第9話

 進化とは、淘汰である。あらゆるものごとは、人間も例外でなく、バージョンアップするために何かを犠牲にする。

 それは思考展開においても同一である。「そういう考えもあったのか」という発見、迎合はすなわち、古い自分の考えを同時に排斥していることを指す。


 新しい恋人ができたら、古い恋人のことは忘れて然るべきだ。悲しみやわびしさといった感情を度外視した問題である。思い出すことなかれ。それが進化し、歩んでいく人類の成すべき論理である。


「ごめん、今日も先に帰って」


 春から冬までぐるりと、僕とA子は当たり前に行き帰りを共にしていた。家が近く、同じクラスなのだから、ほかに理由は要らないし、他意もない。

 時折何かしらの要件が発生して別々に帰ることも、特段珍しい話でもなかった。


 それがこのところ、飼育係の仕事を終えると毎回、彼女はそう言って僕を拒絶する。拒絶する、という言い方は正しくない。忌避する。いやこれも正しくない。というかうれしくない。

 とにかく一緒には帰らない、というのが、彼女の今のルーティンらしかった。


「わかった」


 寂しい気持ちもありつつも、かといって「なんでだ! 一緒に帰ろうよ!」と強制しうる立場の人間でもない。これは僕の勝手な横恋慕の日々であって、それ以上にはなる予定がない。今のところ。これもうれしくない。


 どうせなら寄り道をしよう。何をもって「どうせなら」なのかは全くもって判然としないが、それがこの二週間ほどの帰り道でようやく思いついた何かの打開策だった。


 と言っても、なにか面白いものがある途上ではない。がやがやとうるさいゲームセンターがあって、老舗の駄菓子屋があって、小ぢんまりとしたカラオケがあるくらいのもので、そのほかは家、家、家。以前A子と行ったファストフード店もあったが、一人で食べるご飯は寂しい。

 中学生になったばかりのころ、この家々にも当たり前に家族がいて、生活をしているのだなあ、としみじみ思ったことがある。萌奈美とのお遊びにふいに疲労を覚えて何も考えずに飛び出した時だった。

 

 薄闇の公園で、時折散歩のおじさんが通るものの、ほかには人の声はなく。虫の鳴き声と、どこかから食器のぶつかる音がわずかに聞こえる。

 そういえば女装していた——と気付いたのは、声を掛けられてからだった。

 たぶんその当時大学生くらいの、若い男だった。


「一人? どうしたの?」


 すごく好意的に見ても不審者の挙動をしている。僕はまだ声変わり前で、

「え、あの、えっと……」

 と発した声音が、さらに彼を欲情させたらしい。


 いっそ脱がしてがっかりさせてもおもしろいかもしれない。と、今なら思えるけれど、そのときは恐怖心と、本当に身も心も女の子になってしまったかのような心細さがあって、叫ぶこともままならなかった。

 

「優佳ー」


 公園の入り口の街灯に照らされて、つっけんどんに突っ立った穂乃花は、僕の前で腰を引いて立った男を見るなり、首を傾げた。傾げた——というとかわいげがある。詳細に言うと、顎を前に突き出すような格好で、挑発と言うか、誇示しているような、威嚇的なそぶりだった。

 それを視認して、男は何も言わずにそそくさと公園を出ていった。

 心配していたわけではないようで、特別に駆け寄ってきてくれたりもせず、穂乃花は僕の座るベンチに近寄ってきた。ベンチに座る僕、ではない。あくまで彼女は自分が座るために近寄ってきたわけである。


 よっこいしょ、と声を出して腰を下ろすと、デニムジーンズに締まった長い脚を組む。それから、ポケットからピアニッシモを取り出して火を点けた。

 一応彼女の名誉のために言うとすれば、彼女は別に不良ではない。良ではないだけである。また、他人よりも自分を愛しているだけである。それは全く、誰にも責められない話で、もちろん僕もそのことは何となくわかっていたから、彼女を嫌に思う気持ちはなかった。


「吸う?」


 幾度か呼吸を繰り返してから、穂乃花は煙草を挟んだ右手をこちらに差し向けて、どうでもよさそうに言った。だから僕もどうでもよさそうに断った。

 断ってから、視線を下げてようやく、僕は自分がひどく震えていることに気が付いた。怖かったのだと認識する。

 穂乃花に泣き顔を見られたくなかったし、ましてや格好も格好だったので、僕は隠れたくなった。

 公園の中央に鎮座するタコの山に急いで逃げ込んで、一人でしくしく泣いた。包み込んでくれるなら姉がよかった——と、翌日には思ったが、穂乃花はいつも通り唇を突き出して、それこそタコの顔をしているだけだった。


 自分の家庭環境を特殊だと思うことはない。今までに読んできた漫画のように、変哲のない家族ではないけれど、それはあくまでも相対的に見た場合に限る。

 この家々の中にはそれぞれの事情があって、片親だったり、子どもができなかったり、引きこもりがいたり、日々着々と義母に毒を盛っていたり、ものを愛する子どもがいたり。でもそのどれもが、絶対的観点からすれば取り立てるほどもないことなのだ。


 ——ボールが転がってきて、続いて少年が駆け寄ってきた。背後からトラックが近づいているのがわかったから、僕は公園の入り口でボールを拾い上げて、少年を制する。

「ありがとう」

「うん」

 

