⑫:8年ぶりの再会

 修次がそれぞれの物語にどのような結末をつけたのか、少しだけ紹介しよう。

『バラバラ勇者』では洞窟王ニーズの倒し方に困っていた。

 強くしすぎたがためにどう倒していいのかが分からなかった。だから別の存在に倒させることにした。ラスボスを乱入させたのだ。ラスボスはニーズを従える存在だったから、ニーズを倒すのは簡単だった。そしてラスボスの倒し方は念入りに考えてあったので問題なく結末までたどり着かせることができた。世界は救われ、バラバラだった勇者は無事に五体満足になった。

『ななこい』ではオチとキャラクターに悩んでいた。

 必要過多なキャラクターたちを処理しきれず、結果として筆の進みが止まった。そこで思い切ってキャラクターを削った。七人いたヒロインを三人に減らした。四人を減らしたというよりは、七人を三人に圧縮したのだ。それぞれの個性を三人に分配し、薄っぺらかったキャラクターに厚みと深みを持たせた。キャラとしては一人一人個性が確立されていたから、圧縮することで性格が渋滞しないようにするのには苦労した。けれども最終的には三人の魅力的なヒロインへと生まれ変わった。すると不思議なことに物語は油を注した歯車のように滑らかに回り出し、いつの間にか想像だにもしない結末を迎えていた。三人のヒロインは全員が無事に幸せになれたのだった。

『十二人の笑わない芸人たち』では関西弁と、ありきたりな物語に辟易していた。

 関西弁については諦め、舞台を東京に変えた。笑いは大阪だけのものではない。東京にだって優れた芸人はたくさんいる。そう思って全員を東京出身芸人に変えた。そうすれば関西弁を使わずに済む。殺害方法はたこ焼きではなく江戸前寿司になった。そしてありきたりな物語については、これはかなりイレギュラーなアイデアを思いついた。物語の根底を覆す斬新かつ大胆なものだったが、ありきたりという言葉は消し飛んだことだろう。探偵役と犯人役をグルにしたのだ。仕事の依頼がなくて困っている探偵が、殺し屋を雇って殺人事件をでっち上げるというものだ。前半部分は普通のミステリものっぽく演出し、後半部分では事件の舞台裏を描くという構造。ミステリと言うよりもブラックコメディだった。かなり頭を使ったが綺麗にまとまった。被害者と偽の犯人はわけもわからずに殺され、探偵と真犯人が高笑いをしていた。

 いくつもの扉を抜け、いくつもの小説世界を巡った。

 修次は未完成のまま止まっていた世界に区切りをつけた。

 おそらく多くの作品が完璧な結末を迎えなかったとはずだ。中には酷い結末となった作品もあるだろう。けれども、たとえそうだとしても修次は作品に区切りをつけた。停滞していた世界に流れを呼び戻し、最後まで辿り着かせた。完璧な結末でなくとも、きっとそれでよかったのだろう。まずは何より、完成させることが大切なのだ。

 最後の世界を完結させ、二人は扉だらけの広間に戻ってきた。

「あー面白かった」

 スピーメロウが背中を目一杯伸ばし、満足そうな声を上げた。ポキポキという軽快な音が静かな広間の中に心地よく響いた。

「どうだった? 少し楽になったでしょ?」

「……まあ」

 最後の小説を終わらせた後、修次は身も心もどこか軽くなったような気がした。詰まっていた水路の中を、綺麗な水が流れ始めたような感覚だった。

「そんなに悪くなかったと思うよ、修次」

 スピーメロウは言った。

「悪くなかった?」

「修次の小説の話」

「ああ」

 と頷く。喜びかけたが、そもそもスピーメロウは修次が生み出したキャラクターで、言うなれば修次の一部だ。素直に喜んでいいのか。単なる自己満足ではないか。そう思いながらスピーメロウのことを見た。彼女は屈託のない笑顔を浮かべている。

 脳裏に声が蘇る。

──だからまずは自分で満足するところから始めようよ!

