⑥:『十二人の笑わない芸人たち』
目を開けると果たして例の広間だった。
周囲の無数の扉に囲まれた、何もないただの広間。洞窟も、人間松明も、洞窟王の醜悪な笑いもない。ゼリヤもココもジョナシアもガストルフもいない。
『バラバラ勇者』を完成させることはできなかった。これでこの夢の世界とやらから抜け出すチャンスが一つ減ったことになる。
修次はぽつりと呟く。
「どうせ誰かが起こしてくれれば夢から覚めることができるんだ。別に無理に小説を完成させなくたって──」
「虎殺しキック!」
サイケデリックな少女の髪が踊り、しがない小説家志望は紙人形のように宙を舞う。
背骨がへし折れるような痛みに顔を歪めながら修次はスピーメロウを怒鳴りつけた。
「……ってぇ! なにすんだよ」
スピーメロウはオッドアイを憤怒の色で潰し、口元に張り付いた髪を唾とともに吐き出す。
「修次のバカ! あほ! ロリコン!」
貼られる覚えのないレッテルを平手打ちで貼られたような気分である。
「なっ……ロリコンじゃ」
「うるさい!」
スピーメロウはのしのし足を踏み鳴らして修次の前に立つと、小さい背丈をぐいっと折り畳んで顔を突き出した。
「なんですぐ諦めるわけ? なんですぐに小説の世界から出て来ちゃうわけ? 洞窟王倒す方法なんていくらでも考えられるでしょ。考えつくかは別として、考えるだけならいくらだってできるはずだよ。一緒にいたのはこの私だよ? 十歳にして世界を股にかける美少女冒険家。大発明家のおじいちゃんと医者のおばあちゃんから生まれた大学教授のお父さんと、伝説的作家のおじいちゃんと物理学者のおばあちゃんから生まれた名探偵のお母さんから生まれた世紀のスーパーヒロイン、スピーメロウなんだよ。超頭いいんだから」
ミニタッパーに重箱の中身を詰め込んだかのような無茶苦茶なキャラクター設定。これを嬉々として原稿用紙に書き殴った十二年前の自分に呆れる。
馬鹿馬鹿しい。
「キミが考えた展開じゃ傑作にはならないんだよ」
修次は蹴り飛ばされた背中をさすって立ち上がろうとする。飛ばされた瞬間は体が後ろ向きに四十五度折れ曲がったような感覚があったのだが、骨が折れている気配はなかった。
「熊殺しパンチっ」
容赦ない一撃が、立ち上がりかけの修次の顔面を作りかけのパンみたいに凹ませた。
「キミっていうの禁止。何度も言ったよね。私にはスピーメロウっていう名前があるんだから」
「なんでそんなに代名詞を嫌うんだよキ……スピーメロウは。僕はそんなキャラにした覚えはないぞ。だいたいスピーメロウなんて名前は──」
修次は潰れた鼻をつまんで引き出し、両手で平たくなった顔に立体感をつけていく。
顔を元に戻し、そして地面に唾を吐くように言った。
「そんな名前ださいだろ」
重量感のある左フックが横っ腹に突き刺さる。内臓が爆竹みたいに爆ぜる感覚があった。修次は片膝をつき、自分を睨みつける濡れた瞳を見上げた。
「何度も何度も……」
「ださいってなによ」
スピーメロウが言った。
「ださいはださいだよ」
「修次がつけてくれた名前なんだよ」
風もないのにスピーメロウのサイケデリックな髪が揺れる。
突然、十二年前の春を思い出した。
五月の終わりの夜だった。九時に寝ろと言う親に無理を言って〇時近くまで起きていた、静かな夜だった。暗い自室に机の上のライトだけを灯し、原稿用紙の前で何時間も唸った夜だった。書いては消し、書いては消し、何度も諦めかけた夜だった。それでもひたすら自分の想像の海を自由に泳いだ夜。そんな夜があった春を思い出した。
「──さ、行くよ!」
襟首を引っ掴まれ、扉だらけの広間に意識が戻った。
「い、行くって」