 ボールを手渡してから、少年の背後に誰もいないことに気付いた。

「一人? どうしたの?」

 言ってから、別に一人でいることも何も不思議はないではないか、と思った。僕も一人だったからだ。


「サッカーの練習」

 少年はこの不審者にも愛想よく答えてくれる。

「へえ」

「学校で試合があるんだけど、足手まといになりたくない」

「偉いね」

 言うと、照れくさそうにしてそっぽを向いた。

 二年生くらいだろうか。手足はまだむくむくとしていて、頬は真ん丸だった。


「ねえ」

 落としたボールを小さくドリブルしながら戻ろうとした少年の背中に声を掛けると、ややあってから振り返る。

「お兄ちゃんも暇なんだけど、混ぜてもらってもいい?」



 五時のチャイムが鳴って、少年と別れる。いくら小学生相手とは言え、——いや、逆に小学生相手だからか、ひどく疲れた。体育の授業もおざなりなので、ちゃんと身体を動かすのも久しぶりに思えた。

 とぼとぼと帰路に戻り、明日の筋肉痛を憂いていると、なんということか、前方にA子の姿が見えた。

 駆け寄る力はもうなかったが、彼女は背中を丸くして、僕よりよっぽどとぼとぼと歩いていたから、すぐに追いついた。


「よっ」


 驚いて振り返り、僕を認識するとまた少し肩を落とす。

「なんだ武藤か」

「ナンダムトウカって外国語みたい」

「本当にいつもしようもないね」

「お粗末」

「合ってる? 合ってるか……、いや、合ってないよね。褒めてないもん」

 キレもなければ覇気もない。


「どうした?」


「余命、三日」


 力なく言うと、A子は泣きそうに——、いや、実際に泣いていたと思われる目元をこちらに向けた。

 なるほど、このパターンを考えたことはなかった。一昔前の純愛映画よろしく、ヒロインは途中退場するものなのだ。それは彼女が美しければ美しいほど、話としても美談になる。——ということは、そこまでの器量ではないA子の場合、これはミスリードに違いない。

 ——好きな女性を相手に何を考えているんだ。


「もうわたし無理かも」

「どうした」


 改めて問う。

 彼女は今、電話ボックスに恋をしていると言った。


「公衆電話でなくて、電話ボックス?」

「そう。箱自体」

「あらまあ」

「三日後には撤去されるんだって……。こういう別れ方が一番つらい」


 いつだか彼女自身の言っていた「ベルリンの壁」に恋をした人も、同じような心境だったのかもしれない。

 破壊されることが約束された相手との恋。確かにこれは純愛になりえる。刹那的で、美しい。しかし、電話ボックスかあ。

 おしるこ缶の場合は、事故だった。つまり余命宣告はなかった。一瞬で、ポンっと目の前から消えた。つまり、事前に知らされた別れは、彼女にとって初めてのことだったのだ。


「だから最近は学校が終わるとすぐに行って、ひたすら時間を過ごしていたんだけど」


 彼女が恋をした翌日には、撤去のお知らせが貼られていたらしい。わずか二週間ほどの出会いと別れなのだ。


「大人っていつも横暴。わたしの恋路を邪魔する権利なんて持ってないのに」


 誠に残念なことに、電話ボックス撤去の権利は持っていたわけである。

「時代の流れってやつかね」

「じじくさ。うざ。死ね。馬鹿」


「そんなこと言って、死んだら悲しいくせに」——とは言わなかった。

 見ていればわかる。彼女は僕が死んだら悲しいに決まってる。逆も然りだ。そこに恋愛と言う感情があろうがなかろうが、人が死ぬのは悲しいのだ。もちろん、電話ボックスだって死んだら悲しい人がいてもおかしくない。


「まあ確かに、電話ボックスって隔離されてて少し安心する。特にこういう住宅街にあると」


 せめてもの共感を述べると、A子はフルフルと首を振った。

「違うよ。電話ボックスは迫害されてるんだ。だから、わたしだけは見ていてあげるの。遠くから」


 ——言われて、はっとする。

 そういう考えもあったのか。だ。


 穂乃花はあのとき、ああいう態度で僕を見守っていてくれたのかもしれない。優しく両手を広げて抱きしめるだけが愛情じゃない。不器用な——否、ぶっきらぼうな彼女らしい愛情表現ではあるまいか。

 ——と思ったものの、それはこと穂乃花に関して言えば、いくら何でも好意的に見すぎだった。ピアニッシモをポイっと放ってぐりぐりと足で火種を消している姿は、とても家族愛に目覚めていたようには思えない。間違いなく一足先に目が死んでいた。


 ちなみにどこの電話ボックスに恋をしていたのか、と聞くと、最寄り駅近くの商店街の隅っこにあるやつだ、とA子は言った。


「あの辺って確か再開発されてタピオカとかコットンキャンディーの店が入るんじゃなかったっけ」


「え! そうなの? ああー……、じゃあ仕方ないか」


 かくも女子とはこうである。

 

 ここまでの考えが瞬間的にどうでもよくなって、ああ、違う世界に生きていたら、きゃぴきゃぴの女子高生になって新しい言語を生み出したいな——と、現実逃避した。

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友人A子の恋愛遍歴(仮) 枕木きのこ @orange344

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