 きっと素直に喜んでいいのだろう。スピーメロウの、自分の生み出したキャラクターの言葉であっても素直に喜ぶべきなのだ。少なくともそれは、自分が自分を認めることができているという証拠なのだから。

「なんだろう、その」

 修次はもこもこの頭を掻きながらサイケデリックな髪の少女からちらりと視線を逸らす。

「ごめん、いろいろ」

「いいよ、許す」

 スピーメロウは頷き、

「って、なんで謝るワケ?」

「なんていうかな、キミのことをクズ呼ばわりしたことを謝りたいんだ。勝手に生み出して、勝手にクズ呼ばわりして、ごめんねって。本当は僕が一番キミたちを大切にしなくちゃいけないのにね」

「キミ呼び禁止」

 と言ったスピーメロウは顔の前で拳を握っていたが、それが修次に向かって飛んでくることはなかった。代わりに彼女は拳をパッと開き、修次に向かって差し出した。

「なに?」

「握手」

 修次は恐る恐るといった様子で手を差し出してスピーメロウの手を握った。

「ありがとうね」

 スピーメロウはいつになく優しく修次の手を握り、いつになく優しい声で言った。

「私は嬉しいんだ。生まれてこれて。こんな綺麗な色の髪や、派手な服を与えてもらえて。スピーメロウっていう名前をつけてもらえて。修次がどれだけ私たちのことを嫌っても、私たちは修次に感謝をしてるよ。生んでくれて、創り出してくれて、ありがとう、って。素敵な名前をありがとうって」

 なぜ彼女が「キミ」という表現を嫌い続けたのか、修次はようやく分かったような気がした。それだけ自分を、「スピーメロウ」という存在を大事にしていたということなのだろう。だからどこの誰か分からなくなる代名詞で表されることを望まなかったのだ。

 不意に広間が揺れだした。地震でも起きたかのようだった。前回も同じ感覚を味わった。外の世界が動いている証拠だ。誰かが、袴田あたりが修次のことを目覚めさせようとしているのだろう。

「そろそろお別れって感じかな」

 スピーメロウは揺れる景色を見渡した。

「みたいだね」

「ちゃんと完成させるんだよ、小説」

「もちろん」

「一応ここですべての作品に結末をつけたとはいえ、実際には原稿は完成していないんだから。完成させるまでが小説なんだからね」

「分かってるよ」

 揺れが増してくる。立っているのが難しくなってきた。スピーメロウの長くて綺麗な髪が、揺れに合わせて踊っている。彼女は目を細め、満足そうな笑みを浮かべた。

「また行き詰まったらおいで、ここに。私はいつでもいるからね。そして世界を股にかける美少女冒険家スピーメロウの手にかかれば、修次の悩みなんてありんこを吹き飛ばすよりも簡単に解決できるんだから」

 自分が作り出したキャラクターが発しているとは思えない、自信に満ち溢れた言葉だ。かつては自分もこういう人間だったということだろうか。修次は小学生時代の自分を思い出し、思わず笑みがこぼれた。自分にもそんな時期があった。胸を張って堂々と生きていた時期があった。現実に戻ったらまたそれを呼び戻そう。呼び戻せるはずだ。

「──じゃあね」

 スピーメロウは微笑んだ。揺れが激しくなり、世界が覆る。ひっくり返った彼女の口の端に寂しさが滲んでいた。意識が元に戻る最後の瞬間に、どうにかえ笑みを返した修次の口元にも、きっと。切り替わっていく意識の果てに、もう彼女に会うことはないだろうと思った。自分はしっかりと前に進んでいけると思った。

「またね」

 その言葉が届いたかどうかは分からない。


「あ、起きた?」

 そんな声が聞こえた。

 見上げた天井は暗くもなく、深くもなく、よくある板張りの汚れたものだった。つまり中学の同窓会が開かれている居酒屋の天井だった。

「うぁ……」

 頭の奥がズキズキと痛む。音痴な誰かがそこに住み着いて、宿主を憚らずに馬鹿でかい声で歌っているみたいだ。うるさい。痛い。修次は顔をしかめたまま、身体を起こした。

 飲み会はまだ続いていた。

 近くにあった誰かのスマホを覗き込むと、時刻は十時を回ったところだった。どれくらい眠っていたのかは分からない。

 当たり前のことだが、喧騒の中にスピーメロウの姿はなかった。彼女は今頃あの扉だらけの部屋の中をうろうろと歩き回っているのだろう。修次が完成させた小説世界を一つ一つ覗き込んだりしながら。

