⑩:本当の呪縛

 恐れていたことが起きる。

 刈谷が小説の音読を終え、一人勝手に悦に入って天井を見上げていた。今にも飛び出さんばかりの眼球を充血させて、灰色の吐息を悪臭とともに放っていた。

 教室の中には死んだような静寂があった。

 それを生き返らせたのは、原稿用紙がくしゃりと折れる音。そして小さな嗚咽。

「……っぐ……どうだ、お前たち。素晴らしかっただろう、先生が感激した理由が分かっただろう」

 刈谷はピンポン球のような眼玉から粘液めいた涙を垂れ流す。薄気味悪い独りよがりの、傍迷惑な涙。修次は扉に背を預けてへたりこんだまま、そんな怪物を眺めていた。

 やがてクラスメートの一人が立ち上がって言った。

「せんせー!」

 背が高い、坊主頭の男子生徒。湯川翔馬だ。

「くそつまらねえ!」

 八年越しに再び聞いたその言葉は、修次の胸に深く、杭のように突き刺さった。「いみわかんねーし」続く言葉が穴を押し広げる。「つーかイタくね。あときもい」言葉はぐりぐりと胸の奥まで押し込まれていき、

「よくいった湯川!」

 と囃し立てたのは彼の相棒である岩崎司。それから彼らの取り巻き的な男子生徒たちがぼそぼそと笑い出す。陰湿な笑いはじわじわと教室の空気を侵食していく。

 やめてくれ、という言葉は喉の奥で絡まって出てこない。どうしようもない屈辱と悔しさとやるせなさを、言葉にすることができない。笑うクラスに何かを言ってやりたいのに。笑うクラスに何かを言ってやるべきなのに。修次は何も言うことができない。過去と同じように、ただ自虐的に笑うことしかできない。身体だけが本当の感情に従って静かに震えていた。

「オタクって感じ」「きもちわるいよな」「くだらねえし」「中二病ってやつ?」

 逃げ出したい。逃げ出さなきゃ。逃げよう。逃げるべきだ。逃げるんだ。

 しかし扉は開かない。固く閉ざされて壁のようにビクともしない。教室は修次を閉じ込める牢獄と化していた。

 八年前のあの日も同じだった。自作の教室をクラスメートに馬鹿にされて、しかし授業中だったがために逃げ場はなく、嘲笑の牢獄の中でただひたすらに耐えていた。

「僕の小説は」

 途切れることのない嘲笑の端っこで、修次は絶望の眼差しを床に向けたまま呟く。

「僕の小説はきもちわるい。僕の小説はくだらない。僕の小説は面白くない」

 つまんな。なにこれ。きっしょ。クラスメートたちが口にする心のない言葉たち。

 夏休み、夢中になって書いた数十ページの短編小説。クーラーの効かない部屋で扇風機をガンガン回しながら叩いたキーボード。行き詰まり、汗が落ち、窓の隙間から忍び込んでくる蝉の音を聞いて先の展開を思いつく。他の宿題に使うべき力の大半を回して書き上げた。きっとまた面白いと言ってもらえるだろうと、そう信じて。

「僕の小説は面白くない。僕は面白くない。僕が面白くないから面白い小説が書けない。くだらなくて気持ち悪くてつまらない小説しか──」

「茅ヶ崎くん」

 声がした。嘲笑ではない、澄んだ、声。

 見上げた先に彼女が立っていた。肩のあたりまで伸びた黒髪の、小さなおさげが柔らかく揺れる。日に焼けた健康的な腕が顔の前に伸ばされる。

「葉加瀬さん」

「行こう」

 葉加瀬早音は修次の手を取って教室の扉を引いた。ビクともしなかったはずのそれは滑らかな音とともに開く。二人は心ない笑い声を振り払うように廊下へ飛び出した。

 一瞬だけ振り返った先、教室から黒い塊が重い音を引きずりながら這い出てくる。黒い粘土のような塊が形を変えながら這い迫ってくる。それは教室にあった空気であり、小説を音読した刈谷真理雄であり、修次を嘲笑ったクラスメートたちだった。あの教室に充満していたどす黒い感情を飲み込んで生まれた怪物なのだと直感的に理解した。

「ほら、茅ヶ崎くん」

 思わず足を止めてしまいそうになったところで手を引かれ、修次は思い出したように廊下を走った。追いかけてくる怪物から必死に逃げた。足音に遅れてずるずると醜い音が聞こえた。

