⑬:なんちゃらうんちゃらフラペチーノと小説の感想

 目を覚ますと家のベッドにいた。

 見慣れた天井に、壁に、机に、本棚。頭の奥に鈍い痛みが残っている。ほんの少しの吐き気と喉の乾きがある。机の上にペットボトルのお茶が倒れている。昨日の夜、飲み会の帰りに近所のコンビニで買ったやつだった。修次は軽い寝ぼけと二日酔いでフラフラしながらお茶を取り、緩んでいたキャップを開けて飲んだ。

 昨日の一件は夢だったのだろうか。つまり葉加瀬早音が自分の小説を面白いと言ってくれて、次回作を読むと言ってくれた一件だ。昨夜は夢と現実を行き来する回数が多かったために、もしかしたらあれも夢の一部だったのではないかと疑ってしまうのだ。ペットボトルのお茶をテーブルの上に置き、ベッドまで戻って枕元に寝かせてあったスマホのロックを解除した。

 メッセージが一通届いていた。葉加瀬早音からだった。

はかせ:『おはよ!』

はかせ:『ちゃんと帰れた? 大丈夫? 昨日のこと覚えてる?笑』

はかせ:『小説楽しみにしてるね!』

はかせ:『(スタンプを送信しました)』

 夢ではなかったらしい。

 自分は確かに昨日の飲み会で葉加瀬早音と小説について話をし、次回作が書き上がったら読んでもらう約束を取り付けた。その後嬉しさのあまり酒をたくさん飲み、見事こうして半二日酔い状態になったというわけだった。

 修次は葉加瀬のメッセージにスタンプを送り返すと、ベッドから降りて全身を伸ばした。ぼきぼきぼきと身体が目覚めていく音がする。

「そうだ」

 ふと思い立ち、部屋のクローゼットを開けた。確か「それ」は、下段の奥の方に親が片付けたはずだ。冬物の服や毛布、ゲームカセットの入ったクリアケース、本棚に収まりきらない本などを掻き出していくと指先が段ボール箱に触れた。『高校』『中学』『小学校』とラベルが貼られた三つの段ボール箱。修次は『小学校』と書かれたじゃがいもの段ボール箱を引きずり出した。ぱんぱんと側面を叩いてやると埃がパッと宙を舞う。机の上からハサミを持って来て、段ボールの蓋を封じているガムテープを切った。中に入っているのは小学校の思い出の品々だ。図工の授業で描いた絵とか、教科書とか、壁新聞とか、家庭科で作ったランチョンマットとか。中身を順番に取り出していくとやがて目当ての「それ」に行き着いた。黒い紐で閉じられた原稿用紙二十枚ほどの束。表紙に当たる一番上の紙には堂々とした雑な字でクラス、出席番号、名前が書いてある。そしてそれに続く形で、

『エターナル島の冒険』

 とタイトルが振ってある。ちょっとロゴに凝ってみようと努力した結果なのか、タイトルだけが鉛筆でぐりぐりと塗りつぶしたような太字になっていた。

 修次は原稿用紙の束を持って椅子に腰を下ろし、ぺらりと一枚めくった。

 鉛筆書きの文字はところどころが掠れていて、おまけに小学生時代の自分の字は足で書いたのかと思うくらいに汚くて雑だ。けれども読めないというほどではない。

「もっと真面目に字の練習しろよな」

 と十二年前に文句を送りながら、修次は自分の処女作を読み始めた。四百字詰原稿用紙で二十枚とちょっとの小説だ。文字数は一万を超えない程度の短編。読み終えるのにそう時間はかからなかった。十五分くらいだろう。

 ページが一周した束を修次はそっと机の上に置いた。

「……めちゃくちゃつまんねえな」

 呆れが一蹴して驚愕となっていた。

 スピーメロウたちの行動には御都合主義的展開が多すぎるし、心理描写は単純で、しかも切り替わりが早いから情緒不安定っぽい。擬音語が漫画かっていうくらいに満載だ。日本語が不自然。てにをはが死んでいる。