 まるでスピーメロウとの出来事そのものが夢だったかのようだ。もちろんあれが夢だったことは間違いのないだろうが、それすらも夢だったような気がするのだ。そんなことを考えていると余計に頭痛が酷くなった気がして、修次は座布団に頭を押し付けた。

「大丈夫?」

 背中をさすられる。女子の声だ。結城ではない。大山でもない。誰だろう。

「だいじょうぶ」

 修次は頭の痛みとほんの少しの気持ち悪さを押しのけつつ答えた。

「飲みすぎたんでしょー、茅ヶ崎くん」

「あー」

 くぐもった声でどうにか答える。

「まあ、そんな感じ」

「私が来るまでに潰れてるなんて失礼だぞまったく。まあ仕方ないから許してあげよう。しっかり休んで酔いを覚ましなさい」

「うー」

「ところでお水飲む?」

「おー」

「おーってどっちなのー。はっきりしないと焼酎飲ましちゃうぞ」

「あー」

 言いかけて唐突に気がついた。

 私が来るまでに?

 修次はビーチフラッグスに挑むライフセーバーのような勢いで身を起こし、酔い冷めやらぬ首と目と頭をフル回転させて声の主を探した。

 彼女は思いの外近いところにいた。というよりも、目の前にいた。

「わ」

「いっ」

 修次は葉加瀬早音の顔を数センチ先に見た。ほとんどキスをする寸前だった。恥ずかしさで顔が爆発した。

「ごめ」

 慌てて顔を背けて壁を見た。「焼き鳥盛り合わせ七百円」「季節の刺身五点盛り千三百円」店のおすすめメニューを意味もなく黙読した。

「びっくりした」

 葉加瀬早音が笑った。

 修次は恐る恐る壁から目を剥がし、葉加瀬早音へと視線を戻す。

 すっげー美人になってるって。袴田の声が脳裏に蘇る。その通りだった。

 中学時代と変わらない、肩の辺りまで伸びた二つ結び。かつては自由奔放に跳ね回っていた毛先が、今ではすっかり落ち着いて、艶のあるストレートヘアになっている。薄いピンクを引いた唇に、えくぼの影が見える頬に、少し上を向いた鼻。アーモンド型の綺麗な瞳には中学時代と変わらない真っ直ぐで誠実な光が灯っている。

「ひ、久しぶりだね」

「うん、久しぶり」

 つい全身を見てしまいたくなる気持ちを抑えて、修次は無理やり彼女の首のあたりに視線を固定した。顔を直視するのもまた恥ずかしい。

「酔いはもうさめた?」

「え、ああ。うん。もう余裕」

「そっか、ならよかった。びっくりしたよ、来たら茅ヶ崎くんだけ座敷に倒れてるんだもん」

「そ、それは確かにびっくりするね」

「でしょ。あ、なんかジュースでも飲む?」

「うん、じゃあコーラを」

 ちょうど座敷に上がってきた店員を呼び止めると修次はコーラを、葉加瀬は長い名前のカクテルを注文した。それから二人は壁に背中を預けていろいろと話した。大学のこと、アルバイトのこと、中学時代のあれこれ。やがて飲み物が届き、それぞれグラスを片手に話を続けた。最近読んだ本のこと、ハマっている作家のこと。本の話題になればネタは尽きなかった。中学生の頃もこうやってよく放課後に話し込んだものだった。

「そういえば茅ヶ崎くん」

 葉加瀬は両手で大事そうに持ったグラスの中身を見下ろしながら、何気ない風に言った。

「丸川出版に内定出たんだって?」

 グラスを口元に運びかけて止めた。なんと答えていいか迷い、止めたグラスを傾け直し、コーラの炭酸がピリピリと舌の上に弾けるのをしばらく感じていた。少しだけ逃げ出したいと思った。

「いや」

 口の中からすっかりコーラが消えた頃合いになってようやく修次は返事をした。ギリギリまでどう答えるか悩んだ。嘘をつくことはできないのは分かっていた。はぐらかすか、誰かのせいにするか、とぼけるか。