「『バラバラ勇者』の結末を修次がすぐに思いつかないってことは理解した。だけどクズ小説呼ばわりして結末を放棄したことは納得してない。私は諦めないから。絶対結末まで書かせるから。完成まで作り上げさせるから」
小さな体に秘められた馬並みの力を発揮して、スピーメロウは修次を扉の一つへと引きずって行く。
「どど、どこに連れて行くのさ」
スピーメロウは修次を振り返ることなく答えた。
「とりあえず『バラバラ勇者』は後回しにする。今度は別の世界に連れて行くよ」
「無駄だって」
修次もまたスピーメロウを振り返ることなく言う。心なしか彼女が襟を握る力が強まった気がした。
背後でスピーメロウが扉を開ける音が聞こえたかと思うと、力いっぱい後ろ襟を引かれた。喉がぎゅっと締まり、目玉が飛び出しかける。そうして抵抗の余地なく放り込まれた先は、スタンドマイクが置かれたステージの上だった。
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「誰や、一体誰なんや! 誰が浜本さんを殺したんや! 口ん中にたこ焼きを詰め込んで窒息死させるて、そんな酷いこと……出てこいや犯人、どついたるから!」
ツインテール部分の髪だけをピンク色に染めた女がステージの中央で悲痛な声を上げていた。彼女の膝元には筋骨隆々なゴリラ顔の男が、口からソースまみれのたこ焼きを溢れさせたまま絶命している。
大学一年生のころに書いていたお『十二人の笑わない芸人たち』という作品のワンシーンだ。
ある年の暮れ、大御所芸人・浜本耕司の自宅で三夜連続でされる忘年会に十一人の芸人が招待された。芸歴や所属事務所を問わず、今のお笑い界で最も勢いのある十一人。そんな彼らに浜本は告げる。『三日通して一番オモロかったやつに、俺の番組の司会を譲ったるわ』と。浜本が司会を務める番組はどれも平均視聴率三○%を誇るバケモノ番組であり、司会の重圧は尋常ではないが、成功すれば芸能人として一つ上のランクに上がることができるまたとない機会。満を持して始まった忘年会はたちまち芸人たちの戦場と化す。すきあらばボケをかまし、突っ込み、場の空気を灼熱の笑いへと変えていく。そんな最初の夜を終えて迎えた二日目の昼。二日酔いの芸人たちがぼちぼち起き出して来たところで、リビングルームで喉にたこ焼きを詰まらせて死んでいる浜本耕司が見つかるのだった。動揺と混乱があふれるなか、お笑い業の傍で探偵業を営んでいる北野いわしが事件の解決に乗り出し──
というのが大体のあらすじだ。
「──うるさくてかなわんわ。ぎゃーぎゃー騒ぎよって、アホ女が」
ステージから離れたところで、玉虫色のスパンコールジャケットを着た男がスマホから顔を上げた。
「泣いたら浜本さん生き返るんか? お前の口もたこ焼きで塞いだろか?」
「倉内テメエしばいたる!」
ピンクツインテールの女が涙を切って立ち上がると、ツインテール以外の部分をピンク色に染めた女が抱きつくようにして彼女を止めた。
「相手にしたらあかんよ真子。損するのはうちらや」
「離せやうしお。あいつは養成所のころからほんまにいけすかんやつやった。今ここでぶち殺してたこ焼きの具にして食ったる。お前を私のうんこにしたるわ」
「お前のケツから出るくらいなら今ここでたこ焼き食って死ぬわ」
スパンコールジャケットの男は冷たい声で返し、一人きりで乾いた笑いを漏らした。
「落ち着いてください、うしおさん。ひとまず全員のアリバイを聞いてから──」
一触即発の、と言うよりもすでに爆発している状況を、北野いわしが冷静に鎮めようとする。周囲の他の芸人たちは手も出さず口も挟まず気まずそうにしていた。
スピーメロウと修次は、ステージの脇に腰を下ろしてお笑い芸人たちの様子を傍観していた。
「このシーンは構成でいうとどれくらい?」
「三割」
