雪花

深川夏眠

雪花(せっか)


 この冬はよく雪が降るな、と菜美子は思った。彼女は寒さが苦手だが、部屋に籠もっていれば安心だった。炬燵こたつに入って編み物に精を出す。一目、二目……。窓は結露に濡れていたが、彼女は気にかける様子もなく、黙々と作業を続けていた。

 ストーブの上で薬缶やかんが静かに音を立てる。シュンシュンシュンシュン……。後でお茶でも飲もう。菜美子は俯き加減で編み棒を操りながら、小さく呟いた。

 一体いつから、これほど平穏で、同時に孤独な日が続いているだろう。よく思い出せなかったが、ある時点を境に、彼女の生活はガラリと変化した。実家の家族や友人たちが、自分に対して腫れ物に触れるような接し方を始めたのだ。そして、何かが決定的に欠落してしまったのだと、彼女は察していた。

(そういえば、私はどうして一人暮しなのだっけ?)

 菜美子の頭に疑問が湧いた。考えるまでもなく、答えはスラスラ出てきた。学生時代に親許おやもとを離れ、卒業後はそのまま、ここに住み続けて会社に入ったじゃないか。平凡なOLとして、地味だけれどそこそこ楽しい生活を送ってきた。会社?

 しばらく行っていないみたいだけど……と、彼女は首を傾げた。おかしいな。昨日は何をしていたっけ? ああ、編み物だわ。こうやって、白いフカフカの毛糸でセーターを編んでいた。一目、二目……。

 もし、仕事を休み続けているなら、どうしたのかと、とうに連絡が来ているだろう。でも、電話は掛かってこないのだし、別に間違いを犯しているとは思えない。

(……)

 一昨日辺りも同じ考え事をしていた覚えがある。そして、やはり今のように頭痛に見舞われて薬を呑んだはずだった。彼女は手を休めると、軋む顳顬こめかみに、そっと指を当てた。

「ハァ」

 もうすぐクリスマスか。菜美子は溜め息をつくと、座ったまま床に手を突いて上体を後ろに反らし、軽く瞼を閉じた。闇の中に仄白く、懐かしい顔が浮かび上がる。愛しい人。懸命に編んでいるセーターは彼へのプレゼントにするつもりだった。手編みなんて、きっと照れ臭がって着たがらないだろうけど、今度逢ったら絶対、無理矢理でも頭から被せて困らせてやろう。

 彼のクシャクシャな笑顔を思い描くと、彼女の心もホカホカ温かくなる気がした。しかし――。

「もう何ヶ月、逢ってないんだっけ?」

 何故、私たちはこんなに長い間、どこかで落ち合ったり電話で喋ったりしていないのだろう。

「あ、そうだ、出張だ」

 彼女は段々大きくなる独り言に、気づいていなかった。

「遠くへ行ってるし、忙しいんだもんね。しょうがないわ。うん」

 納得したところで、作業に戻ろうと姿勢を正した。すると、外から微かに、割れたスピーカーの音が聞こえてきた。石焼き芋――。

「おっと」

 炬燵を抜け出して窓を開けた。地面には、うっすら雪が積もっている。瞬く間に寒気が部屋に満ち、身震いしながら視線を落とすと、街灯の下に誰かが立っていた。

(また来てる……)

 彼女は眉をひそめた。不審な男が視界に現れ出して、もう二ヶ月くらいになるだろうか。いつも気がつくと同じ場所で、ただじっと何時間も佇んでは、時折こちらを見上げるのだった。何が目的だろう、嫌な感じだ――。

 互いの細かい表情までは読み取れない距離だったが、彼女は思わず向こうを睨みつけていた。相手はモジモジした動作を示すと、ややあって近くの自動販売機へ足を進めた。多分、缶コーヒーでも買ったのだろう。元の位置へ帰って、棒立ちに戻った。

「……」

 彼女は奇妙な男の様子をじっと観察していたが、焼き芋屋の車が遠ざかったのをしおに、ピシャッと窓を閉め、炬燵に足を突っ込んで編み物を再開した。

 

 その晩、久し振りに電話が鳴った。親友からだった。週末に知人の家でちょっとした集まりがあるから一緒に行こうという誘いだった。菜美子はチラと編み掛けのセーターを見やった。間もなく完成する。少しくらい休んでも大丈夫だろう。待ち合わせの場所と時刻を確認した。