 廊下の角を曲がる。黒い塊も後を追ってくる。塊はその図体に似合わぬスピードのせいでうまく角を曲がりきれず、突き当りの壁に激突する。それでも止まることはなく、形を変えながら迫ってくる。修次と葉加瀬は転びそうになりながら目の前の階段を駆け上がった。

 捕まったら終わりだと思った。あの黒い塊飲まれたら自分は自分を保てなくなる。黒い過去に囚われて身動きが取れなくなり、息を詰まらせて死ぬ。二度と夢の中から出られなくなる。

 振り返る。生き物かどうかもわからない黒いアメーバのような不気味な何かが、ズルズル這い上ってくる。一段上がるたびにその黒い体の下に階段のステップが消えていく。まるで階段を捕食しているかのようだった。

 捕まるかもしれない、と不穏な想像が脳裏をよぎる。弱気に足が止まりそうになった。

「私はね」

 葉加瀬は修二の手を強く握り、乱れた息の合間に言った。

「面白いと思ったよ、小説」

 修次は足を止めず、階段を駆け上がった。怪物はしつこく追いかけてくる。諦めず足を動かし続けた。踊り場を曲がるときに転びかけたが踏ん張った。そうしてたどり着いた屋上の扉を体当たりでこじ開けて外に飛び出した。眩しさに目がくらみそうになった。修二は安堵する前に振り返り、扉を閉めた。葉加瀬と二人で錆びた扉に全体重を押し付けた。内側から扉に向かって何度も体当たりしてくる音が聞こえた。力負けしそうになるのを堪えた。

 いつの間にか音が止んだ。体当たりの衝撃はもうなくなった。そっと扉から体を離す。錆びた塔屋の扉は嘘みたいに静かに佇んでいる。あの黒い怪物は去ったらしい。

 二人はようやく安堵の息を吐いた。そよ風が服の中を泳ぎ、火照った身体を冷ましていった。夢の中だというのに汗を掻いていた。奇妙な感覚だったが嫌いではなかった。

 息を整えて見上げた空は、薄雲を漂わせて青く染まっていた。

「茅ヶ崎くん」

 葉加瀬が修次の隣に並び、同じようにして空を見上げていた。短い二つ結びの先っぽが風に揺られていた。彼女はぷっくりとした頬にえくぼを浮かべてこちらを見た。

「私は茅ヶ崎くんの小説面白いと思ったよ」

 優しい言葉が心に沁みた。

 八年前、現実でも似たようなことがあったのを思い出した。

 授業中に教室から飛び出すなどという劇的なことはせず、修二はその日の昼休みに屋上で一人しょぼくれていた。晴れ模様が憎らしかったのを覚えている。どうせ自分なんてというようなことをぶちぶちこぼしながら座り込んでいると、葉加瀬早音が隣にやってきて言ったのだ。

 茅ヶ崎くんの小説は面白かった、と。

 彼女は校則で持ち込みを禁じられているガムをポケットからこっそりだし、分けてくれた。そして一緒に空を見た。キシリトール味のそれを噛みながらぼんやりと。

「設定も分かりやすかったしテンポもよかったから、すんなり物語に入り込めたよ」

 夢の中の葉加瀬が空を見上げながら言った。

「終わり方がちょっと残酷だったけど、でもそれも含めて面白いと思ったな」

 乱れた形の雲が風に流されて丸く柔らかい形へと姿を変えていく。葉加瀬の言葉はその風と同じだった。傷ついた修次の心をゆっくりと元の形に戻していくようだった。

 救われたと、そう思った。

「はか──」

 礼を伝えようと彼女の横顔を見て何かが変だと感じた。

 空を見上げる葉加瀬早音の瞳には光がなかった。碁石をはめたみたいに真っ黒だった。どこを見ているのか分からなかった。空の青かもしれず、雲の白かもしれず、何も見てないのかもしれない。

