子殺し

らきむぼん/間間闇

子殺し


子殺し  (お題「夏が始まる」で始まり、「明日はどこへ行こうか」で終わる掌編)



 夏が始まる。

 私の地獄の季節だ。腐敗と枯渇と苦痛と恐怖の季節だ。そして同時に、豊艶な愉悦と快楽の一閃が頭蓋の中で無限に反射するのだ。嫉妬と罪悪感を払う乱反射の季節だ。

 鮮烈な朱色の斜陽が、私の影を長く濃く伸ばす。小さな町は今日も一日を終えようとしている。物静かな高台の猫の額程しかない公園のベンチで、私はランボオの詩篇をぱたりと閉じた。

「生きているんだね」と影から幼い声がする。

「死んでいないだけ」と私。そこに彼女が在ることに些かの違和感も覚えぬまま、自動人形オートマタのようにただそう応えた。影の中に佇む少女は、学生服に身を包み、汗ひとつない真っ白な整った顔で冷笑する。

 彼女は夏にやってくる。私を生かすために。死んでいないことの証を立てるために。それは呪いだ。機械仕掛けの呪いだ。毎年、夏の始まる頃に、それが約束であるかのように。そして私もまた、それが誓いであるようにそれを受け入れる。

 

 私が二度目に殺したのは人形のような少女だった。制服は今でも冷たい土の中で華奢な白骨に纏われているのだろうか。未だにあの町から死体が見つかったという話は聞かない。三度目の少女も、四度目の少女も、五度目の少女も、まだ見つかっていない。

 私が金にも時間にも困らなくなってから、もう何度この季節が巡ってきただろう。

 客観的に見て、私は苦労や挫折を知らなかった。幼い頃から、望めば何もかもが思うようになった。父は資産家で、私自身は他の誰よりも優秀だった。誰もが私を羨んだ。それは父でさえも例外ではなかった。ただ、私の人生は唯一私自身にとってだけは、耐え難く苦痛だった。刺激のない人生が退屈であった。

 自分以外の人間が哲学的ゾンビであるかもしれないという妄想は、幼少の頃に抱くことがあるかもしれない。しかし私はどうにもそれは「私自身」がそうなのではないかとしか思えなかった。私は私を経験しているのだろうか。私は生きているのだろうか。

 その夏は、父が死に、私が故郷を去った年だった。死に場所を探して、などと言えばそこに意志を感じるが、死ぬ勇気も意志も終ぞないまま、私は退屈と無実感な生への嫌悪から逃避するために小さな町に流れ着いた。その日も夕暮れまで公園で読書をしていた。フレイザーの『金枝篇』を読み終えてふと横に目をやると、その少女は私を見ていた。そして私のことを全て見透かしたように言うのである。 

「生きているんだね」

「私は生きている?」

「生きていると感じたんでしょ」

「ほんの一瞬だけ」

 その後のやり取りはあまり覚えていない。随分と長く彼女と話をしたような気がする。辺りが真っ暗になるまで。 

 とにかく言えることは、その少女を私は殺したということだった。言い争いになったわけでもなく。一緒に死のうとしたわけでもなく。ただ彼女が言った言葉が今でもフラッシュバックする。

「わたしが死んでも、誰も気付かないよ」

 私は妙に納得してしまった。ああ、殺してしまってもいいんだ、と。だが、実際に彼女の首を絞めて殺してしまった時に、私は確かに後悔した。生命が失われる瞬間のあの興奮と刺激は退屈な人生を極彩色に照らしたが、それと同時に、形容できない罪の意識と、それが罰せられなければならないという理性的な超自我がそこに生まれたのだ。

 しかし、私はその興奮と後悔と罪悪感を以ってして初めて、自分が哲学的ゾンビではないことを意識できたのだった。考える自分、咎める自分、赦す自分がそこに確かに存在したのだ。

 それから私は、毎年この季節に少女を殺した。

 

 追憶の彼方に、夕日影は呑み込まれていく。宵闇が、辺りを取り囲んで行った。 

「また、殺すんだ」

 影の中の彼女が冷ややかに言う。

「自分であるために」

 私は手のひらに残る消えゆく呼吸の感覚に顔をしかめた。

「ほんとうに?」

 彼女は僅かに笑う。彼女は・・・・・・彼女なのだろうか、と何故か脳裏を疑念が走った。

「それが大事なんだ」

 そう、それはとても大事なことであると、私は知っている。

「あなたは最初の殺人を覚えている?」

 彼女は耳元で囁いた。何故かその問いに、私は答えることができない。答は知っているのに。手に持っていた詩篇が、一瞬私の目には『金枝篇』に映った。

「少し、黙って」

 激しい痛みが眼窩の奥で響いている。

「あなたが殺したのは、本当にその人?」

 脳内に直接語りかけるように、その少し幼い声が反響する。その瞬間、激しい頭痛が引いていき、彼女の姿もどこかへと消えた。

「少女を・・・・・・」

 殺さねばならない。酩酊する脳髄が、思い出しかけた何かを深い沼へと引き摺り込んで行く。探さなければ。「私」を繋ぎ止めるために。

 明日はどこに行こうか。



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