⑤:終わらない世界を終わらせるために

「終わらない世界を、終わらせる」

「簡単に言えば書きかけで放り出した小説を全部完成させろってこと!」

「そんなの」

 修次は言葉に詰まる。

「完成なんて、そんな。あのさ、キミは」

 と続けた瞬間、腰の入った熊殺しパンチが鳩尾にクリーンヒットした。幼女の枠を大きく逸脱した制裁の一撃だった。

 遮るもののない広場の床を、修次の体はゴム製の人形のように三度ほど跳ね飛んでようやく止まった。スピーメロウが側まで近付いて来て、床をだすんと大きく踏み鳴らす。

「名前」

「……はい」

「で、私のお願い、分かった? 分かったよね。分かってもらわないと困るんだけどね。あのね、厳しいかもしれないけど修次が小説を完成させるまで、私は修次をこの空間から出さないよ」

「この空間から出さないって」

「そのままの意味だよ。ずっと夢を見させ続ける」

「無茶苦茶だ」

「出して欲しければ小説を完成させて。『ななこい』だけじゃないよ。全部だよ、全部。ぜーんぶね! もちろん知ってるとは思うけど、修次がこれまでに書いて来た作品はいくつもあるんだから」

 これまでに書いてきた作品はいくつもある。言葉が槍のように胸に刺さった。書いた作品は確かに幾つもある。しかし書き上げた作品はほとんどない。修次は閉じた唇の内側で歯を噛み、とっくに痛みが引いたはずの鳩尾を、いたわるように手でさすった。

 広間を意味もなく歩きながら、修次はスピーメロウを振り返る。

「というかこの扉ってなんなの?」

 広間の中ではどこを見ても扉が目に入った。大きさも形もデザインもばらばらな無数の扉は、二人を囲うようにずらりと円形に並んでいる。そのうちの一つに近づき、ドアノブに手をかけてみた。力を込めるとノブはがちゃりと半回転する。開くようだ。

「それはこの広間と小説の世界を繋ぐ扉だよ。開けた先はどれも修次がこれまでに書いて来た小説の世界。さっきの『ななこい』と同じようにね」

「……なるほどね」

 少しだけ恐ろしくなり、そっとノブから手を離す。

「ねえスピーメロウ。ここって僕の夢の中なんだよね? 夢なら覚めるはずだ。小説を完成させなきゃ外に出さないって脅しても、結局は夢なんだから関係ないよね」

「ふうん。じゃあどうやって? どうやって覚める?」

「どうやってって…………夢よ、覚めろ!」

 とりあえず叫んでみた。広間に響いた声が何重にもなって耳に帰ってくるばかりで、それらしい変化は何も起きなかった。目の前に立つスピーメロウは冷え切ったオッドアイで修次を睨みつけつつ、両手で耳に蓋をしていた。

「夢よ覚めろ! ウェイクアップ!」

 懲りずにもう一度叫んでみた。今度は雨乞いをする乾燥地帯の部族よろしく、頭上に向かって高々と両手を上げてみせる。やはり何も起こらなかった。

「グッドモー──」

「あーおしまいおしまい。それ以上やられたら耳が壊れちゃうよ。二回もやれば分かったでしょ? 修次は自分の力じゃこの世界から抜け出せないんだよ」

 スピーメロウは腰に手を当てて「ふぅ」と呆れた。

「そんな理不尽な夢があるのか」

「あるんだよ」

「まるで悪夢だ」

 サイケデリックな髪の少女は修次の皮肉を鼻息で吹き飛ばす。

「似たようなものだよ」

「本当に他の方法はないの?」

「外から誰かが起こしてくれるのを待ってもいいだろうけど、中と外では時差があるからね。この空間で一日が、だいたい向こうの世界での一分」

「一日が、一分」

「現実の修次がどんな状況にあるのか分からないけど、誰かが起こしてくれるのを待ってたら途方もない時間がたつかもね。その間私が喋り相手になってもいいけど、むしろ歓迎だけど、そんなことをするくらいなら未完成の小説を完成させたほうがいいよね。さ、分かったらとっとと小説を完成させに行こう。さ、どれからいく? やっぱりさっきの『ななこい』? それともほかのにする?」

