⑦:傑作の予感
修次はいくつもの小説世界に足を踏み入れた。
というよりもスピーメロウの怪力で強引に放り込まれたというのが正しい。挫折した小説を完成させる気力はなかったが、スピーメロウに抵抗する気力もなかった。
異世界転生に憧れる少年が異世界への転生を救済とみなす新興宗教に引っかかる話。モテモテの男子高校生が地球侵略を企む宇宙人の姫を口説くことによって地球の平和を守る話。七番目の七不思議になろうと学校の怪異たちが奮闘する話。翌朝に大事な用事があるのに終電で寝過ごして見知らぬ駅にきてしまった大学生の話……。
すっかり忘れていた小説があり、いつ書いたのか思い出せないような小説もあった。本当にこんなものを書いたのだろうかと疑問に思うような小説だって潜在意識の中ではきちんと記憶として、自分の一部として存在しているのだった。
しかしどの小説世界を目の当たりにしても、修次は筆が折れたシーンよりも先に物語を進めることはできなかった。スピーメロウは横であーだこーだと口を開いたが修次の思考は泥のように固まって動かず、凍りついたように止まった世界に沈黙の眼差しを向けることしかできなかった。
スピーメロウに引きずられるにまかせて小説の中へと闇雲に踏み入れていると、やがて『ななこい』の世界へと辿り着いた。
修次は今度は主人公・タクマとしてではなく、蚊帳の外から一人の男子高校生と七人の美少女とを眺めた。
「『ななこい』はなんで途中で投げ出したの?」
スピーメロウは教室の壁に背中を預けながら言った。
「……なんでだっけな」
修次はその隣にしゃがみ込み、窓の外に見える清々しい青空を眺めていた。
『ななこい』は事故で記憶をなくした主人公の元に幼馴染を名乗る七人の少女が現れるところから始まる。主人公は幼馴染が一人だけだったということを覚えているが、その名前と顔をすっかり忘れている。七人の幼馴染のうち、本物は一人だけ。それぞれから日替わりでアプローチを受けながら、主人公は本物の幼馴染みを思い出していくというドタバタハーレムサスペンスラブコメディだ。
「ああ、そうだ」
修次はぼんやりと教室の風景に目を移した。喧騒の真ん中で、七人の美少女に囲まれた冴えない男子高校生が、戸惑いの表情を浮かべて座っている。
「オチが思いつかなかったんだ」
「オチが決まってないのに書き始めたの?」
「うん」
修次は自虐的に頷いた。
「どうにかなると思ったんだよ。キャラクター重視のラブコメディなら、魅力的なキャラクターさえ生み出せば後は勝手に筆が進むだろうとバカみたいに楽観視しててさ。実際、途中までは気分良く進められたんだけど、この教室のシーンで急に書けなくなった」
「急に? なんで?」
「……なんでって言われてもな。感覚みたいなもんだからな」
一つだけぼんやりと思い当たることがあった。それを口にすることに少しだけためらいを覚えて唇が震えた。しかし結局は、言わなければならないような使命感めいた感覚に舌を回され口を開いていた。
「キャラが嫌いになったんだな」
「え?」
「そもそも多すぎたんだよ、キャラが。この物語には。新人賞向けの、三百ページにも満たない小説の中に七人のヒロインってのは明らかにキャパオーバーだ。一人一人に焦点を当て、かつなんらかの見せ場を与えなければならないんだからな。それにもともと僕の性に合ってないんだよ、こういうキャラクター重視のラブコメってのは」
魅力的なキャラクターを作る方が、魅力的な物語を作るよりもはるかに難しい。そして魅力的なキャラクターとは自分が実生活で関わりを持った人間の断片をこねて作り上げられるものであるから、キャラクター重視の小説というのは交友関係の少ない自分にはかなり難易度が高いのだ。
「ふとした瞬間に、自分の中で何かが終わって、そして文章の中でキャラクターが死んだ。いや、もともと死んでいたキャラクターの死をその段階でようやく認知したってことだろうね。そんなキャラクターを動かすのはまるで死体を働かせるような作業だった。無意味で苦痛だった。セリフや行動を書きながら自分にもキャラにも嫌悪感を覚えたんだ。気持ち悪い、腹立たしい、自己満足、キャラじゃなくて物語に都合よく作られたロボット。そんな風に」
やがて美少女たちは砂となって消え、『ななこい』の世界は崩壊した。修次とスピーメロウは深い穴の底に落ち、また扉だらけの大広間に戻りついた。
「今の話、本当なの? 本当にキャラクターが嫌いになったの?」
