④:世界を股にかける美少女冒険家
長いこと落ち続けた割には優しすぎる着地があって、修次は硬い何かの上に倒れ込んだ。
慌てて身体を起こすと、先ほどいた教室よりも何倍も広い空間にいた。大理石のような滑らかな床。どこにも明かりらしきものがないのに、周囲はなぜかぼんやりと明るい。修次のほかに人の気配はなかった。七人の少女も、ほかのクラスメートもいない。机も椅子も黒板もない。その代わりとして形の違う無数の扉が広場を丸く縁取るように並んでいた。まるで檻のように。
「なんだ、ここ」
さっぱりわけが分からなかった。自分の身に何が起きているのかまったく理解が追いつかない。恐怖よりも戸惑いの方が先に立ち、この広場から立ち去るべきなのか止まるべきなのかすら判断ができなかった。
修次はその場に立ち尽くしたまま天を仰いだ。見上げた先に天井のようなものはなく、真っ暗闇がどこまでも続いているようだ。深い縦穴の底にでもいるみたいな気分だった。ひょっとして自分はあそこから落ちて来たのだろうか。
視線を床に落とし、記憶を掘り起こしてみる。自分は大学生で、中学の同級生と飲んでいた。飲みすぎて吐きそうになって便所に駆け込んだところまでは記憶がハッキリしている。しかしそれから先が曖昧だ。目を覚ましたらなぜか高校生だった。しかも美少女が家まで迎えに来てくれて、教室に着いたら七人の美少女に囲まれた。そして唐突な自由落下。
七人の美少女?
もしかして、と修次が答えにたどり着きかけたとき。
「やっほーい。待ってたよー」
声が上から降って来た。
修次の目の前にふわりと着地したのは、顔立ちにまだ幼さが残る十歳くらいの少女。青とピンクとオレンジを六対一対三くらいの割合で混ぜ込んだ色合いの髪は肩のあたりで二つに結ばれていて、毛先は肩の上を自由奔放に跳ねている。赤いシャツと黄色い短パンを身につけ、足元には緑色のブーツ。そして膝のあたりまで丈がある金と銀のマント。挨拶をするだけで眼精疲労になりそうな格好である。
「怪我はしてない? 大丈夫? うん、大丈夫だね」
少女は紫と白のオッドアイをキュッと細めて笑い、修次に手を差し伸べた。
「ようこそ修次。久しぶりだね」
彼女はなぜか修次のことを知っていた。しかし修次は少女のことを知らなかった。だから差し伸べられた手をとっさに握り返すことができなかった。
「あれ? もしかして覚えてない? あー、まあそっか。そうだよね。だってあれから何年だろう? うーん、いち、にぃ、さん………十二年くらい経つもんね。忘れてても仕方がないか。うん、仕方ない。よし、じゃあ自己紹介からだね。私の名前はスピーメロウ。君の名前は修次。よろしくね」
「スピー、メロウ?」
少女が口にした名前には聞き覚えがあった。記憶の底に小さな泡が立つ。
「スピーメロウって、それ」
「思い出した? そうだよ、私はスピーメロウ。世紀の大天才スタディクスト博士の孫娘で、十歳にして世界を股にかける美少女冒険家。君が生み出したヒロインだよ」
泡が弾け、修次の脳裏に小学五年生のときの記憶が蘇る。
国語の授業中に人生で初めて書いた物語。『エターナル島の冒険』。大天才だが時々バカなスタディクスト博士と孫娘スピーメロウが、何にもかもが無限に増え続ける島を冒険する話だ。
今目の前に立っている派手な格好の少女は、修次に向かって自分はその物語のヒロインだと言い放ったのだ。思い返してみれば確かに、彼女の格好は修次が頭に描いていた通りだった。だがスピーメロウは創作の世界の住人である。目の前にいるはずがない。
「……わけが分かんないよ」
修次は凄まじい毛量を誇る自分の髪の毛に手を突っ込んで、頭をかきむしった。
「というかここどこ。何が起きてるの。キミ、事情知ってるの?」
「キミじゃないよ」
「あ?」
「私にはスピーメロウっていう立派な名前があるんだから。おじいちゃんが名付けてくれた立派な名前がね。あ、でもそっか。おじいちゃんというか修次が付けてくれたのか。創作者だしね。だったら創作者が私の名前を呼ばないでどうするのって感じだよね。はい、分かったら呼んで。スピーメロウ、スピーメロウ、スピーメロウ。さん、はい」
修次は髪の毛を押しつぶすように頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
「……スピーメロウは事情を知ってるの?」
「知ってるよ。どこまで説明すればいいのか分からないけど、聞かれたことにはだいたい答えられるよ。修次の方でももしかしたら少し検討がついてる? まあなんでも聞いてよ。ちなみに好きな飲み物は牛乳で好きな食べ物は軟骨。好きな言葉はカルシウム。趣味は射撃と剣術と筋トレと読書と料理。あと──」
「スピーメロウ、僕に何が起きてるんだ?」