 スピーメロウは得意の早口でまくし立て、扉の一つ一つを確かめながら歩く。その珍走団の親玉みたいな服装が目に痛い。

 ため息交じりに見上げた先は果てのない暗闇だった。眺めたところで現実は降って来ない。月並みに頬をつねってみても、いやにリアルな痛みと感触があるだけで目覚める気配はまるでなかった。

 状況をすべて把握出来たわけではない。未完成の小説を完成させる。さっぱりだ。何をどうすればいいのか分からない。けれどもどうやらスピーメロウの言う通りにするしかないらしい。

「……」

 身体の横で無意識に拳を握りしめていた。

 完成させられなかった小説はおそらくすべて、修次が見限った小説のはずだ。ゴミだと、クズだと、見捨てたはずの作品だ。完成させるに値しないと思った作品だ。

 それを今更完成させろと言われても、完成させられるわけがない。その小説も、その小説を書いた自分自身もすべて見限ったがゆえの未完成なのだから。

「っくそ……なんでこんなことに」

 小さく毒づいた声はスピーメロウには届かなかったようだった。彼女は鼻歌交じりに扉の前を歩いている。修次はわけが分からないなりの覚悟を決め、身体の横の拳を解くと、彼女の方へ向かってゆっくりと歩いて行く。


**************************************


 冷たい洞窟の闇を松明の灯が搔き分ける。炙り出された岩肌に潜む闇の蟲たちは光から逃げるようにして散らばっていった。それを見て回復術師のココは「ひぃっ」と小さな悲鳴を漏らし、マジックロッドを振り回しながら仰け反った。足場の悪い中で急に動かれたので、ゼリヤは危うく自分の松明で彼女のピンク色の髪の毛を焼いてしまうところだった。いや、もしかしたら毛先を少しだけ焼いてしまったかもしれない。

「落ち着けよココ、たかが蟲だろ。踏み潰しゃいーんだよ、踏み潰しゃ」

 先頭を行く女盗賊のジョナシアが振り返った。美貌に浮かんだ呆れの表情が松明に照らし出される。回復術士は火が掠めた辺りの髪の毛を押さえながら半べそをかいた。

「む、無理ですようジョナシアさん。踏み潰すなんて、とても、そんな」

「なんでだよ。ここに来るまで散々ゴブ助とかオーク助とかぶっ殺してきただろ」

「それはそうですけど、私、蟲は、ちょっと」

「わっかんねえなぁ……同じようなもんだろ」

 ジョナシアは首を傾げて前に向き直る。幼い頃から数多くの修羅場を潜り抜けてきたジョナシアと、名門魔術学校を首席で卒業したココとの間には大きな溝があるらしい。ゼリヤは二人のやりとりを見ながら「あはは」と笑う。

 修次は二人のやりとりを、主人公であるゼリヤの目線に立って眺めていた。

 扉を抜けた先はもうあの広間ではなく、岩に閉ざされた洞窟の中だった。闇が松明の火でかすかに燃やされているだけの、薄暗い空間である。隣にはピンク髪の回復術師ココが不安げな面持ちで立ち、正面には防御力の低そうなビキニアーマーで武装した女盗賊ジョナシアが先陣を切ってずんずん奥へ進んでいるのが見える。

 今朝挫折したばかりの最新作『バラバラ勇者』の一場面が見事に再現されていた。

「ほーいよっと」

 と、いきなり修次は首根っこを掴まれ後ろに引き倒された。踏ん張れずによろめき、そのまま濡れた岩の上に尻餅をついた。凸凹が尻肉に当たり、湧き水に触れた指先を冷たさが刺す。

「ぼーっとしてないでほら、立つ立つ。はぐれたら困るじゃない」

 いつの間にか傍にいたスピーメロウが、げしげしと乱暴に修次の背中を蹴っていた。

「立つ、立つから」

 地味に痛いその蹴りから逃げるように腰を上げる。

「追いかけるよ」

「追いかけるって、」

 気がつけば修次は修次になっていた。物語の主人公であるゼリヤは、松明を掲げて洞窟の奥へと小さくなっていくところだった。

「引き剥がしたんだよ、ゼリヤから修次を」

「引き剥がした」

「修次が作る物語の主人公はにさまざまなタイプがいるけど、基本的には修次自身をモデルにしてる。意識してるかしてないかは別としてね。つまり修次は洞窟を冒険したいし、七人の美少女にちやほやされたいって考えてるってこと。まあそれはどうでもいいか。うん。とにかく修次は小説の世界に入るとまず主人公と一体化しちゃうわけ。そうすると物語のキャラクターになっちゃって、物語に干渉できなくなるの。だからこうして私がゼリヤから修次を引き剥がしたんだよ」