 正直もっと面白い物語だと思っていた。

 教室で読み上げられ、葉加瀬早音の人生を変えたぐらいなのだから、もっと素晴らしい作品だと思っていた。

 所詮は小学五年生の自分が書いた作品なのだ。しかも処女作なのだ。面白くなくて当然なのかもしれない。

 修次はこんなものを同級生に堂々と披露したのかと苦い顔で笑いつつ、しかしもう一度原稿用紙を手にとって最初から読み始めた。

 確かにこの物語は面白くない。新人賞に送ったら、選考委員からクレームの電話がかかってくるレベルだろう。けれども物語の奥深くに、熱い何かを感じるのだ。面白さや巧みさを二の次にした魂の鼓動のようなものを感じるのだ。きっとそれは小学五年生だった自分の強い感情だろう。自分が面白いと思うものを書く。誰かの眼に映る傑作や誰かの心に響く感動作などという考えはひとまず置いて、ただ自分が面白いと思うものだけを文字にする。だからこそこうして、物語としては面白くなくても、読み返したくなる魅力を持っているのだろう。

「今の僕にはないものだな」

 と修次は独りごちた。

 二回目を読み終えて原稿の束を机の端に寄せてパソコンを起動した。ファンが回る音を聞きながら、あの広間での一幕を思い出す。

──未完成の傑作よりも、完成した駄作だと思うんだ

 サイケデリックな髪の彼女はそう言った。あのヒロインはきっと自分が生まれた世界のことを知っていたのだろう。とてもつまらなくて面白くない世界だということを。だけどそれでも彼女は自分のことを誇りに思っていた。生まれたことを喜んでいた。だから胸を張っていたのだ。未完成の傑作よりも完成した駄作の方が大事だと。

 パソコンが起動した。デスクトップから文書ファイルが入ったフォルダを選択し、開く。数キロバイトのタイトルたちがずらりと並んでいる。誰も彼も終わらない世界で待っている。世界が素敵な結末を迎えることを待っている。修次は一つ一つのタイトルを撫でるようにマウスカーソルを移動させ、最初に終わらせる作品を探した。数分考えて選び出すと、両腕の袖をまくった。

「さて」

 キーボードにそっと指を乗せ、中途半端なところで終わっている文書ファイルを見つめる。

「未完成の傑作よりも、完成した駄作」

 呟き、最初の一文を打ち込む。


**************************************


 修次は予定より早く、待ち合わせ場所であるカフェに着いた。駅前にある、緑の女性が目印のチェーン店だ。休日の十五時過ぎとあってそれなりに混雑している店内をそろそろと歩き、どうにか空いている二人席を見つけると、なんちゃらうんちゃらフラペチーノを片手に座った。

 飲み物というよりもスイーツと呼ぶべきそれをストローで吸い上げつつ、背負ってきたリュックサックの中からノートパソコンを取り出した。待ち合わせの時間まではまだ十五分近くある。彼女がやってくるまでもう一度読み返しておこうと思った。けれどもこの後のことを思うと上手く集中できず、目は文字の上を滑るばかりだった。

 なんちゃらうんちゃらフラペチーノが半分ほどなくなった頃、彼女が店に入ってくるのが見えた。肩のあたりまで伸びたまっすぐな二つ結び。カーディガンにダメージデニムというラフな格好。アーモンド型の目が店内にぐるりと向けられ、修次は小さく手を振った。葉加瀬早音はすぐに気がついて小走りにテーブルにやってきた。

「お待たせ。早いね」

「早く来すぎた」

「何飲んでるの?」

「なんちゃらうんちゃらフラペチーノ」

「私もそれにしよ」

 彼女は財布だけを持ってレジに行き、ほどなくして全く違う見た目の飲み物を手に戻ってきた。「よく考えたらなんちゃらうんちゃらフラペチーノって意味不明」と彼女は言った。それもそうだと思った。

 しばらくは無言でフラペチーノを吸うだけの時間だった。修次は緊張していた。フラペチーノの味はほとんど分からなかった。自分から話を切り出すべきだろうか。それとも彼女が話を切り出してくれるのを待つべきだろうか。そんなことを考えながらストローを唇でつまみ続けた。

 ただ時間だけがすぎていく。

「あー、そういえば」

 とりあえず会話をしようと思って口を開いた。

「ん?」

「このあいだ内定出たんだ」

「ついに! 出版系?」

「いや、全然。IT系」

「あらまあ意外な」

「出版はもうほとんど採用が終わっててね。それに社会人になっても小説は書きたいから、それならむしろ過酷な出版系は選ばない方がいいんじゃないかとも思って」

「なるほどなるほど」

 葉加瀬はストローでフラペチーノをかき回し、生クリームやチョコソースを溶かしていく。何回かに分けて飲み、その度に至福そうな笑みを浮かべた。よく見てみるとカップのところに何か文字が書いてある。

『どーんといこう』

 なにが『どーん』なのかは分からなかったが少し勇気が湧いた。修次は空になったプラスチックカップをテーブルの上に置いて、ふぅと一つ息を吐く。

「どしたの? ため息?」

 葉加瀬はストローをくわえたまま、修次を下から覗き込むようにした。

「いや、まあちょっと緊張してて」

「緊張?」

「ほら、葉加瀬さんから小説の感想をもらうわけだからさ」

 それが修次と葉加瀬がこうして待ち合わせている理由だった。

 今を遡ること一週間ほど前、修次は出来上がった中編を葉加瀬に送った。未完成作を完成させたものではなく、新たにプロットから書き上げた作品だ。つまらないとか面白くないとかそういう考えは頭から蹴り落とし、ただ自分が書きたいと思うものを書いた。何度も推敲した。誤字脱字の多さにや文章の拙さに辟易した。設定は見直せば見直すほどどこかでみたものの継ぎ接ぎだった。キャラクターも魅力的かどうかは怪しくて、少し無感情な気がする。ストーリーには起伏が足りないかもしれない。それでも最後まで書いたし、ちゃんと葉加瀬に送った。

「あはは、そんな緊張しなくていいよ。たかが私の感想だよ?」

「でも人から感想をもらうのって数年ぶりだから。何を言われるんだろと思うと心臓がうるさくて」

「どれどれ」

 と言って葉加瀬が胸に手を伸ばしてくるので修次は思わずのけぞった。

「そ、それはさすがに」

「じょーだん、じょーだん。けどほんと私はたいしたこと言えないよ?」

「たいしたことなくてもいいよ。誰かの感想が聞けるだけでありがたいんだから。それに葉加瀬さんは来年から編集者になるわけだし」

「編集者かはまだ分かんないけどね。もしかしたら営業かも」

「あ、そうか。総合職採用だもんね」

「そういうことです。ま、いっか。分かった。とにかく私が茅ヶ崎くんの小説を読んで思ったことを率直に伝えるよ」

「うん、そうしてくれると助かる」

 修次は深く息を吸った。

「無理に褒めなくていいし、必要以上に貶さないで。ありのままの感想をお願いします」

「分かった」

 葉加瀬はフラペチーノのカップをテーブルの端にどかし、カバンからスマホを取り出してテーブルの上に置いた。

「いろいろ感想とか気になったところをメモってきたんだ」

 葉加瀬は本気だった。本気で自分の小説を向き合ってくれたのだった。修次はその姿勢に負けないよう、背筋をぴんと伸ばした。

「うーん、何から話せばいいかな……」

 困ったようにスマホを上下にスワイプしつつ、彼女は少し困ったように呟く。

「じゃ、じゃあ僕から聞いてもいい?」

 修次は少しだけ上ずった声で訪ねた。

「あ、いいよ。もちろんもちろん」

「率直にどうだった? 面白かった、面白くなかった?」

 かなりの勇気が必要な問いかけだった。デッドオアアライブ。天国か地獄。緊張で手は汗ばんだ。心臓の鼓動は激しさを増した。

 葉加瀬はスマホから顔を上げ、修次の顔を正面から見つめた。修次も逃げずに見つめ返した。何を言われてもしっかり受け止めるつもりだった。

 やがて彼女は唇をゆっくりと動かし、笑いながら言った。

「面白くなかった」

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