「はかせ、さん」

 やっとの事で絞りした声は恐ろしさに掠れた。

「茅ヶ崎くん」

 ぎりぃっ、と。

 錆びた歯車が回転するような嫌な音が耳に響いた。

 葉加瀬早音の首だけがこちらを向いていた。身体は正面を向いたままだった。そしてその目には一切の光がなく、赤々とした口は半分ほど開いているのだった。

「面白かったよ、茅ヶ崎くんの小説」

 声は冷たく、単調で、感情というものが一切含まれていなかった。

 なぜ。

 なにが起きたのか。

「面白かった、とても。すごく。最高だった」

 修次は葉加瀬に救われたはずだった。ほかのクラスメートたちに散々貶されたあとで聞いた「面白かった」の一言は、修次のことを間違いなく救ってくれた。救ってくれたはずだったのだ。なのにどうして自分は今、教室にいた時と同じような不快感や恐怖を覚えているのだろう。

「また読ませてよ、茅ヶ崎くんの小説。また読みたいよ、茅ヶ崎くんの小説」

 葉加瀬の眼差しに怯えながら修次は気がついた。おそらくそれが自分の根底を支配するものの正体だった。修次を歪んだ価値観に縛り付けているものの正体だった。

 なぜ自分が傑作にこだわるのか。絶対に面白い小説以外を認めないのか。少しでも欠点のある小説をゴミ呼ばわりするのか。

 教室でクラスメートに貶されたせいではない。湯川や岩崎に心ない言葉で嘲笑われたせいではない。この屋上での一件が原因だったのだ。

 青空が色を落としていく。雲が厚みを増し、暗く重くなっていく。夜のような影が屋上に落ち、あたりの空気は身体が震える冷たさになっていく。

 薄闇の中でなぜか、葉加瀬の二つの瞳だけははっきりと黒く浮き上がっている。

「茅ヶ崎くんの小説面白かったな。茅ヶ崎くんは天才だな、あんな物語が書けるなんて。次のも絶対面白いんだろうな。その次も面白いんだろうな」

 歌うように彼女は言った。リズムも音程も狂った歌を歌うような不気味さがあった。

 彼女は自分の小説を褒めてくれた。面白いと言ってくれた。

 しかし傷ついたばかりの心を癒すのに、その言葉はあまりにも不安定だった。修次は彼女の言葉をありがたく受け止めつつも、心の片隅では恐怖を感じていたのだった。

 もしも次に書いた小説が、彼女にとってくだらなくてつまらないものだったら、と。

 葉加瀬の口から直接貶されでもしたら、きっと自分は立ち直れなくなる。それに彼女に見捨てられれば誰も自分の小説を読んでくれる人がいなくなる。誰も読んでくれなければ書く意味がなくなってしまう。だから次に書くものは傑作でなくてはならない。決して葉加瀬に見捨てられないように、面白くなくてはならない。生半可ではならない。心の片隅がそう強く思ったのだ。

「ねえ茅ヶ崎くん」

 葉加瀬は黒い瞳をはめ込んだ目を見開き、修次に鼻先に顔を近づけた。感情を感じさせない表情に、修次の心臓はぎゅっと小さくなる。

「次も面白いよね。面白いの書いてくれるよね。私を楽しませてくれるよね。いやだよつまらなかったら。くだらないのだったらいやだよ。わくわくさせて、わたしを」

 首がかすかに傾いて、葉加瀬は、葉加瀬の形をした得体の知れない怪物は修次に向かって小さく笑いかけた。

 修次は飛びのき、地面に倒れ込み、腰を抜かした状態で葉加瀬に似た怪物を見上げた。

 今すぐ逃げ出したかった。

 しかし腰は抜けており、ここは屋上であり、校舎の中へ続く塔屋は彼女の背後にあった。

 怪物が迫ってくる。逃げ場はどこにもなかった。瞳孔の開いた瞳を修次から一瞬たりとも逸らすことなく、足音一つ立てずに近づいてくる。

 このまま彼女に呑まれて一生夢の中に囚われてしまうのだろうか。

「──しゅうじっ!」

 空から声が降ってきて、サイケデリックな二つ結びがぼんやりと視界に踊った。

「やっと見つけた」

 彼女は言うが早く修次の手を取り、一目散に塔屋とは反対方向へ駆け出した。十歳幼女の馬鹿力は修次の両足を一瞬地面から浮かすほどだった。

 スピーメロウにひきづられないように踏ん張りながら、修次は訳も分からずに走った。

「手、離さないでね」

 何をする気だと問おうとした瞬間、前方で何かを吹き飛ばすような派手な音が炸裂した。屋上の手摺を突き破って飛び出したのだと知ったのは、宙に浮いてからだった。

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