終章【幽霊騎士は安らかに笑う】

第36話 心の在りか


 かつて、蒼く澄み渡る空の下で────。


〝騎士は、守りし者だ〟


 あの少年はそう言った。

 守るべきものを守り、守りたい全てを守る者。

 あの頃のアガトには、わからなかった。

 でも、今はわかる。アガトにも、大切な宝物ができたから。

 だからもう、アガトはカラッぽじゃない。


『それは、本当に守るべきものなのか? 斬り捨ててきた全てに見合う価値があるのか?』


 琥珀の瞳が睨みつけて問い質してくる。


 アガトはかぶりを振った。


 斬り捨てたものと見合う価値……誰かの命と釣り合うものなど、きっとどこにもない。それはそもそも比べられるものではない。


『だというのに、オマエはそれを守るために、これからも斬り捨てるのか?』


 アガトは頷いた。


 斬り捨てずに済むなら、そうしたい。

 けれど、斬り捨てなければ守れないなら、アガトは斬り捨てるだろう。自分の大切なものを守るために、自分の宝物を手放さないために、誰かの守りたい宝物を斬り捨てるだろう。


 世界は過酷で、真理は残酷で、摂理は冷酷だ。

 誰もが幸せになるなんて、赦してくれそうにない。


 だが、それでもだ。

 それでも、斬り捨てずに済むならそうしたいと思う。

 最後のギリギリの瞬間まで、斬り捨てずに済む方法を諦めずに探したいと思う。

 斬り捨てれば、それを背負わねばならない。

 斬り捨てた全ては、重くのし掛かってくる。背負った十字架は重く重くなっていき、やがては押し潰されてしまう。


 そうならないようにしたい。

 自分にも、大切な誰かにも、そんな苦痛を負わせずに済むように……それが、守りし者が守るべきものであり、守りたいものだ。


『くだらんな、何が黒き悪魔だ。結局オマエは、ただの生き汚い人間だ』


 心の底からの軽蔑を込めて、琥珀の瞳がアガトを睨みつけていた。


 ああ、そうなのか……と、納得した。


 それなら、それで構わないと思った。


 アガトは頷き、きびすを返す。


『どこへいく?』


 そう訊かれたので、帰るのだと応じた。

 アガトは騎士。騎士は守りし者だ。

 だから守りたいものを守るために帰るのだと、そう答えた。

 だって、それはあの日、晴れ渡る蒼い空の下で交わした、大切な約束なのだから────。


(さようなら、グレン……)


 振り向かぬままに、別れを告げる。

 背後の騎士は、何も答えてはくれなかった。



 ……そして、アガトは唐突に目を覚ました。


 見慣れぬ天井。

 見知らぬ部屋の光景。

 天井のはりはむき出しで、壁は質素な土張りの木造家屋。

 窓から差し込む日差しから、今が朝なのだろうということだけは理解した。


(……ここは、どこだ?)


 柔らかとは言い難い、粗末なわらのベッドの上、未だ微睡んだ意識の中で自問する。


 アガトは、アスガルド軍を追い払うために出向き、待ち伏せていたイザクと決闘し、それから────。


 それから、そうだ、アガトは黒炎の力を解放してアスガルド軍をどうにか追い払った。

 けれど、その後の記憶が欠け落ちている。憶えていない。

 あれからどれくらい経ったのか?

 身を起こそうとしたが、全身に激痛が走って叶わなかった。


 痛かった。スゴく痛かった。けれど、痛いということは……だ。


「……とりあえず……生き延びては……いるんだな……」


「そのようですね」


 優しい声が応じる。

 見ればベッドの脇、椅子に姿勢良く座した少女がいた。

 黒い衣服、長い黒髪、対照的なまでに蒼白い貌の中で、綺麗な蒼色の瞳が穏やかに細められてアガトを見つめていた。


「ユラさん……」


 未だボンヤリとした意識で見上げるアガトに、ユラは優しげに微笑む。


「丸三日間も昏睡していたんですよ。正直、このまま眼を覚まさないかと思いました」

「ここは……あの国境近くの村なのか?」

「ええ、あなたはとても動かせる状態ではなかったので…………あの無駄に偉そうな喧しい人に感謝してください。意識のないあなたを、彼がここまで運んできてくれたんですよ」


 無駄に偉そうとは、イザクのことなのだろう。


「イザクが……オレを……?」

「彼は彼で衰弱して寝込んでいますが……死にそうな重体のクセに、すぐに出歩こうとして無駄に回復を遅らせている難儀な人です。以前のあなたといい、クルースニクというのは、おとなしく養生することができない幼稚な方ばかりなのですか? 本当に、仕方のない……」