「わあ、単刀直入。私の自己紹介は聞く気なしだね。まあでもそんなもんだよね。オーケー分かった説明するよ。修次に何が起きているのか、それは私には分からない」
「はぁ? キミ今さっきなんでも答えられるって」
「なんでもなんて言ってないよ。だいたい答えられるって言ったの。あと私にはスピーメロウっていう立派な名前があるんだから不要不急のときに名前以外で呼んだら許さらないからね。グーでパンチするから、グーで。はい、では気を取り直して第二問。張り切ってどうぞ!」
目も頭も疲れてきて、修次は小さくため息をつく。カラフルな爆竹みたいなこのキャラクターを生み出した奴を恨みたかったが、悲しいことにそれは自分だった。
「……何が起きてるのかが分からないなら何も分からないじゃないか」
「うーん。ちょっとチガウ。修次は少し誤解してる。何が起きているのかが分からないのは修次のこと。今現在、修次の身体がどうなっているのかは私には分からないってことだよ」
「ますます分かんないよ。僕の身体がどうなってるのかなんて一目瞭然だろ。こうしてピンピンしてる。よく分からないくらい高いところから落とされたけど五体満足だ。変な空間にいて、変な女を前にしているって状況を除いたらね」
変な女は一歩前に踏み出し、握りしめたグーで修次の鳩尾を殴った。どむっ。鈍い音が二人だけの変な空間にこだました。
「ぐぅっ」
「私の名前はスピーメロウだってば。キミでもお前でも変な女でもないの。修次がつけてくれた名前なんだからちゃんと呼んでよね」
「本当に殴ることないだろ……しかも幼女のくせにかなり強いし……」
「鍛えてるもん。それに修次が怪力に設定したんだからね。『大きな岩を片手で持ち上げ、クマも一撃で倒せるくらいの力持ちの女の子』って。だからさっきのは熊殺しパンチってわけ。痛かった?」
「熊殺しパンチを受けて死なない僕を褒めてくれ」
「何言ってんの。ここじゃ死なないよ。何があってもね。どれだけ高いところから落ちても、雷に打たれても、熊殺しパンチを受けてもね」
「死なない?」
修次は眉をひそめた。一瞬、嫌な予感が胸に湧く。アルコールによる吐き気。駆け込んだトイレ。意識の喪失。見に覚えのない高校生活。自由落下。自分が生み出した空想上の少女。熊殺しパンチ。何をしても死なない空間。現実ではあり得ない出来事の数々。
自分は今どこにいるのだろう。自分の身に何が起きたのだろう。
──今現在、修次の身体がどうなっているのかは私には分からない
自分はこうしてここに五体満足で立っているのに、先ほどのスピーメロウの言葉はまるで自分の身に何かが起きているかのような口ぶりではないか。自分は今、どこで、何をしているのか。真っ先に思い浮かんだ考えに心臓が凍るような気がした。
「どうかした?」
突然言葉を失った修次を心配するように、スピーメロウは下から彼の顔を覗き込む。
「スピーメロウ、僕は、僕は、死んだ、のか?」
「いや、死んでないけど」
「あれ?」
それなりの覚悟を持って口にした推測はあっさりと地面にはたき落とされた。
「あーそっか、そうだよね。そこから話さないとなのか。本当に何にも分かってなかったんだね修次は」
「さっきからそう言ってるでしょ」
「何も分かってないとは一言も言ってないよ。事情を知ってるなら教えてくれって感じのことは言ってたけど」
「……」
十歳の少女に何も言い返せない。
「まず基本的なところから説明しようか。基本といっても別に全体を通して複雑なわけじゃないよ。簡単だから身構えないで。うん、よし。じゃあここがどこかって話だね」
スピーメロウは咳払いを一つし、まるで意味不明なことを言い出した。
「ここはね、修次の頭の中だよ。ううん、頭の中の中の中の中くらい。自分では把握できない自分の意識。つまりは潜在意識ってやつだね。修次は今、自分の潜在意識の心象風景を目にしてるんだよ」
「潜在意識の心象風景を目にしてる?」
「平たく言えば夢を見てるってことだよ」
「夢、を?」
言葉の意味を呑み込むのに十秒ほどかかった。修次は両腕を眺めた。腕は確かにそこにあった。右も左もはっきりと目に映る。片方で片方を掴んでみる。しっかりと掴めた。紛うことなく腕だった。
「信じられないって顔してるね」
スピーメロウは言った。
「信じらんないよ」
修次は自分の顔を触り、恐る恐ると言った足取りで自分がいる場所を歩いてみる。顔には鼻や口が過不足なくついていて、床はどこを踏んでも修次をしっかり支えてくれた。
自分が今夢の中にいるなどという『現実』を信じられるはずがなかった。見るもの、聞く音、触れるもの、すべてがリアルだった。