「内定は出てない」

 結局、正直に言った。舌の一番奥にあった言葉を、頑張って押し出した。たった一言にもかかわらず大きな疲労感があった。汗が噴き出した気さえする。

 長いような短いような沈黙があった。居酒屋の喧騒を遠くに追いやるような濃密な沈黙だった。修次は葉加瀬が手に持ったグラスを見つめていた。目にも甘そうなピンク色の液体は静かにグラスの中に収まっていた。

「そっか」

 葉加瀬早音は言った。

「ま、そうだよね」

「そうだよね?」

「うん。だって今日、内定者飲み会だったからね。丸川の」

 問答無用で納得させられる。説得力百パーセントの言葉が修次の嘘をねじ伏せた。けれども嫌な気分はほとんどなかった。だから素直に、

「なるほどね」

 と相づちを打った。

「だから遅れたわけか」

「うん、そういうこと。さっき袴田くんたちから茅ヶ崎くんの内定の話を聞いたけど、懇親会に茅ヶ崎くんがいなかったから、おかしいなって。強制参加じゃないけど、たぶん来ない人はいないと思うから」

「まあそうだよね」

 その話は一旦そこで終わった。葉加瀬は「なぜ嘘をついたのか」ということを聞いて来なかった。その気遣いが修次にはありがたかった。

 しばらく二人してただ飲み物を飲むだけの時間が続き、やがて葉加瀬はどこか決意したような様子で話題を引っ張り出してきた。

「まだ小説書いてるの?」

 コーラの炭酸が口の中で弾ける。夢の中の出来事が何度もフラッシュバックする。

 修次はコーラを喉の奥に流し込み、炭酸のキツさに顔をしかめた。

 そして踏み慣れぬ地面に足を踏み出すように、怖々と答えを返した。

「書いてるよ」

 すると葉加瀬は目を輝かせて言った。

「書いてるんだ、よかった! どんなの書いてるの?」

「ど、どんなのって言われると」

 修次は「よかった」の一言をもう一度自分の中で再生させながら、

「いろいろ、かな。ファンタジーとか、ミステリーとか、学園モノとか」

「へえ! ファンタジーっていうとやっぱ、あれだね。小学生の頃のやつ思い出すよ。『エターナル島の冒険』! 十歳の女の子がおじいちゃんと島を大冒険する話」

「よく覚えてるね」

 修次は驚いた。

「そりゃそうだよ。だってあれのおかげで私は本が好きになったんだもん」

 その一言に激しく動揺する。

 口の中で炭酸が爆発していた。コーラのグラスを落としそうになり、危ういところでテーブルの上に戻した。彼女は何を言い出すんだろうと思った。二の句が継げず、口の中で言葉がコーラに溺れていた。

「茅ヶ崎くんの『エターナル島の冒険』を読むまで、私は本なんてほとんど読んだことなかったんだ」

「そうなの?」

「うん。せいぜい年に一回、読書感想文のために我慢して読むくらい。文字ばっかで面白くないと思ってたんだよね。だけど茅ヶ崎くんが書いたやつは別だった。文字だからこそ想像の幅が広くて、自分で自由に楽しめるんだってことを教えてもらったんだ」

 修次は呆然と彼女の言葉を聞いていた。

「特に主人公のスピーメロウちゃんにはものすごく感情移入ができてさ、まるで自分の分身みたいに。自分自身があのエターナル島を冒険しているような気分になれた。すごいワクワクしながら茅ヶ崎くんの物語を聞いたんだ。あんな体験は初めてだった。本ってすごいなって思った。だからもっと色々な本を読んでみたくなって、図書館に通い始めたんだ。自分だけじゃよく分からないから茅ヶ崎くんにもオススメの本を聞いたりしてね」

「そういえば僕が何冊か葉加瀬さんに貸したのが仲良くなるきっかけだったかも」

「そうだよ。あの時の私は『昔から本が好きです』みたいな顔で近づいていったけど、本当は本にハマり始めて二ヶ月くらいだったんだよね」

「そうだったのか」

「そうだったんだよ。恥ずかしいから本当の理由は言えなくて、結局今の今まで黙ってたわけだ。というか今でも恥ずかしいや。うあー。何言ってんだろ、私。忘れて。忘れるんだ茅ヶ崎くん。そのコーラで! そのコーラで記憶を飛ばして! ほら、私と一緒に!」

