないよね?』

「うん、まだ出てない」

 修次はノートパソコンのディスプレイに立ち上がったブラウザを見つめながら答えた。ブラウザの中央にはウユニ塩湖のような幻想的な風景の中で向き合う男女の姿が描かれている。彼らの周囲では翼の生えた本たちが飛び交っている。ページをスクロールしていくとやがて大きく、

『MARUKAWA文庫大賞 一次・二次選考:通過作品発表/三次選考:選考中』

 とある。

『ドキドキするね』

「うん、本当に。今日全然仕事に集中できなかった」

『仕方がないよ』

 修次は半年前、この小説新人賞に自作を応募した。葉加瀬の容赦ないダメ出しに尻を叩かれながら半泣きで書き上げた小説だ。第一稿は中編だったが、改稿に改稿を重ねた結果文量が倍以上に増え、最終的には長編小説となっていた。

「いきなり面白くないって言われたときは凍りついたよ、ほんと」

『だってほら率直にって言われたし。でも私も悩んだんだよ? 本当に思ったことをストレートに伝えていいのかなって』

「うん、まあ今となってはいい思い出だし、変に気を使われるよりよかったよ。最初に渾身の右ストレートを見舞われたおかげで、そのあとのダメ出しで心が折れずに済んだ」

 半年前、あのカフェで葉加瀬は修次を切り捨てた。しかしそのあとに続けてこう言った。

 ──でも、心には残った。面白くはなかったけど熱意は感じた。この物語はもっと面白くなるって思った。

 彼女はそう言うと具体的な指摘をくれた。誤字脱字や日本語ミスといった基本的なところから、テーマに関する深いところまで。きっと何度も何度も読み返してくれたのだった。彼女のダメ出しは情け容赦というものが一切なかったが、そのおかげで修二の小説は見違えるように面白くなった。

──どんな駄作でも、完成してさえいれば前に進めるんだ。 

 改稿作業中、幾度となくその言葉が脳裏に浮かんだ。あの扉だらけの部屋でスピーメロウが口にした言葉だった。その通りだった。たとえ駄作でも完成していれば直せる。直せれば面白くできる。

『まだ出てない?』

 電話の向こうで葉加瀬が言う。コツコツと踵がテンポよく地面を叩く音が聞こえてきた。彼女もまた足早に家へと向かっているのだった。

 修次はブラウザをリロードしてみた。内容は変わらない。『一次・二次選考:通過作品発表/三次選考:選考中』

『緊張してる?』

「そりゃね。一次選考突破が目標だったのに、まさか二次選考も通るなんて思わなかったから」

『三次を抜けたら受賞が現実味を帯びてくるもんね。なんてったって五八○○作品中の三○作品に残るわけだからね』

「四次も抜けたらいよいよ最終選考だ」

『そしたら担当編集がつくから、何らかの形で書籍化できるしね』

「書籍化か」

 想像してみる。自分の書いた小説に綺麗な表紙がついているところを。想像してみる。自分の書いた小説が近所の本屋に並べられているところを。想像してみる。自分の書いた小説を誰かが話題にしているところを。想像しただけで緊張が増す。心臓が喜んでいるのか怯えているのかよく分からない乱れ方をする。

「いやでも三次まで行っただけで十分だよ。四次とか最終はまだ遠いって」

『私はそうは思わないけどね。まだ出てない?』

「そうかなあ。うん、まだ出てないね」

 ディスプレイの隅に表示されている時刻を見る。午後六時五七分。三次選考の結果がホームページに公開されるのは午後七時。あと三分。

『茅ヶ崎くんは一次が目標って言ってたけど、私は最初からもっといけると思ってたよ。実際に通過してから言うのは後出しっぽいけどさ。まだ?』

「まじで? まだだね」

『まじだよ。あー私まで緊張してきた。まだだよね?』

『もうダメだ。心臓が爆発しそう。葉加瀬さんは実はフライングで情報持ってたりしないの? 丸川の新人賞だし。うん、まだだね』

 修次は口を動かしながらキーボードのF5キーを押す。ページはまだ更新されない。

『残念ながらフライング情報は持ってないなあ。部署違うし、末端も末端だし。それにもし持ってたとしても言えないよ。言ったらクビ飛んじゃう。そろそろ?』

『まあフライング情報をもらっても先に死ぬか後に死ぬかの違いだしね』

 修次はまたF5キーを押した。時刻は午後六時五十八分。あと二分。

『死ぬかどうかは分からないよ。あ、もう家着く』

 電話の向こうで葉加瀬の歩調が早まる気配がした。足音のテンポが短くなる。息遣いも激しくなった。おそらく走り出したのだった。

 修次はF5キーを押す。まだ更新されない。電話口で葉加瀬がバッグをまさぐるような音が聞こえる。鍵を探しているのだろう。F5キーを押す。まだだ。葉加瀬が鍵を開ける。ただいまーという声がする。おかえりーという声がある。F5キーを押す。まだだ。時刻を見る。六時五九分。あと一分。葉加瀬が階段を上がる音が聞こえる。「まだ?」「うん」扉を開ける音が聞こえる。バッグを置く音が聞こえる。F5キーを押す。まだだ。じれったい。指先が震える。いつの間にか貧乏揺すりが始まっている。もしかしたら体が震えているだけかもしれない。

『よしパソコン起動してホームページ開いた』

 電話の向こうで葉加瀬は、

『あ』

「え?」

『きた』

 修二の全身がびくんと跳ねた。肺の中の空気を一息で吐き出し、口の中に一瞬にして溜まった唾液を飲み込む。ごくり、という音が耳の奥に響く。

 F5キーを押す。

 三次選考のステータスが『選考中』から『通過作品発表』に変わっている。

 手をゆっくりとマウスに伸ばす。

 画面の中でカーソルが震える。落ち着け落ち着けと言い聞かせても効果がない。

 カーソルの先端を『発表』に合わせる。文字の色が変わる。

 人差し指を左ボタンに添える。数ミリがひどく遠い。なかなか押せない。

 もう一度大きく息を吐く。目をつぶってクリックする。

 一人きりの部屋の隅々まで行き渡るささやかな音。電話の向こうで葉加瀬が息を吸う音。時間が止まったような静寂。

 画面が一度真っ白になる。ページが、変わる。

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素晴らしき駄作たちよ 桜田一門 @sakurada

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