八(終章)
夏休みも残りあと一週間ほどになり、芥川が東京へ帰る日がやって来た。
僕たちは駅のホームでベンチに並んで座り、汽車の到着を待っていた。芥川がここに着いた頃には、雨が降ってもむせ返るように暑かったのに、今日はちょっと風が寂しい。
「あーあ、終わっちゃうな、今年の夏も」
芥川は、僕の母に持たされた弁当の風呂敷包みを弄りながら、そう言って口唇を尖らせた。
白い半袖の襯衣に薄灰色の下服と、来たときと同じ夏服に身を包んだ彼は、いかにも折り目正しい学生さん、といった印象だ。そういう彼に、うちの母も、ついでに妹も、僕の友だちだからという以上の好感をもったらしかった。
「来年の今頃はお互い卒業だ。順当に行けば、だけど」
「厭な言い方するなよ」
僕はことさら渋い顔をして見せると、芥川はアハハと稚気めいた顔で笑い、それからふっと小さくため息を吐いた。
「……最後にここに来られて良かった」
「また来いよ。最後だなんて」
「だから、君はこれから京都か大阪で生活するんだろ。いままでみたいに自由に実家に遊びに来られると思うなよ。結婚したら」
「あっ」
「暢気だなあ。それで婿殿が勤まるのかい。僕ァ心配だよ……」
やれやれと肩を竦めた芥川に、僕はうなじを掻きながら微苦笑を返した。笑顔が幾分ぎこちないことは、自分でも分かっていたけれど。……
ちょうどそのとき、線路の向こうから汽笛の音が響いて、まもなく汽車が轟々と車輪の音を立てながらホームに滑り込んできた。芥川を彼の故郷、東京へと運ぶ最初の汽車だ。
僕たちは一瞬はッと顔を見合わせたが、すぐに芥川は支那鞄を手に取ると、幅の狭い乗降口にやや難儀しながら、汽車に乗り込んだ。
僕は芥川が席をとった窓の外に立ち、開かれた窓に腕を伸ばして握手を求めた。
「道中、気をつけて。寝過ごして乗り換えに遅れるなよ」
「言ってろ。何だい、こんなときだけ歳上ぶって」
芥川はちらりと舌を出し、彼一流の悪戯っぽい笑顔で握手に応えた。
そして僕たちは少しの間、そのまま手を握ったまま、黙って互いの顔を見つめ合った。
さよなら。
僕の愛すべき——。
その後を何と続けるべきか、僕は知らない。僕は卑怯で、臆病者だ。
しかし、ただ一つ言えることは、——君は僕の青春時代そのものだ。
出逢ったときから今日まで、君のことを思わない日は無かった。一高の寮で起居をともにしていたときはもちろん、東京と京都の大学に分かれてしまってからも、君に見せたいもの、聞いてみたいこと、話したいことばかりで、手紙でいくら言葉を重ねても、すぐに会えないことが焦れったかった。
いまも東京にいる友だち連中と、君がどんな風に過ごしているか、妬くつもりはないけれど妙に気になったり、君からの手紙の何気ないひと言に、きっとありもしない君の真意を探して一喜一憂したり。京大の寄宿舎で、僕がいつもどんな顔をして君の手紙を読んでいるか、君は知らないんだろう。僕だって知らなかった。あるいは、知らないふりをしていた。
もしもこのままこの手を引いて、「行くな」と言える僕だったら?
もしもこの汽車に飛び乗って、「逃げよう」と言える僕だったら?
薄い手のひらは強く握ると折れてしまいそうな気がして、僕は壊れやすいガラス細工を扱うように、親指でそっと彼の手の甲をなぞった。芥川の細い指先にピクリと力が籠り、ふっくらとした口唇の合わいから、僕にしか分からないような、ひそやかな吐息が漏れた。
「アクタ、」
元気で。
そう言葉を継ごうとしたとき、不意に芥川がグイと腕を引っ張った。おかげで僕は、つんのめるように窓枠に顔を突っ込む羽目になった。
「うわっ」と間抜けな声を上げながら、爪先立ちの足を踏ん張ろうとした僕に、芥川は上体を屈めてぐっと顔を寄せた。
そして西洋人がするように、すばやく僕の頬に口唇を押し当てた。
「井川、……」
僕は弾かれるように顔を上げ、芥川を見返した。
芥川の口唇が、何か言いかけて動いていた。
しかし、同時に鳴り出した発車ベルに遮られ、何を言おうとしたのかは分からない。
「アクタ、何だって?——聞こえない!」
ガタンと汽車が大きく揺れて、ゆっくりと動き出した。
僕はそれに着いて歩きながら、何度も芥川に問い返した。
「アクタ、頼むよ。ちゃんと聞きたいんだ、君が……だって君は……」
「……」
「アクタ!」
だんだんと煩くなる車輪の音。
その高鳴りに比例して、徐々に速くなっていく汽車の速度。
僕は汽車に置いてゆかれまいと、自然と駆け足になった。繋いだ手はとうに解けている。
芥川は再び口を開こうとはせず、走る僕を窓から覗き込むようにしながら、静かに微笑んでいた。その顔は少し困っているようにも見えた。そんなに走ったら危ないぞ、というように。汽車はすでにギアを入れ替えて、最大速度に向かってひた走っている。
「アクタ、……龍!」
はたして僕の目の前には、ホームの端が迫りつつあった。もうこれ以上は追ってゆけない。
そのとき、窓から身を乗り出した芥川が、両手を口の端に翳して叫んだ。
「——恭! 恭のばーか! バカヤロー!」
僕は肩で息をしながら立ち止まった。中腰になって膝に手を突き、走り去ってゆく汽車を見送ると、口元に翳した手のひらをヒラリと空に向け、羽ばたくように大きく手を振る華奢な腕が見えた。
そして、その腕もやがてカーブを描く線路の向こうに見えなくなった。
僕は膝の上に突いた手をのろのろと持ち上げ、指先で右の頬をなぞった。そこに彼が残していった、口づけの記憶をなぞるように。
柔らかな熱。頬に感じた微かな吐息。
受け取り損ねた、彼の言葉。
「……聞こえないよ、わざとだろ、チクショー……」
思わず零れた悪態を、聞き咎めて笑うひとはもういない。
俯いた額に滲む汗を、秋の訪れを予感させる、冷たい風が撫でていった。夏が終わる。
(完)
さらば夏の光(Kiss the summer goodbye) おちよ @nb_romanticporn
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