挿話:葉加瀬早音と正体不明の同期③
葉加瀬が連れて行かれたのは、繁華街の中にあるチェーンの英国風パブだった。土曜の夜とあってか店内は人でごった返している。椅子席はすっかり埋まっており、空いているのは立ち見席のみだったが一杯だけという約束なので問題はなかった。
春日は人混みを縫うように進んで店内奧にあるカウンターへ行くと、通い慣れた様子で注文を始めた。春日はエールのワンパイントを、葉加瀬はピーチクーラーを頼んだ。
「まさか来てくれるとは思わなかったよ」
ちょうど空いているスタンドテーブルを見つけると、春日は片手に持っていたピーチクーラーのグラスを葉加瀬に手渡した。葉加瀬はそれを受け取りつつ言った。
「気になるところで話を止められたんだもん。それに一杯だけって約束だし」
「俺としては二杯でも三杯でも構わないけど」
「一杯だけね。私、このあと同窓会に行くんだから」
ここで春日と飲んで話をしても三〇分はかからないだろう。先ほどの電話の様子からして同窓会はまだまだ続くに違いない。
「さて」
春日はパイントグラスを乾杯するように傾け、葉加瀬は自分のグラスをそれに合わせた。カチンというささやかな音は店内の騒音に呑み込まれて聞こえなかった。
「最初に言っておくけど、この話はただの人気作家の誕生秘話だからね。大きな学びがあるかどうか分からない。それは葉加瀬さん次第だ。もしかしたら全くの時間の無駄になってしまうかもしれない。それでもいい?」
葉加瀬は頷いた。それを確認すると春日はゆっくり話し始めた。
「さっき話したとおり、俺は春日井みちるの生みの親なわけだけど」
「生みの親って言うのは、比喩的な意味だよね?」
「もちろん。俺が春日井みちるという作家を見いだした、って意味だよ」
春日はグラスを煽った。
「春日井みちると俺は大学の文芸創作サークルの同期でね」
「サークルの同期」
「そう。とは言っても真面目に創作に取り組んでるのは俺たちくらいで、後の部員はただ時間を潰したり友だちとワイワイしたりするだけだったわけだけど。とにかく俺と春日井みちるは創作仲間だった。俺たちはお互いにプロの作家を目指して小説を書いて書いて書きまくっていた。ただ正直、実力の差はかなりあった。どっちが上かは言わなくても分かるよね。春日井の──めんどくさいから本名で呼ぶことにするよ──飯田壱也の書く小説は俺が描く物よりも遥かに面白かった。あいつの書く小説に比べたら俺の書く小説なんて中学生の作文だよ。だけど俺は書き続けてれば飯田に近づけると思ってた。飯田とさえ比べなければ俺の小説はかなりまともだと思ったからね。いつか追いついてやると思っていたけど、最初に折れたのは飯田の方だった」
葉加瀬は口元に運びかけたグラスをテーブルに戻した。
「通算七度目の新人賞で一次選考落ちした直後の事だった。飯田は泣きながら俺に電話をしてきて『次の新人賞で最後にする。次でデビュー出来なかったらもう僕は小説を書くのを止める』ってそんな感じのことを言ってきた。俺も俺で自分の作品に精一杯だったから冷たく返したんだ。『好きにすればいいさ。お前の人生だ』みたいに。それから一カ月が経って俺は自分の作品を書き上げた。飯田の方はどうなっただろうと思って連絡を取ってみると、あいつはまだ自分の作品を完成させてなかった。七割くらいのところで止まっていた」
春日はそこで言葉を句切って再びエールを飲んだ。それから当時の光景を思い返すようにしばらく目を閉じていた。やがて瞼をゆっくり押し上げると、
「しかも飯田はその書きかけの作品を捨てると言い出した。理由を聞いてみると、あいつは自分の作品をこれでもかというくらい貶し始めた。クズだ、ゴミだ、面白くない、こんなモノ最低だ、ってね」
葉加瀬は黙って春日の話を聞いていた。
「そのときの俺は自分の作品を書き上げて心に余裕があったから、急いで飯田の家に行くことにした。家に行ってどうするのかは考えてなかったけど、なんか不穏な感じがしてね。あいつの家の扉は鍵が掛かってなかったから俺はそのまま乗り込んでいった。そしたら部屋の真ん中で飯田が倒れてたんだよ」
「……倒れてた」
「びっくりして駆け寄ったらすげー酒臭いの。側にはビールのロング缶が四、五本転がっててね。あいつもともとそんなに酒強いやつじゃないからもうすっかり泥酔状態。豪快にいびき搔きながら爆睡よ。酔っ払う直前に力を振り絞って俺に電話をしてきたみたいだった。とりあえず深刻な状況じゃないのに安堵して、缶をゴミ箱に捨てて、飯田が起きる前に帰ろうか起きて一緒に飯でも食おうかと考えてたら、パソコンの画面が目に入ったのよ。ロックがかかってない状態で、書きかけの小説のファイルが表示されてた。あいつが自分で貶しまくった小説さ。俺は気になったのでそれを読み始めた。未完成の作品を勝手に読むのは罪悪感があったけど、なぜか読まなくちゃならないような気もしてね。もうだいたい察してると思うけど、その未完成原稿こそがあいつのデビュー作だよ」
葉加瀬は息を呑んだ。
「デビュー作って、あの、百万部突破の」
「そう、まさしくね。葉加瀬さん、あれ読んだ?」
「読んだよ。すごく面白かった」
率直な意見だった。相手が作者の友だちだから気を使ったということは一切なく、それに気を使う意味もなかった。
「でしょ。俺もスゲー面白かったもん、初めて読んだとき」
「なのに春日井──飯田さんはつまらない、と?」
「そうだよ」
春日はエールのグラスを空にして頷いた。
「最初に読んだとき、俺は序盤からぐいぐい物語に引き込まれていって、いつの間にか全部読み終わってた。原稿は、なぜそこで筆が止まるのかという場所で終わってて、すごい消化不良だったんだ。だから二回目を読んで、飯田がこの物語をどう終わらせるつもりだったのかを考察してみたりしてた。そしたらあいつがむくりと起き上がってきてね。俺は反射的にその肩を掴んで揺さぶりながら『続きを書け』って叫んだ。飯田は抵抗したけど俺は肩を掴んだ手を離さず、途中まで読んだ感想を思いっきりぶちまけた。あいつは半ば放心状態で俺の話を聞いていた。俺は言いたいことだけ言ってすぐに飯田の家を出た。途中で本屋に寄って、編集のノウハウ本とか小説のテクニック本とかを片っ端から買って帰って飯も食わずに読み耽った。気がついたら朝で、目の前には付箋がべたべた挟み込まれた本が塔を築いていた。頭がすげー痛かった。午後から講義があったからそれまで寝ようかと思ったら電話が掛かってきた。飯田だった。あいつもあいつで寝ずに小説を書いて、それがちょうど書き上がったらしかった。俺は寝るのをやめてすぐにあいつの家に行って書き上がった原稿を読んだ。納得のいく結末だったけどまだ改善の余地があった。俺は率直にダメ出しをして、あいつは改稿を始めた。そうやってダメ出しと改稿を繰り返すこと二週間。ようやく原稿が完成して、ぎりぎりで賞に投稿出来た。投稿時のペンネームは『春日井みちる』。俺がいなければ完成出来なかったという意味を込めてらしかった。俺は嬉しさ半分照れ半分で家に帰って、そして自分の作品を応募しそびれたことを思い出した」
葉加瀬は、自分のグラスに口をつけるのも忘れて春日の話に聞き入っていた。
「けど不思議と何の感情も湧かなかったんだ。ショックでもなかったし自己嫌悪にも陥らなかった。自分の原稿を逃したことより、飯田の原稿を逃さなかったことの方が嬉しかったんだ。それ以来俺は小説を書くのを止めた。もともと才能があったわけじゃない。小説しかなかったから書き続けてたんだ。だけどようやく俺は自分が本当にやりたいこと、できることを見つけた。それが編集。この世の中にはきっとまだ見ぬ傑作が幾つも眠ってる。だけどその大半が日の目を見ない。飯田のようなケースがあれば運が悪かったケースやタイミングが悪かったケースもある。正しい人に読んでもらえなかったケースだってあるかもしれない。俺はそんな日の目を見ない傑作を見つけ出し、研ぎ澄まし、本当の傑作にしたいんだ。俺には小説を書く才能がほとんどないけど、傑作を見いだす才能はあるんじゃないかと思ってる。なんてったって百万部の作家を世に送り出したわけだからね」
葉加瀬は春日がバーに入る前に訊ねたきた問いを思い出した。
──なんで編集者になろうと思ったの?