 王立図書館での療養中、何度も無理に出歩こうとしてユラに叱られ、最終的にベッドに縛り付けられたアガトだから、彼女のあきれは当然だ。


「……今度は、無理に動いたりしないよ……」

「だといいですが……」

「……だって、ユラさんがそばに居てくれるから……」


 守りたいものが隣にいるのだから、どこにもいく必要はない。

 ユラが驚いたような、あきれたような、そんな表情で眼を見開いた。


 ハラリとこぼれて流れた長い髪、その艶やかな黒を見て、アガトは己の懐を探る。

 けれど、衰弱した身体ではうまく手が動かせず、目的の物を手にできない。……というより、そもそも着替えさせられているようで、物自体が懐になかった。


「……これを、お探しですか?」


 静かな囁きとともに差し出されたのは白い花の髪飾り。アガトがユラに贈り、突き返された物。

 そして、帰ったら再び贈ると約束した物。

 アガトは震える左手でそれを受け取る。

 ジッと見つめてくる蒼い瞳を、同じくじっと見つめ返しながら、アガトは手を伸ばし、花飾りをユラの髪に挿した。


 鮮やかな黒髪に咲いた純白の一輪。

 黒と白、その色彩の対比は、まさにユラという少女を現しているようで、良く似合っている。

 そんな無彩色の中で、蒼く澄み渡る瞳の色がさらに美しく煌めいて、アガトは眼を逸らすことができなかった。


「ユラさん……」


「はい?」


「オレはユラさんが好きだ……キミを愛している……どこにもいかないで欲しい……ずっとそばに居てください……」


 思いつく限りの求愛の言葉を並べ立てた。思いつく限りを並べてもその程度だった。抱いた感情をだだもらしただけの、幼稚な告白。


 ユラは、くすりと笑声をこぼして小首を傾けた。


「わたしのことが、好き……?」

「うん……」

「わたしと、ずっと一緒に居たいと……?」

「うん……」

「わたしを、愛している……?」

「うん……カラッぽだったオレの中に……今はキミが居る……それが温かくて……とても心地良いんだ……だから……今は死ぬのが……堪らなく恐ろしい……」


 それが愛であるのかは、正直、わからない。

 けれど、アガトにとって、ユラが守りたい大切なものであるのは、絶対だった。


「そうですか……わたしは、あなたの宝物になれたのですね……」


 深い吐息。

 良かったと、本当に良かったと、ようやく苦労が報われたと、安堵にこぼれ出た吐息。


 ユラはアガトに手を伸ばす。

 しなやかな両手の指先が、アガトの頬に触れる。

 指先は、大切な誰かを愛でるように、大切な誰かを慈しむように、優しくゆるりと撫で落ちて────。


 双手は優しげにアガトの首筋へと至り、そのまま、ゆっくりと絞め上げてきた。

 ゆっくりと、ゆっくりと、少しずつ、頸部を絞め上げる力が強くなっていく。


「……ッ……ぐ……」


 アガトの息が詰まり、四肢がビクつく。それでも、ユラの両手はゆるまない。

 苦しみを思い知らせるように、痛みを思い知らせるように、ゆっくりとゆっくりと、ユラは絞め上げる五指に力を込めていく。


「あなたは兄の仇、わたしの大切な家族の仇……。だから、わたしはずっとあなたが憎くて、殺してやりたくて、そのために、あなたに寄り添いました……」


(うん……知っている)


 アガトもそれは承知している。

 当然だ。

 ユラ自身がそう教えてくれたのだ。

 それでも、自分がユラにとってゆるし難き者だとは承知の上で、それでもだ。

 彼女の蒼い瞳が堪らなく好きだった。

 その済んだ色彩を見つめていたかった。

 だから、今もこちらを睨んでくる彼女の瞳を、アガトはジッと見つめ続けていた。


「抵抗……しないのですか?」


 ユラが、不思議そうに問い掛けてきた。


「…………ああ、ごめん、キミの蒼い瞳が、あんまり綺麗だったから……見とれていた」


 どうにかしぼり出した返答に、ユラの頬が引き攣った。


「あきれた人……」


 深い、途方もなく深い溜め息を吐いたユラ。

 首を絞め上げていた手から、ガックリと力が抜ける。


「……何なんですか、あなたは……いつもいつも、わたしの瞳ばかり見つめて、そればっかりですか……愛してるって、結局、わたしの外見だけなんですか……」


「……どうなんだろう……そうなのかな……? でも、ユラさんの声も好きだ。その手で触れられると、傷の痛みも気にならなくなった。一緒に居るのが、たぶん、楽しくて……いつか、どこかでうずくまるのなら、それはユラさんの隣が良いって…………」


 心を抱いたアガトは、そう思うようになったのだ。


「ユラさん……、オレは……」

「もういいです」


 ユラはアガトの言葉をさえぎった。


「もう、どうでもいい……たぶん、わたしはもう……」


 ユラは一度、大きく天井を仰いでから、再び深い溜め息を吐く。それから、いかにも不機嫌そうにアガトを睨みつけてきた。


「アガトさん、抱きついていいですか?」


 冷ややかに告げられた問い。


「え……?」

「抱きついていいですよね? わたし、あなたの妻なんですから、問題ないでしょう?」


 戸惑うアガトがどう応じる間もなく、彼女は身を預けてきた。

 横たわるアガトに寄り添い、両手を回し、胸元に顔をうずめる。ピッタリと身を寄せられ、否応なく感じる彼女の体温。


「ユラさん……何で……?」

「……仕方ないでしょう。わたしは妻として、あなたに寄り添い、尽くして、愛する……その代わりに、あなたはわたしを殺さない。そういう約束です。約束を破るのは、ヒドいことです」


 ユラは抱きつく腕にギュッと力を込めて、アガトを睨み上げてくる。

 真っ赤な顔で、唇を引き結んで、もう本当に心の底から恥ずかしいと、己の行動が、自分自身でも欠片も納得できないのだと言いたげに、ユラは悔しそうにアガトを睨みつけてくる。


「し、仕方ないので、わたしは、あなたを愛していることにします」

「オレを……、愛している……?」

「ええ、愛していますよ。何か問題でも?」


 真っ直ぐに睨みつけてくるユラ。

 それは愛の告白というより〝これで勝ったと思うなよ?〟と、負け惜しみをぶつけるような声音と態度。


 けれど、その瞳は晴れ渡る空の色。

 あの日に見上げたよりも、ずっとずっと美しく澄み渡る蒼い輝き。


 だからアガトは嬉しくて、楽しくて、込み上げた想いのままに、笑ったのだった。



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幽霊騎士は狂えない アズサヨシタカ @AzusaYoshitaka

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