⑪:未完成の傑作よりも、完成した駄作
スピーメロウの手をしっかりと握ったまま、ひっくり返った視界に屋上の手すりを見た。葉加瀬早音の形をした怪物が、あの虚ろな目でこちらを覗き込んでいた。屋上は暗闇に押しつぶされるようにして丸く小さくなっていき、やがて点となって消えた。
永遠にも思えるような長い墜落だった。その間に何かを考えていたような気がするが、何も考えていなかった気もする。修二はどこか心地のいい浮遊感に抱かれながらひたすらに落ちた。
落下の終わりは唐突だった。
「よいしょっと」
スピーメロウは水面に足を浸けるみたいにしてゆっくり着地し、修次は重力に負けて倒れた。痛みはなく、ただその場で転んだと言うような感覚。力なく起き上がって周囲を見渡してみれば、あるのは扉ばかりだった。最初の場所に戻って来たのだ。
スピーメロウは落下でついたシワを伸ばしつつ、呆れたような声音で言った。
「いやー、探したんだよ随分。物語と修次の記憶が混同したせいで、あの扉の向こうはグッチャグチャのカオス状態。なかなか見つけられなかった! まったくさ、開けちゃダメって言ったんだから開けないでよね。私だって意地悪したくてそう言ったわけじゃないんだから」
サイケデリックな二つ結びを翻し、スピーメロウは修次の方を振り向く。鮮やかな青とピンクとオレンジが宙に踊る。修次は絹糸のように細いそれらをぼうっと眺めていた。
「──それで、大丈夫?」
スピーメロウは、転んだまま立ち上がらないでいる修次の前にかがんだ。二つの瞳は呆れたような雰囲気から一点、修次のことを心配するように揺れている。
「なんで私があの扉を開けないでって言ったのか分かったでしょ」
咎めるような声に、修次は小さく頷いた。
「あれは修次が完成させた数少ない作品のうちの一つ。私も一度だけあの世界を覗いたことがあるの。修次がここへくる前に。だけど覗くので精一杯だった。あそこは小説の世界だったけど、同時に修次の記憶に囚われた世界でもあった。だから私は修次がここにきたとき、あの扉にだけは近づけないようにしようって決めたんだ。あの中に入ったらきっと、修次は嫌な思いをすると思ったから」
例の扉は修次たちがいる場所から見てちょうど直径の端に位置していた。今もまだ瘴気のようなものを放ち続けている。目には見えないが、肌に感じる何かがあった。
修次は冷たい床の上に膝をついたまま頭上を見上げた。丸くくり抜かれた黒い穴が、広間の光の一切を飲み込んでいる。屋上はもう見えない。怪物の姿もない。恐怖と安堵が入り混じった笑いが、口の端からポロポロと溢れていく。
「修二」
スピーメロウがそっと修二の袖を掴んだ。
「よかったら教えてくれる? あそこで何があったのかを」
修二は虚ろな瞳をスピーメロウに向けた。混乱と動揺でどろどろになった思考を解きほぐすのに少し時間がかかった。
「分かったんだよ、全部」
それから彼は自分がさきほどの世界で見たこと、知ったことを明かした。順序よく話すことはできなかった。絡まった紐の結び目を探すように、思いついたことを言っていった。スピーメロウは口を挟むことなく聞いていた。
「僕には小説しかないんだ」
気がつけばそんなことを口にしていた。スピーメロウは唇を真一文字に結び、修次から一切目をそらさずに一度だけ頷いた。
「初めて書いた小説を褒められた小学五年生のあの日から、僕は自分を表現する手段として小説を使ってきた。思ったこと感じたこと伝えたいこと。すべてを小説にしてきた。小説はもう一人の僕だった。小説でなら誰にも負けない自信があった。だけど、中学二年の夏休み明けから僕は狂っていたんだ。クラスメートに小説を笑われたのは、僕自身を笑われたのと同じだった。僕を否定されたのと同じだった。だけど僕には小説しかない。バカにされても笑われても、僕は小説を書き続けるしかない。僕にはそれしかないんだ」
高校生になっても、大学生になっても、来る日も来る日も小説を書き続けた。毎日毎日パソコンに向かった。街を歩きながらご飯を食べながらバイトをしながら授業に出席しながらいつも頭の片隅で小説のことを考えていた。文章なり、プロットなり、アイデアなりを。
「僕はもう自分の小説を、自分自身を否定されたくなかった。あんな惨めな思いは味わいたくなかった。だから傑作を書かなきゃいけない。否定されないように、惨めにならないように、すごいと思ってもらえるように。自分の心を守るためにも、次に書くものは傑作じゃなきゃいけないんだ」
そうして初めて中学二年生の自分が救われ、今の自分も救われるはずなのだ。傑作を書けば、すべての人に認めてもらえれば、あの日狂いだした自分の心が正常に戻るはずなのだ。