しかしこの場所に至るまでに夢でなければ説明できない出来事が起こったのも否定できない。大学生であるはずの自分が高校生だったこと。周囲に人や物が一瞬で砂像のように消えたこと。かなりの高さから落ちてもケガ一つしなかったこと。
明晰夢、というものがある。
夢を夢だと自覚している夢のことだ。その状態にある人の意識は活発に活動しており、夢にいるというよりも現実にいるという感覚に近くなるのだ。修次がもし明晰夢を見ているのであれば、このリアルだが不可解な状況に説明がつく。ただし説明がつくことと理解ができることは別の次元の話だ。
「とにかく修次は今、夢の中にいるんだよ」
スピーメロウは念を押すように言った。
「夢の中にいる。つまりここは修次にとっての本当の現実じゃないってこと。じゃあ現実の修次はどうなってるのって思うよね。思うよね。だけどそれは私には分からないの。なぜなら私は修次の夢の中にいる存在だから。現実の修次がどうなってるのかは知りようがないんだよ。眠ってるのか、気絶しているのか、あるいはもっとひどい状態なのか。まったく分からない」
「……僕は今、夢を見ている」
修次は自分の手を何度も握りしめた。開いても閉じてもはっきりとした感覚がある。
「理解できた?」
「理解はできてない、けど」
「けど?」
「……やっぱり理解できない。本当に夢なの?」
「だから夢だってば」
スピーメロウはため息交じりにマントの中へ自分の腕を突っ込むと、内側から何かを引っ張り出してきた。両側に刃がついた、頑丈そうなナイフ。冒険用のものだろう。見かけ十歳の幼女はあまりにも似つかわしくないそれを器用に操り、
思いっ切り修次の腹に突き刺した。
驚愕が一回転して声が出なかった。修次は眼球を眼窩から半分溢れさせながら、自分の鳩尾に鍔まで突き刺さっている剣を見つめていた。
「ほらね?」
「『ほらね?』」
幼女はニッコリ微笑んでぬるりとナイフを引き抜く。驚くべきことに痛みも流血もない。放心したまま腹にやった手は、人肉クレバスどころか傷口一つ見つけることができなかった。
「死なないんだよ、夢だから」
スピーメロウは手の中でくるりとナイフを回転させ、マントの中に戻した。
修次は何度も腹をさすって本当に無傷であることを確かめる。一回転した驚愕がもう一回転して脳みそをぶん殴ってきた。
「あ、あははは」
思わずその場に膝から崩れ落ちた。漏れそうだった。
「あ、漏らすのは止めた方がいいよ。そっちは現実世界に影響出るかも」
スピーメロウの忠告に慌てて膀胱を引き締める。
「これで理解できたね?」
「……」
頷くしかなかった。どれだけ感覚がリアルでも、どれだけ現実味があっても、今の一撃を受けた後ではここが夢の中なのだと理解するしかなかった。
修次はしばらくの間、へたりこんだ状態から立ち上がることができないでいた。その間にスピーメロウは修次の腹に刺した長剣をしまい、腕を組んだり腰に当てたりして待っていた。
「さ、もう十分驚いたでしょ。これ以上もうどう驚けっていうのさ。修次があと四億パターンくらい驚き方を知ってるなら私は付き合うけど、そうやってへたりこんでるだけならもう飽きた。さあ立って、立つんだよ修次。そして私のお願いを聞いてよ」
修次は最後の一言に顔を上げ、立ち上がった。
「お願い?」
「うん。お願い。それを聞いてもらうために私はここにやって来たし、さっきの光景を見せたんだよ」
「さっきの、ってなんだ?」
修次は首を傾げ、
「高校生に戻ってたやつ?」
「正解。その通り。さっき修次に見せた光景こそが私のお願いの一つってこと。もちろんもうあれが何だったのか思い出したよね?」
「まあ、ね」
窓から入ってくる銀髪の美少女、とそこに割り込んでくる赤髪の美少女。二人はなぜか恋敵のように自分を取り合う。学校に着けば金髪のハーフ美女。眠りこけてる緑髪の美少女。青髪の部活系美少女。ボケの黒髪美少女、ツッコミのオレンジパーマ美少女。そして修次ではなくタクマという名前。
ここへ落ちてくる前に目にした光景は、傑作を予感しつつも途中で挫折した自作小説のワンシーンだった。『ななこい~七人の幼馴染に日替わりで恋されてます~』というタイトルの、学園青春ラブコメディである。
「途中で崩壊したのは、そこから先を僕が書いていなかったから、か」
「ザ、正解。あの世界は修次が書いたところまでで止まってる。そこから先は存在しないんだよ。月子も火憐も水穂も柚木もキンバリーも土筆も日和も、みんなあの教室の時間より先に進めないんだ」
スピーメロウは小さな両手を胸の前で握りしめた。まぶたがそっと伏せられて、サイケデリックな前髪の下に小さく影が差し込んだ。
「私のお願いは一つだけ。修次に、終わらない世界をすべて終わらせて欲しいんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます