⑨:開けてはいけない扉

 目を覚ました。目を覚ましたという表現が果たして正しいのかどうかは分からないが、とにかく修次は目を開いた。

 いくつもの扉に囲まれた、例の広間にいた。

 アルコールのせいらしい頭痛に低く呻いていると、空から彼女が降って来た。

「……スピーメロウ」

 サイケデリックな彼女は床に静かに降り立つ。金と銀のマントが少し遅れて彼女の背後を撫でるように翻った。

 突然いなくなったせいで殴られるか、と思った。が、

「おかえりー。いやー、びっくりしたよねさっきはもう」

 頭の後ろをボリボリやりながらスピーメロウは笑う。

「いきなり消えちゃうんだもん、まだ一作品も完成させていないってのにさ。何があったの? 誰かに叩き起こされた? まあ作品を完成させてないのに目覚めちゃうってことはそういうことだよね。まさかそんなに早く起こされるとはなー。計算外、計算外。さて、でも戻って来たのでオールオッケー! さ、がんばって続きを完成──」

「……ないと」

 修次はスピーメロウを見つめたまま小さくつぶやいた。正確には焦点は彼女に定まっていなかった。彼女の姿を通り越してその背後にある何かを見つめていた。

「なんか言った?」

 スピーメロウは頭を掻く手を止め、首をかしげる。

「帰らないと」

 修次は今度ははっきりと口にした。

 そうだ。帰らなければならないのだ。のんびりしていられないのだ。早く起きて帰らなければならないのだ。葉加瀬早音が飲み会にやって来る前に起きて帰らなければ、そうしなければ。

 勢いよく立ち上がり、首がちぎれるくらいに周囲を見渡した。どこかに出口はないのか。どうやったら帰れるのか。自分を囲うのは大きさも形も異なるいくつもの扉。それらは自分の小説世界につながっている。他に出入り口のようなものはない。床は大理石のように滑らかで、穴どころかヒビの一つすらない。残るのは上だが、目に入るのはどこまでも続くような深い闇ばかり。天井はないが、ジャンプをしたところでたどり着けるような高さでもない。その場で何度も足踏みを繰り返した。どこにいけばいいのか。ここから出るにはどうすればいいのか。

「もしかして帰ろうとしてる?」

 修次は返事をしなかった。

「言っておくけどこの空間に出口はないよ。跳んだって走り回ったって目は覚めないんだから。そんなに早く目覚めたいんだったら全力で未完成作品をだね」

 知ったこっちゃない、と思った。

 修次は地面を蹴って走り出し、一番近くにある扉を開けた。もしかしたら、と思った。

 扉の向こうに広がっていたのは冷たい風が吹きすさぶ雲の海。いつだったかプロローグだけ書いて止めた、空中都市が舞台のSFだ。

 風のあおりを受けながら力一杯扉を閉じ、次の扉を開ける。次の扉も違う。その次の扉を開ける。違う。またその次の扉を開ける。

「作品を完成させるつもりなんだね? やる気があっていいけど、そんなに勢いよくドアをばっこんばっこん開け閉めされちゃ困るよ。壊れちゃうじゃない」

 修次はスピーメロウの忠告を聞かずに扉を開け続けた。香港ノワール風の未来都市。氷に閉ざされた森。地下鉄の廃線を利用して整えられた街。巨大生物が跋扈する孤島。

 どれかが現実に通じているのではないかと思ったのだ。

 作品を完成させる気持ちなど微塵もなくて、ただ帰り道を探していた。誰かに叩き起こされるのを待たずとも、小説を書き上げなくとも、現実に帰ることができる方法を探していた。葉加瀬早音がやって来る前に居酒屋を離れなければならないのだ。葉加瀬が来れば全ての嘘がバレる。丸川出版に内定が出ていないことも、まだ就活が終わっていないことも。それから、それ以外にも修次には葉加瀬早音に会いたくない理由がある。