出会って一番くらいに覇気のない声でスピーメロウが言った。
「本当だよ。俺はあの小説のキャラが嫌いになった。みんな記号的で、狙いすぎてて、人間味が薄い。おまけに主人公は流され体質で自分の意思がない。だれがそんなキャラを好きになるんだ? キャラを好きになれなきゃ読んでて何も楽しくないだろ、ラブコメなんて特に」
「だからって嫌いなんてそんなストレートに言う? 記号的でも狙いすぎてても人間味が薄くてもキャラクターはキャラクターだよ。あの子たちはあの世界にしかいないたった一つのキャラクターなんだよ。もっと──」
「魅力的じゃないキャラクターに存在意義はないよ」
修次は低い声で切り捨てた。
「物語のおかげでキャラクターが生まれるんじゃなく、キャラクターがいるから物語が生まれるんだ。この世の中の物語は全て主人公の、キャラクターの物語なんだよ。何か魅力があるからその周りに人が集まり、物語が生まれるんだ。逆説的に、魅力のない人間の周りには人も集まらないし物語も生まれない。だから魅力的じゃないキャラクターに存在意義はないんだよ」
スピーメロウはサイケデリックな前髪の向こうで瞳を濡らしていた。彼女もまた物語のキャラクターだということを修次は忘れていた。だが構いはしなかった。スピーメロウには魅力がある。少なくとも修次自身は魅力があると思っている。だから彼女の物語を書き上げることができたのだ。
扉の前をゆっくりと歩いて行った。スピーメロウは何も言わず、黙って後ろをついてきた。虚しさと寂しさが詰まった広間の中を、二人分の足音が揃うことなく響いた。
「どんな人間にも人生があるよね」
スピーメロウが唐突に言った。
「……現実の話をしているならそうだね」
「たとえ学校と家を往復するだけの毎日しか送っていない人でも、何の趣味もない人でも、部屋に引きこもってばかりいる人でも、その人にはその人の人生があって、そこには物語がある。生まれてから死ぬまでの何十年に渡る物語が。キャラクターも同じじゃないかな。どんなキャラクターにだって語るべき物語がある」
「それは正しいことかもしれないけど、間違ってる。一つ、言わせてくれ。僕はただの小説に興味はない。ただの小説なんていくらでも書ける。僕は傑作を書かなきゃいけないんだ。引きこもりや無趣味な人にも人生があるだろうけど、それが面白い人生かどうかは別の話でしょ」
「さっきから傑作、傑作、傑作って! なんでそんなに傑作にこだわるわけ?」
「……」
修次は黙っていた。
「ばっかじゃないの? 私にはまったく理解できないよ、修次が考えてることは。どうして傑作じゃなきゃいけないの? 傑作ってこの世に何本あるの? 傑作じゃなきゃいけないなら、傑作じゃない残りの小説はどうなるの?」
背中に向けて放たれるスピーメロウの言葉はまるで銃弾のようだ。肉と肉の間に挟まってねじれ、神経を潰す。修次は何も答えず黙って歩き続けた。
なぜ傑作じゃなければならないのか。とっさに答えられなかった。傑作にこだわり続ける理由がある。傑作じゃなければならない理由がある。だがそれに対する答えがみつからない。恐怖の中に埋もれた何かだと、頭のどこかが微かに知っているだけだ。
周囲は扉のノブに撫でるように触れながら広間を歩く。部屋に出口はない。終わりもない。扉が並んでいるだけのシンプルな部屋。自分の過去を閉じ込めた牢獄。
やがて修次は一つの扉の前で足を止めた。
その扉は他の扉とは毛色が違った。すべての扉が色も形も大きさも異なっているというのに、その扉だけが違うとはっきり分かった。何が違うと言えるわけではなかったが、見えない扉の向こうから感じる空気が、ほかの扉にはない異質さを持っていた。
「それはダメだよ、開けちゃ」
スピーメロウが慌てたような調子で言うので修次は振り返った。
二人の視線が結びつく。スピーメロウは怒るというよりも不安がるような目をしていた。これまで意気揚々と小説世界の扉を開いてきたときとは目の色が違っていた。
彼女が何を恐れているのかは知らないが、何かを恐れていることは間違いがなく、そしてそれは自分自身にとっては決してマイナスにはならないだろうと修次は思った。
だから扉を開けることにした。
「──ダメだってば!」
ノブに手をかけた瞬間、尋常でない衝撃が腹部を襲った。胴体が貫通したかと思うような衝撃だった。修次の身体は設計を間違えたミサイルみたいに吹き飛んで、広間の床に頭から着弾した。またスピーメロウに殴られたのだった。