「だけどどうだ? いつまで経っても傑作は完成しない。それどころか傑作からどんどん遠のいてしまっている気さえした。何を書いても面白くなかった。新しい本を読むたびにそれを実感した。売れてる小説を読む度に、自分の書いたものの稚拙さが浮き彫りになった。自分が書いたものだけが世界で一番つまらない小説であるかのように思った。いつしか本屋に行けなくなった。本屋に行くのが怖くなった。本屋に行けば売り場にはたくさんの本が並んでいる。並んでいる本はすべて作家の活動の証だ。作家が何かを成し遂げたことの証明だ。それを目にする度に僕は何も成し遂げられない自分を悲観してしまう。本や作家、読者。すべてから嘲笑われているような思いになる。吐き気がして寒気がして」
賑わう本屋の売り場の真ん中で、修次の書きかけの小説だけが取り残されている。どの本棚に入ることもできず、人の足跡で汚れた床の上に無造作に放り出されている。修次の小説は誰の目にも止まらない。ただただ床の埃にまみれている。
「僕には小説しかないんだ。傑作を書くしかないんだ。だけど傑作が書けないんだ。書くものはすべてくだらなくて、つまらなくて、気持ち悪くて、酷い出来なんだ」
暗い部屋の中で、修次は一人孤独に四角い画面を眺めている。栄養の足りない指先がキーボードの上を蠢いている。固く虚しい音が誰もいない部屋の中にぱちぱちと、氷を叩くように響いている。一心不乱に書き続ける。けれども傑作は生まれない。数キロバイトのゴミばかりが、ハードディスクの容量をじわじわと食い潰していく。
「修次」
スピーメロウが静かに口を挟んだ。修次はうなだれたまま彼女の方を見ようとしなかった。
「修次!」
スピーメロウが声を張った。広間に響いたその声に修次は思わず顔を上げる。スピーメロウは拳を握って飛び込んできた。殴られる、と学習機能が警告していた。
けれども彼女は修次の顔面に拳を叩き込む代わりに、鳩尾のあたりに激しく抱きついてきた。今にも肋骨を砕きそうなほどの力強い抱擁だった。修次は思わずバランスを失って床に倒れ込んだ。スピーメロウはそれでも修次のことを離さなかった。
修次は軋む骨の音にのけぞりながら不思議な暖かさを感じていた。床に落ちた手の甲に触れるスピーメロウの髪の毛の先は細く、優しかった。
「そんなこと言わないでよ」
スピーメロウは修次の腹に顔を埋めたままくぐもった声で言った。
「くだらないとかつまらないとか、そういうこと言わないでよ」
「……そういうこと言わないでよ、って」
「私は修次に生み出されたんだ。修次が私を生み出してくれたんだ。修次がいなかったら私は生まれてこなかったんだ。私だけじゃないよ。月子だって火憐だってうしおだって北野いわしだってガストルフだってゼリヤだって。みんな修次のおかげで生まれてくることができたんだ。修次が何日も何日も考えた果てに、私たちは存在できてるんだ。私はそのことを忘れたことは一度もない。きっと他のキャラクターたちも一緒だよ」
「だからなんなんだよ」
奥歯を食いしばって声を絞り出した。
「修次に『くだらない』『つまらない』って言われたら私たちは悲しいよ。私たちは自分に誇りを持ってる。物語の登場人物としての自分に強い自信を持っている。なぜかって、自分を生み出してくれた作者のことを信じているからだよ。自分が否定されることは悲しい。だけど自分が信じる作者が──修次が──修次を認めてあげることができないのはもっと悲しい。せっかく書いたものを自分で傷つける修次を見るのが悲しいんだ」
修次は目の焦点をスピーメロウの頭頂部に向ける。己の胸の底に何かを聞いた。無数の声のような何か。悲しみのような嘆きのような、そんな弱々しい感情を抱かせる何か。
「修次にしか作れない物語があって、修次にしか生み出せないキャラクターがいる。私たちを生み出すのはほかの人には絶対にできない。たとえそれがどれだけつまらない物語だとしても、どれだけくだらないキャラクターだとしても、世界中の人が口を揃えてバカにするような内容だったとしても、修次の小説を生み出せるのは修次だけなんだ」
「……」
「だから作者だけはそれに『素晴らしい』と胸を張っていいと思うんだよ。胸を張るべきだと思うんだよ。だってそれはその人にしか作り出せない唯一無二のものなんだから。世界中のほかのどんな誰にもできないことを成し遂げたってことなんだから。喜んでいいんだよ。誇っていいんだよ」
「……そんなの」
修次は両手をだらりと垂らし、力なく地面を見た。
「ただの自己満足じゃないか」
「自己満足でいいじゃん!」
スピーメロウは一層強く修次の身体を抱き締める。
「自分だけでも満足できればいいじゃん! でも今の修次は違うじゃん! 自分さえ満足できてないじゃん! だからまずは自分で満足するところから始めようよ!」
「そんなこと──」
スピーメロウは修次の言葉を遮るように小さく息を吸い、細く吐いた。