 なぜ自分は彼女に会いたくないのだろう。

 扉を開けて回って帰り道を探すことに思考の八割近くを割く傍で、葉加瀬早音に会いたくない理由を考える。嫌いだから会いたくないというわけけでないのは確かだ。彼女を不快に思うから会いたくないわけではない。なにかもっと別の理由があるのだ。それはあともう少しで指が届きそうな場所にあり、しかし簡単には届かないものでもある。

 そこでふと、別の疑問が首をもたげる。

 袴田や大山が言ったように、自分は葉加瀬のことが好きだったのか。

 嫌いではなかった。

 お互いに本が好きで話が合った。顔も好みだった。彼女は少しマイペースでおしゃべりなところがあったけれども、あまり喋らない自分としては親しみやすく居心地がよかった。

 扉を開ける。違う。扉を開ける。違う。扉を開ける。違う。

 スピーメロウが「そろそろどれにするか決めたー?」というようなことを遠くで叫んでいる。別の扉を開ける。これも違う。現実世界ではない。

 修次は葉加瀬のことを嫌いではなかったと思う。というよりも好きだっただろう、間違いなく。それなのになぜ彼女に会いたくないのだろう。なぜ彼女に会うのが怖いのだろう。

 気がつけばあの扉の前に立っていた。

 スピーメロウに開けることを禁じられたあの扉である。すべての扉の大きさと形が違うこの広間にあってなお、なぜか異質だと分かる奇妙な扉。

「あ!」

 遠くでスピーメロウが声を上げた。

 なぜ彼女はこれを開けることを禁じたのか。無数にある扉の中でこれだけを開けてはいけないと言った理由はなんだったのか。修次の直感が正解を告げていた。

 この扉の向こうが現実世界だ。この扉を通れば現実に戻れるのだ。だからスピーメロウは自分にこの扉を開けることを禁じたのだ。そうに決まっている。

「それはダメだってば! こら、修次! 開けちゃダメだからね! ぜっっっっったいにダメだから! フリじゃないからね! 開けたら許さないから!」

 スピーメロウが叫びながら広場の直径を駆けてくる。

 もちろんその忠告を聞くはずはなく。

 修次はノブを捻って扉を開け、向こう側を確認することなしに飛び込んだ。


**************************************


 廊下に立っていた。

 右手には昼間の空が覗ける窓と、巾着袋が垂れ下がったフックと、ステッカーで彩られたロッカー。左手には学級通信やら壁新聞やらがピン留されたコルクボードに、教室へとつながる扉がある。それらがずらっと十メートル以上も続いている。

 懐かしさを感じる、どこかの学校の廊下だった。

「……あれ?」

 現実のようで、明らかに現実ではない。もしも現実だったならば自分は居酒屋の座敷で目をは覚ますはずだ。こんな郷愁漂う学校の廊下なんかで目覚めるはずがない。誰かが寝ている間に修次のことを運び出しでもしない限り。

 自分の読みが外れたと気がついたときにはもう遅かった。後ろを振り向いても扉はなく、もちろんスピーメロウの姿もなかった。

 またしても小説の中に入ってしまったらしい。修次は舌打ち混じりに頭を掻きむしった。開くのを禁じられていた扉だったために期待していたが、どうやら早とちりだったようだ。しかしそれならばなぜスピーメロウはこの扉を開けることを禁じたのだろうか。脳内に湧いたそんな疑問に答えてくれる相手はもういなかった。

 じっとしていても仕方がないので、暗い廊下を前へと歩き出しながら修次は自分の記憶を探り始める。こんな廊下が登場するのは何の小説だっただろう。学園モノはそれなりに書いてきた。『ななこい』もそうだし、それ以外にも十作品近くある。廊下だけで判別するのは難しいかもしれない。せめてキャラクターに遭遇できれば。

 そう思っていた矢先、何気なく目を向けた廊下左手のコルクボード。ピン留めされた手書きの壁新聞に見慣れた文字列を見つけた。蒼井中学校二年二組出席番号──同級生の名前が記されてあった。修次は数秒ほど思考を止めたのち、足を止めて廊下をぐるりと見渡した。

 道理で懐かしさを感じるはずだった。この廊下は、修次が通っていた蒼井中学の廊下なのだ。

 自分の中学校を舞台にした小説なんて書いただろうか。

「書いてない──」

 と一蹴しようとして思い出した。書いたことがある。

 その瞬間、全身にむず痒さを覚えた。不快で、手に負えず、自分に苛立つ嫌な感覚だった。

 中学二年の、夏休みが終わったあとだ。九月の半ばくらいだった。国語の教師が、夏休みの宿題として提出させた作文の中から素晴らしい出来だと感じたものを読み上げ、みんなで感想を言い合うという授業があった。

 作文は読書感想文でもよかったし、批評文でもよかったし、日記帳でもよかったし、何でもよかった。教師は「自由に書きなさい」とだけ言った。だから修次は小説を書いた。蒼井中学校を舞台にした短編小説。新学期を迎えたくない主人公が異世界転生に期待して自殺をするが、転生後の運命が悲惨だと分かったため理想の異世界転生が実現するまで何度も死ぬという物語。

 修次的には自信作で、面白いと胸を張って言える代物だった。

 あの日、教室で読み上げられるまでは。

 機械的に天井の方に首を向け、二年二組と書かれたプレートが下がっているのを見つけた。自分が所属していたクラスだ。むず痒さが増す。手を動かしてみてもどこを掻けばいいのかがわからない。鼓動が乱れる心臓を丸ごと取り出してゴシゴシと擦れたらいいのにと思う。

 よせばいいのに体が勝手に教室を覗き込んだ。教壇に教師が立っている。肩幅の広い体格をジャージで包んだ、体育教師のような見た目をした国語教師。豪快に口を開き、隣のクラスにまで聞こえるような声で授業を行っている。熱血教師気取りの身勝手教師。刈谷真理雄。

 口の中に苦いものが広がっていく。教室を覗き込むのをやめればいいのに、なぜかやめられない。視線が扉の隙間に縫い付けられたみたいだ。

「ここの学校の生徒か?」

 不意にくぐもった声に呼ばれた。驚いて振り向くと、目出し帽姿の人間が立っていた。手には黒光りする自動拳銃。男か女かは分からないが、声質的にはおそらく前者。一瞬誰だと思うも、すぐにそれが小説の登場人物であることに思い至る。主人公が最初に死ぬきっかけとなる、正体も目的も不明の、御都合主義的テロリスト。つまり、これは間違いなく自分が書いた短編小説のワンシーンなのだ。

「……」

 テロリストは銃口を無言で修二の額に押し当てた。鋭い冷たさを感じる間もなく

「あ」

 修次は乾いた音を聞いた。


**************************************


「先生はとても感激した!」

 国語教師・刈谷は原稿用紙を握りしめ、熱量の狂った言葉を教室に投げかけた。

 いつの間にか修次は教室の中にいた。椅子に座り、机の上に教科書とノートを広げ、右手にしっかりとペンを握っている。左手で恐る恐る額に触れてみたがなんともない。穴が空いているわけでもなく、血が流れているわけでもない。ただのまっさらな額があるだけだ。

 数秒前のことを思い出す。自分は死んだはずだ。目出し帽を被ったテロリストに銃を向けられ、撃たれたはずだ。それなのになぜか教室の椅子に座って刈谷の授業を受けている。

 こんなシーンを書いたのかと自分に問いかける。書いたはずはないとはっきり首を振る。

 何が起きているのだろう。

「先生はとても感激した!」

 刈谷はもう一度繰り返す。

 そのセリフを知っていた。忘れるはずがなかった。修次の口の中から一瞬で水分が失われる。やめさせなければと思って腰を浮かしかけると、

「茅ヶ崎くん、どうしたの?」

 誰かが声をかけてきた。浮かしかけた腰を下ろして隣を見る。黒髪を肩のあたりでおさげにした女子が座っている。

「スピーメロウ?」

 ではなかった。

 葉加瀬早音だ。

「スピンメロン? なにそれ?」

「いや……忘れて」

 と呟いた声を焼き払うかのように、国語教師・刈谷は熱血ボイスを教室に放射した。

「先生はとても感激したのだ! 夏休み中にみんなに課した作文課題! 全員が期日までに提出してくれた! これだけでも十分感激に値するものだったが、さらに感激することがあった! 読書感想文や思い出作文が大半を占める中でただ一人! 己の想像の限りを尽くして小説の執筆に取り組んだ者がいた!」

