⑧:葉加瀬がやってくる前に
頬に何度か、つんとした痛みがあった。修次はゆっくりと意識を引き寄せ、目を開いていく。なかなか開かない。まぶたが半分塞がったままの視界は水に沈んだようにぼやけていた。
「おい、大丈夫か? 茅ヶ崎、茅ヶ崎、おい」
ぺちぺちぺち。
「……」
ようやく鮮明になった視界いっぱいに男の顔が広がっていた。
「……あれ? スピーメロウ?」
「何言ってるんだお前は」
焦点の定まらない視界のせいか、現実味の強い夢の中に長いこといたせいか、修次はその男の顔が袴田淳吾であることにしばらく気がつかなかった。
数十秒ほどかけて中学時代の友人の顔と名前を一致させると、ようやく自分が置かれている状況に気を回す余裕ができた。
修次は洋式便器を抱きしめるようにして、トイレの個室の床に座り込んでいた。開ききっていない目をちらりと動かして便器を覗き込むと、唐揚げや枝豆の残骸が水の中に呑気に浮かんでいた。
「とりあえず吐け。全部吐いちまえ。そうしたら楽になるぞ」
袴田は修次の背中をさすりながら言った。それから扉の外を振り返って「すみません、大丈夫みたいです。お手数おかけしました」と誰かに言った。
「ドア開けっ放しで便器に吐き散らして動かなくなったお前を、たまたま見つけた人が俺たちに知らせてくれたんだ。ったく、飲みすぎたのか?」
「……うぇ」
胃の中でどぷんと波頭が弾け、修次は便器に顔を突っ込んだ。
「おう吐け吐け。吐いたら楽になるからな」
何度かえづいてようやく吐き気がおさまった。
と同時に修次はここがあの扉だらけの空間でないことに気がついた。サイケデリックな髪色をした十歳の少女の姿はどこにもなく、代わりに奇抜なトレーナーを着た大学生がいる。
夢の中で頭に芽生えたアイデアが消えないうちに。修次は便器を突き放すように立ち上がり、わずかにふらつく身体を絶妙にコントロールしながらトイレの個室を出た。
「おいこら! 茅ヶ崎、おま、ていうかゲロ! 流せよゲロ、おい!」
背後から袴田の諌める声と、トイレが流れる音が聞こえてくる。修次は構わずトイレを飛び出し、廊下を進んで、座敷に戻った。
「あ、茅ヶ崎くん。大丈夫だった?」
元いた席に座ってグラスの水を煽っていると、心配そうな様子で結城弥生が声をかけてきた。
「吐いちゃった?」
「うん」
修次は彼女に適当な返事を投げ、グラスを置いて再び立ち上がり、自分のリュックサックが置いてある一角へ向かった。埋もれてしまった自分のそれを掘り起こし、中から取り出したのは黒いボディのノートパソコン。そのまま近くの座布団に腰を落ち着けて画面を開く。
「どしたのよ? ゲームでもすんの?」
隣に座っていた大山まどかがビールジョッキを片手に画面を覗き込んできたが修次は取り合わなかった。
アイデアが消えないうちに。アイデアが消えないうちに。
文章ソフトを立ち上げるのももどかしく、一秒で起動するメモ帳を呼び出してキーボードを叩きまくった。
記憶の淵に引っかかっていたアイデアを掬い上げて、文字にして並べていく。
大山は遠慮なく画面を覗き込み続け、修次が打ち出した文字をぎこちなく読み上げた。
「主人公はムッツリスケベな中学生の男子。学校では優等生を気取っているが実は四六時中エロいことを考えている。そんなある日、ずっと応援していたアイドルが借金の果てにAVデビューをすることが決まったと知る。彼女のデビュー作をいち早く手に入れたい主人公は発売日に友人と一緒にそれをレンタルビデオ屋で──これって新しい小説か何か?」
「うん」
修次は適当に答えた。間違ってはいないし、むしろ正解だろう。ただいちいち説明するのは惜しかった。無心にキーボードを叩き続けた。
「飲み会の席で小説かい」
「うん」
「まあ私もゲーム片手だから何にも言えないけど」
大山まどかの手元のテーブルにはスマホが三台横並びに置かれていた。それぞれの画面に別々の種類のゲームが映し出されている。
「うん」
これは傑作だ。傑作になる。元アイドルのAV女優デビュー作を買うために中学生がどうにかして年齢制限の壁を乗り越えようとする物語。一見するとバカっぽいログラインだけれども、最終的には涙がこぼれ落ちるような話になる予定だ。中学生の欲望と葛藤と挫折とそして愛。この物語は幅広い年齢の読者の心に突き刺さる刃になるはずだ。
「小説もいいけどさ、飲み会なんだし飲もうよチガサッキ」
大山は適当なグラスにどこかの誰かが頼んだ焼酎の一升瓶を傾けた。酒とゲームと会話に夢中だった彼女は、修次がトイレで昏倒していたことを知らなかった。
「ほら」
「うん」
麦焼酎が並々入ったグラスを受け取って修次は当たり前のように飲んだ。飲みながら変な味の麦茶だなと思ったが特には気にしなかった。
「おおすごい、イッキ」
大山はあっという間に空っぽになったグラスを見つめて感嘆した。
修次は相変わらず機械的に「うん」とだけ言う。指はキーボードの上を走り回っている。目はモニターに縫いとめられたかのように動かない。頭は変わらずもじゃもじゃしている。いつの間にか注がれていた二杯目を飲み干したところで、
「生き返ったと思ったらそれかよ」
袴田が修次の正面にやってきて言った。片手にビール瓶を持っていて、グラスは持っていなかった。
「うん」
うんマシーンと化した友人を見て袴田は呆れたように笑う。
「あーこりゃだめだスイッチ入ってるな」
「スイッチ?」
大山が自分のビールジョッキを袴田に差し出しながら言った。お前の瓶ビールの中身を寄越せということらしい。袴田は気前よく応じながら、
「小説のネタが浮かぶかなんかすると周りの声とか何も聞こえなくなるんだよ。ゾーンに入った、みたいな。こうなった修次には何を話しかけても無駄。『うん』としか言わん」
「へえ。チガサッキの小説って面白いの? 私読んだことないけど」
「中学んとき刈谷先生がみんなの前で読んだやつあるだろ?」
「うん、でもあれはちょっとよく分からなくて」
「となると……そういえば俺も読んだことないな、茅ヶ崎の小説」
「ハカマダーも読んだことないんかーい」
同級生二人の会話を耳孔の手前で弾きながら修次は一心不乱にキーボードを叩き続けている。
テーブルの上で袴田の携帯が震えた。電話がかかってきたのだ。
「お、誰から?」
「葉加瀬だ」
「はやねん? もしかしてー?」
袴田は画面をスワイプし、空いている方の手を口元に添えて喧騒をシャットアウトしながら電話に出た。何度か言葉を交わす中で、その表情は次第に期待に満ちたモノへと変わっていく。
ところが袴田は途中で不可解な顔を浮かべて耳からスマホを離した。
「あれ? もしもーし」
スマホを振ったり叩いたり覗き込んだりしながら眉根を寄せる。電話が繋がらなくなったようだった。しかし彼は特に気にするようなこともなく、
「まあいっか」
とだけ言って表情を元の期待に満ちたモノへと戻した。そして、
「茅ヶ崎、喜べ茅ヶ崎!」
正面に座った友人に向かって嬉しそうな、からかうような声で語りかける。しかし修次はパソコンを睨んだまま微動だにしない。何度か肩を叩いて呼びかけるとようやく彼は我に帰り、ディスプレイの光がこびりついているような両目を袴田に向けた。
「ん?」
「葉加瀬が来るってよ、今から」
「やったあ! はやねん来るんだ!」
真っ先に喜んだのは修次ではなく、その隣に座っている大山だった。修次は我に帰ったばかりだったのですぐには袴田の言葉に反応できなかった。
「まじ?」
大山に遅れること三秒。修次はひどく間抜けな声でそう返した。
「何だお前、嬉しくないのか?」
袴田が修二の肩をバシバシ叩きながら言う。
「いや」
修二の中に生まれていたのは、嬉しいとは少し違う感情だった。
その感情に名前をつけることは困難で、仮にプラスかマイナスかのラベルを貼って区別するとすればきっとマイナスだった。ただ、嬉しくないとも言い切れないのがもどかしくて気持ち悪く、修次は複雑な表情を浮かべることしかできない。
「しかもだな」
袴田は修次の隣、大山とは反対側の席に回り込んできた。
「葉加瀬も丸川出版に内定が出てるんだってよ」
修次は背中に冷たい汗が吹き出るのを感じた。マルカワシュッパンニナイテイガデテルンダッテヨ。血の気が引いていく。身体が冷たくなる。袴田は言葉を続けようとしている。これ以上何も聞きたくないと耳を塞ぎたくなる。けれども手が動かない。指先をキーボードの上に置いたまま、修次は固まっている。やめてくれという言葉も、喉の奥に絡まって外に出てこない。
「春から葉加瀬と同じ職場じゃねえか!」
「運命の再会ってやつじゃん! ゲームか!」
袴田と大山が酒を掲げて祝福した。
「こりゃ結婚まであるかもしれないね」
「喜べよ茅ヶ崎、ほら、喜べ!」
喜べるわけがなかった。
修次はキーボードの上に一〇本の指を乗せたまま凍りついていた。
運命の再会を果たすわけがない。自分は丸川出版どころか内定すら出ていないのだ。大手からも弱小からも見放されたのだ。内定なんて持っていないのだ。すべて嘘なのだ。けれども、
「は、はは、結婚、しちゃう、かー」
乾いた声でそう返すのが精一杯だった。安っぽい嘘を補強するためのさらに安っぽい嘘だった。今更さっきの言葉が冗談でしたなどとは言えない。言う空気ではないし、言う勇気もない。
「葉加瀬が来たら色々話せよ。同じ試験を耐え抜いた者同士なんだから積もる話もあるだろうしな!」
「そうそう! 私たちは席外しとくから! ついでに告っちゃえ」
「ば、馬鹿言うなよ!」
上の空で大山にツッコミを入れ、修次は重大なことに気がついた。
葉加瀬はこの飲み会に来るのだ。そうすれば袴田たちが言った通り、丸川出版の話をすることになるだろう。そうなったらおしまいだ。自分は丸川出版の内定者ではないし、一次面接で蹴り落とされているのだから、積もる話などどこにもない。それどころか嘘がバレて笑い者になる。笑い者になるだけならいい。もし、呆れられて見放されたら。考えただけでゾッとする。
葉加瀬が来たら無理やり話を積もらせるか、葉加瀬が来る前にこの場を去るか。
二つに一つの選択肢しかない。いや、実際は一つだけだ。
「やべ」
修次は全然やばくなさそうな声でそう言い、ノートパソコンをパタンと折りたたんでリュックの中にしまう。ハンガーにかかっていた上着を取りつつ、
「急用思い出した」
「急用? 何の用?」
「あ、まあ、うん、いろいろ、と」
腕をねじって袖口に突き入れる。なかなか入らない。どうにかねじ込み、今度は慌ただしくリュックを背負う。なかなか背負えない。もどかしい。
「おいおい、いいよ、そんな急用なんてドタキャンしちゃえ」
「ははは」
「そーだぞチガサッキ。これからはやねんが来るのに帰るなんてもったいないぞ」
「ははは」
引き止めて来る同級生を半ば払いのけるようにして修次は足を一歩踏み出した。
修次は大山に麦焼酎を飲まされていた。そして彼はそのことに気がついていなかった。小説のことで頭がいっぱいだったので、単なる変わった味の麦茶だと思っていた。しかし頭がいくら麦焼酎を変わった味の麦茶だと思い込んでいても、身体の方はそうはいかない。急に立ち上がって慌ただしく身支度をしたことでアルコール入りの血が全身を巡り、怒涛の勢いで脳に流れ込む。
「うぇ」
修次はリュックを背負ったままその場にしゃがみこんだ。立ち上がれなくなった。平衡感覚が失われる。頭の中に金物を叩きまくるような嫌な騒音が響き渡る。誰かが何かを言っていたが耳に届く頃にはノイズになっていた。力尽きた亀のよう体を丸めてうずくまり、酒臭い呼吸を浅く繰り返した。そうしているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。
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