「いってぇ……」
「この扉は開けちゃダメなの。言うことは守って」
スピーメロウは人差し指の腹を修次の鼻先に突きつけた。頭を押さえて呻く修次の口からは殴られたことに対する文句の一つでも溢れるかと思いきや、彼は床の一点を見つめて固まっていた。何かを閃いたような眼差しだった。
「どうしたの?」
いつまでもそうして固まっている修次のことを見かね、スピーメロウは指を下ろして尋ねた。修次はスピーメロウを見ることなく、ぼんやりとした口調で呟いた。
「入っちゃいけない扉。禁じられた扉。立ち入り禁止の場所。制限。性別、人種、身分、年齢、年齢、年齢」
修次はようやく立ち上がったがその視線は相変わらず下を向いていた。何かに取り憑かれたかのようだった。不気味さを持ちつつも視線を掴んで離さない、そんな引力が全身から発せられていた。
「しゅう……」
「来た、来た……来た!」
「ねえ、なに? なにが来たの?」
「待て、静かに。今来たんだ。降って来た」
修次は尻尾を追いかける犬のようにその場でぐるぐると回転し、口の隙間から言葉とも呼べない単語の欠片のようなものをこぼし続けた。
「年齢、年齢制限。十五禁、十八禁。エロ、グロ、エロ。ビデオ屋。レンタル、レンタルビデオ、のれん、黒いあれ」
いつにない勢いで湧き出てくる思考の断片を、次々に拾い集めてはこねあげていく。
「面白い、面白いんじゃないか、これ?」
修次は自分に問いかけるように言った。頭の半分は面白いに賛成の旗を上げていた。もう半分は時間の問題だった。思考を順調にこねていって綺麗な形にまとめることができれば、今は首を動かさないもう半分の自分をも納得させることができる。
「スピーメロウ」
修次は自分のポケットを乱暴にまさぐりながら言った。
「紙とペンはあるか?」
「あるけど」
スピーメロウは戸惑いつつも自分のポケットから紙とペンを一式取り出した。修次はそれを半ば奪うようにとって床にうずくまる。
「うん、うん、うん。舞台は現代。主人公は中学生。硬派をきどっているけど実は性的なことに興味が満々なんだ。そんでそいつには悪友がいて、こいつは学校でも五本の指に入るスケベ野郎で……」
「ねえ修次、何があったの? 殴ったせいで頭おかしくなった? それとも床にぶつかったせいで? まあいずれにしても私のせいだとは思うけど……そもそもこの世界は修次の潜在意識なんだから頭をぶつけるっていう物理的なあれこれで気が変になるなんてことはないわけだし……つまりは修次はもともと頭が」
「傑作かもしれない」
右手に握ったペンの尻を唇に添えて修次はつぶやいた。膝元に広げたA三大の紙の上には思考の中身をひっくり返したかのように文字と図形が乱雑に散っている。
「これが完成したら傑作になる」
「つまりその紙に書いてあるのはアイデアってこと? それともプロット? 私には四歳児の落書きにしか見えないけど」
「ここにあるのはただのアイデアだけど、僕はいまこれに凄まじい可能性を感じている。あともう少しだ。もう少し何か刺激があればプロットが完成する。キャラクターも設定もテーマもストーリーも申し分ないはずだ。あともう少し、もう少しなんだ」
修次は立ち上がり、ふたたびぐるぐるとその場を回り出した。ペン尻を口にくわえ、思考を加速させるために先っぽを何度も上下に振る。こうやっていればそのうち、アイデアや単語がどこかからこぼれ落ちて来そうな気がするのだ。
「また新しく作り始めるの? まだ一つも完成させてないのに」
「完成させてないんじゃない。完成しなかったんだ。物語として不完全だった。魅力が欠けていた。意味がなかった。だけど今回のは違う。今回のは特別だ」
「物語として不完全って、そんな」
スピーメロウがすかさず反論しようとして、
突然、広間が傾いた。
平坦だったはずの床がいきなり坂道になり、スピーメロウも修次もまるで踏ん張ることができずに倒れた。口にくわえていたペンが床に落ち、何度も跳ねたり回転したりしながら坂を落ちていく。「んだ、これ」「ちょちょちょちょ」アイデアが書き殴られたA三用紙は狂った重力に負けて宙に浮かび、半ば飛んでいるかのようだった。ただ広いだけの広間には扉以外の調度品がなく、したがって捕まるところもない。
修次は重力に袖を引かれるままに傾いた床を転げ落ちていった。
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