挿話:葉加瀬早音と正体不明の同期②
火照った身体に夜風が気持ちよかった。葉加瀬は夜空を見上げて息を吐く。繁華街の明かりに炙られるそれは黒ではなく紺色。まだまだ夜ではないと空が主張しているかのようだった。
「二次会いく人ー!」
居酒屋の前で幹事役の同期が片手を突き上げて声を張った。何人かの男女がすぐさまそれに飛びつき、酒の色がついた声で盛り上がっている。
葉加瀬は彼らから少し離れたところにある電柱に背中を預けぼーっとしていた。あまり二次会に行きたいとは思わなかった。飲み会が楽しくなかったというわけではない。同期は皆親しみやすく、何人かとはかなり打ち解けることができた。熱心に誘われれば二次会に行くだろう。しかし熱心に誘われなければ、今からでも中学校の同窓会に顔を出したいと思った。
「んじゃー二次会いく人は俺についてきて! 行かない人は自由解散! みんなおつかれ! 四月に会いましょー!」
幹事役の同期が側にいた関係ない人まで巻き込むような大声で宣言し、複数の塊がそれぞれ自由な方向に歩いて行った。一番大きいのはもちろん二次会に行くグループだった。
「いぇーい! 四月楽しみ!」「カラオケいこ、カラオケ!」「アタシあいみょん歌う~」
そんな声を発する塊が繁華街の奥へと消えていくのを、葉加瀬は電柱に寄っかかったまま見送った。結局、熱心に誘われなかったので行かなかった。それにもう葉加瀬の心は同窓会の方へと傾きつつあった。
葉加瀬はポケットからスマホを取り出すと、着信履歴を遡って袴田淳吾の番号を見つけ、そこに電話をかけた。長い呼び出し音が続いた。飲んでいる最中だから気がついていないのかもしれない。スマホをどこかに放置して楽しんでいるのかもしれない。耳の奧でプルプルなる音を聞きながら葉加瀬は茅ヶ崎修次のことを思い出していた。春日と話をしている最中でふと蘇った中学時代の記憶。修次から借りた本のこと、修次に貸した本のこと。それから修次が書いた小説のこと。懐かしさが胸の内でそよいだ。隣の席で、先生から隠れるようにしてノートに何かを書き綴っていた修次のことを思い出した。何を書いていたのかは知らないが、きっと小説に関することだったのだろう。彼はいつも小説のことで頭がいっぱいだった。
そこまで考えたところで電話が繋がった。
「もしもし葉加瀬さん? どうしたの?」
袴田は陽気な声で言った。酒をたっぷり飲んだと分かる声だった。
「袴田くん。今前の予定が終わったんだけどまだそっち飲んでる?」
「おお! 飲んでる飲んでる! バリバリ飲んでる! 来る? 今から」
「まだ飲んでるなら行こうかなー」
「よっしゃ待ってる! 茅ヶ崎も喜ぶよ!」
「茅ヶ崎くん?」
先ほどまで頭に思い浮かべていた同級生の名前が出てきて少し声が弾む。鼓動が変わった。
「おう、茅ヶ崎。茅ヶ崎修次。覚えてる?」
「うん、覚えてるよ」
「よかったよかった。忘れられてたらあいつ泣いてたよ。というか葉加瀬さん今まで何してたの? バイト?」
アルコールのせいか、袴田の口調は捲し立てるようだった。言葉の合間になぜここで修次の名前が出てくるのかを考える暇もなかった。
「ううん、バイトじゃないよ。飲み会。内定先の」
「おお、内定先の飲み会! もう内定でたんだな」
「まあね、出版系」
「出版! どこ? 豪談社?」
「丸川ってとこ」
「ああ、丸川! お、じゃあ茅ヶ崎と同じだ!」
「え? 茅ヶ崎くんと?」
思わぬ一言に思考が詰まる。しかし袴田はこちらに考える時間を与えないほどの速さで会話を運んで行く。
「そうそう! あいつも丸川だってさ、丸川! あれ? でも」
ノイズが混じって声が聴き取りづらくなった。
「もしもーし」
呼びかけても返事はなく、電話はそのまま切れた。「あれ? でも」という声が鼓膜を静かに震わせていた。
「電波が悪いのかな?」
首を傾げながら電話を耳から離したところで傍らに誰かが立つ気配を感じた。
「葉加瀬さん」
春日だった。
「電話してたのって彼氏?」
「ううん、中学の同級生」
「同級生ねえ」
春日はからかうような口調で言った。
「というか春日くんは? 二次会行かないの?」
「うん。あそこまではしゃぐ元気はもうなくてね」
「ふうん」
それから二人はどちらともなく歩きだした。春日も葉加瀬も向かう駅は同じだった。
「そういえば」
繁華街のキャッチをかわしながら、葉加瀬は思い出したように口を開いた。
「結局、春日くんは春日井みちるなの?」
飲み会の最中にも同じ事を聞いたが、ちょうど周りの同期が会話に割り込んできて聞けずじまいだったのだ。
春日井みちる。葉加瀬たちと同年代の作家だ。デビュー作がいきなり百万部売れる大ヒットを叩き出し、二作目となるシリーズものは刊行と同時にアニメ化が決定。今最も新作が期待される新進気鋭の若手だった。
春日は長い黒髪を耳にかけ、口の端をそっと緩めた。意味深な緩め方だった。
「面接のときにも似たような反応をされたよ。丸川だしね」
春日井みちるは現在のところ丸川書店以外で作品を執筆していないのだ。
「キミってひょっとして、みたいな?」
「そうだね」
春日は葉加瀬の方を向き丁寧な笑みを浮かべた。それから前をむき直し、キャッチの一人をふらりと躱しつつ言った。
「葉加瀬さんはなんで編集者になろうと思ったの?」
唐突な質問に戸惑った。どうしてこの流れで聞くのだろうと思いつつも、なぜか答えなければならないような気がした。
なんで編集者になろうと思ったのか。
ついこの間まで何度も繰り返し問われてきた質問だ。弊社を志望した理由を教えて下さい。この業界を志望した理由は何ですか。しかし春日を前にした今、なぜか上手く答えを口にすることができなかった。
もごもごと唇を動かしながら歩いていると、春日は会話の流れを元に戻した。
「俺は春日井みちるじゃないよ」
「え?」
「俺は春日井みちるじゃないけど、春日井みちるの名前は俺の名前から取られたんだよね」
「春日くんは春日井みちるじゃないけど、春日井みちるは春日くんの名前から取られた?」
「うん。大袈裟に言えば俺は春日井みちるの生みの親」
「生みの親」
繁華街の喧噪が一瞬遠のいたような感覚に陥った。
「それってどういうこと?」
「詳しい話聞きたい?」
春日は意地悪そうにこちらを見る。
「じゃあ一杯だけ付き合ってよ」
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