 葉加瀬は両手で持ったグラスをぐいっと傾け、半分以上残っていたピンク色のカクテルを一気に喉に流し込んだ。その様子を見ながら修次は、

「う、嬉しいよ!」

 とできる限りの大きな声で答えた。周囲が騒いでいなければきっと注目を集めていたことだろう。だが幸いにも彼の声は見事に喧騒にかき消された。

「そう言ってもらえると、すごい嬉しい。あり、ありがとう!」

「あ、あは。そう? 嬉しいなら、いいんだけど。あー、もう! もし後で何か思っても、酔ったせいってことにしておいてね」

 葉加瀬は空になったグラスをテーブルの上にそっと置き、アルコールと恥ずかしさの両方で赤くなった顔でうつむいた。修次もなぜか恥ずかしくなった。忘れられるわけがないと思いつつ、コーラを一気飲みした。

「あのね」

 葉加瀬はうつむいたまま言う。

「私、さっき茅ヶ崎くんがまだ小説を書いてるって聞いてうれしかった。ほら、中学生の時にいろいろあったでしょ? 湯川くんとか岩崎くんにからかわれて」

 夢の中で見た光景が脳裏を過ぎる。黒い怪物に追われる光景がフラッシュバックする。できればもう思い出したくない記憶だった。しかし修次は葉加瀬の言葉を受け止めるように、ゆっくりと頷いた。

「あったね」

「私はあの小説を面白いって思った。心の底から。だけど馬鹿にする人がたくさんいたよね。私は悔しかったんだよね」

「悔しかった」

 八年越しに明かされた葉加瀬の感情に、修次はささやかな驚きと喜びを覚えた。

「自分が書いたわけじゃないし、自分が馬鹿にされたわけじゃないのに、なんでか悔しかったんだよね。なんでみんなが馬鹿にするのかも分からなかったし。どうやったら茅ヶ崎くんの小説を面白いと思ってもらえるのかいろいろと考えたけど、どうすることもできなかった。多分それ以来私、茅ヶ崎くんの小説読んでないよね」

「うん。僕も僕で完成させられなかったからね」

「完成させられなかった?」

「まあいろいろとあって。でももう大丈夫」

 きっと、大丈夫。と修次は胸の中で繰り返す。ならよかった、と葉加瀬は言う。

「それで茅ヶ崎くんはもう書くのをやめちゃったんじゃないかって心配してたんだ。中学生の時はなかなかそれを面と向かって聞く勇気がなくてさ。ずっと、もしそうだとしたらすごい残念だなって思ってた。今日飲み会に来たのも、茅ヶ崎くんがまだ小説を書いているのか確認したいって気持ちがあったんだよね」

「僕が小説を書いてるかどうか、を」

「うん。だってあれだけ面白い小説を、私の人生を変えるような物語を作れる人が、あんな心ない人たちの適当な言葉をきっかけに止めちゃってたら悲しいからさ」

 身体の中が震えた。魂とか心とか呼ばれる形のない芯のような部分が小さく、しかし強く震えた。修次はとっさに何の言葉を返すこともできず、代わりに涙のようなものを飲み込んだ。自分を縛り付けていたものすべてが、今、ようやく消えたような気がした。

「……ありがとう」

 自分の小説を待ってくれる人がいると分かった。それがどれだけ心の支えに、創作の励みになるのかを葉加瀬は知らないだろう。しかしそれでいい。知らないからこそ純粋な、優しい期待になるのだ。

 修次はゆっくりと深呼吸をした。今なら言える気がした。新しい最初の一歩を踏み出すための言葉を口にできる気がした。

「あの、さ」

「ん?」

「今書きかけの小説があるんだ」

「うん」

「もう少ししたら書き終わるから、そしたら読んでくれる?」

 葉加瀬はぷっくりとした頬を押し上げ、柔らかく笑った。

「もちろん」

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