 刈谷の声が教室に反響し終わると、クラスメートたちがザワつき出す。「小説?」「なにそれ?」「えーすごい」「ウケるな」「誰だよ」今はまだ、どこか期待するような声音。だが修次は知っている。これが数十分後に一変することを。

「小説かー、すごいなー」

 葉加瀬早音もまた、国語教師の方に期待の眼差しを向けている。

「ねえ、茅ヶ崎くん。もしかして」

 やめさせなければ。修次は膝の上に拳を握りしめ、机に向かってうつむきながら歯を食いしばった。やめさせなければ。やめさせなければ。刈谷に読ませてはいけない。

「素晴らしい小説を書いたのは茅ヶ崎修次くんだ!」

 刈谷が堂々と両手でこちらを指し示す。クラスメートの首がぐりんと動き、教室中の視線が修二の全身に刺さった。八十近い目から発せられる好奇の光。足元から冷たい怖気が這い上がってくる。体が凍りついたように動かなくなる。修次は全身の力を振り絞って机を蹴り飛ばした。前の席の椅子に当たって派手な音が上がる。しかし誰も何の反応も見せない。

「先生はいまからそれを読み上げる! 皆、これは本当に素晴らしい小説だ! 心して聞くように!」

 刈谷が言う。

 やめてくれ。

 修次は椅子も蹴って転がるように立ち上がり、クラスメートのことなど一切考えずに教室の扉へと向かった。刈谷はそんな修次のことを止めるそぶりも見せず、ピンと伸ばした両手の先に束ねた原稿用紙を握りしめ、卒業証書を受け取った生徒のような格好で朗々と、無慈悲に、音読を始めた。

「五月上旬。天候は曇り。厚い雲に蓋をされたた空は今にも一雨来そうな不安定さであり、悪い意味で何かが起こる予兆を感じさせた──」

「やめてくれっ!」

 修次は耳を塞いで怒鳴った。それでも音読は続いた。彼の声など聞こえていないかのように。

「相上旺太郎は教室の窓からそんな空を眺めていた。授業中だったが、あまり関係なかった。もとより聞く気などない。黒板の前でとうとうと語られる授業は耳の前で垂れ流され、頭に浮かび上がってくるのはとりとめのないことばかりだった」

 刈谷による処刑のような音読はとまらない。じわじわと自分の首に刃物が近づいてくるような感覚がする。修次は扉に手をかけ、勢い任せに引いた。扉は開かなかった。ビクともしなかった。引いても押しても叩いても、まるで壁であるかのように動かない。

「開けよ! 開けって!」

 怒鳴り声とともに蹴り飛ばした。馬鹿でかい音が教室の空気を震わせる。誰も何も言わない。刈谷の声が響き続けている。

 振り返ると、国語教師の身体は二倍近い大きさになっていた。それだけではない。坊主頭が天井をかすめそうで、眼球はまぶたを押しのけてこぼれ落ちる寸前である。朗読を続ける口の中は血をすすったように真っ赤。原稿用紙を握りしめる手には不気味な斑点が広がっていた。

 今すぐ逃げ出したかった。これ以上読み上げられたくなかった。読み上げた後に何が起きたのか。今でもはっきりと思い出すことができる。できればもう二度と思い出したくない。そして夢であっても同じ光景を二度と体験したくない。修次は扉をもう一度蹴り飛ばした。

「スピーメロウ!」

 返事はない。

 なぜ彼女が修次にこの扉を開けることを禁じたのか。現実につながっているからではなかった。記憶につながっているからだ。思い出したくない過去の記憶につながっているからだ。気がついたところでもう遅い。扉は、これっぽちも開く気配がない。

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