 土曜の夜、連れられて行った先は、広い敷地の中の離れ屋だった。粉雪が舞う中、ゾロゾロと集まったのは、いずれも菜美子と同年輩の男女で、全部で八人だった。

 六畳の和室が二間ふたま続き。襖を外して、中央に大きな炬燵が置かれている。菜美子は勧められるまま座布団に腰を降ろした。寒いので熱燗にしようと亭主役――この離れの借り主――が言い、あまり強くない菜美子には白酒が供された。

 世間話と共に酒が進む。しかし、菜美子は一人、ぐい飲みを凝視して押し黙っていた。器の中もまた、雪肌せっきめいている――などと他愛ないことを考えながら。

 周囲の話にぼんやり耳を傾けていると、冬だというのに、いつしか怪談が始まっていた。百物語のつもりだろうか、ホストの左隣の女性が一番手を務めると、時計回りで、その左に座った男性が一頻り恐怖体験を語った。

(……)

 次が、親友の恋人の番だった。彼は指名を受けると咳払いし、一度眼鏡のフレームに触れてから、ゆっくり切り出した。


「アパートで独り暮しをしている女の人なんですけどね、ずっと炬燵で編み物をしてるんですよ。時々外を見て、ああ今年はよく雪が降るなぁ、なんて思いながら。彼女は恋人の帰りを待ちつつ、彼のためにいろいろ編んでやってて、部屋にはもうマフラーだの帽子だの、出来上がった物がゴロゴロしてるっていう……。で、今はセーターに取りかかっている最中で」


 菜美子は白酒の表面をじっと見つめたまま、あ、これは私の話だ……と思った。が、口を挟みはせず、沈黙を守っていた。眼鏡の彼は一瞬、菜美子に視線を向け、続いて自分の恋人である菜美子の親友に目配せらしきものを送ったが、再度しわぶくと、話を続けた。


「彼女の恋人というのがね、僕らと同年代の会社員なんですけど、去年、出先で事故に巻き込まれて、物凄いケガをしちゃったんですよ。でも、手術が上手く行って、職場に復帰したんです。それがね、そんな大変な目に遭ったなんて、言われなきゃわからないくらい元気だし、パッと見える場所には傷痕もないんです。顔もそう。最初はかなり危ぶまれたらしいんですね、ちゃんときれいになるのかって。でも、まったく大丈夫だったんですよ。僕は、彼とは一件の後に初めて会ったんだけど、ホントにわかんないですよ、手術を受けて治っただなんて」


「ただ、本人や家族に言わせると、やっぱり問題がないわけじゃなかった。何ていうんでしょう……おもしが、前とは微妙に違ってしまったって。でも、ケガが治って傷痕も残らなきゃ、特に不都合はないでしょうって、気休めっていうんじゃないですけど、そんな風に言ってみたんですよ、僕。そしたらね、彼が急に暗い表情になって言うには、たった一つ、困ったことが起きた、って……」


 彼はグラスを取り、水を一口含んで喉を湿らせると、また話し始めた。


「彼にとって一番肝心な、大切な彼女が、彼を彼だと認められないそうなんです。例の、ごく僅かな、おもちの雰囲気の変化を、そういうものだと受け止められない。頭ではわかっているに違いないんですが、どうしても気持ちが追いつかないらしいんですね。自分の前に現れたのは、待っていた恋人ではなく、誰か見知らぬ他人だと思い込もうとして、どんどん辻褄の合わない話をするようになった……」


「恋人の顔が、前とはほんの少し違って見える……。他人の感覚からすると、たったそれだけの話ですが、彼女にとっては大きな打撃だったんですね。それで、ずっと、自分の恋人は用事があってまだ戻らないという認識のもとで、せっせとセーターを編んでいる。言わば、自分の内側の世界に閉じ籠もったようなもんですから、もう、仕事どころじゃないですよね。そこで、彼女の言動が普通じゃなくなったと気づいた親御さんが会社に連絡して、退職させたんだそうです」


「彼はとても優しい人で、彼女を何より大事に思っている。で、彼女の苦悩を理解しながら、何とか元の関係に戻れる日が来るのを祈って、待っているんです。彼女が気づいてくれるのを、ずっと。辛抱強く。今の自分を不審な人物と受け止めてしまっている彼女を、脅えさせないようにって、アパートの下から、そっと様子を窺っているんですよ。だけど、セーターを編む手を止めて、窓の外を眺めるたび、彼女はこう思うんです。あの妙な人、また来てるわ。何が目的なんだろう、嫌な感じだなぁ……」