「未完成の傑作よりも、完成した駄作だと思うんだ」
「は?」
「心踊る面白い物語があって、本当に実在しているみたいな魅力的なキャラクターがいて、頭の隙をつくような斬新な設定があって、とてつもない傑作になる可能性を秘めていても、完成していなければ意味がないんだよ」
スピーメロウは修次から剥がれ、まっすぐに彼のことを見上げた。
「完成していなければ売ることができないし、評価のしようがない。評価のしようがないんだよ。小説は最後まで読まないと判断できないんだ。期待通りの傑作かもしれないし、もしかしたらまったくの駄作かもしれないんだから。だけど完成していれば、それがどれだけ酷い駄作だったとしても、評価することができる。面白くないなら面白くないって言える。面白くないって言えたら今度はどこが面白くないかって言える。どこが面白くないかって言えたら、どうやったら面白くなるかってのを考えることができる。どうやったら面白くなるかってのを考えることができたら面白くする方法が見つかる。面白くする方法が見つかれば駄作が傑作に変わる可能性がある。どんな駄作でも、完成してさえいれば前に進めるんだ」
手を握られた。小さいながらも、力強さを感じる握り方だった。修次は左右で色が違うスピーメロウの瞳を見つめた。中心には同じ色の光が灯っていた。とても真っ直ぐな光だった。
同じ瞳を見たことがあった。
思ったことを率直に伝えてくる瞳。自分のことを真剣に思ってくれる瞳。信じることができる瞳。それを見たのはいつだっただろう。ぼんやりと考え始めた時にはもう思い出していた。間違いない。八年前のあの夏の終わりの屋上で、打ちひしがれていた修次に向けられた瞳。
スピーメロウの手を握りながら修次は己の馬鹿さ加減に気がついた。
彼女は真剣に思いを伝えていてくれた。真っ直ぐに思ったことを話してくれた。クラスの流れに逆らうことは簡単なことではなかったかもしれない。けれども彼女ははっきり、まっすぐ、しっかり伝えてくれたのだ。
面白かった、と。
それを曲解した。
言葉は荒んだ心の前で歪んだ。というよりも歪めたのだ。どうせ自分なんかとふて腐れ、他人の真摯な言葉を真摯な思いで受け止めようとしなかった。
そうして今に至るまで自分自身を縛り続けてきた。傑作を書かなければならないという屈折した思いを、修次は自分で自分に巻きつけていたのだ。
「完成させたら」
修次はぽつりと呟いて、スピーメロウの手を握り返した。目の奥が熱を持っていた。夢の中なのにおかしな話だった。
「完成させたら何かが変わるかな」
祈るような思いで問いかけた。スピーメロウに、どこかにいる葉加瀬早音に、そして自分に。
「どんなにつまらなくても、クソでも、完成させれば違ってくるかな」
自分を縛り付けていた縄を解くように呟く。固い結び目に指をかけて解いていく。八年の縛りは固い。それでも解ける。今なら解ける。今、解かなくてはならない。
スピーメロウは修次の手を離し、小さな右手を修次の頬にそっと添えた。
「変わるよ。きっと変わる。変わらないわけがない」
小さな手の暖かさがゆるゆると残りの結び目を解いていく。冷たくなっていた心をじわりと溶かしていく。
「未完成の傑作より、完成した駄作なんだ。完成させることが何よりも重要なんだ。どんな作品だって完成さえしていれば次に進める。私はそう信じてる。私が信じてるってことは修次も信じてるってことなんだ。だから大丈夫。完成させよう、書きかけのすべての小説を」
長いような短いような沈黙があった。修次は三回ほど深呼吸をした。その間にいくつもの思いが頭の中を駆け巡った。自分を卑下したい思いや貶したい思いが掠めた。それらをはね除け修次は頷いた。
「……分かった」
スピーメロウは修次の頬から手を離して微笑み、
「あとそれからさ──」
「それから?」
「『つまらない』とか『クソ』とかいうのは禁止。一つ、私が被創作側の存在としてそういう言葉に傷つくから。二つ、完成するまでその作品の良し悪しは分からないから。三つ、『つまらない』より『面白さが足りない』って考えよう。修次の小説は面白いけど、まだ面白さが足りない。もっと面白くできる。そう考えるんだ。こういうのはね、気持ちの問題なんだから」
「面白さが足りない、ね」
修次は笑った。確かに気持ちの問題かもしれない。「つまらないつまらない」と自分を罵倒するよりは、「もっと面白くできるもっと面白くできる」と激励した方が気持ちが綺麗でいられるだろう。
二人はどちらからともなく立ち上がった。広間を囲う扉をそれぞれ順番に眺めていき、やがてスピーメロウが言った。
「どの扉から行く?」
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