春日が編集者を目指した背景には興味深いドラマがあった。では自分には何があっただろう。
十二年前。小学生の頃。教室で読み上げられた一編の物語。先生の声を通して胸を燃やした作者の情熱。今まで知らなかった世界の扉が開いた。あの感動がきっと、自分にとってすべての始まりだった。茅ヶ崎くんは今、何をしているのだろう。まだ小説を書いているのだろうか。
「葉加瀬さん?」
茅ヶ崎修次と最後に小説について語ったときのことを思い出す。あれは八年前の、中学生のときだった。夏休みの課題で書いてきた小説がクラスメートの一部にバカにされて、彼は酷く落ち込んでいた。そんな彼のことを励ました。私は面白かったと伝えた。本心だった。彼は笑って「ありがとう」と言った。けれども彼の心にはあまり響いていないのが分かった。あのときずいぶんともどかしい思いをしたことを今でも覚えている。自分は面白いと思った。他人は面白くないと思った。本人は自信をなくしている。どうすればいいのか分からなかった。彼がそのまま小説を書くのを止めてしまうのではないかと不安になった。その不安を拭い去ることができずに時は過ぎ、二人は自然と小説の話をしなくなり、やがて卒業して進路は分かれた。
自分はなんで編集者になろうと思ったのだろう。
──俺はそんな日の目を見ない傑作を見つけ出し、研ぎ澄まし、本当の傑作にしたいんだ。
春日の言葉を頭の中で何度も反復させる。
茅ヶ崎くんは今、何をしているのだろう。まだ小説を書いているのだろうか。小説を書いてくれているだろうか。
「おーい、葉加瀬さん」
自分の名前が呼ばれていることにようやく気がつき、葉加瀬は慌てて顔を上げた。
「またどこか飛んでたね」
春日はそう言って苦笑した。
「ごめん、春日くん」
葉加瀬は言うなり立ち上がった。テーブルの上にはまだ一口も手をつけていないピーチクーラーのグラスがあった。
「ん? どうしたの?」
「私、ちょっと今すぐ出たい」
「同窓会?」
「うん」
「焦らなくてもいいんじゃない? ほら、葉加瀬さんまだ飲み物残ってるし」
「飲んでいいよ、それ。口つけてないし」
葉加瀬の突然の行動に春日は戸惑っているようだったが、わざわざ説明する時間も惜しかった。彼女はバッグから財布を取り出し、千円札を一枚春日に差し出した。
「お釣りはいらない。一杯だけの約束を破った分だと思って受け取って」
「それは構わないけど」
春日は困惑した様子で千円札を受け取った。
「面白い話をしてくれてありがとう、春日くん。四月からよろしくね」
そう言ってテーブルを後にし、葉加瀬は人でごった返すフロアを出口の方へと突っ切って行く。歩く速度は出口の階段を一段上がるにつれ、次第に速くなっていくようだった。
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