 菜美子はハッと顔を上げた。暖かい部屋の中で、ただ一人、彼女の頬だけが冷たく青褪めていた。ワナワナと唇が震える。私、今まで何をやっていたんだろう。彼女は隣に座った親友にすら聞こえるか否かの、か細い声で呟き、スッと立ち上がった。

「ごめんなさい、失礼します」

 短く挨拶して出ていった。何事かと驚く面々に、亭主役が言った。

「すいませんね、どうも。実は予定どおりでして」

 菜美子の親友が後を引き取って、事情を説明した。彼女は先程の話そのままの状況にあり、何とか我に返らせるべく、自分たちが仕組んだのだと。

「他人の口から語られたらハッとするんじゃないかって、考えたんです。荒療治だとは思いましたけど、彼女の家族からも、是非やってみてくれって言われまして」

 そこで、三人で相談して今日の集まりを計画したのだが、参加者全員に前以て知らせては、彼女が不自然さに気づいてしまうかもしれないので、残りのメンバーには百物語の会だと伝えておいたのだった。

「ところで、いくらなんでも、恋人をその人と認められないなんてことがあるだろうかと、私は思ってました。でも、最近ちょっと菜美子の気持ちがわかってきたんです。彼の顔が、前とはどこか違って見えると感じたとき、よく知っているはずの彼の中に、未知の人物を発見した思いがしたんじゃないかと。彼の中から現れた、見知らぬ男に恐怖を感じたために、心にひずみが生じたのかもしれない、って……」

 参加者の一人が口を挟んで、

「……なるほどねぇ。ところで、さっきの話だけど、続きは?」

 すると、先程まで語り部を務めていた彼は、頭を掻いて、

「いや、菜美子さん絶対、途中で帰るだろうって確信してたんで、怪談のオチは考えてなかったんですよ。申し訳ない」

「なぁんだ」

 一同はホッとした表情を浮かべ、菜美子と恋人の関係が修復されるのを願って乾杯した。後は和やかな酒宴が続くばかりとなった。


 菜美子は長らく頭の中に立ち籠めていた靄が瞬く間に消え去るのを感じた。私は彼をひどく傷つけてしまったんだ。早く逢って謝りたい。舞い降りる雪の下、彼女は一散に自宅へ戻った。が、夜も遅いせいか、いつもの場所に彼の姿はなかった。例の自動販売機の前へ行ってみたが、そこにもいなかった。

 もし、今日来てくれていたとしても、とうに帰ってしまっただろう。いや、彼はまだ近くにいる――。二つの考えがグルグル円を描いて回った。彼女は部屋へ駆け上がり、完成間際のセーターを引っ掴んで、また外に出た。少し早いクリスマスプレゼントを。

 右往左往していると、不意に暗闇から人影が浮かび上がった。彼女はもう、背格好だけで判断できた。彼だ。後悔や喜びが複雑に絡まって胸がいっぱいになり、涙が零れた。彼の名を小声で、だが、はっきり呼んで小走りに近寄った。

「……?」

 傍に着くと、薄く積もった雪が街灯に照らされて淡く光っていた。しかし、真っ白ではなかった。無数の花弁を散らしたように点々と赤く、血に染まっていた。

 息を呑んで怖々こわごわおもてを上げる。懐かしい彼の相貌。だが、彼は自身の顔を刃物で切り刻んでしまっていた。大切な彼女にわかってもらえないなら、こんなものは無意味だとでも言わんばかりに。

「……!」

 菜美子の心臓に激震が走った。彼は無言で、血まみれの皮膚の隙間から弱々しい眼差しを投げかけてきた。彼女は今度こそ本当に、気も狂わんばかりに動転した――が、あのときとは違った。彼女は、赤く奇怪な仮面を被ったような相手が、間違いなく自分の恋人だと理解できた。他の誰でもない、彼だと。恐怖も感じなかった。ただ、涙が溢れてくる。もっと早く思い出せれば、ここまで追い詰めずに済んだのに……。

 彼女はしゃくり上げながら、言葉にならない想いを差し出すように、未完成のセーターをグイと押しつけた。すると、彼女の気持ちに応えてか、彼は手を伸ばしてそれを受け取り、胸に抱えた。雪のように白い身頃みごろへ、まだ止まらない彼の血がポタポタ滴って、花模様が広がった。



                 【了】




◆ 旧タイトル「スノードロップ」

◆ 初出:ホームページ(現存せず)

◆ リクエストテーマ=「雪」×「冬の怪談」


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雪花 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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