 二人はあっという間に主人公パーティーに追いつく。

『バラバラ勇者』はファンタジー作品だった。

 闇の軍勢の脅威が迫った国で、ある日辺境の村に住む少年ゼリヤが森の中で人間の生首を見つける。それはかつて闇の軍勢を追い払った不死身の勇者ガストルフの生首だった。彼の力があれば闇の軍勢を食い止めることができる。しかし生首だけでは戦力不足。そこでゼリヤは王の命令で仲間とともにガストルフの体を集める旅に出る、というのが大筋だ。

 パーティーの後ろをのんびりつけながら、スピーメロウは言った。

「それにしても最初に最新作を選ぶってことは、小説たちを完成させる意思が少しはあるってことだよね? だってほら記憶が新しいものから手をつけていった方が、古いものから始めるよりも確実だもんね。感心、感心」

 修次は答える代わりに洞窟の壁を指でなぞった。湧き水が指先を濡らした。冷たさが指から腕へ、腕から胸へ、胸から頭へと伝わってくる。

「で、どうする? どうやってこの小説終わらせる? この洞窟王ニーズに会いに行くシーンってだいたい六割地点くらいだよね。でもさーこのシーンって結構盛り上がる展開でしょ? ガストルフの因縁の相手で、ジョナシアの復讐相手っていう。なんでここでやめちゃうかなあ。いいところなのになあ」

 スピーメロウは薄暗い岩穴の通路を、ピクニックでもするかのような能天気な足取りで歩いていく。「うるさい」と修次は知らずのうちに食いしばった歯の奥で呻いた。

「え? なんかいった?」

 三色の髪を振ってスピーメロウがこちらを向くが、修次は無言で首を振り返した。

「修次はこの小説のどこに詰まったの?」

 スピーメロウは言った。

「……どこって」

 主人公たちの行く手には例の大扉が迫っている。ジョナシアとゼリアが縦に並ぶよりも大きく、三角錐の鋲で縁取られ、ドアノッカーに人間の生首が使われている大扉。想像していたよりもリアルな生首の様子に、修次のまぶたは一瞬だけ引きつった。

 この扉の向こうに洞窟王ニーズを用意していた。作中屈指の敵キャラとして悩みに悩んで作り上げた、洞窟に棲まう闇の怪物を。

「さあ行こうみんな。大丈夫、僕たちなら勝てるさ」

「参る」

 ゼリヤが力強く言い、その両手に抱えられた勇者ガストルフが低い声で応じる。

「喝ッ」

 口蓋いっぱいに開かれたガストルフの口から白い閃光がほとばしり、魔力の塊が扉に向かって放たれる。

 物語はここで止まる。

 今回は先ほどの『ななこい』の教室風景のように崩れ出すことなく、回線の途切れた映像のように修次の目の前で音もなく静止していた。

 スピーメロウが言った通り、この洞窟のシーンは物語のだいたい六割の地点に位置する。九つに分かれた勇者の体のパーツのうち、五つの回収に成功した段階だ。そして今主人公たちは、六つめのパーツである右腕を回収するため、悪逆非道な洞窟王に挑むという展開。

 直前までは、洞窟に入るまでは筆が乗っていた。しかし洞窟に入ったころからタイピング速度に陰りが見え始め、いよいよニーズを登場させるというころになって息が切れたのだった。

「このあとはガストルフの魔力で扉が破壊されるんだよね?」

 黙ったまま何も言わない修次から言葉を引き出すようにスピーメロウが扉に近づく。

「……そうだね。口から放たれた魔法で扉を破壊し、ゼリヤたちは扉の向こうにある洞窟の玉座を目の当たりにするんだ」

 展開を口にした瞬間、止まっていた小説の世界が動き出した。

 魔力を凝縮させた白い閃光は凄まじい破壊力で扉を砕き、頭を割らんばかりの轟音が洞窟内で爆発。パーティーメンバーは歯を食いしばってそれに耐え、瓦礫と砂塵の勢いが収まるのを待つ。やがて踏み込んだ扉の向こうには、人の体を使った松明で照らされた岩のドームがあり、中央に大男が立っている。もちろん、洞窟王ニーズだ。