「浜本が死んで一悶着あって、それでここから名探偵・北野いわしが動き出す、と。口から溢れるくらいのたこ焼きなんて明らかに他殺だし、リビングルームは夜中は誰も入ることができない密室。本格ミステリってわけだ。うんうん。面白そうじゃん。登場人物もみんなキャラ立ってるし」
修次は膝の上に肘を突き、関西弁で罵り合う自作キャラクターたちを見つめた。
「エセ関西弁ってのは関西人に嫌われるらしい」
「……うん?」
「僕は関東生まれ関東育ちで、修学旅行以外で関西圏に足を踏み入れたことはない。関西人の友達もいない。お笑いは好きだけど、関西との接点はそれだけだ。だけどこの作品は登場人物全員が関西弁を喋る。英語ができないのに英語の小説を書いてるみたいなもんだ。まともに関西弁を喋れないキャラしかいないこんな小説、大阪に持ち込んだら駅で職務質問受けてそのまま刑務所行きだ」
いつの間にか芸人たちが動くのもの罵り合うのも止めていた。物語が途切れたのだ。
「それから、これは密室で起こった殺人事件を名探偵が解決していく物語だ。本格ミステリを目指して書き始めたんだ」
「あ、もしかしてトリックが思い浮かばなかった?」
スピーメロウは指を立て、頼もしげにどんっと自分の胸を叩いた。
「でも大丈夫、さっきのようにはならないからね。洞窟王の倒し方が分からなかったみたいにはならないよ。二人で知恵を合わせればクイーンが土下座するくらいロジカルでスマートなトリックを組み立てられるはずだよ」
修次は首を横に振った。
「トリックはもう思いついてる。犯人の動機もね」
「あ、そうなの?」
「けど何もかもがありきたりなんだ」
修次は己の髪をかきむしり、ステージから立ち上がる。そのまま動きを止めたお笑い芸人たちのそばに近寄っていくと、名探偵よろしく一人のキャラに指を突きつけた。
「犯人はこいつだ」
号泣した格好のまま制止したピンクツインテールの女芸人である。
「あー。あー。あれだ。作中では一番疑わしくないけどメタ的に見たら一周回って一番疑わしいっていうキャラだね」
「その通り。動機は相方に浜本を寝取られたから」
「色恋沙汰」
「そう」
「じゃあトリックは?」
「電話越しに毒入りたこ焼きを一つ食わせ、『どれか一つに解毒剤が入ってる』と伝えて大量のたこ焼きを食わせるんだ。そして必死にたこ焼きを頬張っている浜本に渾身のピンネタを披露する。浜本は爆笑し、たこ焼きを喉に詰まらせて死ぬ」
「バカすぎる」
「うるさい」
修次は舌打ち交じりにため息を吐いた。
「けどスピーメロウの言う通りだ。トリックがバカすぎる。本格ミステリになんてかすりもしない。愛好家に読ませたら孤島に連れてかれて惨殺されるに決まってる。トリックやロジックで勝負できないなら本格じゃない。ならせめてストーリだけはと思っても、そっちはありきたり以外の何物でもない。閉鎖空間に集められた人間の中で死人が出る。しかも密室殺人。そしてたまたま同席していた名探偵が事件を解決する。中学生でも思いつくような話だよ」
「た、確かにありきたりかもしれないけど……! けど!」
「ありきたりじゃダメなんだよ。つまらなかったらダメなんだよ」
教室に響き渡った嘲笑。心の柱が崩れる音。空回りする教師の怒声。
──つまんな。なにこれ。きっしょ。
頭の中を汚す、記憶の中の声は、いつまでも消えることがなく。
修次はスタンドマイクを引き倒した。
ダメだ。ダメだ。ダメだ。
つまらないのは悪だ。面白くないのは罪だ。
次に書く小説は誰からも愛され、受け入れられ、読まれる作品でなければならない。
修次とスピーメロウの目の前で、ステージやお笑い芸人たちが散り消えていく。
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