「ぶぉあはははは! よく来た雑魚ども! 我こそが洞窟お──」

 そして再び小説の世界は動きを止めた。洞窟王は愉快そうに口を開いたまま、パーティーは各々武器を構えたまま、どちらも互いに睨み合って動かない。

 修次は顔を手で覆ってため息をつき、威圧的な面構えで君臨する洞窟王を見上げた。

「強くしすぎたんだよ、こいつを」

「まあ見るからに強そうだけども」

 身長は三メートル近い。上半身がやけに膨らんだ筋骨隆々な体格で、月をかぶったようなゴツゴツとした坊主頭で、顎には逆さまのもみの木を思わせる黒く力強いヒゲ。

 洞窟王は息を吸うように人を殺し、食らう。筋肉はあらゆる刃を跳ね返し、拳の一撃で大人の男を肉塊にする。生まれ持った呪いゆえに魔力攻撃を受け付けず、孤独ゆえに失うものもない。無敵の存在。そうして文書ファイルに残した設定は数十行にわたり、詳細に説明していてはキリがない。

 とにかくこいつを最初の難関にして主人公たちを絶望に突き落とそうとしたのだ。

 そして怪気炎を上げる勢いでキーボードを叩きまくった挙句、強くしすぎた。

 ぽっと出のキャラクターなら修正が効くものの、洞窟王ニーズは序盤から丁寧に伏線を張って来た。そのせいで修正するとなると物語をひっくり返す勢いで直さなければならなくなる。絶望に突き落とされたのは自分だった。

 物語をひっくり返して洞窟王を修正するか、物語を修正せず洞窟王をどうにかするか。しかしどちらをとっても物語は傑作でなくなる。いくつもの選択肢がせめぎ合い、煮詰まり、黒焦げになってやがて筆が止まった。

 改めて洞窟王の姿を前にして思う。こんな奴をどうやって倒せばいいのだろう。物理攻撃も魔法攻撃も精神攻撃も効かない化け物を、主人公たちはどう倒せばいいのか。

「……ダメだ、スピーメロウ」

 修次は自虐的に笑った。

「僕には考えつかない。どうやったってこいつを倒す方法が思い浮かばないんだ。僕はこれ以上先に進めない」

 洞窟王に背を向けた。動きを止めた主人公たちの間を通り抜け、ドームの外に出た。

 未完のまま放り投げた小説を完成させろと言われ、そんなことができるはずがないと最初は思った。

 そんな中、頭の片隅に、もしかしたら何かが変わるかもしれないという小さな希望を感じた。

 実際に自分で小説の世界に足を踏み入れてみれば、これまで見えなかった景色、聞こえなかった音、感じなかった何かを感じることができて、小説を完成させられるかもしれない、と。

 しかし結局はこの通りである。何も感じず、何も進まず、何も変わらなかった。

「修次!」

 呼び止められても振り返りはしなかった。

 自分のことは自分がよく知っている。自分を決めるのは、自分だ。

「スピーメロウ」

 所詮、

「この小説はクズだ。ゴミなんだよ。こんな駄作を完結したってなんの意味もない」

 修二の言葉に応えるように、世界が震え、細かい粒子になって崩れていく。ゴミのように、クズのように醜く形を失っていく。

「修次、修次! そんなことない!」

 スピーメロウが追いかけてくる足音が、玉座の間に響く。

「バカ言わないで! 展開はまだいくらでもあるはず! どんなことだって考えられる! 例えば、例えばほら! 物理攻撃が効かないなら、例外的に洞窟王の筋肉を貫ける剣を用意するとか! あとは、魔法が効かないならこれまでにない新しい魔法を考えるとか! あと」

「そんな展開じゃ傑作にはならないんだよ」

 修次は吐き捨てた。

 足場が失われ、身体が宙に浮く。そしてどこまでも深く、深く落ちていく。

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